それはまるで、そよ風の様に

 ケヴィンが聖都を訪れに来るらしい。その事を光の司祭から聞いたヒースとシャルロットは顔を見合わせてから満面の笑みを見せ、相手は自分達がすると申し出た。ケヴィンは一応ビーストキングダムの王太子だ、失礼があってはならない……というのは建前で、単に二人、特にシャルロットはケヴィンと遊びたかったのだ。
 世界を揺るがせたマナの戦い(と彼らは銘打っている)が終結した今では、ケヴィンはそう容易く国の外に出る事が出来ない。それはシャルロットも同様であった為、共に旅をした当時の様にいつでも会えるという訳ではなく、それ故にシャルロットは少し寂しかったのだ。ヒースもケヴィンに面と向かって話す機会が今まで余り無かったので、その知らせは二人にとって嬉しいものだった。
「ねぇねぇヒース、ケヴィンしゃんは何しにくるんでちか?」
「えっとね……
 ……『愚息は世界を旅したとはいえ、まだ世間知らずで礼儀作法も十分ではないので、良ければ躾を頼みたい』……だって」
 ヒースに宛てられた手紙は断りを受けて先に光の司祭が読んだのだが、その手紙の内容は実に簡素で短かった。一応の礼を尽して書いているとは言え、差出人の性格が良く分かる様な内容にヒースは勿論光の司祭も苦笑したらしい。ヒースに頼んだという事は、自分ではそういった事は教えられないと思ったのだろう。
「……ぐそくって、なーに?」
 そしてシャルロットが尋ねてきた事は多少予測出来ていたので、ヒースは小さく笑った。シャルロットはまだそういう言葉を使う事に慣れていないのだ。
「私の息子、って意味だよ」
「ふーん……じゅーじんおーのおっちゃんはケヴィンしゃんとちがってむずかしいことばをつかいまちね!」
「う……うーん……」
 シャルロットにとって難しい言葉だね、という台詞を何とか飲み下したヒースは曖昧に笑って頷くしかなかった。



「ケヴィンしゃん! 久しぶりでち〜」
「シャルロット、ヒースさんも」
 神殿に到着した時に出迎えてくれたシャルロットとヒースに笑顔を見せたケヴィンは、駆け寄って来たシャルロットをひょいと抱えた。何度か見たが、ヒースはこんな風にシャルロットを軽々と抱える事は出来ないので、素直に感心してしまう。
「シャルロット、少し大きくなった」
「ほえ? ほんとでちか?」
「うん、前よりちょっと重い」
「おもっ……お、おとめに向かってしつれいでちよケヴィンしゃん!」
「え、あ、う??」
 ケヴィンの言葉にシャルロットは思わず声を荒げたのだが、ケヴィンは何故怒られたのか分からないのか、目を丸くする。素直な感想を述べただけなのに何故怒られるのか分からないらしい。ヒースは苦笑しながらシャルロットを宥めた。
「ほらほらシャルロット、乙女はそんな大声を出さないよ。お客様にちゃんとご挨拶しなきゃ」
 ヒースのその言葉にシャルロットもはたとして頬を赤らめた。体が小さいと言っても年齢はケヴィンと一緒なのだ、大声を出した事に対する恥じらいくらいは感じるのだろう。そしてケヴィンに抱えられたまま、ぺこんと頭を下げた。
「よーこそ、聖都ウェンデルへ! おきゃくさまのごらいほう、心よりかんげいいたします!」
 口調をそろそろ改める様にと言われてはいるが一朝一夕で直るものではなく、それ故にシャルロットは余程気を付けていないと普通の口調で喋れない。ケヴィンはそれでもシャルロットがでち口調で歓迎の言葉を言わなかったのが意外だったのか、目を丸くした。その事にシャルロットは随分と満足そうな顔をして笑った。
「じゃあケヴィン君、最初にお部屋に案内するよ」
 二人を微笑ましく見ていたヒースは頃合いを見計らい、ケヴィンに神殿の中に入る様に促した。ケヴィンもそれに従ってシャルロットを下ろすと、彼女の歩調に合わせて歩き出したヒースと同じくらいの歩調で歩き出す。
 初めて会った時は敵同士だったが、戦いが終わってヒースが蘇ったという事をシャルロットから聞いたケヴィンは手放しに喜び、シャルロットとヒースにたどたどしい手紙を送った。シャルロットの大事な人ならオイラにとっても大事な人と書かれたその手紙に、ヒースは胸が熱くなった事を覚えている。悪い事は悪くても、良い側面だってあるのだから、そこばかりを責めてはいけないとケヴィンもシャルロットも言ってくれ、だからヒースは罪悪感が渦巻いていた心が少し晴れやかになった気がしたのだ。
 良い子達だな、とヒースは思う。二人共ヒースと戦った事に対する複雑な想いはある様であったが、それでもシャルロットは以前と殆ど変わらず接してくれたし、ケヴィンは自然体でヒースに接してくれる。それが有難いとヒースは思っていた。
 ヒースは先の戦いで、操られていたとは言え世界を死の沈黙で満たそうとした側に居た。だがそれと同時に光の司祭を不治の病から救った者でもある。それは一部の者しか知らないのだが、知っている者達の中にはヒースを快く思っていない者も確かに居て、光の司祭を救った者という側面しか表沙汰にされない事を良い気分で見ていないらしい。ヒースはそんな者達の視線や陰口に耐えねばならなかった。落ち込む事もあったのだが、それを照らしてくれたのがシャルロットの笑顔であり、ケヴィンの手紙だった。だからヒースはいつでも二人に感謝している。
「ケヴィンしゃんのおへや、シャルのおへやのすぐちかくでち!」
「へー。じゃあオイラ、またシャルロット起こしに行かないといけないか?」
「いまはもうねぼうなんてしないでち! ちゃーんとおきられまちよ」
 旅をしていた当時、寝坊しがちだったシャルロットを起こしていたのは専らケヴィンで、デュランからよく呆れられていたものだった。お前もケヴィンと同い年なんだから、朝くらいちゃんと自分で起きられる様になれと言われたのだが、シャルロットとしては起こしてくれる人が居るという事が何だかとても贅沢な様な気がしていた。それ以前はヒースが起こしてくれていたのだが、ヒースが居なくなってからは一人で起きねばならなかった。それがどうしようもなく心細くて、ずっと眠っていたかったというのもある。だから初めてケヴィンが起こしてくれた時は嬉しかったのだ。
 ヒースはシャルロットのそういう思いを分かっているから、二人の遣り取りを微笑ましく見ている。女神となったフェアリーが選んだ者、そしてその者を探し出し仲間になった者、それは恐らく偶然ではあるまい。否、偶然という名の必然であったのかも知れない。ならば己が闇に堕ちたのもあるいは、と、そんな考えがヒースの頭を過ぎり、ヒースは二人に気付かれない様にふるりと頭を振った。
 ヒースを闇に堕としたのは、紛れも無くヒースの父親だ。禁術を読み解いてしまったばかりに聖都を追われ、行方を眩ませたのは、ヒースがまだ幼かった頃の事だ。だから妖魔に攫われ姿を変えた父と対面した時、ヒースは父への憧憬に勝てずにその手を取ってしまった。別にシャルロットや光の司祭と天秤にかけた訳では無く、ある種通り魔の様な感情だったのかも知れない。
「……さん、ヒースさんってば」
「え? ……あぁ、ごめんね、何?」
 ぼんやりとそんな事を考えていたヒースの意識を戻したのは、不思議そうなケヴィンの声だった。シャルロットも首を傾げてヒースを見上げている。どうも考え事をしていて注意が疎かになっていた様だ。
「どうしたの? 疲れてる?」
「ヒース、はたらきすぎでちからねえ…」
 心配してくれているらしい二人にヒースは苦笑し、大丈夫だよ、と言う。シャルロットの言う通りヒースは少し働きすぎであったのだが、本人にとってみればこれくらいは大丈夫だと思ってしまうらしい。それはヒースの悪い癖だった。気付かない内に疲労を溜めすぎて倒れてしまう事だってあったので、シャルロットはそれを心配している。
 不安そうな四つの瞳に、もう一度大丈夫と言おうとしたその時、中庭の向こうから誰かの話し声が聞こえ、耳の良いケヴィンが真っ先にそれに反応した。釣られてシャルロットとヒースも耳を澄ましてしまったのだが、その会話の内容にヒースは顔を暗くした。
「……しかし、司祭様もどういうおつもりなのか。罪人の息子だと言うのに」
「どうもこうも……友人の息子だからではないか?」
「だからその友人が、ご本人が追放した罪人だろう?」
 どうもその会話の中心は自分にあるらしい。本当にこういった者達は稀にしか居らず、ヒースを慕ってくれる者の方が多いのでそこまで気落ちはしないのだが、ヒースにしてみれば心が痛くなる事でもあった。ヒースの父親は聖都にとってみれば後ろめたい事であり、そして最大の禁忌でもある。司祭を務めた人間が禁術に手を出し、そしてその罪により聖都を追われた。のみならず、世界からマナを消し去ろうとした者でもある。その事を他に悟られまいと、聖都はひた隠しにしているのだ。混乱を避けるという目的も一応はあるのだが。
「何故司祭様も庇おうとなさるのだろうな。禁術を紐解いた者などを」
「同感だ」
 呆れた様に話している者達の会話をそれ以上二人には聞かせたくなかったので、ヒースは小声で行こう、と言おうとしたのだが、その前にケヴィンとシャルロットは申し合わせた様に声の方に走り出した。慌ててヒースが追って止めようとしたのだが、間に合わなかった。
「それ以上、何か言うの、やめろっ!」
「そうでち!やめるでちっ!」
「?!」
 まさか会話を聞かれているとは思ってなかったのだろう男達は驚いた様にケヴィン達を振り向き、そしてその後ろから走ってきたヒースの姿にまた驚いた様な表情を見せた。ヒースに面と向かってそういった事を言ってこないだけに、陰口というのはこんな風に叩かれているものなのだなとどこか冷えた考えがヒースの頭を掠める。男達は何か言い訳をしようとしていたが、それもケヴィンとシャルロットによって遮られた。
「人を助けようとした人、悪く言うの、女神様だってきっと怒る!」
「あんたしゃんたちだって、それでしかだいじな人がたすけられないなら、きっとおんなじことするはずでち!
 それに、きっとヒースのぱぱだってなりたくてあんなんになったわけじゃないっ!」
 ケヴィンもシャルロットもまだ子供とは言え、世界を旅して多くの事を学んだ。その学びは目に見える成長だけではなく、寧ろ見えない成長も大きく促した。恐らく旅を始めた当時の二人ならば敵は純粋に悪だと思っていたに違いない。だが本当はそうではないと理解出来る程、成長したのだ。
 ケヴィンもシャルロットも、今では機会があればヒースに彼の父親の事を尋ねる事がある。自分達が倒したとは言っても、ケヴィンもシャルロットも殆どと言って良い程その人の事を知らなかったからだ。それは失礼にあたると思ったのだろう。だからヒースも覚えている限りの父親の思い出をぽつぽつと話した事があった。二人はその話を聞いて、ヒースに言ったのだ。ヒースの大事な人なら、自分達にとっても大事な人なのだと。
「……ケヴィン君、シャロットも、もう良いから……」
「良くないっ!」
「よくないでちっ!」
 止めに入ろうとしたヒースの言葉に、しかし二人は勢い良く振り返って拒否した。二人共優しい反面、本気で怒ったら怖いのだ。何とかして二人を宥めようとしたその時、不意に柔らかな風が擦り抜け、思わずヒースはその風が吹き抜けた方角を見た。ケヴィンとシャルロットも風が頭を撫でた様な気がして、ヒースと同じ方向を見遣る。だがそこには何も無く、静かな風が微かに木の葉を揺らしているだけだった。
「………!」
 しかしヒースは何かに気付いたのか、弾かれた様にその場から駆け出した。風が擦り抜けて行った方へ、全速力で駆け出したのだ。
「えっ? ひ、ヒースさん、どうしたの?!」
「ヒースっ?! まってー!!」
 何が何やら分からない2人はヒースを追いかける形で走り出し、そして取り残された男達はほっとした様な、罪悪感に駆られる様な、そんな複雑な表情を浮かべた。
 ヒースが走り出す前に、何か一言口走ったのをケヴィンは見逃さなかった。ケヴィンは耳も良いし目も良い。だからヒースが呟いた言葉を間違える筈も無かった。
 ヒースは確かに、「お父さん」と言った。自分達を撫でた風が消えた方を見て、間違いなくそう言ったのだ。そして、今もそう叫びながら走っている。勿論声に出して叫んでいる訳では無く、心で叫びながら、だ。

 お父さんお父さんお父さん、待って、行かないで

 その声にならない叫びをあげながらヒースが辿り着いたその先は行き止まりになっていた。肩で息をしながら見上げたその場所は、見覚えがあった。
「ひ、ヒース、まって〜」
 走る速さについていけなかったのか、ケヴィンの背に負われたシャルロットが慌てた様にヒースを呼ぶ。だがヒースはシャルロットのその呼び掛けに応じる事が出来なかった。必死に何かを探している。
「ヒースさん、何探してるの?」
 それに気付いたケヴィンが尋ねると、ヒースは蔦を一生懸命掻き分けながら答えた。
「扉、」
「扉?」
「入り口がある筈なんだ」
 シャルロットにもケヴィンにも単なる壁にしか見えなかったのだが、どうもここには扉があるらしく、ヒースはそれを探している様なので、ケヴィンはシャルロットを下ろすと一緒に探し始め、それに倣ってシャルロットも扉を探した。
「ここ、何かあるの?」
 蔦を分けながら手探りで扉を探すケヴィンがヒースに聞くと、ヒースは少しだけ手を止めた。その時の顔があまりにも泣きそうで、ケヴィンは思わず息を飲み込んだ。そんな表情のヒースを見たのは、初めてだった。
「……庭園」
「テイエン?」
「……薬草とか、栽培してた筈なんだ」
 ヒースは、誰が、とは言わなかった。だがケヴィンも、勿論シャルロットにも、それが誰を指しているのかは分かっていた。止めた手をまた動かし始めて蔦を掻き分け、三人は必死に扉を探す。蔦や壁で指が傷付きそうだったが、誰も止めようとはしなかった。そして、シャルロットの手がある場所で漸く止まる。
「ねえねえ、ここじゃないでちか?」
 声を掛けられた二人はシャルロットが探し当てた場所で、蔦を掻き分ける。すると、確かにそこには扉があった。古びた取っ手は錆付き、蔦がその取っ手を覆っていたので見つけ難かったのだろう。ヒースは取っ手を回そうとしたのだが、開かなかったので、代わりにケヴィンが回してみたのだがやはり開かなかった。
「鍵が掛かってるみたいだ……」
「かぎでちか……こんなときにあのむらさきいろのかみのけのおにーさんがいたらいいのに」
 ぽつりとヒースが呟くと、シャルロットが旅の途中で出会った元盗賊の少年を思い出し、そんな事を言った。だが今居ない人間の事を言っても仕方ない。どうするか、とヒースが考えていると、ケヴィンがはたと思い出した様に腰につけている道具入れの中から何かを取り出した。
「ヒースさん、これ」
「え? ……これ、は……?」
 ケヴィンの掌の上に乗っているのは、古びた鍵だった。年季が入った様に見えるその鍵は、このシチュエーションならこの扉を開けるのに相応しい様な気がする。ヒースが不思議そうにケヴィンを見ると、ケヴィンはちょっと困った様な顔をした。
「これ……聖域で拾ったんだ」
「………」
「その……倒した後、に」
「………!」
 ケヴィンもまた、誰を、とは言わなかった。ヒースも、ケヴィンが誰を指しているのかは分かっていた。その話を繋ぎ合わせると、この鍵を持っていた人も自ずと分かってくる。ヒースは微かに震える手でその鍵を受け取り、ゆっくりと扉に向かった。
 鍵は、少し滑りは悪かったのだが、それでもするすると鍵穴に入っていった。高鳴る心臓を抑えながらヒースは鍵を回す。途中で錆の為か動かなくなりそうな所があったが、それでもがちりという音を立てて、鍵が開いた。その音を聞いた時、三人は思わず顔を見合わせてしまった。
 そしてヒースは、ゆっくりと取っ手を回して重々しい扉を開ける。錆びた音を立てながら扉を開けたその向こうには、まるでそこだけ時間が止まっているかの様に静かな庭園があった。草花が確かにそこにあるのに、風も吹かず、命の息吹が全く感じられない。その奇妙さに眉を顰めたケヴィンが恐る恐る足を踏み入れてみたのだが、しんと静まり返った冷ややかな空気が体に張り付いた様な気がした。戸惑いを隠せない表情でヒース達を振り返ってみたのだが、二人も奇妙さに戸惑っている様であったのだが、やがてヒースが意を決して扉をくぐり抜けた、その時だった。
「………!」
 ヒースが足を踏み入れた瞬間、その時を待っていたかの様に庭園の空気が動き始め、風が草花に囁きかける様に擦り抜ける音がそこら中に響き始めた。庭に張り巡らされた水路の水も流れ始め、中心にある噴水も水を湛え始めた。まるでヒース自身が鍵であったかの様に、庭園の時が動き始めたのだ。三人は暫く呆然としていたのだが、シャルロットが何かを見付けた様で、噴水の方に歩き出した。
「ねぇヒース、あそこ、つくえがあるでち」
「机?」
 シャルロットが指差した方には、確かに小さな小屋の様な構えの屋根の下に、机があった。雨が降っても風が吹き込まない様な造りで建っているその小屋は、何かの作業をする為のものの様だ。
「……あ、」
 そしてヒースは思い出した。そこは父が薬草の調合をしたりする作業に使っていた所だ。幼いヒースはこの庭園に足を踏み入れた事が余り無く、記憶が曖昧だった為に直ぐに思い出せなかったのだろう。
 震える足を何とか誤魔化しながら小屋に近付いたヒースは、やがて小屋の中に様々なものが置かれている事に気が付いた。机の上には薬草を擦り潰す為の擦り鉢であったり秤であったり、様々な器具が整理されて置かれてある。そしてうず高く積まれた書籍は、背表紙に書かれてある題名で薬草や病気の事などが纏められたものだと分かる。父は家に仕事を決して持ち込まない人であったから、神殿内の自室やここで色々な事をしていたのだろう。
 そしてその書籍の隣には、ぼろぼろになったノートが何冊も積まれてあった。ノートの表紙を見てみると、見覚えのある字で使用頻度が高い薬や回復道具に使う為の薬草の配合をまとめたものだと書かれてある。ヒースは父が書いた文をあまり見た事が無かったのだが、間違い無くこれは父の字だと思った。習字の手本になりそうに綺麗なのだが、少し癖があるその字をヒースは凄く好んでいた。一度だけ、ここで父が何かを書いているのを連れてきて貰ったヒースはじっと見ていた。何書いてるの、と聞くと、父は笑ってヒースも大好きなまんまるドロップに使う薬草の配合だよ、と教えてくれた事を覚えている。地方の者には中々手に入らない薬草でも、別の薬草で作れるならそれに越した事は無いと、父は同じ効用を期待出来る薬草の調合を研究していたらしかった。
 くたびれたノートを一冊持って、ぺらぺらと捲ると、規則正しい行間で丁寧に調合の仕方や配合を図入りで書いているかと思えば、その端に走り書きの様な少し乱れた字が散らばっている。量を少し減らせば飲みやすいとか、これに別の薬草を入れたら違う薬が出来るとか、この間飲ませた子は苦くて飲めないと泣いていたから改良の余地ありとか、そんな事が書かれてあった。ヒースは思わず苦笑してしまったのだが、ふとある走り書きに目が止まった。その走り書きには、ヒースも我慢して飲んでいたので、多分子供には苦すぎる、とある。幼い頃に高熱を出した時に飲ませてくれた煎じ薬の事だろうとヒースは思った。
「……っと、」
 次のページを捲った時、何かが挟まっていたのかひらりと落ちたので、慌てて拾おうとしてしゃがんだヒースは、伸ばした手を止め、目を見開いた。青い便箋に何か一行書かれてあったのだが、ヒースの隣にいたケヴィンにはそれが見えなかった。しかし動きを止めたヒースが両膝を付き、両手で顔を覆ったので、ケヴィンのみならずシャルロットも驚いて膝をついた。
「ど、どうしたんでちかヒース」
「ヒースさん、どうしたの?」
 顔を覆って泣き始めたヒースを、何が原因なのか分からない二人はおろおろしてしまったのだが、目線をノートから落ちた青い紙にやったケヴィンはヒースと同じ様に息を止めた。


『お前の役に立てなさい』


 鮮やかな青い便箋に、黒いインクでたった一行。宛名も差出人も無い手紙には、綺麗な字でそう書かれていた。
 ヒースの父は、ウェンデルでも屈指の魔力の持ち主であったと同時に、マナの力に頼らない病気の治療法の研究者だった。彼が追放された時、その知識が失われた事は聖都にとっても大きな痛手だった。恐らく彼も自分の持つ知識を途絶えさせるのは忍びないと思ったのではないだろうか。そして聖都を追われる直前に、この庭園に自分の持ちうる全ての知識を残したのだろう。誰でもない、ヒースに宛てて。
 朝早くから夜遅くまで、仕事に追われて忙しかったその人は、しかしヒースの前ではただの優しい父親だった。くたびれていた筈なのに、家に帰ってくるとそんな素振りを全く見せずに、出迎えてくれたヒースを笑顔で抱き上げてくれた。たまの休日には必ずヒースの相手をしてくれた。ヒースはそんな父が大好きだった。ヒースはその時、心の底から父が恋しいと思った。
 ケヴィンはその便箋を壊れ物を扱うかの様に丁寧に拾い上げ、机の上に置いた。どうしよう、とシャルロットを見ると、シャルロットもぽろぽろと涙を澪して泣いていた。シャルロットもヒースの父親の事をヒースによく聞いていたものだから、便箋に書かれた言葉に泣いたのだろう。そして、小さな体でぎゅっとヒースを抱き締めた。その悲しみを分け合える様に、抱き締めた。
 ケヴィンは思う。彼の人に最期の一撃を繰り出したあの時、その人の目はそれまでとは打って変わってひどく穏やかだった。それはきっと、彼が望んだ事だったのだろうと。きっと彼は世界を死の静寂で包む事など心から望んだ訳ではなく、寧ろ世界が何らかの形で手を取り合えれば良いと思っていたのだろうと。まだ若くして光の司祭と並び称される程だったその人は、自分を犠牲にしてでも他を優先する癖があった、とケヴィンは旅から帰った後に父王から聞いた。ケヴィンはその時初めて、自分の父とヒースの父がかつての戦友であった事を知ったのだ。自分が彼の暴走を止める事が出来て良かったと、ケヴィンはその時思った。
 小さく震えるヒースの背中を、ケヴィンはシャルロットと同じ様に抱き締める。ヒースの体から澪れる悲しみが少しでも薄まれば良い、そう願って。そしてケヴィンは、周りでそよいだ風の中に、良い子だね、という少し低くて優しい声を聞いた気がした。