ベビーベッド

 赤子を抱いた彼女の姿が、瞼の奥から離れない。それは眠っている時でも例外ではなくて、眠る度に赤子を抱いた抜け殻の様な彼女の姿を夢に見た。その度、言い表せないどす黒いものが胸の奥で渦巻いて、重苦しい溜め息を吐くしか出来ない自分を、殺したい程憎んだ。



 ユリエルにとってセシリアという女性は、確かに魅力的ではあったのだが、情を本当に交わしたかと問われれば首を捻る。将軍の家系に生まれて、その後ろ盾も確かに存在したが、彼女はほぼ実力で軍部の上まで昇り詰める事が出来る人物で、眉目も麗しく、正に才色兼備という言葉は彼女に相応しいと思わせた程だ。だがユリエルにとってみれば、ただそれだけだったのだ。
 しかし美しい花には魅力という香りに誘われて群がる虫が多く、セシリアもそれを煩わしく思っていた様で、たまたま彼女の直属の部隊に配属されていたユリエルが逃げの口実に使われたのだ。これは有能な部下なので、他の目ぼしい者と共に居残りで訓練すると言っては他の参謀やらの誘いをばっさりと断っていた。それに対しユリエルも特に抵抗は無かったし、また利用されるのであれば自分も利用してみようかという心積もりだったので、大して不服に思った事も無い。
 そうしている内にいつの間にか二人の仲が囁かれる様になり、陰口を叩く者も居る様になったので、それはお互いにとって益な事では無く、だからユリエルは正式に交際というものを申し込んでから部隊から外して貰った。直属の部下であればまた何か言われて面倒だと思ったし、ユリエルもセシリア同様に上に昇り詰める程の実力を持っていたから、彼女の威光で昇進したのではないのだと証明する為だ。
 それだけの為に交際をする必要は無かったが、セシリアは寄り付く男が鬱陶しいし、虫除けの様な存在を必要としていた様だから、良ければ自分がなりましょうかと提案した。それ以前からセレスタンという男も居た様であったが、付かず離れずといった感じであったし、何よりセシリア自身がユリエルを選んだから、ユリエルはセシリアの「男」になった。
 ただ、その時点でお互いに情があったのかと問われれば、ユリエルは勿論セシリアだって首を横に振る。飽くまで彼らは利害が一致した者同士であり、好きだ惚れただのを言い合う関係ではなかった。それでも時々二人の時間を作れば一時の安らぎが得られたのも事実だ。それはお互いの胸の内に秘められた暗黙の了解がもたらす、奇妙な安らぎと言って良い。お前を利用すると言われた事はユリエルには無いが、同じ様な事であったから、彼女の秘密を掌握しているという事実がユリエルに心地よさを与えたのかも知れない。
 セシリアは、恋だとか愛だとか、そういう意味合いではなくて、本当に純粋に大臣に対して憧憬の念を抱いていた。まだセシリアを知って間もない頃、セレスタンから教えられた事だったのだが、なるほど傍から見ていたらすぐに分かった。凛とした大人の美しさを持つセシリアが、大臣を前にするとまるで少女の様な顔をするのだ。あの方のお役に立ちたいと、一度だけではあるが彼女が呟く様に言ったのをユリエルは覚えている。いつだったか、好きなのですかとユリエルが聞いた時に、そんな言葉であの方を汚すなと怒られてしまった。彼女にすれば大臣という存在は聖域であったのだろう。だから彼の姪であるという少女にも、手ずから剣の指導もしていた。良い腕をしているから成長していくのを見るのが楽しいと笑うセシリアが、心の底からそう思っているのだとユリエルにも思わせる程、真実を語る顔をしていた。ユリエルはその時、他人を本気で想うというのはこういう事なのだと学んだのだ。素直に、その想いを尊重したいと思った。
 情が無くても褥を共にする事は出来るから、他の者達が気を利かせて夜を共に過ごさせてくれた時には流れに任せるままに彼女を抱いたが、お互いに情熱というものは感じられず、虚しさこそ無かったがこんな事を無理にする必要も無いのではないかとユリエルは思っていた。だが代々将軍としての地位を継いできたセシリアの家は、次の子供も必要とされた。彼女は一人娘であったから、単なる平民のユリエルでは反対されていたのだが、セシリアが妊娠するとあっさりと容認された。本音はもっと家柄も地位もある様な男を、と思われていただろうが、子供が出来てしまえば何も言えないだろう。何より、ユリエルも驚いてしまったのだが、セシリアが一番喜んだのだ。子供を授かった事を、誰より喜んだ。今まで母性などというものが自分には無いと思っていたけれども、そんな自分でも子を授かる事が出来るのだと笑った。そのセシリアに、ユリエルは初めて恋をした。
 お腹の子供の父親にして欲しいと、ユリエルはセシリアに向かって頭も下げた。正真正銘お前が父親だとセシリアは言ったが、そういう事ではなくて、今までの様に情を交わさない仲ではなくて本当の恋人になりたいと、ユリエルはぽつりと告白した。それを聞いたセシリアはお前にもそんな風に思わせるなんて、子供というのは凄いなとまた笑った。
 セシリアは妊娠した事を公表せずに、腹が目立つ様になるまでは軍事に携わった。流石に臨月に近付くにつれ無理は出来なくなったので一時休暇を取り、生まれてくる子供を待った。ユリエルは一日の勤めが終わると毎日セシリアの元へと通い、その日の軍の動きを報告していた。彼女が居ない間、軍の内部を牽制するのはユリエルの役目だった。だからセシリアは大したストレスもなく、経過も順調であったから、誰も何も心配はしていなかった。
 なのに、今日明日にでも生まれるというその日に、いつもの様に通ってきたユリエルに、セシリアは顔面蒼白で胎動が無いと言ったのだ。昨日までは元気に動いていたのに、全く動いてくれないと、彼女にしてはひどい狼狽を見せ、ユリエルは思わず黙り込んでしまった。よりによって一番勇気付けてやらねばならない筈の自分が、何も言えなかったのだ。取り敢えず大急ぎで医者を呼び寄せたものの、原因は不明だが腹の中でその短すぎる命を終えたのだと言われ、セシリアはその場で気を失った。
 子供は死んでも、その遺骸は生まねばならない。普通ならもう少しで会えるから頑張れと声を掛ける事も出来るが、励ます事も出来なかったと、産婆はユリエルに言った。本当なら聞ける筈だった産声も、二人は聞く事が出来なかった。何と声を掛けるべきか分からないままユリエルがセシリアの元へ行くと、彼女は寝台の上で寝そべったまま、死んだ赤子を上に乗せて抱いていた。そしてユリエルに気付くと、笑ったのか頬を引きつらせた。どうしたのかと聞くと、子供は死んでしまったのに乳が出るのだと言う。飲ませる事が出来ないのに何故出るのか、それを考えていたと彼女は薄く笑って言った。



 それから以降、ユリエルは居た堪れずにセシリアの側から離れてしまった。子供を失って悲しむ彼女を見たくないというのもあったし、自分も悲しむのが嫌だった。本来なら一番支えねばならない自分が、何もしなかった。それが彼女を追い詰めてしまったのだ。遠くに見える、化け物の様な魔女を睨みながら、ユリエルはそう思う。
 利害だ何だと考える前に、全力で彼女を愛せば良かった。子供を亡くした彼女の傍に、つらくても居てやれば良かった。そんな事を思っても、今となってはもう遅い。ユリエルは矢を構えて、照準を合わせた。
 魔女の下に見える黒い鏡に、聖剣を持ったロジェが全速力で向かっている。ロジェの援護をする為の弓を、ユリエルは引いた。


 貴女は母になりたいと言った。
 でも、私だって父になりたかった。
 女神になり損ねたアニスの様に、父親になり損ねた。
 私の臆病さが招いたこの悲劇を、セシリア、貴女は恨むでしょうか。


 放たれた矢が魔女の額に突き刺さると同時に、鏡が割れた音が木霊した。その音が、赤ん坊の産声の様だとユリエルは思った。