猛獣の飼い方10の基本・その9:あるていどのきけんをかくごしましょう

 薄闇の中、ロジェははっきりとしない視界の中を目を凝らしながら歩いている。完全なる闇の中を歩いている訳ではないので足元が覚束無いという事は無いのだが、それでも普段生活している世界に比べると暗い。
 ロジェが今居るこの場所は、太陽が昇らない森にある塔だ。所在が確認出来ている最後のマナストーン、月のマナストーンとその眷属である月の精霊ルナを探しに来ている。この森の住民であってもそうそう近付く事が無いとされる塔に侵入する前に、ロジェはいかに自分達人間がこの森の者達にとって忌み嫌われているのかを見せ付けられた。塔の守人であるこの国の過去の王の幻影はロジェ達の前に立ち塞がり、そして酷く憎々しげにロジェ達人間を睨みつけたのだ。否、ロジェ達だけではない、ロジェ達と共に居た現王である者に対してもその厳しい視線を投げた。人間と馴れ合うなど、過去の王達には考えられない事だったのだろう。

『ここにいるのは共に戦う我が仲間。人間と言えど、決して怪しい者では……』
『仲間……? 仲間だと? 獣人と人間とが、共に手を取り戦っておると申すか?
 仮にも、獣人王を名乗る者が? ガウザーとやら、お主、気は確かか?』

 あの時の幻影の忌々しそうな顔を、ロジェは忘れる事が出来ない。ひどく汚らわしいものを見るかの様なその目は、たとえ自分に向けられたものではないと分かっていても心臓を抉られた様な激しい痛みをロジェに与えた。あれが彼ら獣人の、自分達人間に対する憎悪の深さなのだと思い知らされた。それと同時に、何故現王である彼はあんな視線を自分達に向けないのかという疑問も抱いた。彼は最初からロジェ達に対して他の獣人兵や幻影が見せた様な憎しみの色を決して見せなかった。見せたとすれば、自国を侵した者達に対する怒りくらいなものだった。
 怒りを見せた幻影に対して彼が仕方なしに言った言葉は、約一名に大きな不快感を与えた様ではあったのだが、ロジェは別に何とも思わなかった。それが彼の本心ではないと分かっていたし、ああでも言わなければあの幻影は通してもくれなかっただろう。今は時間が惜しいのだから、彼も追い詰められてあんな事を言ったのだとロジェは知っている。
 彼は、ロジェ達を下僕と言い放ったのだ。確かにロジェとしてもその発言に対して内心複雑な苦笑が出てしまったが、幻影はそれを聞いてそうでなくてはならないと歪んだ笑みを湛えて言った。その言葉に、ロジェは苦笑が消え失せ一気に心臓が冷えてしまった。ロジェは彼ら獣人が過去どんな仕打ちを受けたのかは知らないが、少なくとも幻影があんな禍々しい笑みを見せる程の憎しみを抱かせる様な事をされていたというのは分かる。人間など獣人の下僕に過ぎない、劣る生き物だと、そう思わせる程の烈しい憎しみを獣人は抱いていたのだ。ロジェ達は彼がそんな素振りを全く見せなかったものだから、その事実を全然知らなかった。
 そんな事をぼんやり考えながら、敵のざわめきも聞こえる中、月のマナストーンを探していると、不意に前方に何かの気配がしてロジェは歩みを止める。奇妙なその気配は生者のものではなく、だからロジェは眉を顰めた。月読みの塔に亡霊が居るという話は聞いていないが、どこか妖しい雰囲気を持つこの塔になら居てもおかしくない気はする。ロジェは前方のその気配を僅かな間睨んだが、やがてその気配から、否、影からと言った方が良いだろうか、言葉を投げられた。
「ふん……たかが人間が、我らの遥かなる夜の石を穢そうとするか。
 貴様らが捨てた我らの聖地を、貴様等の都合で侵そうとするか」
 その声に、ロジェはその影が嘗てこの森に居た者だという事を知った。忌々しそうな声はその影の感じている怒りや憎しみを反映し、重々しくロジェの耳に突き刺さる。ロジェは彼ら獣人に対して偏見や蔑みなどを持っていないのだが、自分達人間の先祖が彼らを迫害し、この森へ閉じ込めてしまった事に対してはすまないと思う様な気もする。しかし恐らくその事に対して現王である彼に謝罪をした所で彼はそれを嫌がるだろう予感がしてロジェは何も言った事が無い。
「……過去の事を謝罪すれば、貴方がたは許してくれるのか?」
 ロジェは構えていた剣を降ろすと、影にそう問うた。答えなど最初から分かっていたが一応は聞かねばならない事の様な気がした。その問いに、影は更に機嫌を悪くした様だった。
「今更謝罪も何も要るものか。我らは貴様ら人間に二度と関わって貰いたくないだけの事。
 貴様らの戦を我らの森に持ち込んだ挙句に我らの同胞の血をいたずらに流した貴様らにな」
「………」
 深淵からせり上がってくるようなその昏い声は、ロジェの心臓を容易く突き刺す。確かにこの国を侵略し、蹂躙し、彼等の夥しい血を流したのは自分達人間なのだ。しかしこの戦争はおかしいと思うからこそ、その事についての責任を感じるからこそ、この塔にある月のマナストーンの側に居ると言われるルナの力を借りねばならないのだ。
「貴方の言い分も、もっともだ。だけど俺達はこのおかしな戦争を一刻も早く終わらせなければならない。
 だから頼む、通してくれ」
 戦う意思などロジェには無く、だから影に向かってそう言ったのだが、影はそのロジェの言葉にふん、と鼻で笑った。
「通してくれ、だと? 我らは貴様らを通す気は毛頭無い。どうしてもと言うなら倒してから行くが良い」
 その言葉が届いたと同時に影が揺らめいたかと思うと、次の瞬間にはもうその気配が真正面に来ている事に気付いて、ロジェは本能がその影の攻撃は危険だと察知しているのか咄嗟にその影からの攻撃を受け止める前に大きく飛び退いてしまった。しかし避けきれたと思っていたのだが繰り出された攻撃の風圧が凄まじく、ロジェは体勢を崩してしまい、影はその隙を見逃さず口元で禍々しい笑みを作ると思い切り踏み込み、一気に畳みかけようとロジェに襲い掛かってきた。避けきれないと直感したロジェは防御の体勢を取ると足に全体重を掛け、その瞬間に何かがぶつかった激しい音がロジェの耳に響いた。
「………?」
 だが来るべき鈍い衝撃が来ず、ロジェは思わず閉じてしまっていた目を開くと、見た事のある背が目の前にあり、ロジェは全く予想もしていなかった出来事に心底驚いてしまった。
「……貴様、どういうつもりだ?」
 そしてその背中の向こうから聞こえてきた低い声で、ロジェはその背中の持ち主が憎しみの塊の様な攻撃から庇ってくれた事を知った。彼がどこに居たのかもロジェは知らないのに、彼はロジェの危険を察知したのだろう。
「貴様にとってそやつはしもべなのだろう。何故獣人王を名乗る貴様が人間のしもべを庇う?」
「なれば貴方は己の手が傷付いても痛まないと仰るか」
「何……?」
 憎々しげに吐かれた言葉に冷ややかに問うた彼の表情はロジェからは見えない。だがその声音の冷たさから、彼が少なからず静かに怒っている印象を受けた。
「しもべとは即ち己の手足。その手足が傷付く事は自身も痛みを感じる筈……
 貴方は己の手足が傷付いても痛みを感じないと仰るか?」
「愚か者、人間なぞ我らの手足にもならぬ。
 過去我らを散々踏み躙り我らから太陽を奪った奴らを何故庇うのだ!
 貴様は我らの誇り高き血を穢す気か、この腑抜けが!」
 そして彼から少し離れたロジェは、彼の向こうの影が彼に向かって全力で殴りかかってくるのを見て思わず持っていた剣を持ち直したのだが、彼はその拳を避ける事無く全力で掌で受け止め、その音が辺りに大きく響く。驚いた顔の影に、しかし彼は受け止めた拳を握り締める様にしながら押し遣ると、大きく息を吸ってから叫んだ。
「過去我ら獣人を迫害した人間とこいつらは関係が無い!
 確かに我らは人間にこの森に追い遣られたしこの森を侵したのも人間だ、だが路頭に迷った我らを救ったのもまた人間だ!
 だから俺はこいつらをしもべなどと思わん、仲間を庇う事に何の不思議があるか!
 どうしても文句があるなら俺に言え、罵られるのは俺一人で十分だ!!」
「な、 ―――!!」
 彼は叫んだ後に握っていたその影の拳を完全に握り潰すと、迷う事無く拳に全身の力を込めて殴り飛ばし、影は倒れたその場に溶ける様に消えた。叫んだ彼の肩は少し上下し、彼の僅かに乱れた呼吸が何故かロジェの耳に響く。
「……ガウ、」
「お前らもあの者達を罵るな。罵りたいなら俺だけにしろ」
 彼はロジェが名を呼ぼうとしたのを遮り、抑揚の無い声でそう言った。そして何かに気付いたのか、ロジェを振り向く事もせずに駆け出した。彼が向かったその先では、ロキが彼の祖先の幻影に苦戦を強いられていた。
 彼のその背を見ながらロジェは、彼は何故あんなにも自らを傷付ける様な道を選択するのだろうと疑問を抱いた。肉体的な傷もそうではあるが、精神的な傷もまた然りである。人間と獣人の板ばさみとなって一番苦しんでいるのは誰でもない彼である筈だ。だが彼は先祖に罵られても尚、ロジェ達人間を仲間だと言い切った。そしてその仲間を護る為に先祖を、過去の王である者を倒した。
 つらいだろうと、ロジェは思う。闘っている時の彼も、普段の彼も、ロジェにとってはどこか痛々しくて哀しい。それは恐らく、彼の中の葛藤を表している故の姿なのだろう。人間を憎まない彼は人間を憎む獣人の王であり、そして彼ら獣人を蔑み嘲笑する様な、決して少なくはない人間とも真正面から向きあわねばならない王なのだ。この旅の最中に彼を馬鹿にした者も居た事を、ロジェだって知っている。なのに彼は、ロジェ達人間を見下しもしなければ憎みもしない。向かう先を最初から持たない怒りを抱えたままではつらいだろうとロジェは思うのだ。
「………」
 ロジェは自分と同じ様に驚いた様な顔をして彼を見たロキと、幻影の攻撃を避ける事無く受け止めた彼を遠目に見てから、一刻も早く月のマナストーンを見付けてルナに幻影を説得して貰おうと先へと走り出した。背後では彼と幻影の激しい言い争いの声が響いていた。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ある程度の危険を覚悟しましょう。
その猛獣は先祖に対して敬意を払いもしますが、気に食わなければ反抗的な態度を示します。
それ故にその猛獣は先祖へ攻撃しようと容赦なく突っ込んでいく危険性が十二分にありますので、
同族間の闘いを避ける為、またその猛獣の怪我を最小限に抑える為にも、
なるべく早くミッションを終了させてあげましょう。