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Ghost of Scarborough Fair

「スカボロー・フェアを聴くとお腹がすくの」

 往年の洋楽メドレーのCDから流れてきた曲を聞き、そう言ったみどりは、ベランダのプランターからちぎってきたパセリを刻んでスープボウルによそったポトフにぱらぱらとかけた。煮込み料理は作ってもそんな洒落た事をしない私は、ふぅん、と気の抜けた返事をしながら柔らかな笑みを象る彼女の口元を見ていた。口元には小皺が刻まれていても相変わらず健康的でふっくらとしている唇は、ベビーピンクの口紅で彩られている。
 本格的な寒さが到来する前とは言え日没時間が徐々に早くなってきているせいか、午後7時はもう十分に肌寒い。そんな中で供される、湯気のたつポトフは随分なごちそうに見えた。
「今日、ごはん炊いてなかったから、美華ちゃんがパン持ってきてくれて助かったぁ」
「1人だと炊くの面倒だもんね。私も夕食どうしようかと思ってたから、ご相伴に預かれて嬉しいわ」
 向かい合って座ったテーブルは、2人で食事をするには少々大きい。3人以上が食事をする事を想定して購入されたと容易に分かるテーブルだ。きのことパプリカのマリネを口に運びながらそんな事を思った私は、頭に浮かんだ以前この席に座っていたのであろう人の顔を無理やり消して、セミオープンキッチンのカウンターに並べられている瓶の1つに目をやる。その視線に気付いたみどりが、シードルを一口飲んでから言った。
「あの瓶の中のブーケガルニ、スカボロー・フェアなの」
「……パセリ、セージ、ローズマリー、タイム?」
「大体はローレルとかセロリが入ってるらしいんだけど。でも、奥さんがあのメロディが好きでいつもあの4つで作っててね。
 そのブーケガルニで、よくポトフやシチューを作ってくれたのよ。だからスカボロー・フェアを聴くとお腹がすくの」
 奥さんというのはみどりの不倫相手の奥さんの事で、生まれた子供を引き取って育てた女性だ。不妊で苦しんでいたその人は、自分が生んだ子供でなくとも愛情を惜しまず育てたらしい。息子と面会する為に訪れる度、奥さんはみどりを実の妹の様に接し、同じ食卓を囲んで食事をしたのだそうだ。それでも子供が高校生になる前に亡くなってしまって、みどりは正式に後妻としてこの家に嫁いだ。その子供ももう成人し、家を出ているし、旦那さんも半年前に亡くなった。実家に戻るのかと思われたみどりは、この家に残る事を決めた。
「そんな事聞いたら私まであの曲聴く度にお腹すいちゃうじゃない」
「じゃあスカボロー・フェアを聴いた日はうちに来ると良いよ。一緒にごはん食べよ」
「毎日聴こうかな」
「そしたら通い婚みたいになっちゃわない?」
「三日夜餅用意したり?」
「ふふふっ、雅で良いね」
 イギリスのバラッドの話題なのに突然日本の古めかしい結婚形式の単語がみどりの口から出てきたものだから、思わず私も浅い知識の中からそれらしいものを出してみる。他愛もない会話をみどりとするのは好きだ。高校時代に彼女とあまり話せなかったせいもあるだろう。10年以上前の、電車内での偶然の再会以降の方が親しくなった様に思う。学生時代、こんな風に話せていたらみどりが黙って退学しなかったかもしれないと思うと後ろめたい様な切なさが湧き上がってきて、それをポトフのスープと一緒に飲み下した。
 私は結婚もしなければ子供も産まなかった。特に必要無いと思ったし、好きな相手も居なかったし、仕事もそれなりに楽しかったから家庭を持つという考えが無かった。でも、みどりに対する恋の様な想いをそのまま持っておきたかったというのは否めない。知命も近く、後輩達にお局様と言われて久しい私は、それでもみどりと時折会う為に小綺麗でいようと努力していたからなのか言い寄ってくる男も実は居るけれど、誰に対してもみどりと居る時の様な心の安らぎを感じる事は出来なかった。
「あ、美華ちゃん、これお土産」
「え?」
 食事を終え、シードルでほろ酔い気分になった事だしそろそろ御暇しようとした私に、食器を片付け終わったみどりが紙袋を差し出してきた。中を覗けば、今日のポトフが入ったタッパーとクッキングシートに包まれた件のブーケガルニが1束入っている。
「こんな洒落たもの使う料理なんて、作らないわよ」
「ハーブの束って魔除けにもなるの。シューズキャビネットに置いておくのも良いよ。
 美華ちゃんに悪いものが憑かない様に、おまじない」
「……憑いちゃったら、またポトフ作ってよ」
「中からも追い出せる様にって? 良いよ、いっぱい作っちゃう」
 みどりはいつもこうやって、私の気持ちなんて知らずに私を喜ばせる様な事を言う。だけど、知られないままで良いと私は思う。告げないまま、こうやって穏やかな時間を時折過ごせたら良い。私という人間が、みどりの愛した男性と女性の思念が残っているであろうこの「家」にとっての「魔」となりません様に。そんな事を願いながら、私はみどりにおやすみ、と言った。