Look me,please!

 彼は今、非常に緊張している。毎日前を通っている喫茶店とは言え風情のある店構えであるし店主が一杯ずつ丁寧に淹れてくれる珈琲を提供する店であるから、チェーン店やインスタントのものしか飲んだ事がない彼には敷居が高く、故に一度も入った事が無かった。それなのに何故彼が通りに面した窓際の席に座っているのかと言うと、シュガーポットやペーパーナプキンのスタンドが置かれた、年代を感じさせるテーブルの向こうに対面で座っている老紳士に理由がある。
「若いのに、お昼がそれだけで大丈夫かい?」
「あ、だ、大丈夫です! 気を遣わせてすみません」
「いいよ、いいよ。こちらこそ、爺に付き合って貰ってすまないね」
「いえ、あの、俺がお願いした事ですので!」
 年の頃は70前後だろうか、白髪を短く切り揃え、やや小柄で和服を上品に着こなす老紳士は、孫ほどの年の差がある彼に、店主が運んできたナポリタンを勧めながら柔和に笑った。皿に盛られたピーマンやウインナー、パセリなどに彩られたナポリタンは、老紳士が店主に頼んで大盛りにされていた。その量に湿布で覆われた頬を思わず緩ませた彼は走った痛みにいてて、と情けない声を上げた。
 彼は、老紳士を一方的に知っていた。オフィス街にある彼の勤める会社から見て、この喫茶店より遠くにあるコンビニにほぼ毎日昼食を買いに行っていた彼は、喫茶店の前を通る度に決まった席で珈琲を飲みながら読書を楽しむ老紳士を認識していた。晴れた日も雨の日も、毎日その時間に静かな一人の時間を楽しんでいる老紳士の姿に最初はリタイアした後の余暇を楽しむ老人は良いよな、などと荒んでいた彼は、しかし対人関係で仕事を辞め一年休職したという学生時代の先輩が何もやる事が無い時間が長く続くのは苦痛だと久々に一緒に飲んだ時にしみじみ言ったのを聞いた時、あの老紳士もひょっとしてそうなのだろうかと思った。それ以来、前を通るほんの数秒の間だけであるが観察してみる事にしたのだ。
 彼が通るのは本当に数秒であるから把握出来ているのかは怪しいが、老紳士が読んでいるのは専らハードカバーの本か、モノトーンの千鳥格子柄のブックカバーがかけられた文庫本で、ごく稀に何か書き物をしている事もあった。タイミング良く店主が珈琲を持ってくると、柔和な笑みで会釈をする。食べ物がテーブルに置かれている事は滅多に無く、しかし水曜日は決まってショートケーキが見受けられたから、甘い物が好きなんだろうと勝手に考えた。彼の昼休憩は午後一時からでなので、ひょっとすると食後の珈琲及びデザートなのかも知れない。着ている和服も毎日違い、地味と言えばそうだが上品さがある。自分と違って育ちが良いのだろうと彼は勝手に思っていて、コンビニの飯より弁当の方が安上がりだろうにと実家の母親から米などが送られてきて簡易的な弁当を作る様になってからも、毎日昼休憩時にコンビニに行く事は止めなかった。話した事も無い、知り合いでもないその老紳士が今日もそこに居ると確かめる事が彼の密やかな楽しみになっていた。
「ここのナポリタンはね、マスターのお手製のケチャップで作るんだ。美味しいよ」
「へえー。あの、じゃあ、遠慮なくいただきます」
「うん、どうぞ。熱いから、口の中の怪我に注意するんだよ」
「はい……」
 オフィス街で店を長年構えているらしい事を鑑みればメニュー表に載っている軽食はそれなりに味が良いのだろうと分かるが、それにしてもケチャップが手製とは拘っている。彼ははにかみながら老紳士に会釈すると、フォークを太麺に絡めた。
 思えば彼が老紳士と初めて話した日も、開けられた扉からこのナポリタンの良い香りが漂ってきていた。あの日は午前中の仕事がずれ込みいつもより一時間程遅い昼休憩となってしまい、食糧を求め音を鳴らす腹を押さえながら急ぎ足で歩いていると、老紳士が喫茶店から出てきたのだ。普段より遅い時間であるから当然の事かも知れないのだが窓辺に座っている姿を見られないのは何となく寂しく、ゆっくりと歩き出した老紳士の背中を歩を緩めて見ていると、仕舞い損なったのか深い藍色のインバネスコートのポケットから白いハンカチが落ち、彼は咄嗟にそれを拾って声を掛けた。すると、礼を言った老紳士は朗らかに笑って毎日この道を通っているね、この近辺にお勤めですか、と言った。どうやら老紳士も彼を認識していたらしかった。
 次の日から彼は喫茶店の前を通る度、窓辺に座る老紳士が自分に気が付くと軽く会釈する様になった。老紳士も柔和に笑って会釈し、雨の日なんかは気をつけて、と言うかの様に手を振ってくれた。ただそれだけの関係であったから、彼も老紳士の静かな時間を邪魔しない為に喫茶店に入る事はしなかった。それで良かった。
 そんな彼が何故こうやって老紳士と差し向かいで食事をしているのかと言うと、昨夜、同僚に営業の手柄を横取りされた苛立ちを払拭する為に飲みに出た帰り道、痛飲したせいで足元がふらつき、ぶつかってしまった相手がよりによってカタギの人間ではなく、必要以上の因縁をつけられ殴る蹴るの暴行を加えられてしまった。それどころか身ぐるみ剥がされそうになっていた所、たまたま外食に出ていたらしく通りかかったこの老紳士が制止してくれたのだ。知っているとは言え赤の他人、しかも老人に危害を加えられたら大変だと真っ青になった彼は慌てて男達と老人の間に割って入り、土下座してこちらの方は何の関係も無いので許してくださいと許しを請うたのだが、老紳士は彼の頭を上げさせながら悠然と携帯を取り出し、誰かに電話を掛けると、電話の向こうの相手にこう言い放った。君の所の若い衆だと思うんだが、肩がぶつかったくらいでカタギの人間に暴行する様な教育をしているのかい、と。
 老紳士はその昔、刑務所に勤めていた看守であったそうだ。剣道や柔道、合気道などを嗜んでいたので若い頃は腕っ節も良く、収監された極道の者達の面倒見も良かった為、兄や父の様に慕う者も多かったらしい。彼を暴行した男達を統括する者はその内の一人であった様で、携帯を受け取った男達は青い顔でしおらしく対応し、通話が終わった後に彼と老紳士に対して深々と頭を下げて詫びた。土下座しようとした男達を、往来でやるのは迷惑になるからと止めたのは老紳士だった。
 昔の教え子みたいな相手の不始末だし君にお詫びがしたい、と時間外外来まで付き添ってくれた老紳士が言ってくれた時、自分の不注意で厄介な事になったのだから特に何もと喉まで出掛かったのだが、出てきたのはあの喫茶店で一緒に珈琲が飲みたいです、という一言だった。老紳士の時間を邪魔するのは気が引けたが、一度で良いので差し向かいでゆっくり話がしてみたかった。そんな事で良いのかい、と困った様に笑った老紳士に、そんな事が良いんですと彼は食い下がった。仕事の営業でもこんなに食い下がった事は無いというのに、だ。
「長い事、妻に苦労をさせていたから、私が定年を迎えたら二人でゆっくりしようと言っていたんだ」
「はい?」
「爺の独り言だ、気にせず食べていて良いよ。
 漸く定年を迎えて旅行に行く計画を立てている最中に、妻の癌が分かってね。
 分かった時には余命半年だった」
「………」
 唐突に話された老紳士の身の上話に、彼は口に運んでいたフォークを止める。しかし食べる様に要求されては止めるのも失礼なのでおとなしく咀嚼していると、老紳士は白磁にグリーンの装飾が施されたカップの珈琲を一口啜り、続けた。
「自分が死んだらたまの休みに二人で来たこの喫茶店に時々来て、自分を思い出して欲しいと妻が言ったんだ。
 たまに思い出すのではなくて、毎日偲びたいから、日曜以外はいつも来ているんだよ」
「日曜……あ、店休日か。だから俺が通る時いつも居たんですね」
「そうなるね」
 オフィス街にある店は、週末の土日が店休日である事が殆どだ。この喫茶店は土曜日も営業しており、土曜出勤する事もある彼は土曜日も老紳士を見掛けた。看守という職に就き忙しい毎日の中でも妻を大事にしていたのだろう、老紳士はほぼ毎日この喫茶店に通い、そして妻を偲んでいた様だ。
 だが、そんな大事な時間の中で、毎日通るからとは言えよく自分に気が付いたものだと彼は思う。香辛料が利いたウインナーを咀嚼し嚥下した彼の顔にはその疑問が表れており、老紳士は僅かに目線を外に遣って午後の太陽の眩しさに目を細めた。
「こっち見ろ! って言われた様な気がしたんだ」
「へ?」
「君に初めて気が付いた時にね。スマホを片手に持っている癖に、目線は私に向けていただろう。
 ああ、あの子は私を呼んだのかなあと思ってね」
「す……すみません」
「謝る事は無い。単なる爺の自惚れだよ」
 あまりにも毎日自分が数秒であるとは言え凝視するものだから、てっきり視線で気が付いたのだろうと思っていた彼は、しかし呼ばれた気がしたと言われて目を丸くするやら赤くなるやら青くなるやらで忙しかった。皿の上のナポリタンはほぼ残っていないので食べて顔色を誤魔化す事は出来ないし、恥ずかしくて俯き縮こまるしかなかった。折角差し向かいで食事が出来ているというのに勿体無いとも思ったけれど。
「ほんと美味かったです。ごちそうさまです」
「うん、気に入って貰えて良かった。貴重な休憩時間なのに、本当に良かったのかい?」
「はい! また仕事がんばります!」
 昼休憩の時間は一時間であるから長居も出来ず、彼はすっかり空になった皿を前に深々と頭を下げて礼を言うと、老紳士は穏やかに微笑んで頷いた。そして、周囲を気にしながら声を潜めて彼に言った。
「実はね、昨日君を殴った男達の元締めがどうしても詫びがしたいって聞かなかったから、
 今日の珈琲代出してくれたらそれで良いよって言ったら一年分くらい寄越してきてしまって。
 だから、君さえ良ければまた来て欲しい」
「えっ……」
「勿論無理にとは言わないよ。預かったお金渡すから」
「来ます! 日曜以外毎日!」
 言われた内容が一瞬理解出来なかった彼は、把握するや否や身を乗り出してまた来る旨を伝えた。その必死の形相に吹き出したのは何も老紳士だけではなく、店の奥のカウンターの向こうに居る店主も明後日の方向を向いて肩を震わせている。他の客は突然の大声に何事かと驚いていて、はっと気が付いた彼はまた赤い顔になって椅子に沈んだ。自分に気が付いて貰えた日の叫びは老紳士にしか聞こえなかったと言うのに、今日の歓喜の叫びは誰しもに聞こえてしまったので、彼はうう、と呻くしか出来なかった。