執着心

 まだ子供であるアナイスには、少し気になる男が居た。どう気になるのかと問われても、さて、としか答えられないし、その男のどこが良いのかと問われても、答える事は容易ではない。およそ教養を受けているとは思えぬ口のきき方、敬意を払わぬ態度、何をとっても美徳とは思えない。
 しかしアナイスの周りにはそういう男は誰一人として居なかった。次期国王として育てられている彼の周りには、それなりの教養がある者しか居なかったからだ。否、その男もアナイスの目に留まり、あまつさえ時折言葉を交わせる場所に居たという事はそれなりに教養があって身分もそれなりだという事は分かるのだが、それでもその男からはそういうものは見受ける事が出来なかった。だから興味を持ったと言うのが一番近い。ぞんざいな話し方、膝をついてアナイスを見上げているのに彼を見下す様な目、それは確かにその男以外では見受ける事の出来ない態度であった。
 あれが欲しいと言えば、当然の様に周りが反対した。あの様な不敬な者は王子には適さないとか何とか、それらしい理由が大半を占めていた様に思う。それは確かに正しいのだろうが、つまらないと思ったのは子供だったからだろうか。男は、アナイスの近習にはならなかった。多分、否、確実に、男がそれを知ればまっぴらごめんだと言う事も分かっていたのだが。
 そんなある日、アナイスは夕暮れ時に城から抜け出し軍の宿舎近くに散歩をしに行った。普通なら王位継承者第一位である王子がそんな事が出来る訳は無いのだが、アナイスは幼い頃から魔力の強い子供であったから、他の者の目を掻い潜る事は可能だった。
 軍の宿舎の方に足を向けたのは、大した理由も無かったし、別にあの男に会おうと思った訳でもない。ただ足が向いただけであって、本当に他意は無かったのだ。そして本当に偶然井戸の近くにその男が居る事に気が付いた。声をかけようかと思ったのだが、その男以外にも別の男が居て、話しかけるタイミングを失った代わりに何を話しているのか聞こうと、彼は聞き耳を立てた。
「言った通りちゃんと全部出したか? 出さねえと後で腹壊すからな、気をつけろよ」
「……ご忠告痛み入ります」
「あの将軍、男だろうが女だろうが関係無いからな。お前多分これからも狙われるぜ」
「そういう貴方こそ、大丈夫なんですか。随分怪我をしている様ですが」
 水色の髪の男が、自分の探し人に対してそう言ったのを聞いて、彼は漸くそこで初めて探し人が随分な怪我を負っている事に気が付いた。怪我と言っても、殴られた様な痣が大部分で、出血はそこまで確認出来ない。だが、手当てを受けた方が良い事だけは分かる。
「あー、俺は見た目通り頑丈だから大丈夫なんだけどな。もう慣れた」
 話の内容は子供の彼にはよく分からないが、殴られる事に慣れた、という事だろうかと彼は思う。軍とはそういうものなのかと疑問に思ったのは、これが初めてだった。上官が不当に部下を殴る事もあるのだと彼はその時初めて知ったのだが、残念ながら本当に子供だったので、二人がどんな事をされたのかという事は全く分からなかった。
「それより良い事教えてやるよ。良く覚えとけよ、今度からヤられる時は顔にかけて下さいって頼んどけ」
「………」
「そう嫌な顔するな、体壊すよりよっぽど良いぜ。俺昔腹下してマジで死ぬかと思ったくらいだ」
「……未知の話ですね」
「未知のままで居たいだろ。臭ぇのくらい我慢しろ、後で死ぬ程洗えば良い」
 井戸の縁に腰をかけ、普段のように締まらぬ表情で笑う男は、彼が今まで知っている男ではない気がした。他人の様だと、そう思ったのだ。男は全く普段と変わらないというのに、何故かそう思ってしまった。
「それと最後に一つ。
 頭良さそうなお前の事だから分かると思うがな、上官を殺したら軍法裁判モノだ。肝に銘じとけよ」
「それは承知の上ですよ」
「まあ待て、重要なのはその後だ。普通に殺したらお前もただじゃ済まねえよ。だが、軍事演習中だったら?」
「………?」
「流れ矢が飛んできて負傷して、最悪心臓射抜かれたら、不慮の事故だよなあ」
「………」
「まあ、そういう事だ。焦ると何も良い事ねえからな」
 男が不穏な事を言っているのは分かる。だが、彼は何故かなるほどなと思っていた。そういう始末の仕方もあるのかと教わった気分だ。帝王学を学んでいる身とは言え、子供の内は血生臭い事などあまり教えられないから、彼はそういった知識は乏しかった。
 しかし、肝心の「男に怪我を負わせた将軍」とやらはどうするつもりなのだろうか。そちらも同様にしてしまえば、いくら何でも故意である事がばれてしまう気がする。そう思っていると、彼の疑問を水色の髪の男が口にした。
「貴方はどうなさるつもりなんです? まさかそのままでいる腹積もりではないでしょうに」
「俺か? そうだな……俺はそういう小細工が苦手だからな。剣の手解きを直々に受けさせて貰おうかね」
「そちらの方が軍議にかけられませんか?」
「かけられたところで、下級兵に剣技で負けた上に殺される程度の将軍なんぞ軍も要らんだろ」
「それもそうですね」
 水色の髪の男が、とてもおかしそうに笑いを噛み殺す。それを見て、彼の探し人も笑った。同じ様に、とてもおかしそうに。
 彼は、それが面白くなかった。じり、と胸の辺りを焼いたその感情が何であるのかは分からないが、恐らくそれは愉快なものではないだろう。そもそも探し人に怪我を負わせる事を許されるのは、自分だけで良い。兵を勝手に傷付けて良いのは軍部の上の者ではなく、国王やそれに準ずる者だ。子供心にそう思った。
 彼はそれ以上の会話を聞く事を拒む様に、足早に、足音を立てない様にその場を立ち去った。夕日が遠くの山の向こうに隠れようとしている時間になっていた。