狭間

 目の前に跪いて項垂れている男を見ながら、エリオットは正直な所どうしたものかと思っていた。顔を上げて欲しいと言った方が良いのだろうが、自分の立場を考えればその言は不適切とも言えなくもない。かと言ってこのまま跪かれているのも居心地が悪い。逡巡した結果、エリオットは困った様な顔をしながら、男が入室してから初めて口を開いた。
「あの……まずは顔を上げて頂けませんか?」



 エリオットと姉・リースの元にナバールから直々に謝罪の文が来たのはリースが全ての戦いを終わらせてからだった。恐らくはそれまでにも幾度か文が来るべきであったのだろうが、エリオットを捕えていた者達によってナバールの頭領以下の者達が操られていたという事を鑑みれば、このタイミングになってしまった事は仕方ないだろう。それは解放されたエリオットにも、旅に出ていたリースにも十分に分かっている。
 エリオットは城に戻ってきた時、攫われた時の記憶を失っていた。それは攫われたエリオットの面倒を見ていたイザベラ――本当は美獣と言ったらしいが――が消滅する前にエリオットをローラントに帰す際に記憶を消した様なのだが、知っておいた方が良いと判断したリースが事の次第を全て教えたので、エリオットも朧気ながらに攫われた時の事を思い出していた。おつらかったでしょうとライザ達は気を遣ってくれたが、エリオットにはこれと言って不自由をした覚えが無い。無愛想でも必要なものは無いかと細々した事を聞いてきてくれた赤い目をした男性と、雰囲気は厳しいが美しく気高く、退屈していたエリオットの話し相手になってくれた女性のお陰で、エリオットは怖い思いをした覚えが殆ど無いのだ。怖かったと言えば奴隷商人に売られた時くらいだろうか。
 ただそれはエリオットの置かれた状況だっただけで、ローラントの者達にしてみればナバールに攻め入られ、国王を殺害された事は怒りや恐怖を抱く以外は出来なかったに違いない。エリオットにとっても父親を殺されてしまった訳なので、怒りを覚えないと言えば嘘になる。操られていたとは言え、ローラントに攻め入る命を配下達に下したのは謝罪に来た男なのだ。
 エリオットは知らなかったのだが、ローラントは以前にもナバールに攻め入られた事があるらしく、父王が国を興す前の事であったので当時は王ではなく首領と言ったそうだが、リースやエリオットの祖母にあたる首領・ガルラを殺害されたらしい。その時もローラントは一度ナバールの手に落ちたのだと言う。その時のナバールの頭領は現在の頭領ではなく別の男であったそうだが、その男もある戦いの最中にローラント縁の者との対決の末に命を落としたそうだ。これはリースがエリオットに攫われた一連の事を話している時に、側で聞いていた乳母のアルマが話してくれた。だが、アルマは同時に言ったのだ。確かにナバールは二度もローラントに攻め入り、統治する者を二人も奪ったけれども、その憎しみだけを抱いてしまったら今度はローラントがナバールの様になってしまうのだと。アルマは基本的に沈黙を守る人であったから、リース達が生まれる以前の戦いの事について多くは語らなかったが、彼女自身は戦いの中に居たそうで、ナバールの内情というものも知っていた。
 そういう経緯があるものだから、エリオットは謝罪に来たナバールの頭領に対し、これといって罵声を浴びせようとも厳しく責めようとも思わなかった。確かに国王以下多くの城の兵士、城下町の住民の命を奪ったり危険に晒したりした責任は重いだろう。操られていたなど何の言い訳にもなるまい。頭領もそう思ったからこそローラントまで来たのだ。その道中、危険があると分かっていても、彼はリースやエリオットに頭を下げる為に最小限の連れしか伴わなかった。その事にエリオットは素直に感嘆したものだ。もっとも、エリオットがそれ程幼いという理由もあるだろうけれども。
 エリオットに言われるままに顔を上げたナバールの頭領は、砂漠の盗賊団の頭領というだけあって、肌も浅黒くがっしりとした体付きをしていた。精悍な顔立ちをしているものの、体に似合わず少し頬が細い気がする。恐らく痩せたのだろう。自国の建て直しに加えてこのローラントへの謝罪などの手筈を主導せねばならない日が続いただろうから、それは痩せるというものだ。 エリオットは頭領に会った事は無かったのだが、そう思った。まだ子供とは言え、将来ローラントの王となる者なのだから、いつまでも子供じみてらいられるまい。図らずもこの頭領との対面は、エリオットにとって初めての外交となっていた。
 顔を上げて貰ったは良いものの、何と言って良いのか分からなかったエリオットは、取り敢えず挨拶を、と思ってちょっとだけ笑った。
「ようこそいらっしゃいました。僕はローラントの第一王子、エリオットと言います」
 だがその言葉が意外であったのだろう、頭領は目を丸くしてエリオットを見上げた。おかしい事でも言っただろうかと控えていたライザ達をちらと見ると、彼女達も呆気にとられた様な顔をしている。
「――申し遅れました、わし……いや、私はナバールの頭領、フレイムカーンと申します」
 顔は上げたものの、まだ跪いたまま名乗った頭領―フレイムカーンは、気を取り直したのか、表情を戻していた。 その目は真っ直ぐにエリオットを見詰めている。検分されている様だ、とエリオットは思った。
 エリオットも初対面の人間は、まず観察してしまう癖がある。どんな性格か、どんな声音か、内心はどう考えているのか、そんな事を考える。リースにそういう癖がある様で、自然と同じ事をしてしまう様になってしまった。多分、フレイムカーンはエリオットの肚の内を少しでも暴こうとしているのだ。そんな事をしなくてもこちらは正真正銘の子供なのだけどなあ、とエリオットは内心苦笑してしまった。
「どうされました、何か不思議な事でもありましたか」
 だからわざとらしく子供っぽい声でエリオットがそう聞くと、フレイムカーンははっとした様な顔で慌ててまた頭を下げた。
「あ、いえ……ようこそなどと、歓迎される言葉を頂けるとは思っておりませんでしたので」
「……なるほど」
 重ねて言うが、ローラントはナバールに攻め込まれた国だ。そのローラントがナバールの者を歓迎する訳が無い。それなのに、次期国王の身であるエリオットからようこそなどと言われたら、それは身構えてしまうというものだ。配慮が足らなかったか、とエリオットは思った。
 だがやはり、エリオットは目の前で跪いている、父親よりも年上の男を、憎めないと思った。ローラントが今置かれている状況の原因はあの美しい女性であり、操られていた目の前の頭領であると分かっていても尚、憎めないと思っていた。美獣に同情してしまうのは将来国王となるべき身の者にとってみれば許されざる事であるし、手放しにフレイムカーンを責めずに返すというのも同様の事の様に思われる。だが命を以て償いを、などとはエリオットは勿論リースも思っていない。これは、一つの駆け引きなのだ。二度も国の主たる者を奪ったナバールに対しての、大きな切り札となる。
「……少し、二人で風に当たりませんか。どうも空気が重苦しくて!」
 そしてエリオットが年相応の表情で肩を竦めてそう言うと、またフレイムカーンはぽかんとした様な顔をして、ライザ達は慌てた様な顔をした。エリオットは確かに今、二人でと言った。それはローラントの者もナバールの者も、誰一人として供する事を許可しないという事を同時に表している。何かを言おうと口を開きかけたライザを制する様に、エリオットは彼女を見て笑うと、他の者達の反対を封じた。ライザ達は、飽くまでエリオットに仕える者なのだ。
 そうしてエリオットは、あちらに綺麗な景色が見える所があると無邪気に笑いながらフレイムカーンと共に玉座を後にした。その後姿を、ライザ達は勿論、フレイムカーンに同行してきたナバールの者達も不安げに見送った。



「ほう……」
 エリオットに促されるまま足を運んだフレイムカーンは、足を止めて見下ろした景色に思わず嘆息を漏らした。エリオットが自信満々に案内するものだからどんな光景かと思っていたのだが、成る程これは確かにその自信にも頷ける。
 彼らが足を運んだのは、海が見える絶壁とも言える場所だった。潮風は緩やかに、だがしっかりとした形で擦り抜けてゆく。こんな平穏な空気を切り裂いてしまったのが己が率いる盗賊団であったという事実が自分の肩に重く圧し掛かっていくのを、フレイムカーンは嫌でも感じていた。
「ね、綺麗でしょう。僕、良くここから海を眺めていたんですよ」
 にこにこと笑うエリオットは、まるで裏がある様には見受けられず、そこで漸くフレイムカーンは緊張を軽くしてくれた様で、穏やかな表情を見せてくれた。その事に、エリオットも素直に満足する。
「おねえ……あ、いや、姉上に叱られた時とか、父上に叱られた時とか、いつもここに来てじっと眺めてました」
 未だに気をつけていないとリースの事をお姉様と人前でも言ってしまうエリオットは、慌てて言い直してから苦笑する。姉にも父親にも、ちょくちょく叱られては城を飛び出し、ここから海を見ていたものだ。何気なくそう言ったエリオットは、隣のフレイムカーンが何やら気まずそうな顔をしたのに気付き、首を傾げる。何かまた変な事を言ってしまっただろうかと思ってしまった。
「……そのお父上を奪ってしまったのは私ですからな。
 叱って貰う事も、褒めて貰う事も、王子は出来なくなってしまったと……そう思うと、辛いのです」
「あ……」
 言われるまで自分の失言に気付けなかったエリオットは、そこから何も言えなくなってしまった。別に責めるつもりで言った訳ではなかったのに、フレイムカーンはそう受け取ってしまったらしい。
 聞いた話であるが、フレイムカーンも息子を亡くしたのだと言う。それも美獣によってだ。先の彼の発言は、裏返せばエリオットの事だけではなくて、彼自身の事も指しているのではないだろうか。彼はもう、息子を褒める事も叱る事も出来ないのだ。
「そう……ですね…。確かに、そうなんですが……
 ……うん、そうだ。じゃあ、こうしましょう」
「?」
「貴方が僕を褒めてくれれば良いんです」
「………?」
 エリオットは、フレイムカーンとの間に大きな溝の様な、そう、狭間があると感じていた。それは初対面だからだとか、侵略した国であるからだとか、そういった具合のものとはまた別の、奇妙な狭間があると感じていた。それはフレイムカーンが意図して作り出したものであるというのは想像に難くない。万が一にでもエリオットに心を許して貰ってしまっては、亡くなった国王以下多くのローラントの者達に申し訳が無いと思っているからなのだろう。
けれども、エリオットはその狭間を少しずつでも埋めていこうとしている。しかも、純粋な気持ちで。侵略者であったとしても、ならず者達を心酔させて纏め上げてしまう程の器の持ち主であるという事を、エリオットは理解していた。
「僕が上手い事外交をやってのけたら、褒めて下さい。そしてそれはどうかと思った時は叱って下さい。
 それで構いませんから」
「……いや、それは……私の役目では、ないかと……」
「息子さんを叱ったり褒めたりする様に、僕を叱ったり褒めたりして下さい」
「………」
 有無を言わせぬ程の強い力を持つエリオットの言葉に、フレイムカーンは何も言えなくなって沈黙してしまう。子供である事には変わりないのだが、否と言えぬ雰囲気を作り出すその微笑みに、フレイムカーンは思わず奇妙な顔をしてしまった。息子がこの少年と同じ年の頃に、果たして同じ様な雰囲気を持っていただろうか。そう考えて、すぐにその問いを打ち消す。エリオットはエリオットであり、イーグルはイーグルだ。同じでは、決して有り得ない。
「確かに、貴方はローラントの多くを奪ったナバールの頭領ですが……同時に、息子を喪った親でもある筈です。
 父親を亡くした僕と、何だか似ていますね」
「………」
「少しでも仲良くなれませんか。国交云々は後から考えるとして」
「……その考えは、甘いと叱った方が?」
「ふふ、もう叱られちゃったや」
 ぺろりと舌を出して笑ったエリオットに、今度こそフレイムカーンも苦笑した。どうもこの子供の相手をする事が、一番の罰になるらしい。ゆっくりと了承の意を示す様に一度だけ頷いたフレイムカーンを見ながら、エリオットはお互いの間に横たわっていた深い狭間が段々と浅くなっていく手応えを感じ、嬉しそうに笑って握手を求めた。フレイムカーンも、それを拒否する事は無かった。