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餌付けは無自覚

 くつ、くつ、と煮える鍋に、探し当てた塩をひとつまみ入れる。長らく使われていなかったのか、瓶の中で固まっていた塩を箸で何とか砕いて使ったが、賞味期限が無いとは言えこんなに固まるまで放置するとは呆れる。味噌を使うのに塩も入れなければならないのは、雑炊にするには味噌が僅かに足らなかったからだ。椀で卵を溶きながら道満は顰め面になったが、そもそも何故こんなところで卵雑炊を作らねばならないのかを考えるとその顔になるのも仕方ないだろう。
 ここは道満の自宅――ではない。彼が担当を務める小説家の自宅だ。〆切も間近に迫っているので進捗を尋ねようとLINEをしても既読にならず、電話にも出ないどころか電源が入っていなくて、〆切前に逃げて行方を眩ませる作家も居るのでもしやと思い駆け付けた。家探しをするまでもなく、部屋の中でその小説家が倒れており、最悪の事態を想定しながら抱き上げると盛大に腹を鳴らした男は開口一発こう言った。この三日寝てもいなければ何も食べていない、と。
「良い匂いがする。うちに味噌なんてあったっけ?」
「生味噌タイプの即席味噌汁があったんですよ。賞味期限切れてますけど」
「卵は切れてないよ」
「ドヤ顔やめてください、当たり前です」
 件の小説家は道満が携帯していたシリアルバーを食べてからシャワーを浴び、キッチンに姿を見せた。冷蔵庫には食材らしい食材がほぼ無く、申し訳程度に入っていた卵と、何故か入れられていたパック飯、他に何か無いかと探し当てた即席味噌汁の生味噌で卵雑炊を作る道満は、不愉快そうな顔を隠しもしない。そんな道満を気にする事なく、男は先程倒れていたダイニングのテーブルに向かい、ノートパソコンを開きながら着席した。こちらはたった今スマホに届いたLINEメッセージの確認すら出来ないというのに、と道満は明後日な方向の恨み節を心の中で呟いた。
 この男、作家名を「遥晄」、「はる・あきら」と読む。編集部やファンの間ではハル先生などと呼ばれており、道満も一応そう呼ぶが、気を付けていなければ人前でも本名である晴明と呼んでしまう。ペンネームを考えるのが面倒臭かったので本名を訓読み風にしたものを採用した、と宣った晴明に殴り掛からなかった対面初日の自分を褒めたいと道満は今でも思う。
 自分で食べるなら小口切りにした分葱を入れたいところだが、これは自分の口に入るものでもないし、そもそもこの家には葱が無い。冷凍物も乾物も無い。この男はどういう食生活を送っているのか、とキッチンに立った時に道満は思ったが、ゴミ箱にはテイクアウトしたのだろう弁当の空の容器が押し込まれているし、たまに進捗と安否確認を兼ねた訪問の際もそういったものを食べていたので、推して知るべしだ。まあどんな食生活を送っていようが、原稿さえ完成させて提出してくれたら関係無い、とひと匙だけ味見をし、仕上げたものを味気ないプラスチック製の丼に盛った。道満としては十分に冷ましたと思っていたのに呪わしい猫舌のせいで火傷した事は、晴明にバレなかったらしい。
「やあ、三日ぶりの食事だ。有難くいただきます」
「……どうぞ」
 色々言いたい事はあるのだが、言うのも面倒臭いし食事は黙って食べるものだと思っている道満は、結局その短い一言だけ告げた。閉じられたノートパソコンの中には執筆中の原稿のデータがある筈で、万が一コップが倒れて水でも被ろうものなら目も当てられないけれども、それはそれで慌てる晴明が見られて面白いかもしれないと思った。クラウドにデータ保存くらいはしているだろうという事は重々承知だが、その程度の妄想は許されたい。
「うん、美味しい。私好みに塩味が利いてる」
「あなた未だに塩味キツめが好きですなあ。高血圧になりますぞ」
「未だに私の味の好みを覚えてる上に合わせてくれて有難う」
「ンンン……」
 猫舌の道満と違い、熱い物にも動じない晴明は少し息を吹きかけただけで匙を口に運んでいく。晴明が子供の頃から変わらない味の好みと食べ方、それを覚えていた事を指摘され、道満は形容し難い声で唸り声を上げた。
 道満は、晴明と昔馴染みだ。晴明がまだ中学生の時分に家庭教師をした事がある。頭の良い学生であったから家庭教師など必要無いのではと模試の結果を見た道満は思ったのだが、こういったのは習慣をつけさせるのが良いのでと晴明の親から言われ、納得した様なしなかった様な、そんな記憶がある。晴明が高校受験に合格した後も何だかんだで緩やかに付き合いは続き、晴明の親に頼まれてたまに旅行も連れて行ってやった。全額負担してもらえたので、道満も気分転換や取材が出来て良いと思ったものだ。
 小説の執筆は、道満もしていた。否、今も諦めずにしているが、入選は出来ても本の出版までには至っていない。生活はしていかなければならないので編集部に就職し、担当の小説家の原稿を捲き上げつつも執筆をする日々を過ごしていた時、無名の新人が送ってきた原稿を読んだ同僚がこれは凄いと回し読みをさせてくれて、衝撃を受けた。張り巡らされた伏線は綺麗に回収され、広げた風呂敷を限られた枚数でここまでコンパクトに畳んでいけるのかと舌を巻き、荒削りであるのに繊細さを感じられる文章に気が付けば惹き込まれていて、あっという間に読み終えてしまった。しかもその新人、この原稿が初めて書いた小説と言うではないか。
 天賦の才というのはこういうものを言うのだと打ちひしがれていた道満は、自社でその小説を出版するにあたって出版記念パーティが開かれた際、作者である遥晄に対面し、そして絶句した――という長い経緯がある。そこから更に、何故か晴明の自宅の合鍵を貰ってしまったので、今回の様に勝手に家に上がり込み事が出来ている。
「そもそもあなた、自活能力が無いのに何故一人暮らしなぞしているんです。小説家なんて不摂生極まりない生活になりがちなのに」
「蘆屋先生が一人暮らししてて楽しそうだなと思ったのと、蘆屋先生が小説書いてて面白そうだなと思ったから」
「今をときめく遥先生に先生呼ばわりされたくないわ! 嫌味か?!」
「え? 私にとっては家庭教師してくれてた蘆屋先生だけど。特に国語の教え方が上手かったなあ、私の文章素地は先生が鍛えてくれた様なものだし」
「ンン……、確かにあなた、最初の頃は国語だけは他に比べて点数低かったですねぇ……」
 晴明が自分に対して先生などと言ってきたものだから頭に血が昇って言葉遣いが素になってしまった道満だったが、言われてみれば確かに晴明にとっては元とは言え「自分の家庭教師だった蘆屋先生」なので、間違いでもなければ嫌味でもない。国語の点数が他より低かったのは事実でも満点を取り損ねる事が多かったというだけで、道満が多少指導しただけですぐに改善された為、成績が悪かった訳ではなかった。たったそれだけで先生呼ばわりされるのも癪だが、晴明の言う事もいちいち尤もなので、道満も苦虫を噛み潰したかの様な表情でそれ以上の反論が出来なくなる。
 眠気覚ましの為のコーヒーや緑茶などのカフェイン飲料だけは豊富にあるので、自分用に淹れたインスタントコーヒーは、火傷した舌にビリっとした痺れを齎す。道満はそれにも眉を顰めて、丼を空にして合掌した晴明を睨んだ。
「原稿は仕上げたし送信したよ、そんな熱視線をくれると照れるなあ」
「なっ、い、いつ?!」
「ついさっき。だから卵雑炊のお礼は脱稿という事で、ひとつ」
 じっとりした視線を浴び、揶揄でも嫌味でもなく素で言ったのだろう晴明の原稿提出発言に、道満は思わず腰を椅子から浮かせて身を乗り出してしまった。倒れそうになったマグカップをすんでで阻止し、中身のコーヒーが激しく波打つ。その波打ちが道満の心拍を表している様だ。心底気に食わない男だが生み出す物語はどれもこれも魅力的で、早く読みたいという想いが込み上げる。
 そんな心の内を誤魔化す為に再度椅子に腰掛けた道満は、咳払いをしてから平静を装った。
「ええ、ええ、原稿を提出して戴くのが儂の仕事。その為なら伽藍堂の様な冷蔵庫からどうにかして食えるものを見繕って調理してみせましょうぞ」
「多才だよね、蘆屋先生。――いや、みちたる先生」
「ええい、その名で呼ぶな!」
 道満は「どうまん」の通り名を名乗っているが、本来は「みちたる」という。名を正確に読まれる事がほぼ無いので音読みの通り名で過ごしており、本名を呼ぶ人間も居ない。ごく稀にこうやって呼ぶ晴明と、古くからの知人以外は。
 平常心と心の中で数回唱えたというのに結局声を荒げてしまった道満は、それでも舌打ちは内心に留めてからパンツの尻ポケットに入れていたスマホを取り出し、確認出来ていなかったメッセージを見遣る。この場を辞す為の口実には都合の良い、それこそ道満をみちたる呼びする――正確に言えばみちたるを元にしたあだ名で呼ぶ――知人からの誘いが入っていた。この状態で提出原稿を読んでも最大限に楽しめそうにないので、その誘いを受ける事にした道満は承諾のスタンプを押した。
「あなたの安否を確認して進捗を報告したら直帰しても良い事になってましたし、帰ります」
「あ、そう? じゃあ私も寝ようかな、起きたら連絡するね」
「いらんわ!!」
 ぬるくなったコーヒーを一気飲みした道満に、晴明は本気なのか冗談なのか分からない笑みを浮かべて手をひらひらと振った。本当にいけ好かない奴だと思いつつ勢いよく閉めた玄関の鍵は、勿論きっちり掛けた。



「へぇ〜、相変わらずみっちーってばあっきーに振り回されてんね」
「……その呼び方をいい加減おやめなされ」
 水色と黒のツートンカラーに赤のエクステを混ぜた長髪をツインテールにし、派手にデコレーションされたネイルをしていても器用にタワーの様ないちごパフェを口に運ぶ女性に、賑やかな店内のテーブルの向かいに座る道満はまた渋い顔をする。いちごがパフェグラスからこぼれ落ちてしまわない様に格闘する彼女は一見すれば女学生の様に見えるが、道満と同い年だ。若作りと言うより童顔なのでそのヘアアレンジも似合っている。
「良いじゃん、あたしちゃんの花のJK時代からみっちー呼びしてんだしさー。そんなみっちーに合わせたらハルせんせーもあっきーじゃん?」
「人気エッセイストの諾子氏にあっきー呼びされるとは、人気小説家の遥先生も光栄でしょうなぁ」
「そこはなぎっちって呼んでよみっちー」
 道満に諾子と呼ばれた女性はあだ名で呼ばれなかった事が不服だったのか、むくれた様に頬を膨らませる。その仕草により更に幼さが増しており、本当にこのおなごは自分と同い年なのかと、バニラアイスといちごが盛られたワッフルを口に運びながら道満は思う。火傷した舌にバニラアイスの冷たさが心地よかったが、火傷してなければもっと美味であっただろうと思うと何だか悔しい。
 諾子は道満が言った様に、名の知れたエッセイストだ。高校時代に所属した文芸部で知り合い、諾子は当時から目鼻立ちが整っていた道満に化粧を施しては連れ回し、道満もコスメにはそれなりに興味があったので、まるで女友達の様な付き合いをしていた。その延長線上で、社会人になった今でも定期的に新作コスメや季節のデザートを楽しむ為に道満は諾子に呼び出しを食らい、連れ回される事がある。今日もそうだった。
「あたしちゃんの知り合いに作曲家兼ピアニストが居てさー、あっきーちょっと似てんなーって思った」
「……顔はすこぶる良いのに、性格はすこぶる悪いとか?」
「んー、アマデっちは性格悪いとは言わないかなー。天才気質なとこは似てるよ。あと世話焼きの恋人が居るとことか」
「ほう、天才気質…… ……ちょっとお待ちを、誰が誰の恋人ですか」
「みっちーがあっきーの」
 発酵バターが香るワッフルをナイフで切れば、溶けたアイスが滲みた生地の感触が手に伝わってくる。サクサクの箇所も良いのだが道満はこのふやけた箇所が好きで、大きな口にいちごと共に放り込んで味わっていたせいで諾子の言に反応が遅れてしまった。晴明が天才気質なのは分かる、悔しいし癪だがそれは大いに頷かざるを得ない。だが何故自分があの男の恋人などと誤解をしたのか、さっぱり理由が分からない。
「ンン――何と、何と嘆かわしい! 日常に潜む細やかな事象への観察眼に定評があり、且つ広々とした視野をお持ちで瑞々しい文章を紡ぐあなたが! 斯様な誤解を!」
「いやー、誤解も何も、事実じゃね? 担当だからって家の合鍵渡さないっしょ。みっちーもみっちーで適当にデリバリー頼めば良いのに、わざわざ消化に良い雑炊作ってやったんでしょ?」
「儂が単行本を出す前に死なれられたら勝ち逃げされたみたいで腹が立つので」
「おっとそうきたか」
 大袈裟に嘆いてみせた道満に、諾子は尚もパフェグラスの下部のいちごソースが滲みたスポンジを攻略しながら追い打ちをかける。だが道満も掛け値なしの本音を真顔で即答したので、諾子はにやりと笑ってみせた。それが照れ隠しでも何でもなく、道満の本音であると分かっている上での笑みだった。
「あっきーにしてみれば元カテキョの年上美人が担当してくれてる訳でしょ? いやー、みっちーってば魔性だね〜」
「はあ……、まあ、儂の顔が良い事は否定しませぬが」
「わはは! みっちーのそゆとこ、あたしちゃん好きだぜ!」
 冷えた口内を温める為、カフェオレが入ったマグカップを両手で持ち、飲みながら上目遣いで言った諾子に至極真面目な顔で頷くと、彼女は昔から変わらない道満を褒めた。諾子は道満に化粧を施す事で親睦を深め、道満の美麗さに拍車をかけた女だ。道満が自分の外見に絶対的な自信を持つ切っ掛けを作った女とも言える。
 正直なところ、晴明はこの顔面を気に入っているのだろうと道満は思う。家庭教師として初めて対面した時、まだ中学生であった晴明はまじまじと道満の顔を見たし、その後も指導の休憩時間に菓子を摘みながら道満の顔をよく見ていた。男女問わず告白される事も多かった道満は、頭脳明晰な子供でもこの顔には弱いかと納得したものだ。まさか家庭教師が必要でなくなった後も連絡をしてくる様な子供とは思わなかったが。
「まっ、何にせよあっきーの理想の顔面偏差値爆上げした上に小説家にまでさせたのはみっちーだよ」
「勝手にそうなっただけでしょうに。儂の責任ではありませぬ」
「味の好みも覚えてもらってるなんて、あっきーも嬉しかったろーね」
「………」
 原稿の進捗具合を直接聞きに訪れる際、手土産には学生の頃の晴明が好んで食べていた一口羊羹や饅頭、カカオ成分が濃いチョコレートを持参していた道満は、諾子のその言に沈黙せざるを得なくなる。すっかり溶けてしまったバニラアイスが皿に広がり、残ったいちごの果汁と混ざって淡いピンク色になっていて、道満は行儀悪くもそのいちごをフォークで突いて反論を考えていたが、結局何も言えなかった。甘ったるい和菓子が好きかと思えば苦い洋菓子もよく食べ、食事は塩辛いものを好み、そのせいか異様なまでに茶を飲むという晴明の傾向を、十二分に知っているので。
「あー、今度の原稿、卵雑炊の事でも書こうかな! 美味しーよね卵雑炊」
「……儂は味噌より薄口醤油で作るのが好きですな」
「わかるー! 白だしも良いし鰹だしも良いよね〜」
 道満があまりにも不服そうな顔をしていたからだろう、諾子は話題を晴明から雑炊へと変え、早速出汁談義を始めた。それを聞きながら、あの家には粉末出汁さえ無かった、腹立たしいが次に行く時はめんつゆを持って行こうと心に決めた道満は、すっかり室温になってしまった最後のいちごを口へと運んだ。爽やかな酸味と甘味は、火傷のせいで最後まで上手く感じ取る事は出来なかった。