猛獣の飼い方10の基本・その5:せをむけてはいけません


 段々と激しくなっていく戦況に、ヴァルダは少し疲れていた。元より戦場で戦う様な身分でもなかったし、王室で育っているので仲間の戦士達と比べて体力が低い事もヴァルダの疲れに拍車をかけている。否、ヴァルダだってアルテナ国内でも比類なき魔力を持っているので戦場に出ない、という事は考えられなくもなかったのだが、今までその様な危険に晒された事は無かったのだ。それが突然その危険が彼女の身に降りかかった上に、最愛の母が戦死してしまったのである。
 アルテナ女王の死はヴァルダの心に昏い影を落とし、今でもヴァルダは慌しさの中に居なければ塞ぎこみがちだ。他の者もヴァルダを気遣ってか、彼女が落ち込まない様にと気を紛らわす為に空いた時間を彼女との雑談に割いてくれる。だがヴァルダはそれが有難い反面、放っておいて欲しいとも思っていた。面と向かってそんな事は決して言えないが、一人になりたい時だってある。
 何故あの時、母は運命を共にさせてくれなかったのだろうとヴァルダは思う。しかしそれは自分のわがままであるという事も分かっている。アルテナ王家の血を継ぐものはヴァルダしか居らず、だからヴァルダが失われてしまえばアルテナ王家も滅亡してしまうのだ。女王はそれを分かっていて、自分を盾にしてヴァルダを逃がした。最期までアルテナの事を、ヴァルダの事を想っていた。そして何より、最期まで誇り高きアルテナの女王だった。
 色々考えているとどうしても暗い事しか考えられず、ヴァルダは少し外の風に当たろうとそっと甲板まで出てみた。シェイドの刻の飛行はいくら腕の良いジェレミアが居るといえども危険も付き纏うので、今は人目につかない様な木々の影に停泊している。出た途端吹き抜けた風がヴァルダの髪を舞い上がらせ、今日は少し風が出ているのだと知った。しかし雪国であるアルテナで生まれ育ったヴァルダにとって、その風に寒さを感じる事は無い。寧ろ心地好いと思った。
 手摺の方へと行こうと足を踏み出したその時、月を覆っていた雲が風で流れていき、甲板を柔らかな光が照らした。そしてその時、漸くヴァルダは先客が居た事に気付いた。
「あ……ごめんなさい、お邪魔してしまいましたでしょうか」
「……別に」
 橙色のマントを身に纏った先客は手摺に背を預け、何をする訳でもなくぼうっと上空の月を眺めていて、ヴァルダの謝罪に少しだけ顔を向けて短く答えた。故郷の夜が明けぬ森の満月を思い出して郷愁に耽っていたのかも知れない。拒絶の言葉を発さなかった所を見ると邪魔だとは思っていないらしい。
 ヴァルダは彼と知り合って日が浅い為よく分からないのだが、彼は仲間と行動を共にしていても艇内では誰も居ない所で一人で居る事が多い様で、常に誰かと一緒に居るヴァルダは彼の姿を艇内や野営で見た事が無い。どちらかと言えば戦場となったアルテナやワンダーの樹海で誰よりも先に駆け抜け、突破口を開いていく姿の方が印象に残っている。普段はこんなに物静かなのだとヴァルダは初めて知ったのだ。
「お邪魔は致しませんので、ご一緒させて頂いてよろしいですか? 私も風に当たりたいのです」
「別に構わん。ここは俺だけの場所じゃない」
 ぶっきら棒に返された返事は初めて聞けば愛想の無い、と思ってしまうだろう。だがヴァルダは直接彼と会話をした事が無くとも、彼がそういう話し方をするという事は知っていた。たとえ相手が王族だろうが聖職者であろうが同じだ。だからヴァルダは彼からそういう物の言い方をされても別段癇に障ったりはしなかった。一部の者は除くがそういう言葉遣いで話された事が無かったので、ある意味新鮮だった。
 これと言って話す事が無かったし、何より何を話して良いのか分からなかったので、ヴァルダも黙ったまま彼から離れた所でぼんやりと空を眺めていたのだが、不意にぽつりと彼から声を掛けられた。
「その格好、寒くないのか。風邪ひいても知らんぞ」
「え……」
 まさか彼がそんな風な言葉を言うとは思っていなかったヴァルダはそれこそ面食らってしまった。確かに今のヴァルダの服はアルテナで好んで着ていたドレスとは違い、ウェンデルで調達したワンピースだったのだが、そこまで寒そうに見える格好ではない。進んで服を着ようとしない彼に比べれば温かいとは思うのだが。
「お気遣い有難う御座います、ですが私はアルテナで育っておりますので寒さには強いのです。
 これくらいの気温なら、平気ですわ」
 雲に隠れていない月が照らしているので、ヴァルダは彼に向かってにこやかに微笑んでそう答えたのだが、彼は横目でヴァルダを見ながら無表情のまま続けた。
「別にあんたが風邪ひくのは構わん、俺は腹の子を気遣えと言っている」
「!!」
 その彼の言葉にヴァルダは一瞬にして顔を凍らせ、心臓も一瞬止まってしまった様に錯覚してしまった。
 確かにヴァルダの胎内には小さな命が宿っている。だがそれを知っているのはヴァルダだけだし、ヴァルダも他の誰にも言っていない。ヴァルダがあまり他の者、取り分け女性――特に子を生んだ経験のあるファルコンと一緒に居たがらないのは妊娠を悟られるのが怖かったからだ。ひょっとしたらロキは微かに気付いているかもしれないが、それも憶測にしか過ぎない。だからヴァルダの妊娠は誰も知らない筈なのだ。
「な……ぜ、」
「何故も何も……俺は獣人だ、あんたら人間より勘は何倍も働く」
 ヴァルダが妊娠を自覚したのはここ二月くらいの間だ。月のものがこなくなったので国の医師に硬く口止めをして検査して貰ったら、身篭っていると言われた。だからヴァルダはまだ妊娠初期の状態なのだ。他の誰かに気付かれる危険性は少ない時期でもある。それを彼はあっさり見破った。
「……いつから、です」
「最初に見た時から」
「………」
 ヴァルダは思わず嘆息を漏らし、その場にへたり込みそうになった。誰にも知られてはならぬ事を、よりによって他国の者に知られてしまった。この事を知られてはならないのだ、絶対に。何故なら、
「お願いです、誰にも言わないで下さい」
「特にあの王子には、か?」
「………」
 腹の子の父親は、リチャードである。しかしリチャードはフォルセナを継がねばならぬ身であり、ヴァルダもまたアルテナを継がねばならぬ身である。互いに惹かれていても、結ばれる事は決して無いのだ。リチャードもヴァルダも、しかるべき者とつがい、跡継ぎを儲けねばならない。それが国を継ぐ者の義務である。だが、リチャードとヴァルダはその禁忌を犯してしまった。その結果が、ヴァルダの中にある生命だ。
「彼は、リチャードは、フォルセナを継ぎます。その時に、この子が枷となってはならないのです。
 私は彼の枷にはなりたくない……」
 ヴァルダは知らず自分の腹に手を添えた。まだ胎動は微かなものだが、それでもヴァルダには日々胎内の小さな生命体が成長しているのが分かる。リチャードとの子が、堪らなく愛しかった。
「だったら何故堕ろそうとしない? あんたにもあの王子にも負い目でしかない子を何故生もうとする?
 父親の居ない子を生んだ女王と指差される事が分かっていながら、何故生もうと思うんだ?」
「……そんな事、出来る訳がありません! たとえ私に不利益があっても、この子に罪は無い!
 何故その様な非情な事を言えるのです、貴方は不利益があると判断したら子供を身勝手に堕胎させるのですか!!」
 彼の無神経な言葉に思わずヴァルダは頭に血が上り、声を荒げた。その後で大声を出してしまった事に気付き、慌てて口を押さえたのだが、出てしまった言葉を消す事などは出来なかった。
「ご、ごめんなさい……」
 そしてすぐに非を詫びたのだが、彼は相変わらず無表情で別に、と言った。ヴァルダも少し無神経な事を言ってしまったのだが、彼はそれを気にしていない様だった。
「王女、俺は別にあんたが妊娠してようが子を生もうが、父親が誰なのかなんてどうだって良い。
 俺ならたとえ不利益があっても生めと言うし、告げられなくともそれを責めはせん。
 枷がどうだと建前を並べるんじゃなくて、単に惚れた男の子を生みたいと言えば良かろう。
 何故引け目を感じて言い訳をする」
「………」
「生みたいから生む、子が愛しい、それだけで良かろう?」
「あ……」
 彼のその言葉に、ヴァルダは心臓を射抜かれた様な気がした。確かにヴァルダはリチャードの枷になりたくはなくて、だから子供が出来た事はリチャードの迷惑にしかならないと思った。だが堕ろそうとは決して思わなかった。ヴァルダがリチャードとの子が欲しかったからだ。生みたかったからだ。結ばれる事が叶わぬなら、せめて互いが互いを求めた証が欲しかった。子を授かった時、ヴァルダは女神に感謝すると共に、自分の中にある生命にも感謝した。よく自分の中に降りてきてくれたと、そう思った。
「それに、気付いたのは俺だけじゃなかろうよ。王女の母親は俺達を逃がす時に何て言った?」
「……お母様……」
 ヴァルダは言われるがまま記憶を探る。あの時、押し寄せるペダンの兵を食い止める為にアルテナ女王は我が身を盾にしてヴァルダ達を逃がした。その時、ヴァルダも母と運命を共にしようと思ったのだ。だが女王はそれを許さなかった。
あの時。女王は、母は何と言ったのだったか。

―――行きなさい、ヴァルダ。アルテナの未来と共に―――

「アルテナの未来と共に……そう言わなかったか?」
「……まさか、お母様は」
「子供生んだ経験がある上に自分の娘の事だ、気付いていただろうよ」
「……あぁ……!」
 母は、恐らく全てを知っていたのだ。ヴァルダが身篭った事も、隣国の王子を想っている事も、そして結ばれぬ事も何もかも。アルテナを継ぐ者はヴァルダしか居らず、せめてもう一人王女や王子が居たならヴァルダはリチャードの元へ嫁げただろう。だがヴァルダ以外の世継ぎは居なかった。女王はそれを負い目に感じていたのではないだろうか。だからヴァルダが父親が居てはならない子を孕んでも何も言わず、無事にその子供を生ませようとして自分が盾になったのだろう。ヴァルダはその事に今漸く気付いた。

―――生きなさい、ヴァルダ。愛しい人との子供と共に―――

 女王は本当はそう言いたかったのだろう。だが他の者達が居る手前、言う事は出来なかった。本当に女王は最期まで娘を想っていたのだ。ヴァルダは今までそれに気が付く事が出来なかった。赤の他人である彼が真っ先に気付いたというのに、だ。
「おか、お母様……お母様、ごめんなさい、ごめんなさい……!」
 震える声を我慢出来ず、それでも彼に泣き顔を見せるのは躊躇われ、ヴァルダは彼とは正反対を向いてとうとうへたり込み、顔を覆ってしまった。ずっと我慢していた涙が堰を外された様に流れ出し、ヴァルダの小さな掌を浸食していく。
 子供の様に蹲って泣きじゃくるヴァルダの背中を彼は暫く眺めていたのだが、面倒臭そうに頭を掻くと静かに彼女に歩み寄った。
「………?」
 肩や首元に何か温かいものが被さったのを感じ、ヴァルダが僅かに顔を動かして肩を見ると、白いファーがついた柔らかな橙色のマントが自分の肩から背中を覆っていた。そして僅かもしない後に、ヴァルダの背中にどん、という鈍い衝撃が齎された。ヴァルダの後ろに、背中合わせで彼が胡坐をかいて座ったのである。
「風除け程度にはなる。泣くならさっさと泣け。気が済んだら戻れ。戻る時はマント返せ」
「……っく、……さ、寒、く、ない、のです、か」
「いつでも夜の森の住人だ、大して寒くねえ。あんたは腹冷やすな」
「あ、あり、……ひっく、……有難う、ございま、す」
 しゃくりあげながら何とか彼に礼を言ったヴァルダは、そのままか細い嗚咽を漏らしながら涙が枯れると思う程に泣いた。彼はその間中、不本意そうな顔をしながらもずっと胡坐の上に頬肘をついて、ヴァルダに風が当たらない様にじっと座っていた。

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背を向けてはいけません。
何故ならその猛獣は意外に優しいので、
飼い主が背を向け泣き顔を見せまいとしている事を察知すると、
本人の意思に反して牙を仕舞って柄に無く飼い主を労わろうとしてしまうからです。
その猛獣は余りそういう所を見せたくない様なのですから。