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恋人は美声

 一人暮らしであれば焼くか煮るか茹でるか、そういった調理になりがちだが、二人居れば揚げ物をするのも億劫ではなくなる。いや、片付けを考えると少々億劫ではあるのだが、それでも食べる相手が居るとやろうという気になる。私がアマデウスに来る時は連絡を入れろと言うのは、その兼ね合いもあっての事だ。予告も無く来られると食材も足らなくて結局また買い物に出掛ける羽目になってしまうから、と言ってもいまいち連絡が鈍いので、予告があれば揚げ物が作れると言ったらほぼ毎回連絡が来る様になった。現金な奴め。
 今日も連絡があったので帰宅途中で買ったパン粉を見たアマデウスがトンカツかと目を輝かせたが、どうしても私が食べたかったのでチーズ巻きフライを作っている。そもそもカツ用の肉を買ってきていない。作るのは私なので文句を言うなら食べなくても良いと思いながらメニューを言うと、じゃあ次回はトンカツでとゴリ押しされた。私も嫌いではないが胃もたれがちょっとな……。ミルフィーユカツだと納得してくれそうにもないしな。
 薄切り肉に大葉とスライスチーズを乗せ、巻いていく。パン粉を使う揚げ物は本当に久しぶりなので億劫さよりも楽しさが勝り、つい鼻歌を歌っていると、カウンターキッチンの向こうのテーブルでミュージカルの台本片手に片耳だけイヤホンをつけて稽古の動画をタブレットで見ていた筈のアマデウスがこちらを見ている事に気が付いた。
「何だ、まだ出来ないぞ」
「違うよ、君の鼻歌聴いてたんだ」
「ん……、すまん、煩かったか」
 てっきり腹が空いて進行状況を見たのかと思っていたが、どうやらつい漏らしていた私の鼻歌が耳に留まったらしい。ミュージカルのチェックをしているのなら邪魔をしてしまったかと謝った私に、アマデウスは動画を止めイヤホンも外してカウンターに近寄ってきた。
「そうじゃなくて。その曲、君ならそんな風に歌うんだなあと思って」
「うん……?」
「作曲したは良いけど、僕もどう解釈させたもんか迷ってたんだよね。そう歌っても良いなあ」
 カウンターから身を乗り出し、私の歌い方の解釈――と言っても戯れの鼻歌なのでそこまで真に取られても困るのだが――に目を輝かせたアマデウスは、一瞬たじろいだ私の隙を鮮やかに突いてまだ豚肉に乗せていないスライスチーズを一枚取った。チーズ抜きのものをアマデウスの皿に盛れば良いだけなので、私も特に注意しない。私が豚肉を巻いているのと同じ様にチーズを丸めて一口齧ったアマデウスは、行儀悪くもカウンターに肘をついて私の作業を眺め始めた。
「詳しい脚本は知らないが、恋い焦がれるというより愛しく慕う様な印象があるな、この曲は」
「あー、なるほど、見返りを求める恋ではなくて与える愛か」
 アマデウスが請け負ったミュージカルの作曲は、曲と歌詞だけは教えてもらったが脚本は知らないままだ。いくつか曲を聴いたので大体検討はついても細かいところまでは分からない。その状態で深い解釈など出来る筈もなく、私が勝手に想像で歌っている。ストーリーを把握すればもっと奥行きがある歌い方が出来るだろうけれども、私が舞台に立つ訳でもないので、舞台を観るまでは想像で補っている。
「もう一回歌ってもらって良い? 鼻歌で良いから」
「聞かせる様なものではないぞ」
「良いから。ね、お願い」
 カツで一番面倒だと個人的に思っている小麦粉、卵、パン粉をまぶしている間に油を熱する。アマデウスがこの家に来る様になってから買った揚げ物用の鍋はたまにしか使われないが、まあ買って良かったかなとも思う。明日は弁当に唐揚げでも入れるか、甘酢煮にしようかと思っていた鶏肉があった筈だな。そんな事を考えながら、両手を合わせて上目遣いであざとく見てきたアマデウスに折れて仕方なく先程のメロディを、今度は鼻歌ではなく歌詞付きで歌い始めた私は油の温度を菜箸で確認してからスティック状の豚肉を投下した。じゅわっ、という食欲をそそる音にかき消されなかった私の歌声を一音も漏らさぬ様にと目を閉じたアマデウスに油が跳ねない様に温度調整をしつつ、まな板を洗った私はキャベツの千切りに取り掛かった。
 よくこんな雑音が混ざっている歌を聞こうとするものだ、と私は思うが、アマデウスはとにかく耳が良い。どんな音が混ざろうと、自分が聞き取ろうとする音を確実に捉え、分析する。どうやら私の声は彼の耳には心地良いものであるそうで、よく私に歌をせがむ。以前ピアノソロコンにゲストで呼ばれた時も歌わされた。一応私のこの歌声を気に入られたさる企業の若いご当主からプライベートパーティでの歌唱や演奏を依頼されるし、妹君――マリーお嬢様に声楽のレッスンもつけていたりもするのでアマデウスの事を面妖とは思わないが、大勢居る空間の中で真っ先に私の声を聞き分けた時は流石にひいた。
「うん……うんうん、なるほど。そういうのもありか」
「満足したか?」
「演奏するからもう一回歌って」
「何?! いきなり本格的にするんじゃない、料理の片手間にやる様な事ではないぞ!」
「良いから良いから。肩の力抜いて歌ってもらった方が僕もやりやすい」
 使っていない魚焼きグリルの受け皿にキッチンペーパーを敷き、揚がったフライを網の上に置いて油をきっていた私は、アマデウスの再度の要望に素っ頓狂な声を出してしまった。お前のピアノは料理しながら聴く様なものではないと私が言おうとする前に、彼がさっさとリビングの隅に置いてある電子ピアノの前に行くと指を鍵盤の上に乗せたので、私も仕方なく息を吸う。この歌は歌い始めた後に演奏が始まるのだ。
 電子ケトルに水を入れてセットする音、小鍋で酒とみりんと醤油を煮切る音、まな板で梅干しを叩く音に混ざった私の歌声は、果たしてアマデウスの耳にどう届いているのか。ちらと見た彼の横顔は真剣そのもので、手頃な値段の電子ピアノの音であっても素晴らしい音色が揚げ物の匂いが充満している部屋に響いていて、中々に面白い絵面だ。どうにもそれが可笑しくて、奇妙だけれども溢れる慈愛を旋律に乗せた。
「――……あー、良いね、やっぱり君の解釈良いなあ。これでいこう」
「仕上がったのか?」
「後は盛り付けってとこまでかな」
「そうか。こっちもあとは盛り付けだ」
 私が歌い終わり、ピアノ伴奏を止めたアマデウスが一呼吸置いた後にしみじみ言い、その言葉に何となく誇らしさを感じる。日常の何気ない風景の中で仕上がっていく歌曲というのも悪くないだろう。椀に液体味噌と乾燥ワカメを入れ、ケトルから湯を注いで即席の味噌汁を作り、小ぶりの片口鉢に叩いた梅と粗熱を取った小鍋の調味液を入れて作ったソースをカウンターに置いてアマデウスに配膳を促す。フライは斜めに切って断面を見ると良い具合の色に揚がっており、大葉の緑もよく映えていて、キャベツの千切りと一緒に四つずつ盛った。ピアノの演奏代だ、チーズ抜きは私の皿にしてやろう。朝に作った弁当にも入れた、きゅうりと人参と大根の浅漬もついでに冷蔵庫から出した。
「……あっ」
「え? どうかした?」
 さあでは米も……と炊飯器に手を置いたその瞬間、私ははたとある事に気が付いて、さっと血の気が引く。しまった、久しぶりにこのミスをやらかした。冷蔵庫から麦茶のポットを取り出したアマデウスに、私は途方に暮れた様に言う。
「こ、米を炊くのを忘れていた……」
「……ん〜ふふ、サリエリ、君、そういう間が抜けたとこあるよね〜」
 そうなのだ、揚げ物をしようと意気込んでしまったのですっかり米の事を忘れていて、炊飯器の中は空だったのだ。冷凍庫の中の白米は確か一膳分しか無い。今から炊いていては折角のフライが冷めてしまう。それは嫌だ。盛大に溜息を吐いてしまった私を尻目に、麦茶を置いたアマデウスは乾物などのストックを入れている引き戸の中を漁りながら言った。
「確かパック飯無かった? あー、ほら、あった。君が体力無くて飯作る気力も無い時用にって買ってたやつ」
「……そう言えばそんなものがあったな」
「過去の君に感謝だねえ」
 すっかり存在を忘れていたが、以前仕事が忙しくてろくに食事が作れず、米も炊けなかった時に買っていたパック飯がそう言えばあった。アマデウスはこの引き戸を漁っては私が買っていたシリアルバーやパン、ミックスナッツなどを食べ漁るので、覚えていたのだろう。本当に過去の私に感謝せねばならない。明日の帰りにまた買ってこよう、アマデウスが食べ漁ってしまった私のおやつも一緒に。
「さっきさあ、君が飯作りながら鼻歌歌ってたじゃん」
「ん? ああ」
「恋人がさ、僕が作った曲の鼻歌歌いながら飯作ってくれてるのって、何かすごく良いね」
「…… ……そうか」
 レンジで温めている間に魚焼きグリルの油をキッチンペーパーで拭いていると、テーブルで白米を待つアマデウスがへらっと笑い、そんな事を言った。まさかそんな言葉が彼の口から出るとは思わなかったので驚いてしまい、素っ気ない返事を返す。というか、情けない事にそれが精一杯だったのだ。こんな時のアマデウスの何気ない言葉は嘘偽りなど無く、本心であるので、突然ストレートに好意を伝えられるとつい耳が熱くなってしまう。
「いただきまーす。……あー、めっちゃ美味い。やっぱり誰かに作ってもらった食事って最高だね」
「私もたまには誰かに作ってもらいたいものだな」
「僕が作ると虚無しか生まれないから音楽だけで勘弁してよ」
「ふふ、そうするとしよう」
 お前の曲の鼻歌を歌いながらの食事の支度は頻繁にやっていると言うのは何だか照れくさくて、流れた奇妙な沈黙と耳の熱さをどう誤魔化そうかと思っていたのだが、梅ソースをかけたフライを一口食べたアマデウスが嬉しそうに咀嚼して褒めてくれたので照れも恥じらいも吹き飛んだ。そして仕方ないから次はトンカツを作ってやるかと、その笑みを見ながら思ったのだった。