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躾は無自覚

 ティロリ、という音を立てたスマホの画面に浮かぶ新着メッセージに、道満は予想していた通りだったと何となく勝ち誇った様な気分になりつつも、眉間に皺を寄せる。精肉コーナーの特売放送や青果コーナーのレシピ動画の音声、買い物客の会話で賑わう店内で、今現在そんな険悪な表情を浮かべているのは彼くらいなものだろう。どうかすると陳列棚から頭が飛び出す程に背が高い道満は、このスーパーが自宅近くの店舗ではないので見知らぬ客ばかりであり、故に目立って注目を集めている。しかしがたいの良さで昔から衆目を集めてしまっていた彼には特に気になるものではなく、そのメッセージに返信すべくスマホのロックを解除した。
 出版社に勤める道満が今現在担当している小説家、遥晄は、デビュー作から最新作に至るまで増版が当たり前の作品を生み出している。道満も増版は当然と思う程の話を書くのでその点は不承不承納得するが、ハル先生と呼ばれている例の男は顔立ちが恐ろしく整っており、担当する道満はしばしば羨ましがられている。先日はどうしても代わってほしいと言うので女性社員に進捗を聞きがてら安否確認――何せあの男には前科がある――をさせに訪問させた事があるくらいだ。まあ、今良いところだから邪魔しないでほしいの一言で玄関すら開けてもらえず追い払われたらしいのだが……。
 そんなハル先生の自宅マンションの、最寄りのスーパーに道満は居る。今から行くので何か欲しいものはあるかを尋ねたLINEの返事は簡素な一言、「あんドーナツ」。昔から餡子が好物だったあの男らしいと思いつつ、こちらも簡素に「はい」とだけ返事をした道満は、プロテインバーや栄養補助食が入っている買い物かごを手にパン売り場へと向かった。
 人気小説家ハル先生を本名の晴明と呼ぶ道満は、昔から彼の事があまり好きではない。家庭教師をしていた頃からそうだったが、蘆屋先生が小説を書いていて楽しそうだったからなどというふざけた理由で書いた小説が話題を攫っていく程に人気となってからは更に拍車がかかった。こちらは未だに本の一冊も出せていないというのに、と思ってしまうのは僻みと分かっていても抑えられるものでもないだろう。何の因果であの男の担当などやっているのか、道満もいまいち分かっていないが、上司に言われたのだから仕方あるまい。
 セルフレジで会計を済ませ、しっかり領収書も発行した道満が晴明の自宅マンションに到着したのは、LINEの連絡が入ってから十五分足らずだった。オートロックのエントランスを抜け、目的のドアの前に辿り着いて合鍵で開けると、いつもは暗い玄関に明かりが点いている。仄かに香ってくる匂いはコーヒーのもので、どうやら今は休憩時間であるらしく、キッチンにはドリップパックのコーヒーを淹れている晴明が居た。
「やあ、蘆屋先生、ごきげんよう」
「……ごきげんよう。これ、頼まれたあんドーナツとその他諸々です」
「有難う。食べようと思ってコーヒー淹れてたので、蘆屋先生もどうぞ」
「ンン……、相変わらずあなたに先生呼ばわりされるとむずむずしますね……」
 目の下に薄い隈を作った晴明は、相変わらず食事を摂る事も忘れて執筆に没頭していたのか、血色が悪かった。道満も食に拘りが無く、完全栄養食のパンやヌードル、シェイクなどで済ませる事がざらにあるので人の事は言えないのだが、小説家というのは脳を使うので栄養、特に糖分が欠かせない。晴明が糖分不足で執筆に悪影響が出ているとすると、担当している道満にとっては由々しき問題だ。だからあんドーナツなどという高カロリー且つ糖質の高いものをリクエストしたのだろうけれども。
「あ、芋ようかんもある。これは蘆屋先生の分ですね」
「これくらいはおつかいの駄賃として認めていただいてもよろしいかと」
 レジ袋の中に入っていたあんドーナツを取り出した晴明が、プロテインバーなどの中に紛れている一口芋ようかんも取り出し、着席している道満の前に差し出す。あんドーナツを食べるのに緑茶ではなくコーヒーを淹れたのはわざとなのか、それとも単に目についたから淹れたのか、それは道満には分からなかった。恐らく後者だろう。
「どうですか、進捗は」
「順調です。あと一万文字くらい書いたら終わるんじゃないかな」
「……それは結構」
 現在晴明が書いているのは文芸雑誌に乗せる短編で、締切は二週間後だ。あと一万文字程度で終わるのなら随分余裕があるな、と算段した道満はジャケットの内ポケットに入れている懐紙を取り出し、一枚机に置くと、封を切って齧った芋ようかんを置いた。
 この家には、気の利いた食器が殆ど無い。無駄に多くあるのはカップやグラスで、例えば道満が今食べている芋ようかんを盛り付ける様な小洒落た小皿など無い。和菓子切など以ての外だ。そういった作法にも特に拘らない道満は、一口芋ようかんと言っても一口で食べるには勿体ないので半分を口の中に収めたのだが、対面に座る晴明は大きな口を開けてそこそこの大きさのあんドーナツを半分一気に口に入れた。
「晴明、あなた、前回食事したのはいつです」
「ふぇ?」
「飲み込んでからで良いで……ええい急いで飲み込もうとするな、ゆっくり噛め!」
 その一口目があまりにも大きなものであったから、例によってまた三日くらい食事をしていなかったのではなかろうかと懸念した道満が尋ねると、晴明が一気に嚥下する為にコーヒーを飲もうとしたので、慌てて制した。言葉遣いは気を付けていても、晴明相手にはどうにも調子が狂うのでたまに粗雑になってしまう。止められた晴明が咀嚼している姿を苦虫を噛み潰した様な顔で眺める道満は、うっかり冷まし忘れたコーヒーで舌を火傷した。彼はこの家に来るといつも舌を火傷する。
 道満に制止された晴明は、言う事を聞いてくれたのか口の中いっぱいにしたあんドーナツをきっちり咀嚼し、嚥下してからコーヒーも流し込んだ。
「……米を食べたのは一昨日の昼? かな?」
「脳に栄養行ってます?」
「前回蘆屋先生が来た時に忘れていった完全栄養食のグミ食べてたから」
「あれここに忘れて行ってたんですね?! 何勝手に食べてるんですか!」
 先も述べたが道満は食に拘りが無く、忙しい時は身体と脳を働かせる為の最低限のカロリーを摂取する為に完全栄養食で済ませる。その中にグミもあり、咀嚼で顎を使うので脳の活性化にも繋がり、徹夜する時は重宝している。封を開けたばかりのグミが鞄から消えていて、はてと思いつつもストックは潤沢であるから問題は無かったけれども、この家に忘れていたとは不覚にも程がある。
「あれ中々良いですね、噛むから眠気覚ましにもなるし。蘆屋先生が長距離運転してくれた時にスルメ噛んでたの思い出しました」
「ンンン……」
 食に拘りは無くとも、食べ物の恨みはある。どうしてくれようとじっとりした目付きで晴明を睨んだ道満は、しかし昔の事を持ち出されて唸った。今ではグミなどと洒落たものを噛むが、昔は――否、今でも自宅では時折眠気覚ましにスルメを噛んでいるので、私生活を覗き見された様で何となく気恥ずかしい。
 晴明に家庭教師をしなくなった後も、半ば強引に連絡先を知られた道満は、晴明の親に頼まれて旅行に連れて行ったりもした。現地で車を借りて長距離運転をした時、助手席の晴明は爆睡していて話相手にもならなかったので、眠気覚ましに道中のコンビニで買ったスルメを噛みつつハンドルを握っていた記憶がある。そこまで安心した様に爆睡され、しかも育ち盛りの高校生相手に寝るなと怒る訳にもいかず、黙って運転して目的地まで連れて行ったのは、良いのか悪いのか分からない思い出だ。
「懐かしいな。また行きたいですね、蘆屋先生の運転で」
「……勤め人はそう簡単に休暇は取れぬものですよ」
「取材旅行だったら同行許可下りる?」
「ええい、小癪な真似で外堀を埋めようとするでない! 嫌いになりますぞ!!」
「えっそれはこまる」
 残ったあんドーナツの半量を食べながら勝手に取材旅行に同行させようと画策しているらしい晴明に、道満は思わず声を荒げる。それに対し晴明が素で、本当に脊椎反射の様に即答したので、そんな反応があるとは露ほども思っていなかった道満は呆気にとられてしまった。晴明も晴明で、取り繕う暇も無くつい口が滑って本音が漏れたのか、数秒後に目尻を赤くした。
 表情は豊かだが心の裡はよく分からない男であるから、こんな素の晴明を見られるなど滅多に無い機会と言える。ただ、道満も自分が嫌うと言っただけで晴明が動揺――本当に些細な反応であったけれども――するなどと想定しておらず、普段の嫌味にも似た言の葉は、口から全く出てきてくれなかった。千載一遇の機会であったのに、などという感想は後の道満のものであって、今の彼にはその様な考えが浮かんでいない。
 本心を言ってしまいやや照れている晴明が黙りこくってしまい、奇妙な沈黙が流れてしまったので、何故儂がこんな居た堪れない気持ちにならねばいかんのだと道満は釈然としない気持ちになる。だがこのままこの雰囲気というのも嫌であるので、仕方なく自分から口を開いた。
「……困るなら儂の意向を無視して話を進めようとするのは止めなされ」
「じゃあ、原稿提出したら改めて依頼します」
「精々面白い作品に仕上げる事ですなぁ! その話で儂を唸らせる事が出来たら考えてやっても良いですぞ」
「毎回唸ってた気がするけど、そういう事なら張り切って一からまた別の話書くので」
「締切は二週間後ですが?!」
「構想は出来上がってるのが他にもあるから間に合わせます。男に二言は無いね、みちたる先生」
 今書いている話はどうするつもりだ、と喉まで出かかった道満は、しかし晴明の真剣な目付きに悔しくも圧倒され、言葉に詰まる。この男は本当に構想をいくつもストックしていて、書き留めているものに加えて頭の中にあるものをカウントすれば、それらを書き終わるまでに五年以上はかかるだろうという程であるそうだ。そんなもの、全て読みたいに決まっている。
 道満は食べかけの芋ようかんを全て食べ、やや温くなったコーヒーのマグカップを大きな両手で包む。暫く両手の親指を忙しなく擦り付け合ったりしていたが、人の本名を決め台詞の様に使うなと内心で毒吐きながらも、晴明がここまで食い付いてきた事が珍しかったので渋々折れた。負け戦と分かっているのに、折れてしまった。
「……ええ、ええ、良いでしょう、二言はありません。再度言いますが締切は二週間後ですよ」
「よし分かった、今から書く。あ、私は執筆に没頭しますけど、シャワーもベッドも好きな様に使って構いませんので」
「誰が使うか、帰ります!!」
 渋々の承諾を聞き届けた晴明は、道満と同じく食べ残していたあんドーナツを全て食べるとコーヒーを一気飲みし、善は急げとばかりに席を立った。高校受験の時でさえこんなにやる気を見せた事が無かったのに、と道満は珍妙な面持ちとなったが、泊まっても気にしないと暗に言った晴明にまた声を荒げた。



「……という構想なんだ、もう三分の一は書き終わったんだが」
「き、昨日の今日でもうそんなに書いたんですか……」
「うん? 香子も集中すれば書くのは速いだろう?」
「集中するまでが長いので……」
 香子と呼ばれた、ワイヤレスイヤホン越しに晴明と会話する女性は、困った様にそう言った。作家仲間であれば、晴明のその執筆速度が異様なものであると分かるだけに、口元の引き攣りを禁じ得ない。ビデオ通話ではないがイヤホンの向こうからはタイピング音も聞こえてくるのでこの会話中も執筆、あるいは何か作業をしている事は明白で、彼女は晴明のその能力が羨ましくもあった。話しながらの執筆というのは、常人には難しい。
「晴明先輩、そんなにその先生と旅行に行きたいのですか?」
「行きたい」
「はわわ……食い気味……これは本気ですね……」
 香子は、晴明の中学時代の二学年後輩にあたる。同じ図書委員であり委員長だった晴明は本の虫だった香子に多くの書籍を紹介し、よく図書室で勉強を教えてくれたりした。その中で時折晴明が話題に出した家庭教師の男は、晴明が高校に合格しても緩やかに連絡を取り合ったりしていたそうであるし、晴明は連絡先を交換していた香子にもその男の話をたまにしてくれた。特に、たまたま晴明と同じ高校を受験する事になった香子が、塾の夏期講習で忙しい時に件の男と旅行してきたと土産のお菓子を持って来た時など、勉強を教えてくれたのは良いのだが至福の数日間だったと噛み締めるように言われ、気の抜けた返事しか出来なかった事を覚えている。
 そんな晴明が、あの時と同じ男と旅行がしたいからという理由で、いつになく真剣に小説を書いている。否、いつだって真剣に書いているに違いないのだが、度合いが違う様な気がする。少なくとも、香子はそう思う。何せ、今までも一度も香子に執筆している話が面白いか否かを尋ねてきた事など無いというのに、初めて意見を尋ねてきたのだから。
「大丈夫だと思いますよ、もう構想だけで面白いと思いますし」
「人気脚本家でもある藤原香子先生にそう言ってもらえると、胸を撫で下ろせるね」
「お、お、おやめください! 今をときめくハル先生にそんな事言われると、心の臓が保ちません」
「私は香子の脚本、面白いと思っていますよ」
「……有難う御座います」
 放送作家として活躍している香子であるが、世間の評価は順調に高くなっていっているというのに本人はいまいち自信を持てていない。それをただの一言で安心させるのだから、才能ある人間というのはすごい。
 そのすごい人間を一喜一憂させる「蘆屋先生」とやらを、香子は間接的ではあるが知っている。晴明から聞かされるのもあるのだが、知人でありエッセイストの清原諾子が件の男と同級生であるらしく、たまに話を聞く。晴明は脈は無いかも知れないが諦めが悪い男だからねと昔から言っており、てっきりその「蘆屋先生」は晴明に興味が無いのかと思っていたけれども、諾子から聞く印象ではそこまで脈無しではないのではないかとも思う。しかも今回は、置き忘れたグミを晴明が勝手に食べたというのに、そのグミがちょうど良かったと聞き携帯していたもう一袋を置いて帰ったらしい。本人は原稿を提出してもらう為の差し入れと言っていた様で、恐らくそれは本心であろうが、結果として作業に没頭すると食事すらしなくなる晴明のサポートになっている事は間違いない。
「香子も忙しいでしょうし、そろそろ切りましょうかね。あ、あと、時間がある時で構わないから、和菓子を食べる時に使えそうな食器を見繕ってもらえないかい?」
「和菓子……ですか?」
「うん。蘆屋先生が芋ようかんを懐紙に置いて食べていて、この家には洒落た銘々皿とか木製フォーク……あれ何だっけ、和菓子切り? とか無いなあと思って」
「……ふふ、分かりました、後程メッセージで送っておきますね」
「有難う。では、ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
 通話を切ろうとした晴明からの依頼に、香子は一瞬呆気に取られたのだが、理由が何とも微笑ましくてつい笑みが零れた。他人に対する気遣いは人並みにある晴明は、それでも頓着するものが世間一般とずれていて、食器に関して言えば他人を家に呼べる程の数は無いと言う。そんな晴明がわざわざ他人の為に、しかも食事ではなく和菓子を食べる為の食器を用意しようとしているらしい。

『聞いておくれ香子、蘆屋先生から嫌いになりますよと言われたんだが、これはまだ嫌われていないと解釈しても良いのかな?』

 今日の通話の開始時の事だが、通話開始ボタンを押した途端、何の挨拶も無しに聞いてきた晴明のこの質問を思い出し、香子は通話が切れたアプリを閉じてまたうふふ、と笑う。性格に難はあるとは言え容姿端麗で聡明で、弁が立ち、教師の信頼も厚かった晴明はそれはもう男女問わずモテた。そんな晴明を、ある意味振り回している「蘆屋先生」とやらは、きっと晴明の想いにはちっとも気付いていないのだろう。
「花柄の銘々皿でも探してみましょうね。花言葉を調べるのは大変そうですけど……」
 次の脚本の締切にはまだ余裕がある香子は、書きかけのデータを保存して終了させると、早速ネットで花柄の銘々皿を探し始めた。その皿が使われて、願わくば使ったその人が花言葉を調べてくれたら良いと思いつつ。