その色の、理由を

「あの、獣人王様」
 茶会も終わり、あてがわれた部屋へと戻ろうとしていた彼の背に、アルマは声をかけた。昔よりも大きくなった様に感じる彼の背はしかし、マントで覆われて見えないと言っても思ったよりは大きくない。この世界で怒らせたら怖い人物の上位には間違いなく入るだろうが、そんな彼の背は本当に思う程大きくはなかったのだ。
「……何だ」
 アルマに呼び止められる用事など彼は思いつかなかったのだろう、短く尋ねられたので、アルマは少し困った様に笑うと彼に近付き、足元で膝を付いて彼を見上げる。不思議そうに見下ろす目は相変わらず三白眼だったが、アルマは怖いとは思わない。
「ちょっと失礼しますね。……裾、綻んでますよ」
 アルマは彼のマントの裾を手に取り、持ち上げて、綻んでいる箇所を彼に見せながらそう言った。彼は着ているものに頓着しないので、こうやって綻んでいてもそのまま放っておく癖があったのだが、今もそれは変わらない様だ。少しは気にした方が良いのに、とアルマは昔から思っていたので、彼が覚えているであろう台詞を言ってみると、彼は何かを考える様な表情を見せてから口を開いた。
「……綻んでても別に死にはせん」
 彼のその言葉に、アルマは思わず苦笑が漏れる。あの時もそう言って、何事も無かったかの様に立ち去ろうとしていたものだから、アルマはそれを止めたのだ。
 あの当時もそうだったが、彼は曲がりなりにも一国の王なのだから、身なりはきちんとしていた方が良い。そう思ったアルマは、部屋に置いていたポーチを先程取りに戻り、彼を呼び止めたのだ。
「繕いますよ。じっとしていて下さいね」
 アルマはそう言うと、膝を付いたまま綻んだ箇所を繕い始めた。アルマは現役でアマゾネスだった頃から裁縫を得意としていたし、ミネルバが子供を生んでからは王女や王子の乳母をしていたものだから、ほんの少しの綻び程度ならその場で繕ってしまう。子供相手ならば動いて大変だったが、彼は流石にじっとしていてくれと言えば素直にそれを聞いてくれるから楽だ。
「……おい」
 暫く無言で繕っていると、不意に彼から呼ばれたので顔を上げると、彼は妙な顔をしたまま何と言うべきか考える様な仕草を見せたのだが、やがてがしがしと頭を掻きながら言った。
「……別に俺に敬語使わなくても良い」
 彼は今では一人称をわしと言う様であったのだが、アルマ達の様に昔からの馴染みには、昔と変わらない一人称を使っている様だ。その事についてはアルマも純粋に嬉しく思っている。言葉や態度で示す事が滅多に無い彼にしてみれば、それが意識的であれ無意識的であれアルマ達を受け入れてくれている証拠となる。
 そんな事を思ったアルマはくすっと笑って、肩を竦めて見せた。
「けれど、貴方はビーストキングダムの王ですし、私はローラントの遣いです。馴々しく話せば叱られるどころの騒ぎではありません」
「今更だ。それに王位は息子に譲った、俺はもう王じゃなくて単なるガウザーだ」
 頑なにアルマの敬語の使用を拒否しようとする彼は、こうと決めたら譲らない所があって、アルマもそれを知っている。ローラントにも訪れた事のある彼の息子を思い出しながら、アルマは苦笑して頷いた。
「じゃあ遠慮なく砕けさせて貰うよ。相変わらずだね」
「……あんたもな」
 アルマは茶会の席でもヴァルダやリチャードに対して敬語を使っていた。その事について二人は何も言わなかったのだが、恐らく彼と同様に畏まらなくても良いと思っていたのだろう。しかし彼女の立場を考えれば、そう易々と砕けた言葉遣いが出来ない事を分かっていたから、何も言わなかったのではないだろうか。王位を譲った彼だからこそこんな事が言えるのだ。
「ご子息の…。ケヴィン君だっけ? まだあんなに若いのに、もう王位を譲ったなんてね」
「任せられると思ったから任せた。何か問題でもあるか?」
「そんなの私には分からないよ、だって殆ど話した事なんてないんだから」
 一針一針しっかりと縫い付けながら、他愛無い話を楽しむ様にアルマは彼に話し掛ける。しっかりとした作りのマントなのに、今でも体を動かす事が多いのだろう、随分前から綻んでいる様なほつれ方をしていたのだが、所々補修をした様な跡が見える。彼が繕ったとは思えないが、彼が誰かに頼んで繕って貰ったというのもまた想像がつかない。自分の様に見兼ねた者が繕ったのだろうとアルマは勝手に解釈した。
「いつからなの?」
「何がだ」
「このマントの色。前はあんなに明るい色のマントだったのに」
 糸をしっかりと玉止めしてから切り、針を仕舞いながら何気なく聞くと、彼はちょっとだけ眉間に皺を寄せた。都合が悪い事を聞くとこういう表情を見せるというのを知ったのは今日になってからの事だが、こんな質問が都合が悪いとは思わなかったのでアルマは少しだけ驚いていた。
 茶会の席で、彼は妻の事を聞かれると決まってこんな顔をした。そして頑なに話す事を拒絶していたが、ヴァルダが後妻を迎えてないなんて、今でも愛していらっしゃるのねと戯れで言った時、一言だけ、愛なんて崇高なもんじゃない、俺は今でもあれに恋をしていると彼が真顔で言ったものだから、その場に居た彼を除く全員が赤面してしまった。まさか彼がそんな事を言うとは思わなかったから、不意を突かれた気がして、ヒースまで動揺したのか持っていたカップを落としそうになった程だ。勿論その後、彼が自己嫌悪に陥ったのは言うまでもない。多分笑って流して貰えると思っていたのだろう。残念ながらそんな事を言うとは思われていないひとであったから、全員流す事が出来なかった。
「……三十も過ぎて流石にあんな色のマントは羽織れんだろ」
 暫くの沈黙の後、彼が居心地が悪そうにまた頭を掻きながらそう言ったのを見て、恐らくそれは彼の妻となったひとがそう言ったのだろうとアルマは思った。確かに若かった当時に彼が羽織っていたマントは明るい橙色で、あれを三十路を越しても羽織っていたら落ち着きがない様な気がする。しかし彼はそういう事すら関心がなさそうに思えるから、妻が用意してくれたのだろう。
「でも、何で藍色なんだい? 白とかでも良さそうなのに」
「……目立つだろ、白は」
「あぁ……、夜は特に目立つね」
「一時期白にしてたが、あんまり目立つからやめた」
 見上げられるのがいい加減嫌になったのか、彼が手で立つように促したので、アルマも立ち上がって壁に背を預けた彼に向かい合う。心なし当時より背が高くなった様に思えるのは多分、彼の威厳からくるものだろう。ヴァルダやリチャードも若い頃に比べて随分と女王や王の貫禄がついていた。長い事統治する者を勤めていたら、自然とそうなるのだろう。ヒースも近々叙階すると聞いたし、そんな者達の茶会に自分なんかが混ざっていて良いのだろうかと思った程だ。
「そんなものなのかねぇ。別に敵なんて居ないだろうに……」
 いつでも夜である彼の国では、確かに白は目立つ。だが王であるなら別に目立っても良いのではないかとも同時に思う。特に彼の場合、勝手に行動してはどこに行ったのか分からなくなる事が多かったものだから、どちらかと言えば目立ってくれた方が部下達にしてみれば有難いと思われるのではないかと思うのだが。こんな深い藍色を羽織って闇夜の中に居ては、まるで葬式の様だ。
「………、」
 そこまで思ってアルマははたと一つの考えに至った。そう、彼のこのマントは喪服なのだ。三十を過ぎてもあの色は、と彼は言ったが、ケヴィンの年齢で逆算したら、彼の妻は彼が三十才を過ぎてから死んだ事になる。彼は、今でもずっと喪に服しているのだ。
「……これ、作って貰ったの?」
「……まあな」
「そう」
 恐らくこのマントは、彼の妻が亡くなる以前に作って貰ったものなのだ。誰でもない、彼の妻に。だから度々補修されているのだろうし、亡くなってからはあまり着けていないのだろう。多少くたびれた印象を受けるそのマントは、久しぶりに取り出されたものの様に感じていたし、漸く合点がいった。
 彼は断罪を受ける為、死ぬ為にこの聖都に来たのだ。死ぬ時にこれを羽織っていたかったのだろう。同じ色のマントは他にも持っていただろうに、最期の時を共にしようとしたのはそのマントだったのだ。
「……私があの時言った言葉、覚えてる?」
「……あの時?」
「マント繕った時」
「………」
 アルマは全ての罪は自分一人で背負うという彼の想いをリースから聞いていたが、それを聞いた時、昔彼に言った言葉は届いてなかったのだろうかと思った。彼はいつでも他人に寄り掛からない。それを潔しとせず、自分一人で背負い込む癖がある。当時から懸念していた事は、今でも心配しなければならないらしい。
「……甘えられる様な年じゃねぇよ」
「こんなのに年なんて関係あるもんか。確かに、しでかした事は許されないかも知れないけど……
 でも、そんな自殺まがいな事をしようとしてるのを私達が黙って見ているとでも思った?」
「………」
 アルマは、少しでも良いから仲間に甘えてみてくれと彼に言った事がある。それに対して彼は顔面蒼白になりながら、善処すると言った。彼にとって甘える事は未知の事であり、それは今でも変わらないのだろう。妻にも甘えた事がないのではないだろうか。
「それがおかしいなんて、私達は思わない。力になれる事なら言って欲しい。
 そりゃ、立場は全く違うかも知れないけど……でも、私は今でも仲間だと思ってる。
 仲間を庇う事に、何の不思議がある?」
「……変わらんな、あんた」
「貴方も変わらなさすぎなんだよ!」
 答えをはぐらかされた気がしてアルマはつい声を荒げてしまったのだが、彼は困った様に苦笑した。それが本当に不意を突いたものだから、アルマは勢いを削がれた様な形になり、何か言おうとしていた口を薄く開いたまま言葉を喉の奥に沈めてしまった。
 普段から無愛想な彼が笑みを見せるのは珍しい。笑ってもすぐに元の表情に戻してしまうから、アルマは彼の笑みを見た事が殆ど無いのだ。それなのに、そんな彼が目の前でそういう表情をしたものだから、胸で渦巻いていた怒りやら悲しみやらの感情がどこかへ消え失せてしまった。
「あんたらを忘れていた訳じゃない。だが、これは俺が背負うべき業だと思ったから頼らなかった。
 逆を言えば、あんたらが頼れると思ったからさっさと譲位した。
 ……問題、あるか?」
「………」
「何かあれば必ずお前を助けてくれる者が居る筈だと、俺は息子に言っている。
 ……それでも甘えている事にはならんのか」
 ならんのかと言われても、アルマは彼が息子にそんな事を言ったなど知る筈が無いから、彼が自分達を頼ってくれた事は分からない。甘え方を知らない子供がどうして良いのか分からずに、とった行動をおずおずと他人に尋ねるかの様だ。
「……何でそう、分かりづらい甘え方するんだい」
「性格だ」
「ほんとにもう……呆れるね」
「それは悪かったな」
 アルマが心底呆れた様に、だが仕方なさそうに笑うと、彼は見せた事も無い様な柔和な笑みを見せた。案外、彼が笑う時は心を許した相手の前だけで、それは無意識の内に彼が甘えている証拠なのかも知れない。そんな風に彼を変えたのは、恐らく。
「……あれからも、同じ様な事を言われたな」
 独り言の様に呟いた彼は、懐かしいひとを見るかの様に着けているマントを見た。その目が愛しげに細められるのを、アルマは何処か満足した様な想いで静かに見ていた。