the end of me

 神殿が俄かに慌しくなったのは、日課ともなっている薬草の配合をしている時だった。この闇の神殿は病院としての機能も兼ね備えているので、余程の事が無い限り騒がしくなる事は無い。何事かと思い作業の手を止めて外に出ると、丁度こちらへ向かってきていたのであろう神官と出くわしたので、ベルガーは少し眉を顰めた。
「どうした、騒がしい。患者らの容態が悪化したらどうする」
「も、申し訳御座いません。ですが、大変なのです」
「……何だ」
 神官の切迫した様な表情にただならものを感じてベルガーは更に眉を顰め、そして神官の次の言葉に驚愕し、背筋を凍らせた。

「その、……ビーストキングダムがペダンに攻め込まれ……陥落したとの事です」



 ベルガーは黙々と包帯を巻いている。自分に、ではない。怪我人相手に、である。ヒーリングホームを構築しさえすればこんな事などやらずに済むのだが、少ない資源をただ一人の為に使うのは憚られるというのと、怪我をした本人がこの程度でそんなもの作らなくて良いとはっきり言ったのでこういう状況になっている。
 この程度と言っても彼にとって程度が低いというだけであって、他人から、特に怪我人や病人を診る事が多いベルガーにとってみれば浅くは無い怪我だ。欲を言えばヒーリングホームを使いたいと思ってしまう程の傷はしかし、彼にとってみればそこまでする事は無い程度のものらしい。彼が属する種族である獣人の自然治癒力が突出しているのか、それとも彼の持つ自然治癒力が突出しているのか、それはベルガーには分からなかった。分かるとすれば、彼は手当てを受けたがっていないという雰囲気だけだ。
 彼は戦闘中であっても空母まで戻ってヒーリングホームの恩恵を受けようとする事が少ない。その結果体中傷まみれにして、戦闘が終わっても彼一人の為にヒーリングホームを取り崩せなかった事も一度や二度では無かった。なのに彼はその度放っておけば治ると言って聞かないのだ。何故彼がそこまで治療を拒むのかベルガーにも分からないし、他の仲間も首を捻る。最後にはユリエルが説き伏せるか、最近はロキに引き摺られてベルガーの元に来る事が多く、その度にロキは渋い顔をするし彼も物凄く不服そうな顔をしたままベルガーの治療を受けている。それ故に今日も彼はむっつりとしたまま黙って目を閉じて包帯を巻かれ終わるのを待っていて、その重苦しい空気にベルガーは正直辟易していた。
 別に、手当てをする事に感謝して欲しい訳ではないのだ。ベルガーは元々どちらかと言えば無口な方なので、話し掛けられても相槌を打っている事の方が多く、だからぺらぺらとお喋りをして欲しい訳でもない。ただ、手当てをされるのは迷惑だと言いたそうな顔だけは止めて貰いたいのだ。怪我人を放っておく事など性格上出来ないし、放っておけば悪化する事が目に見えて分かる様な怪我を放置する様な真似を他の仲間達だって出来る筈が無いだろう。それが負わずに済む筈だった傷なら尚更だ。
 彼が今日負った怪我は、敵から攻撃されて負ったものではなかった。彼が人間ではなく、獣人という種族の者であるが故に、心無い人間が獣人風情が聖都へ来るなと石を投げ付けたのだ。普段の彼ならいくらよそを向いていたとしてもそんなものは易々と避けられたのだが、たまたま彼の近くにテケリが居たので避けたらテケリに当たってしまうから彼は動かなかったのだ。そして恐らく、投げ付けられた石を受け止める事も出来たのにそうしなかったのは、流れ出る血は人間と同じく赤い色をしているという事を見せ付けたかったのだろうとベルガーは思っている。彼の頭に直撃した石は少しだけ欠け、その破片が瞼を少しだけ切っていて、出血は随分酷いものになったのだが、彼は痛そうな顔を見せずに流れ出た血を手で拭ってから鼻で笑い、石を投げ付けた男に向かって冷たく言ったのだ。

『お前らの信じるマナの女神サマとやらは人間以外に石を投げ付ける事をお赦し下さるのか。大層な神様だな』

 その言葉を聞いた男は口をぱくぱくとさせ何かを言い返そうとしていたのだが、ローラントの者だったのだろう、アルマが激昂してその男の頬を平手で殴った後に引き摺ってどこかへ連れて行ってしまった。
 本心を言うなら、ベルガーはアルマのその行動に感謝している。そうでなければ多分自分がその男に何かしらの制裁を加えてしまっていたかもしれない。聖都はどんな種族の者であっても無条件に受け入れる都市である。それ故に差別をする様な言動があってはならないのだ。
 彼らと行動を共にする様になってそう長くはないのだが、ベルガーが見る限り、彼は行く先々で今はもう月夜の森でしか見る事が出来なくなった獣人にお目に掛かれるとは思ってなかった人間達の好奇の目に晒されたり侮蔑の目で見られる事が少なくなかった。その上、彼は史上初の獣人だけの王国を建国した王だ。それを知った者の多くは嘆息を漏らすふりをして、どこか馬鹿にしている様にベルガーには思えた。
 だが、彼はそれを全て知った上で平然としていた。言いたい奴は言わせておけば良いとでも言うかの様に悠然と構え、常に堂々としていた。実際、彼にとってみれば陰口も非難も嘲笑も痛くも何とも無かったのかもしれない。怪我を負ったのが自分ではなく自国民であれば怒りはしたかもしれない事を思うと、本当に己を大切にしないと思わざるを得ない。彼は王なのだから、もう少し自分を大切にすれば良いと思っているのは何もベルガーだけではあるまい。恐らく仲間内の誰もがそう思っているだろう。それだけ彼は自分に関して頓着しなかった。
 傷口を覆うガーゼが動かない様に巻いた包帯を結び終わると、彼が普段の仏頂面で動いても良いかと片目で聞いてきたので、ベルガーも静かに頷いて承諾した。瞼を切っているので念の為その傷口も包帯で覆ったのだ。怪我をしても大して手当てをしないせいだろう、彼は少しの間動かなかっただけでも体が痛くなってしまったのか、大きく伸びをして肩と首の関節を鳴らした。
「……あまり力を入れるな。傷口が大きくなる」
 その動きだけでも頭に作った傷は疼く筈なのだが、彼は全くと言って良い程痛そうな顔をしなかった。慣れているとかそういう問題ではなく、痛みを表情に出すという事を普段から制御しているからだろう。王というのは己の弱さを民に見せてはならないのだ、自然と彼も苦痛や悲しみなどの表情を顔に乗せる事を忘れてしまったのではないだろうか。
「お前ら人間と俺の回復力を一緒にしないで貰えるか。こんな傷すぐに塞がる」
 そして投げられた返答はこれ以上なく不躾ではあったのだが、ベルガーは気にしなかった。想像していた答えとは違ったが、まともな返答が聞けるとは思っていなかったので、気にする事でもなかった。
「確かに君の回復力は目を見張るものがあるがね。しかし、たまには私の言う事も聞いて頂けると有難いのだが」
 彼の言う通り、彼の回復力はベルガーだけではなくユリエルなども感心する程他の者よりずば抜けていた。ちょっとの切り傷程度なら翌日には塞がっているのである。手当てをしようとしたら舐めれば治ると言って手当てをさせてくれない事が多く、だから大きな怪我をした場合はしょうがないのでロキに頼んで連れて来て貰うのだ。
「……気が向いたらな」
 そういった事がよくある為に彼としても少しは悪いと思っているのか、彼にしてみれば随分譲歩しているのであろう返事が返ってきたので、ベルガーは少しだけ驚いた。どうせ流されるか無視されるか、更に反発されるかのどれかだと思っていたのだ。素直とは言い難いがそんな返事があったのなら、あながち今まで何度も漏らした小言も無駄にはなっていない様である。すぐに手当てをすればそんなに化膿せずに済むとか、乱暴に患部を触るなとか、そういった事ばかりではあったが。
「一つ……聞いても構わんかね」
 手当ての道具を仕舞っているのも見飽きたのか、さっさと自室へと戻ろうと腰を浮かしかけた彼にベルガーが言葉を投げると、彼が何だ、と聞く代わりに目で先を言う様に促したので、それを見てベルガーは常々思っていた疑問を口にした。
「何故君は怪我を負っても殆ど手当てをしないのかね。悪化してその部位が壊死したらどうするつもりだ」
 彼は基本的に怪我をしたらまず自分で止血し、傷口を適当な布で覆って保護するという、およそ手当てとは言いがたいとても乱雑な処置しか取らない。他の仲間が薬草や傷薬を渡そうとしても受け取らずにそのまま放置している。怪我人を診る事が多いベルガーにしてみれば傷口をそんな風に放っておいているのを見るのははらはらして仕方ないのだ。
 そのベルガーの問いに彼は少しだけ何かを考えてから、説明するのが面倒臭そうな顔をして、言った。
「お前達人間にとってみれば不可解かも知れんな。だが俺達獣人、特に俺の様な戦闘要員は余程の事が無い限り手当てをせんのだ」
 彼は巻いて貰った包帯が気になるのか、言いながら包帯に手をかけようとしたので、ベルガーは目でそれを制した。彼は少し不服そうにしたが、弄られると治りも遅くなるので我慢して貰うしかない。
「……何故だ?」
 そして彼の返答に更なる疑問を感じたベルガーがそう尋ねると、彼は漸くベルガーにきちんと視線を寄越して少し笑った、かの様に見えた。
「野生の狼は怪我をした時手当てをするか?」
 投げ返されたその質問に、ベルガーは一瞬息を止めてしまった。彼の中に流れる血を忘れていた訳ではなかったが。今思い知らされた様な気がしてしまった。
 彼の言う通り、狼に限らず野生の動物は怪我をしても手当てなどしない。患部を舐めて、それで終わりだ。自然に治るのを待ち、完治出来なければ弱って死んでいく。自然の摂理をあるがままに受け止め、逆らおうとはしない。彼はそんな生き物達の血がその体の中に流れている種族の者なのだ。
「俺達にとって闘う事は常に死と隣り合わせだ。それはお前達人間だって変わらんかも知れん。
 だが武器も兵器もなるべく使わずに相手を仕留める事は相手に対しての敬意を表し、付けられた傷を残す事も同じ様に敬意を表す。
 そいつが生きていた事実を自分の体に刻み込んで、昇華していく……俺達獣人はそうやって生きている」
「………」
 彼の答えに言葉を失ったベルガーは、彼が傷跡をわざと残そうとしているのだと初めて知り、彼に今まで施した手当てが全て彼にとっては本当に不本意なものであるという事に愕然とした。
 彼の体にはペダンとの戦いによって作られた傷よりも、それ以前に作ったのであろう傷の方が圧倒的に多い。古ぼけてもう殆ど見えなくなってしまったものもあれば随分深い傷を負ったのであろう痕も、体のあちこちに無数についている。しかしベルガーが一番感心したのは背中には殆ど傷跡が無かった事であった。背中に傷が無いという事は、敵に背を向けた事が無いという事であり、常に背後にも注意を巡らせているという証拠だ。
「君は、子供の頃から戦っていたのか?」
 体に残る傷跡から察するに、彼は幼少期からその体に傷を刻み込んでいたに違いないと思い、ベルガーは一応そう聞いてみた。答えは聞く前から分かっていたが、何故だか聞かねばならない気がした。
「そんなにちびの頃からじゃねえがな。元々俺はミントスに住んでいた」
「つまり、元は戦闘要員ではなかった、と?」
「……あぁ」
 ミントスに住む住民は争い事を好まず、人間と変わらない静かな生活を送っているという。実際ウェンデルに避難してきた住民達はひどく温和で物腰も柔らかだったが、城の兵だという者達は気配から違い、人間に対して厳しい目を向けていた。それくらい違うのだが、何故彼は敢えて村を出て城へ向かったのか、興味が沸いた。
「そんな君が何故王になったのだ?」
 静かに投げかけられた問いに、彼は目を少しだけ伏せ、溜息を吐いてから言った。
「だからこそ……だ」
「……?」
「村に居たからこそ森の奴らの考えや行動が気に食わなかった。それだけだ」
「………」
 ミントスの者達が人間に対してそこまで悪い感情を持っていないのと同じ様に、彼もまたベルガー達人間に対して全くと言って良い程憎悪などを見せなかった。過ぎ去った事をいつまで経っても言っていても仕方ないと言うのが彼の考えの様だ。周りに人間に対する嫌悪を持った者達が多ければその考えに感化されそうなものであるが、彼は元々ミントスに住んでいたというから感化されなかったのだろう。
 戦闘要員でなかった彼が王位を継承出来るまでの強さを手に入れる道程というのは並大抵のものではなかったのではなかろうか。獣人の血が流れている以上は人間よりも遥かに身体能力は高いだろうが、素人のベルガーが見てもミントスの村人と獣王城の兵士では戦いへの向き不向きがはっきりと分かった。子供達でさえミントスと獣王城の子供では体格の差が目に見えて分かった。
「確かに俺達の先祖は人間によって虐げられ、あの森に追い遣られた。
 だがあの森も俺達獣人には適した環境だ、それだけでも良い事だと俺は思ってる。
 過去の事を何時まで経っても根に持っていては何も変わらんのだし、それならいっその事思い切った行動を取ってみれば良い。
 ……俺は国を建てて獣人を自立させる為に王になったんだ。それ以外の目的は何も無い」
 何年前に彼が王位に就いたのかは知らないが、恐らくミントスを出た時からその考えの下で過ごしてきたのだろう。彼は王と言っても他の国の王などと比べてみれば仰々しくもなかったし、また民衆に対して対等に話しかけた。ウェンデルに避難しているミントスの子供達の名前を全員覚えていた事には流石にベルガーも驚いたものだ。不安そうにしていた住民達も、ウェンデルに一時的に戻ってきた彼を見ると随分安心した様な表情を見せた事も深く印象に残っている。彼はそれだけの器を持っていたが、本心としては王になどなる気は無かったのではないだろうか。
「まあ、長い年月をかけて根付いた恨みは一朝一夕で晴れるものではないと思うが……それでも切っ掛けを作らねば進まんしな。
 俺一人で全て出来るとは思わんが、やらんよりマシだ」
 そう完全に把握している訳ではないが、今までに知った彼の性格から言って、本心では王になる気は無かったが何も行動を起こさない森の者達が気に食わなかったというのもあるだろうが、それ以上に何とかしなければと思ったのだろう。彼は口は悪いが根はひどく優しいのだ。一歩も動かずテケリに投石が当たらない様にした様に、侮蔑の目で見た人間を罵倒もしなければ恨みもしなかった様に。
 外見から怖いと思われがちな彼は、それとは裏腹に普段はとても穏やかだった。例えるならば時折微風がすり抜けていく草原の様でもあり、静まり返った森の様でもあった。戦場に身を置けば嵐が訪れた空の様だったが、普段はこちらが驚いてしまう程静かだった。恐らく、今はまだ王という役柄を演じている段階なのではないだろうか。確かに良い指導者ではあるだろう、だがまだ王になりきれてない印象を受けるとベルガーは思った。王、というよりもっと別のものの様な気がした。
「……じゃあ今度は俺が質問するが」
「……何かね」
 そんな事を思案していたベルガーの意識を目の前に戻したのは、意外にも彼の質問の声だった。彼は他人に興味を示さないのでまさか自分に質問をするとは思ってなかったのだ。何事かと思い何気なく尋ねたのだが、彼の発した質問にベルガーは彼の国が陥落したと報告を受けた時と同じ様に背筋が凍った気がした。

「お前、俺達の血が流れてないか?」

 その彼の声はベルガーの目の前を一瞬真っ白にしてしまう程の威力を持ち、知らず呼吸さえも止めてしまった。
 遠い昔、人間と獣人は営みを共にしていた。その中で子を成す者も居た為、獣人が月夜の森に追い遣られても、人間の中には彼らの血が混ざった者も存在し、そういった者達は迫害を受けなかった。確かに両親の片割れが獣人であれば肩身が狭い思いもした様だが、それ以上に血が薄まった者はあまり人間と大差は無かったのだ。身体能力が人間より少し秀でている程度だったり、犬歯が少し大きかったり、そんなものだった。迫害を免れた混血児達は人間の世界に留まり、更に血を薄くしていった。彼の言う通り、ベルガーはそういった者達の末裔に当たる。
「……気付くものなのかね」
「何となくな」
 しかし今まで殆どの者はその事実に気付く事が無かった為に、ベルガーも敢えて何も言わなかった。迫害を恐れた訳ではなく、単に血が薄まり過ぎていたからだ。何代前が獣人であったかは分からないが、ベルガーの中に獣人の血が流れていると証拠付ける特徴は一つだけ存在した。
「……髪、かな」
「髪?」
「狼には銀狼が多い様に、俺達獣人には銀髪が多い。それでだろう」
「…………」
 その特徴と言うのが、彼の言った通り、銀糸の髪の事だった。銀髪を持つ人間というのは珍しく、ベルガーも自分以外で銀髪の人間を殆ど見た事が無い。今では同じ髪の色を持つ息子が居るが、それ以前では見た事が無い。両親とは死に別れ、孤児であったが為に、どちらの親が銀髪であったのかもベルガーは知らない。ウェンデルの神殿が管轄する孤児院で過ごしていたのだが、魔力が強く頭脳も他の子供達に比べて秀でていたので神殿が関心を持ち、引き取ってくれたのだ。
 引き取られた後のベルガーは神殿内の神官達が目を見張る程の才能を見せた。まず、神殿に仕える神官でさえ習得するには苦労すると言われるホーリーボールをいとも簡単に発動させた。練習している青年神官の隣で何気なく真似をしたら、的になっている水晶玉を粉々にしてしまったのだ。その水晶玉は魔法の練習用に作られたものなので、普通なら発動させた魔法は吸収されるのだが、ベルガーは粉々にしてしまった。それに留まらず、孤児院でもある程度の教育は受ける事は出来ていたが、きちんとした環境で高度な教育を受けられる様になってからの知識の吸収ぶりは凄まじかった。
 しかし、秀才、天才児、様々な賞賛の言葉を受けた反面、それを妬む者も多かった。陰湿な苛めも受けたが、ベルガーはそれを全て流した。勉強が出来る事が楽しくて嬉しかったので、その代償と思っていれば然程辛くはなかった。
 だが、一つだけ心に残っている罵倒がある。それが髪の色の事についてだった。お前の髪は何だか不気味で薄気味悪い、魔物の様だ、そう言われた事があった。その言葉に限らず、ベルガーは髪の色について褒められた事は一度も無い。人間にはあまり見掛ける事が出来ない銀髪であった故に珍しがられた事はあっても褒めて貰えた事など無かった。魔物の様だと言われた時は流石にショックではあったが、同時に何故銀色が不気味と思われるのか不思議で仕方なかった。
「随分血も薄まっている様だから、流石の君にも気付かれんとは思っていたんだが……なるほどな、髪で気付かれたか」
「そういうお前こそ、そこまで血が薄まってんのに良く自分で分かったものだな。誰かに聞いたか?」
「……光の司祭殿に、な」
「……あぁ、」
 ベルガーの答えにすぐ納得した様な顔をした彼は、組んでいた足を解いて行儀悪く投げ出してから手を後ろに付き、今度は足先だけを組んだ。同じ格好でずっと座っている事が出来ない性格なのだろう。
 彼に答えた様に、ベルガーは自分の中に流れる血については光の司祭から教えられた。それはまだ子供と呼べる時分の時だったが、何故髪がこの色だと不気味がられるのか尋ねたら、銀は夜を連想させ、また夜の住人である者達、獣人だが、その者達を連想させるからだろうと言われた。そして、恐らくお前にはその血が流れていると言われた時、ベルガーはショックを受けたと言うより寧ろ納得してしまった。
 ベルガーは元から、あまり他人とは馴染めなかった。子供の頃からそうなのだ。これと言って引っ込み思案という訳でもなかったし、人見知りをするという訳でもなかったのだが、他人の輪から離れて一人で居る事が多かった。孤児院に居た時もそうだったし、神殿に引き取られてからもそれは変わらなかった。とにかく、一人で勉強したり本を読んでいる事が多かった。大勢で遊んでいるのを見て、寂しいとか羨ましいとか、そんな事を思った事も無かった。ただ、一人で居る事が当たり前の様な気がしていた。だから光の司祭から言われた時、ほんの少しといえども種族の隔たりがあるから馴染めなかったのかと納得してしまったのだ。
「おかしな話だな。血が薄まっているから人間として生き、迫害されずに済んでいるというのも」
 それ以来獣人という種族に興味を持ったベルガーは時折ではあるが獣人についても調べてみた。人間と獣人は何が違うのか、何故彼らが迫害されたのか、彼らの習性や特徴など、残っている資料は数少なかったが、調べられる事は殆ど調べ上げた。自分の血を知らないというのも変だと思ったからだ。そして調べていく内に、何故自分はのうのうと太陽の下で生きていられるのかと憤った。人間の血と混ざり、薄れてしまったとは言え、髪が血を証明している以上はベルガーも獣人なのだ。それなのに、いじめはあったと言っても迫害される事も無く、彼の様に石を投げ付けられたりという事も無く、侮蔑の目で見られる事も無かった。純血か混血か、その違いだけで、だ。
「……俺はお前みたいに頭が良くないし、偉くもないから大それた事は言えんが……
 人間に限らず、生き物はどの種族だって優越感に浸りたいんじゃないのか。
 絶えず比較して、秀でている部分を見付けては自分達の方が優れていると思っていないと不安になるからじゃないのか?」
「………」
「特に俺達獣人は人間に比べて力も強いし動きも速い。そりゃ、人間にとってみたら脅威だろうよ。
 だから牙を剥かれる前に遠くに追い遣って安全を確保したかった……そんな所だろうな」
 彼は迫害された側の種族であるにも関わらず、まるで第三者であるかの様に静かに分析した。彼がそんな事まで考えていたとは思っていなかったので、ベルガーは少しだけ驚き、感心した。だからこそ、彼の言う人間の考えに浅はかさを感じずにはいられなかった。だが、彼はベルガーのその考えを見透かしたのか、小さく苦笑した。
「確かにそれは浅はかかもしれん。正しくはないだろう。だが、間違いでもないだろうよ」
「……何故かね」
「俺達獣人は未熟であればある程月の元では獰猛になる。狂った様に無節操に襲うのも居る。そんな奴は、危険だろう?」
「………」
「お前の口の固さを信用して言うけどよ……俺は昔や今の状態は極端だと思ってるんだよ。
 人間は俺達獣人を知らなさ過ぎるし、逆に俺達獣人は人間の事を知らなさ過ぎる。
 だから少しでも理解していければその内どうにかなると俺は思ってる」
 ベルガーは彼のその言葉を聞いて、随分楽観的だと思ったが、同時にその通りだとも思った。そして彼が何故王となれたのか、分かった気がした。
 彼は獣王城の兵士にもミントスの村人にも絶大な人気を誇っている。勿論月夜の森の住人全員が彼を支持している訳ではないだろうが、それでも支持率は相当なものだろう。彼の強さも理由の一つだろうが、それ以上に彼の中に導く者の力を見たからではないだろうか。彼は真剣に獣人の事を憂えているし、月夜の森を愛している。だからと言って人間を頭から理解しようとはしないという事を絶対にしない。獣王城でペダン軍に囲まれたロジェ達を助けたのは誰でもない彼だったとベルガーは聞いている。人間との接触を持った事が無く、かつ人間を忌み嫌っている獣王城の兵士達を統括する存在でありながら、危険を顧みず玉座の間に戻ったのだと聞いた。人間とは相容れられる筈だと思っているのだろう。王自らが人間と接して、それを証明しようとしている様にも見えた。
「……そう……だな」
 恐らく、他の誰かにそう言われた所でベルガーは頷く事をしなかっただろう。彼が言ったからこそ、曖昧ではあるが頷いたのだ。ベルガーの中に微かに流れる獣人の血が、彼の中に見え隠れする獣の王者の姿を見せたのかもしれなかった。
 彼は獣人の王であるが、獣人は全ての獣を統制するとも言われている。その証拠に、彼は野生の獣の扱いは森の人と呼ばれる民族のテケリより優れていた。勿論、テケリだって他の仲間に比べると扱いは巧いのだが、彼には敵わない。
 フォルセナに向かう途中のモールベアの高原での出来事であるが、ペダン軍との戦いは日が落ちても終わらず、夜間は一時休戦となった。だが、ユリエル達だけなら良かったのだが、こちらにはフォルセナの兵士が大勢居た為に、全員がナイトソウルズで休めた訳では無かった。大怪我を負った者が艇内で休む事を優先され、無傷では無かったが然程大きな怪我を負わなかった彼は野営で休み、一方のベルガーは怪我人の手当てで忙しかった。そして疲れもピークに達してまどろんでいた時に外から大きな声が聞こえた気がして、何事かと思い慌てて甲板に出ると、見慣れない大きな獣が月光の中で空に向かって遠吠えを上げていた。地上に降りていてはよく分からなかっただろうが、甲板の位置からは周囲が良く見渡せ、そしてベルガーは何故その獣が遠吠えを上げているのか理解した。周囲には野生のモンスターやペダン軍の偵察部隊であろう気配が取り巻いていたのだ。

 夜の住人である者達の王に牙を剥くか。
 命が惜しくば去るが良い。

 ベルガーは遠吠えの中にそんな声を聞き、その獣が誰であるのかその時に漸く気付いた。そして彼の遠吠えは、周囲を取り巻いていた影達を怯えさせ退かせるには十分な威力を持っていた。そして遠吠えより何より、その時の彼の姿はベルガー達にとっても思わず畏れを抱かせた。
獣人は夜になるといわゆる狼人間の様な姿に変身出来る。だがその時の彼の姿はまるで地獄の門番を連想させる様な巨大な狼そのものだった。月光の当たり具合では毛並みが金にも銀にも見え、そして紅にも見えた。
 一頻り吠えた彼が声を静めると、辺りには静寂が取り戻された。その時には既に周りを囲んでいた影は全て消え失せていた。それ程までに、彼の遠吠えの威力は凄まじかったのだ。姿を戻した彼はマントを拾い上げて羽織ると同時に、甲板に居たベルガーを見上げ何かを尋ねる様な仕草を見せた。誰かが甲板に出てきたというのを察していたのだろう。そしてもう大丈夫だという様にベルガーが片手を上げると、彼も片手を上げて返事をしてから野営とは逆の方向へ歩いて行った。野営で休んでいる者を怯えさせたくはなかったのだろう。
 一般的な獣人は変身すると狼人間の様になる。彼が獣化するのは稀であったが、それでも少ない機会で見た事のある姿は狼人間だった。だがあの時見た彼の姿は狼そのものだった。彼は獣人を見た事が無い者が居ないと言っても過言ではない集団の前で、獣化した姿以上の姿を晒したのだ。ベルガーの位置からは見えなかったが、甲板の方を振り向いた彼を怯えた目で見た野営の者も居ただろう。その者達をそれ以上怯えさせたくなくて、彼は別の場所で休んだのだ。少なくともベルガーはそう思っている。
 獣人の中には、ごく稀に狼そのものに変身出来る者が居ると本に書いていた事をベルガーは覚えている。血筋で遺伝する訳ではなく、突然変異的なものであるとも書かれていた。これはベルガーの憶測に過ぎないが、王となる者はその姿に変身出来るのではないだろうか。だから彼は、王になるべくしてなったのだ。本人がその気でなった訳ではないにしても。
「……君は、獣人の未来を大きく変えていくのだろうな。その力も持っている。君の様な王を持てて、獣人族は幸せだな……」
 ぽつりと漏らした言葉は、お世辞でも何でも無く、本心から出たものだった。同時に、微かではあるが同じ血が流れている者として畏敬の念を示したつもりでもあった。
 女神に仕えているベルガーにとって、女神が唯一の畏れるものだった。しかし半端者といえども自分も獣人の血が流れている以上は、彼が王だ。王は畏れ敬うものであり、だからベルガーにとって女神は唯一のものではなくなった。手当てをされたがらない彼を口喧しく手当てしていたのは、そのせいでもあったのだ。
「……そうかどうかは分からんが……応える事が出来る力があるなら、応えたいとは思ってる」
 彼のその答えはひどく曖昧である様な気がしてベルガーは少し不思議に思ったのだが、やがて気が付いた。彼の目の前に居る人間も獣人の血を微かに引く者なのだ。そうである以上、彼はその者の気持ちにも応えねばならない。未来を大きく変えていく、その言葉はつまりベルガーの希望だ。ベルガーに限らず、それ以外にも人間の世界に紛れ込んでいる獣人と人間との混血人がその事実を隠さずに陽の下を歩める様にという希望を、彼は背負わされたのだ。何気なく言った一言は彼の然程大きくない肩に圧し掛かる形となってしまった。不用意な一言だった、とベルガーは後悔した。
 確かに、彼にはそれを実現出来るだけの力は十分にあるとベルガーは思っている。だがそれと同時に、思った程彼のその背もその肩もそんなに大きくないのだ。なのに彼は獣人の希望を全て背負って、今またベルガーの様な混血人の希望を背負わされた。ややもすれば彼を押し潰してしまいそうな事を言ってしまったのだ。だが、発した言葉が無かった事に出来る訳ではない。
「……私が願うのは、深い怪我を負ったら空母まで戻ってきてくれる事だ。それ以外、君には注文しない」
 それを誤魔化そうと肩を竦めて半ばおどける様にベルガーがそう言うと、彼は呆気に取られた様な顔をし、苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべてから溜息を吐き、片手を挙げて承諾の返事をした。



 震える指先を懸命に抑えようと固く組んだ手を胸の前で掲げながら、ベルガーはただ祈っていた。神殿で幼い頃教わった全ての祈りの言葉を一言一句漏らす事が無い様に、ひたすら祈っていた。全身から血の気が引き、元からそう良くなかった顔の血色も更に悪くなり、途中で様子を見に来たジェレミアが少し休んだ方が良いと心配した程までにベルガーは憔悴しきっていたのだが、頑として首を縦には振らなかったので、ジェレミアも諦めてしまった。
 身じろぎもせずにじっと祈っているベルガーの前にはヒーリングホームが淡い光を放ちながらその力を発揮していた。負った傷を癒す力を持つヒーリングホームは闇の神官であるベルガーが祈りを捧げれば、癒す力を増す。その為、戦況が悪化していくにつれてベルガーは出撃して戦うよりもこうやって艇内に居残って祈っている事が多くなった。一応は攻撃魔法も使える身であるが、どちらかと言えば治癒や治療にあたっている方が性に合っているので、それについて不満を抱いた事は無い。寧ろ今の状況下においては己のその潜在能力に心から感謝した。
 ナイトソウルズ内の中心部に位置するこの部屋は、戦闘時になると様々な施設が構築される。ヒーリングホームもその一つだ。その部屋に今居るのはヒーリングホームの前で祈っているベルガーと、もう一人、意識を失ったままの者が――背中に酷い火傷の痕を残し、意識を失ったままの彼がうつ伏せで横たわっていた。ヒーリングホームの恩恵を受けた事によって彼の火傷はほぼ回復したのだが、壊死した皮膚を覆う新しい皮膚が完全に再生するまでにはもう少し時間がかかりそうだった。ヒーリングホームの近くに居なければ怪我が治らないと言う訳ではないのだが、気休め程度ではあるが回復が早まる為、彼はこの部屋に運ばれた。
傷など殆ど負っていなかった彼の背を爛れさせてしまったのは、彼の不注意ではない。ペダン軍の攻撃に気を取られて隙を見せてしまったベルガーの失態だ。普段ならベルガーはナイトソウルズに居るか後方で援護する程度なのだが、今日に限って出撃し、迂闊に前に出すぎてしまったのだ。そして、運悪く黒竜に狙われてしまった。
 黒竜が吐く火炎の直撃は何とか免れたものの、体勢を大きく崩した状態をもう一度狙われ、魔法の発動もほんの僅かの差で間に合うまい、己の体への多少の犠牲はやむを得ないと、大きく開かれた黒竜の口の中に渦巻いた炎を見てそんな事を冷静に判断したベルガーはそれでもシェイドの力を借りて掌の中に魔力を集中させ、己に向かって吐き出された炎に向かってその力を解放しようとした。だが、その時だった。
 弓の名手であるユリエルが放った矢の様に、目にも留まらぬ速さで現れた影がベルガーを思い切り突き飛ばし、次の瞬間に響いた悲鳴でベルガーは目の前が真っ白になった。悲鳴を上げたのが自分を突き飛ばした者なのか、黒竜なのか、判断は付きかねたけれども、ベルガーは全身から血が引いた様な気がした。
 それからの事は良く覚えていない。気が付いた時には辺りには生き物の気配が無くなり、庇ってくれた者――彼の崩れ落ちた体を何とか支えながらその場に座りこんでいた。炎の轟音に気が付いたのか黒竜の断末魔に気が付いたのか、どちらかは定かではないが、すぐに空母が飛んできてくれた時は心の底から安堵した。まだ戦闘が続く中、戦場に残れない事は気が引けたが、ベルガーにとってみれば彼の治癒の方が重要だったし、空母に残っていた他の仲間達、取り分け獣王城での一件以来彼に何かと食って掛かったジェレミアでさえもそちらを優先してくれと言ってくれた。それ程までに彼が背に負った火傷は酷かったし、その時のベルガーの動揺も今までに無い程だった。
 ヒーリングホームや回復魔法は確かに負った傷を癒す。だが、痛みが全て消えるかと言えばそうではない。内臓に受けたダメージも全ては回復しきれない。彼の火傷は確かに回復したが、背にいっぱいに広がった爛れた痕は一生残るだろう。彼の体を支えていた時に鼻腔を侵した臭いは今まで経験した戦場のどんな臭いよりも嫌な臭いだと思ったし、火傷に触れた時の血の感触は今まで触れたどんな怪我よりも恐怖を感じた。
 本来ならば闇の神官であるベルガーはどんな生き物の命も平等に見るべきである立場なのだが、あの時ばかりは彼以外の命の事は考える事が出来なかった。命の重さに差など無い、そう思っている筈なのに、あの時のベルガーは他の者の事を全くと言って良い程考えなかった。実際、今もそうだ。祈りを捧げているのは彼の意識が戻る様に、それだけしか無い。火傷はある程度回復したし、他に負っていた外傷も塞がったので、後は彼の意識が戻るのを待つだけだ。彼が負傷してから随分経つが、今まで一度も瞼すら震わせなかった所を見ると、やはり負傷してから気を失うまでの苦痛は想像を絶したものだったのだろう。痛みが酷ければ酷い程、そして体内に負ったダメージが大きければ大きい程、体の表面に負った傷が塞がっても目覚めない事は多いのだ。最悪の場合は体の傷が全て塞がっているにも関わらず、そのまま息を引き取る事もある。今のベルガーが恐れているのは、それだ。
 彼を喪う事が恐ろしいと、ベルガーは心底思っている。それはある種の強迫観念と言っても良い。今までにも他の国の兵士が死んでいくのを見た事が無かった訳ではない。その時は恐怖などは感じず、悲しみだけが心の中に残った。だが今、ベルガーは間違いなく恐れている。その証拠に、固く組んだ両手が微かに震え、ひどく冷たくなってしまっているのだ。体中が冷え、寒さを感じて温もりを求めているのが分かるが、それどころではないと言うよりも、暖を取る為に祈る事を中断し、彼の側から離れようとは思わなかった。そんな考えすら浮かびもしなかった。不謹慎ではあるが、今までにこれ程必死になって祈った事は無いのではないかと思うくらいに、ただ祈った。彼を助けてくれるのならばマナの女神でなくても良いと一瞬でも思った位だ。
 彼は、獣人の王だ。同時に、ベルガーにとっても王になる。それは即ち、彼を護らねばならないという事にもなる。王は確かに民衆を護るのが義務だ。しかし戦う力を持っているのであれば、王を護るのが民衆の義務でもある。護る為に他の者が犠牲になる事を彼は潔しとはしないだろうが、少なくとも獣王城で見た獣人兵達は当たり前かもしれないがロジェ達よりも彼を優先して行動した。近くに重症を負った者が居れば話は別だが、そうでない限りは無茶な戦い方をしようとする彼を護ろうとしていた。それが当たり前であるかの様に、仲間を庇って戦う彼を援護していた。過去の王の幻影達はそれを憎々しげに見ていたが、中にはどこかしらそれを容認している様な目をしていた者も居た様な気がする、とロジェが呟いた事をベルガーは忘れる事が出来ずにいる。
 過去の獣人王の中にも、彼と同じ様に人間に対してそこまで恨みを持っていなかった者も居たのだろう。ミントスの村人達は大抵考え方がさっぱりしていて、ロジェ達人間に対してとても友好的だった。獣王城の兵士達は自国を護る為には仕方ないと言う風に受け入れを要請したが、その中でも彼の様なミントス出身の者が他の兵士達を制してその役を買って出ていた。神殿の神官の中には獣人を恐れた者も居たのだが、ベルガーよりも先に光の司祭が同じ世界に住む者同士、相容れられぬ筈が無い、と諭していた。光の司祭はベルガーの血を知る唯一の者だ、恐らくベルガーの想いも汲み取って言ってくれたのだろう。互いにそうやって歩み寄ろうとする者が増えれば良い、ベルガーはそう思ったし、多分彼もそう思っている。
 だから今、彼がこんな所で死んではならないのだ。彼の代では無理かも知れないが、彼のその意志を継ぐ者も居ないまま、彼が喪われてはならないのだ。その思いが身勝手なものだと分かっていても、導く者が喪われる事はひどく恐ろしかった。きっと彼もこんな所で死ぬ気など無いだろう。彼が生きる事を諦める時は、国の者達が自分を見捨てた時や、国の者達が全て喪われた時だ。彼は自分以外の者を全て優先し、自分の事は後回しにしてしまう癖がある。それはベルガーも同じ事で、だから彼のその行動にやきもきする事も少なくなかった。自分を見ている様で、少しだけ腹立たしかった。
 大体、今回の大火傷も、負わずに済んだ筈のものなのだ。彼の背中に広がった火傷を負う筈だったベルガーは多少の擦り傷と程度の軽い火傷で済み、無傷で済む筈だった彼が生死をさ迷う程の火傷を負ってしまった。何故彼は躊躇うという事をしないのか、ベルガーには分からない。多分考えるよりも先に体が動いたのだろうが、耳に響いた炎の轟音と肉が焼け焦がれる臭いはベルガーにひどい絶望を与えたのだ。その絶望による動揺と衝動は、辺りに広がった惨劇が物語っていた。
 黒竜に放とうと手の中に集めていた魔力は一瞬にして全身に膨張して広がり、その力が暴走して開放された為に、ベルガーが正気を取り戻した時には黒竜も敵の兵士も味方のMOBも、ベルガーと彼以外で辺りに居た者は全て息絶えていた。普段の光魔法を放とうとしていたならそこまでの被害は無かったかも知れないが、闇の精霊シェイドの力を借りた時に使う事が出来るベルガーの最大の魔法であるダークフォースを全開の魔力で放とうとしていたのだ、その力が暴走してしまったのだから被害も凄まじく、ナイトソウルズがすぐに飛んできたのも当然かも知れなかった。誰も何も言わなかったが、誰しもがその近辺に居なくて良かったと思ったのではないだろうか。暴走した魔法は敵味方の区別無く辺りに居た全ての命を奪ったのだから。
 彼がベルガーを庇った事については、誰も疑問を抱かなかった。彼は近くに居た仲間は大抵庇うのだ。自分の体を犠牲にしてまで庇う事は、彼にとって当たり前の事らしい。彼は庇われる事を極端に嫌うのだが、自分が庇うのは半ば癖となってしまっている様だ。獣王城が落ちた時の事を思い出してしまうせいではないだろうかとユリエルは言っていたが、ベルガーとしては元からそういう性格なのだろうと思っている。無意識に体が動いている所を見れば恐怖で動いているというより本能で動いている様に見え、自分を犠牲にしようとするのは彼の性分なのだろうと思っているのだ。
 そして彼がベルガーを庇った最大の原因は、黒竜の吐く炎のせいだろう。炎は今の彼にとってみれば「自分から全てを奪うもの」になってしまっている。彼が護りたかったのは、彼の愛する森とそこで営みを続ける住民達だ。だが、ペダン軍が放った炎は全てではなかったとしても、それらを奪っていった。普段であれば夜だけの森に灯りを齎す火は、無情にも罪も無い住民達を追い立て追い詰め、そして奪った。彼はその様を目の当たりにしたのだ。炎を恐れるよりも憎むのは自然な事だったのかもしれない。ヴァルダが放つ火の魔法を初めて見た時も、そしてその前に火の神獣ザン・ビエが放った獄炎を見た時も、ひどく忌々しそうなものを見るかの様な目を微かに見せた事をベルガーは知っている。野営の火にはそう反応を示さなかったが、攻撃魔法やそれに準ずるものの炎に対しては深い憎しみをその琥珀色の瞳を黄金の瞳に変化させ、宿した。彼の瞳は獣化したり怒りを感じるとくすんだ琥珀色から眩い黄金色に変化するのだ。最初は何故そんな目をするのか分からなかったのだが、考えてみたらすぐに分かった。彼は自分の大切なものに危害を加えたものは憎むのだ。
 だが、彼にとって自分は果たしてそのカテゴリーの中に入っているのだろうかとベルガーは思う。彼の性格からして言えば仲間だとか獣人だとかの区別無く咄嗟に体が動くのだろうが、ベルガーはまさか彼が自分を身を挺してまで助けるとは思っていなかった。他の仲間なら分かるのだが、自分に関して言えばそれはあり得ないだろうと何故か自分で決め付けていたのだ。それを、彼はいとも簡単に覆してしまった。何の躊躇いも無く、彼はベルガーを突き飛ばした。業火に焼かれるのを助ける為に、自分の身を犠牲にしてまで。そんな事をされても悲しいだけだという事など、彼が一番分かっているだろうに。ベルガーだけではない、きっと今まで彼に庇って貰った事がある者達もそう思っているだろう。
 彼を喪う事が怖い理由は、まだある。ベルガーは彼が自分の願いを叶えてくれる者だと確信しているのだ。その願いは自分でも曖昧過ぎて今は言葉で言い表せないが、その願いを叶える者だと思っている。別に彼を神聖視している訳でも何でも無いのだが、それでも彼を特別な存在に位置付けているのは事実だ。それこそ出逢う前から、自分の出自を知り、彼が王国を建てたと知った時から、だ。だからこそ、無意識に彼に対して期待を押し付ける様な発言をしてしまったのかもしれない。自分が一番浅はかだと、ベルガーは苦々しく思った。そして同時に、今までこれ程他人に執着がましい想いを抱いた事があっただろうかとも思った。
 ベルガーは元々他人に対して興味を持たない人種であったから、ここまで意地になって他人の事を考えるなど無かったのだ。それがたとえ己を統制するべき王であっても、きっとここまでは無いだろうと思っていた。なのに、何故こんなにも必死になっているのか、よく分からない。自分でもまだ朧ろ気な願いを、彼にきっと叶えて貰いたいのだろうと頭のどこかで考えた。
「………、」
 不意に、凍っていた様な空気が少しだけ動いた様な気がして、ベルガーは固く閉じていた目を開いた。暗闇を照らす燭台の灯火は頼りなかったが、それでも彼の姿を確認するには十分な灯りを作っていた。ずっと膝立ちで祈っていたせいか、感覚が殆ど無くなってしまった膝を引き摺りながら恐る恐る彼に近付くと、彼の手が微かに動いたのが見え、ベルガーは思わず震える手でその手に触れた。するとそれに反応を返そうとしているのか、彼の手が何かを探す様に少し動いたので、ベルガーは両手で彼の手を握った。こちらに戻って来いと言う様に、強く握った。
「…………ぅ…」
 薄く開かれた彼の唇から吐息にも似た声が漏れ、瞼が小さく震えたかと思うと、夜だからなのか彼の美しい黄金色の瞳が現れた。その瞬間にベルガーは張り詰めていた緊張の糸が切れたのを感じ、細く長い溜息を吐きながら崩れ落ちる様にその場に座り込んでしまった。そして、不謹慎ではあるかもしれないが、今回程女神に祈り、そして感謝した事は無いかもしれない、と、まだ意識がはっきりしない彼を見ながらぼんやり思った。



「……具合はどうかね」
 ペダン王城がヴェル・ヴィマーナによって落ち、バジリオスとアナイスがミラージュパレスへと去った後、夜間飛行は危険を伴うと言う事もあり、敢えてすぐに追いかける事をせずに無人のペダンの街に留まる事を決めたユリエル達は、まだ体調が万全ではない彼を気遣ってくれたのかベルガーに彼に付き添っている様にと勧めてくれた。治ったとは言え彼の背に残った痕は、負った火傷の凄まじさを物語る様に彼の背に広がっていた。痛みはもう無い筈だが、その痕を見たテケリが本当にもう痛くないでありますかと真剣に何度も聞いていた程のケロイドが残っている。
「……悪くねえよ」
 部屋に入ってきたベルガーが投げた問いに短く答えた彼は退屈そうな顔をしていた。もう治ったというのに安静にしていろと皆から言われ、強制的に寝かされているのが気に食わないのだろう。とは言え、彼は貴重な戦力なのだから今の内に体を万全にして貰わないと困るのだ。彼自身の強さもそうだが、彼は地上MOBの扱いに長けている為、居てくれると戦況が楽になる事も多い。これから向かう先は幻の宮殿とも言われている場所だ、今までもそうだったがそれ以上に危険もあるし命の保障も無い。今居るメンバーの中で誰が欠けても苦しくなるだろう。勿論彼だって残る事など考えてもいないだろうから、不承不承大人しくしているのだ。
「悪くないと言う事は、良くもないと言う事か?」
「……揚げ足取ってんじゃねえよ」
 彼の答えにわざとベルガーがそう尋ねると、彼は機嫌を損ねたのか眉間の皺を深くした。地顔が不機嫌そうな彼は本当に機嫌が悪くなるととても凶悪な顔付きになるのだが、ベルガーは大して怖いとは思わない。
「威嚇出来る程なら心配は要らんな。予定通り明朝出立出来そうだ」
 彼が心配をかけまいと自分の不調を隠そうとしていたとしたらと思っていたのだが、そこまで懸念する必要も無さそうな態度なのでベルガーも安堵する。あまりのんびりしていられる暇は無いのだ。かと言って短い期間に戦闘が続いた為にメンバーの中にも疲労が見え隠れしているので休息を取らない訳にもいかなかったので、丁度良かったと思えば良い。
「どこか違和感を感じる箇所は無いかね。良い機会だから今の内に全部教えてくれると助かる」
 今まで負った怪我の中でも、彼は重傷と言える傷をいくつか作った。人間と獣人では僅かに機能が違う臓器もあるだろう。その影響で体に何か異常が無いかどうかを確認しようとベルガーがそう尋ねたのだが、彼はまだ眉間の皺を緩めようとはせずに少しだけ考えて、ぽつんと言った。
「……首の後ろが寒ぃっつーか頭が軽い」
「……あぁ、」
 彼のその答えは何の事か一瞬分からなかったのだが、すぐに理解出来てベルガーは小さく苦笑した。 
 普段の彼の髪は肩甲骨まで届く程の長さで、戦闘時になるとその髪が邪魔にならない様にと後ろの方で纏まる。彼ら獣人は意図的に髪の質を変えられるらしく、それを知ったロキは便利そうだなと言っていた。だがベルガーを庇った時にその髪も随分と失われ、不揃いになったので、彼はいっその事全部切ると言ってキュカ以上に短髪になった。ずっと髪が長かったのにいきなりばっさりと切ったので頭が軽いと思ってしまうのだろう。
「……見事な髪だったのにな」
 ベルガーが思わず漏らしてしまったその言葉に彼は眉間の皺を緩める代わりに目をぱちくりさせ、ベルガーも彼の反応に小首を傾げた。まさかそんな顔をされるとは思っていなかったのだ。
 失われた彼の髪は、ベルガーが言った通り、見事としか言い様が無いものだった。手入れが行き届いているとかそういう意味ではなく、豊かな森そのものの色と匂いだったのだ。獣人は獣臭いと勘違いされがちだが、本当は森の匂いがするのだ。これはテケリも言っていた事なので間違いないだろう。彼の髪は獣人には珍しく緑だったので、余計に彼らが住む森を連想させた。月夜の森に初めて足を踏み入れた時、鬱蒼と生い茂る木々は先頭を進む彼の髪と同化している様な気がした。本来は逆を感じるべきなのだろうが、極自然にベルガーはそう感じた。太陽の光の下では彼の髪は少し明るめに見えるのだが、あの森の中では森の木々そのものの色だった為にそう思ったのだろう。彼は、森そのものなのだ。
「髪なんてまた生える。お前がそんな顔する必要ねえだろうが」
「そう……だが」
 彼なりにフォローしたつもりなのだろうが、ベルガーはまだ浮かない顔をしたままだ。それが鬱陶しかったのか気の毒だと思ったのか、彼は居心地が悪そうにがしがしと頭を掻いてからぼそっと呟いた。
「元々、この髪がコンプレックスだったからな……別に短くなっても構わん」
「……コンプレックス?」
 思いもよらぬ彼の言葉に目を丸くしたベルガーがおかしかったのか、彼は口元だけで笑ってから頷いた。そしてもう短くなった前髪を指先で摘んで離すと、ベルガーを指差した。否、正確にはベルガーの髪を指差した。
「前にも言っただろう、俺達獣人は銀髪が多い。他は殆ど茶髪に近い金髪だ。俺みたいに緑の髪の奴っていうのは滅多に生まれん」
 言われてみれば、ウェンデルに避難してきた獣人達を見てみても殆どの者が銀髪であったり茶色が強い金髪で、彼の様な緑の髪を持った者を見掛けなかった。しかし彼がそれを気にしていたとは全く思いもしなかったのでベルガーは表情に出した以上に驚いていた。そんな事を、と言っては彼に失礼だが、彼がコンプレックスにしているとは思えなかったのだ。
「今もそうだが、ちびの時もミントスじゃ緑の髪なんて俺一人でな。随分苛められた」
「……苛められた?」
「意外か? だが本当の事だ」
 肩を竦めた彼は懐かしい思い出を語る様に柔和な表情をしていた。苛めと言うからにはそれなりに酷い事を言われたのだろうが、彼はそれでも嫌な記憶を掘り起こしている様な顔色を見せなかった。ベルガーも幼少の頃受けた苛めを思い出しても然程気分は悪くならないが、髪の件については多少の不快感はある。それも手伝っているのか、彼が大して傷付いた様な印象を受けない事が少し不思議だった。
「獣人は月の……ルナの祝福を受けているから金や銀の髪になる、お前はドリアードから生まれたんだろう、とか。
 後は……そのうち木になるんじゃないか、とかな。何かそんな感じだった気がするが」
「………」
 子供の頃に受けた中傷というのは大人になっても中々忘れない。彼もその様だったが、それにしても「何かそんな感じ」で済ませてしまう辺りが彼らしいとベルガーは思った。それと同時に、同じ様に髪の色で後ろ指をさされたのかとも思った。
 例えば、逆にベルガーが緑の髪であったなら、神殿の者達から不気味と言われる事は無かっただろう。そして彼が銀の髪であったなら、木の精霊から生まれたと言われる事も無かっただろう。しかしベルガーはこの髪の色を、気に入っている。他人からどう言われようと、この髪を持って生まれてきた事を疎んだ事は無い。彼はどうだろうと、純粋に興味が沸いた。
「君は、その髪を恨んでいるのかね?」
「何でだよ」
「……いや……苛められたのだろう?」
 そしてそれを問うたベルガーにまた眉間に皺を寄せた彼はその問いが不可解だったのか、即聞き返してきたので、ベルガーは少し面食らってしまった。極力動揺を見せまいと、だが少したじろぎながらベルガーが尋ねると、彼は鼻で笑った。
「言いたい奴は言わせとけば良い。考えてもみろ、ドリアードから生まれたんならそれはそれで凄いだろう」
「………」
「それに、俺達が住む森はドリアードの祝福を受けん限りは存在出来ん。
 ルナを神聖視するのは構わんが他の精霊も居てこそ俺達は生きていけるんだ。
 それを理解してねえ奴にどうこう言われても痛くも痒くもねえよ」
 きっぱりと言い切った彼のその目は酷く強い光が浮かんでいて、ベルガーは思わず目を細めた。今まで様々な者を見てきたが、これ程までに強い光を湛えた瞳を持つ者など、少なくともベルガーは知らない。彼の強さが集約された瞳だと思った。
「まあ、本当にちびの時はそんな風に思えんで凹んだし、コンプレックスになったんだがな。
 開き直ってそう思う様にしたら気にならなくなった」
 そして零された本音に、ベルガーは失笑する。彼の本当の強さというのは、自分の弱さや情けなさを自覚し、認める所だ。虚勢を張ったり誇大しようとは決してしない。
「……君らしいな」
「褒めてんのか?」
「そのつもりだが?」
「……ふん」
 揶揄する様に言ったベルガーを睨んだ彼は、ベルガーの表情に憂いの色が少し薄らいだのを見て、もうそれ以上の話をするのを止める様にぷいと顔を背けた。彼なりにフォローしたつもりらしい。
 だが、ベルガーはまだ彼に言わねばならない事があった。この機会を逃せばもう伝える事も叶わないだろう事だ。言うか言うまいか、最後まで悩んだのだが、言わずに後悔するよりは言って後悔した方が良いと決意し、顔を背けたままの彼に向かってベルガーは静かに口を開いた。
「……一つ、懺悔したい事がある」
 ベルガーのその言に、彼は驚いた様に目を見開いて視線をベルガーに寄越す。ベルガーはマナの女神に仕える神官だ、懺悔する相手は自分ではなくマナの女神だろうと言いたげな表情を浮かべている彼に、それでもベルガーは言葉を続けた。
「先に言っておくが、罵ってくれても良い。軽蔑してくれても構わん。私は君に懺悔せねばならん」
「……何だ」
 ぎゅっと眉を寄せた彼は心なし困惑している様にも見え、それについてもベルガーはすまない気持ちになる。一度目線を膝の上で組んだ指に落としてから組み直し、そしてゆっくりと視線を彼に戻すと、ベルガーは静まり返った水面の様な声で告白した。

「……君に庇って貰った時……動揺もしたんだが……それ以上に、……嬉しくなってしまった」

 彼から突き飛ばされたあの時、ベルガーは確かに驚いたし困惑もした。何故彼が身を挺してまで自分を庇うのか分からなかった。だが、彼に告白した通り、それ以上に心の何処かで歓喜を感じたのも事実だ。
「私は純粋な獣人ではない。それどころか、ほぼ人間だ。そんな半端者を、王である君が……否、リーダーである君が庇ってくれただろう。
 ……群れの一員として認めて貰えた様で……嬉しかった」
 ベルガーは、彼を獣人の王というよりも獣人という群れのリーダーだと思っている。野生の狼の群れと同じように、獣人も統制する力が強い者が王というリーダーになる、そう思っている。そして、リーダーは群れを護るのが義務だ。王は国民を護るのが義務であるのと同じように。
「君がその髪で後ろ指をさされた様に、私もこの髪の色で随分言われてな。……魔物の様だと言われた」
「………」
「だが、私にとってみればこの髪が唯一の獣人の血を引く証だ。この髪の色を疎んだ事は一度も無い」
 銀の色をした髪が魔物の様だと言われた事に、ベルガーはひどい不快感を催した。それは銀の髪を持つ者達、獣人に対しての強い侮蔑だ。微かとは言えその血を持つベルガーにとって、これ以上無い程の侮辱だったと言って良い。大声でその血を引いていると言えば混乱が起こってしまうから、その事実は言わずとも良いと光の司祭に言い付けられていた為に言えなかったが、ベルガーはその言い付けを守った事を、彼と出逢った今は少し後悔している。
 彼は、否、彼ら獣人はとても誇り高い。その姿勢が眩く見える程、芯から強く、気高かった。獣人という種族の血を心から誇りに思っているのが見て分かる程だ。そして、獣人として生を受けた事に感謝さえしている。そんな誇り高い血を隠して生きてきた事に、後悔した。
「獣人である証を髪にしか持たない半端者は護られる筈が無いと思っていた。……だから……」
 獣人であるとも言えず、しかし人間とも馴染めず、どちらにもなれずに生きてきたベルガーにとって、彼はひどく眩い存在だ。一種の憧れと言って良い。その存在が、咄嗟だったと雖も自分を庇ってくれたのだ。浅ましいとは思ったが、喜びを感じてしまった。
「……その髪を、疎んだ事が無いんだろう」
 しかし彼は軽蔑の色を見せるどころか、普段と変わらぬ静けさでそう尋ねてきたので、ベルガーは少し驚きもしたが顔には出さず、静かに、だがしっかりと頷いた。
「なら、良いじゃねえか。それだけでお前は俺達の同胞だ」
「………」
「人間の中にはお前みたいに血が薄まった奴も他に居るだろう。
 知らん奴はそれでも良いが、もし俺達の血を引いていると知った上でそれを疎んでいるのなら、俺はそいつを軽蔑するし、同胞とは見做さん」
 彼の静かな声は、本当に木々が微かな風でざわめいた様だとベルガーは思った。彼が月夜の森そのものだ。静かだが雄々しく、全てを護ろうとするあの森に似ている。
「それと、お前は髪だけだと思っている様だが……もう一つ、証を持っている」
「………?」
 ベルガーは獣人である証は髪だけだと思っていた為、彼のその発言にまた驚き、疑問の色を浮かべると、彼はもう一度、今度はベルガーの顔を指した。
「瞳……だな」
「……瞳……?」
「俺達の目は獣化したり気が昂ぶると色が変わる。お前、この間、俺の治癒でずっと祈っていただろう。あの時、色が違った」
 彼が庇った時に背に作った大火傷を癒す為に、ベルガーがずっとヒーリングホームの前で祈っていた時の事を指しているのだろう。祈る時は必ず目を伏せる為に誰も気付かないし、勿論鏡を見ている訳ではないからベルガー本人も気付かない。しかし意識が戻った彼が見たのは、普段の色とは全く違ったベルガーの瞳だった。普段のベルガーの瞳は透き通った紫水晶の様な色をしているのだが、彼があの時見た色は普段の彼の瞳と同じく、くすんだ琥珀色だった。
「どういう理由かは知らんが、多分お前は夜に祈ったら薄まった獣人の血が少しだけ濃くなるんだろうな。
 俺達の目はこの色が多い」
「………」
 まだ信じられなさそうにしているベルガーのその顔が可笑しかったのか、彼はくっ、と喉の奥で笑った。大きく笑うと失礼になるとでも思ったのだろう。
 彼がそう言うからには本当の事なのだろうが、しかしベルガーは俄かには信じられなかった。自分では見る事が出来ない箇所の変化だからかもしれない。夜に礼拝堂で祈る事は今までにも多々あったが、それも一人で祈っていたのだから瞳の変化までは気が付かなかった。光の司祭も知らないだろう。
「お前はどうも、完全に人間でない事や完全に獣人でない事を気にしている様だが……裏を返せばどちらでもあるという事だろう。
 別に完全を目指す必要などどこにも無い」
「……しかし」
「お前の信じるマナの女神とやらは何でも完全を要求するのか?」
「………」
 何かを言い返そうとしていた言葉を彼はベルガーの口から零される前に封じた。その彼の問いにベルガーは何も言えなくなり、開きかけた口をゆっくり閉じた。
 確かに、彼の言う通り、完全である必要など無いのだ。そうであるべきだと勝手に決め付けていたのはベルガーであって、リーダーである彼がそんな必要はどこにも無いと言ったのなら、そうなのだろう。考え込んで沈黙してしまったベルガーに、彼は面倒臭そうに頭を掻いてからぶっきら棒な声で静かに言った。

「生き物なんぞ、不完全だからこそ生きていけるんじゃねえのか」

 その言葉に、ベルガーは全てがすとんと腑に落ちたのを感じた。それはつまり、自分だって完全ではないと彼が言ったのと同じだ。純血の人間だって完全ではなく、純血の獣人だって完全ではない。だからこそ生き物は営みを続け、進化していく。進化が終わっていたのなら、その種はそこで絶えてしまう可能性だってあるのだ。
「闇の神官サマのお前の前で言うのも失礼かもしれんが、俺は人間への恨みと一緒でマナの女神にも関心がねえ。
 だが、女神だって完全じゃねえからこの世界が成り立ってんだと俺は思ってる。
 大体、女神が完全なら今回の戦だって起こってねえだろうよ」
「……そうだな」
 彼の言葉はどんな聖典よりも真理を分かりやすく表している様な気がした。マナの女神に関心が無いと言うのは少し引っ掛かったのだが、それこそ信仰など自由なのだから強制する必要も無い。彼はそれで良いのだ。だからこそ、獣人が彼をリーダーに選んだのだろうから。
「懺悔は以上か、神官サマ?」
「……君にそう呼ばれると何だか気持ちが悪いな」
「失礼な奴だな」
 おどけた様に言われたその呼び名にベルガーが眉を顰めると、彼は時折見せる子供の様な笑顔を浮かべ、普段は腰に巻きつけている小物入れの袋から何かを取り出すと、ベルガーに寄越した。躊躇ったものの、受け取りながら不思議そうな顔をしたベルガーに、彼は肩を竦めて見せる。
「獣人王に代々伝わる玉石だ。持ってろ」
「………!」
 そして伝えられたその石の正体に、ベルガーは目を見開いて驚いた。あまりにも簡単に寄越したものだから、そんな大層な玉石だとは思わなかったのだ。
「そ、そんな大事なもの、貰える筈がなかろう! な、な、何を考えているんだ君はっ!」
 随分驚愕してしまったので思わず吃ってしまったベルガーに、今度こそ彼は吹いた。まさかここまで驚かれるとは思っていなかったのだろう。突き返そうとしたベルガーのその手を制すと、彼はまだ笑いが納まらない震える声で言った。
「誰もやるとは言ってない。貸してやるから持ってろと言ったんだ」
「……か、貸すにしても……いつ返せと」
「そうだな……獣人と人間が手を取り合えた時にでも返して貰おう」
「………!」
 思いもよらなかった彼の言葉に、ベルガーは体をびくりと震えさせ、体を硬直させた。相容れられないとは思っていないが、そんな日が来るのだろうかとベルガーは思っている。しかし、彼はそれを何の疑問も持たずに確信している。いつかまた人間と獣人は共に歩んでいける筈なのだと。
「俺もそれを返して貰う為に手を尽くすから、お前も何か考えろ。
 それでお前がそれを返せる様になったら、お前は自分の血を隠さず生きていける。結構やり甲斐があるだろう?」
「……そう……だが」
「何だ、それ以上に何か俺に所望する事があるか?」
 提案に尚も渋るベルガーに不服の色を示した彼は、我侭な奴だと言いたげな顔でベルガーに尋ねた。まだベルガーが自分に対して何かを言いたいのだろうと思ったらしい。ベルガーとしては何も考えていなかったのだが、やがて一つの願いに至り、手の中の玉石を握り締めてから何かを決意するかの様に顔を上げた。

「……王として……リーダーとして、もし許されるなら……もし可能ならば、……最期を見届けて欲しい」

 何年先の事か、それは分からないが、ただ、ベルガーは心底そう思った。彼より先に死ぬと、どこか確信めいた思いがあった。その時に、叶うならば彼に見届けて欲しいと思った。……否、見届けて殺して欲しいと思った。自分が獣人の血を引いていると知っている彼に、リーダーである彼に、最期の息の根を止めて欲しいと思った。それが導く者への願いだと、ベルガーは本気で思った。そしてその最期の瞬間にこの目が見開かれていたら良い、そう思った。彼の金色の目に貫かれ息絶える事が出来れば、その瞬間だけでも自分が彼らと同化出来る様な気がした。
 ベルガーは多分自分が近い未来に大きな罪を犯すのではないかと思っている。未だ見ぬ柔らかい新しい罪までこんな掌で抱き締めたまま、自分が切っ掛けとなれれば良い。その為にという訳でも無いが、恐らく取り返しのつかない様な事をしでかすのではないかと思っている。それを止められるのは、きっと彼の血なのだ。
 彼はベルガーの言に最初は冗談かと思っていた様だったが、ベルガーが真剣な顔をしているものだから、眉を顰めて少しだけ考え込んだ。月夜の森に生きる自分がどうやって聖都で女神に仕えるベルガーの最期を見届けるのかと思ったのだが、同時に彼の勘がきっとそうなるのだろうとも予感させている。たとえ自分でなくても、恐らく自分の血を継ぐ者がそれを実現出来るだろう。
「……良いだろう、約束する」
 そして彼がそう言うと、ベルガーも凍らせていた表情を漸く緩め、微かに微笑んでから彼の無骨で大きな手を取り、有難う、と小さく礼を言ってから彼の手を両手で包んで女神に祈る様な姿勢を取り、どうかこの約束が果たされます様に、と心から願った。



 渡された玉石を手の中で転がしながら、彼はその玉石を持ってきた銀髪の青年をゆっくりと見遣る。青年は穏やかに微笑むと、一度だけ彼に頭を下げた。
「父から、貴方に返して欲しいと頼まれました。何も言わなくても分かると言われましたが……」
「……あぁ」
 遠い昔に、彼が青年の父親に渡した玉石が彼の元に戻ってきた。直接に返して貰う事は叶わなかったが、どんな経緯であれ戻ってきたのだ。彼はその事については何も言及しなかった。
「……約束は完全には守れなかったが、これが失われる前に返しておきたい……との事でした」
「………」
 青年のその言葉に、彼はこの玉石を青年の父親に渡したあの日の事をぼんやりと思い出した。あの時、彼は渡してから、人間と獣人が手を取り合えた時に返して貰うと言った。完全に手を取り合えたとは言い難いが、彼の息子のケヴィンを通じて、大きな切っ掛けが出来たと言って良いだろう。
「……お前も、血を引く者か」
「はい」
 青年は彼の問いに、躊躇う事無く頷いて答えた。青年の髪は父親と同じく銀髪だったが、匂いが全く似ていないと彼は思った。恐らく、血が繋がっていないのだろう。その考えが顔に出ていたのか、青年はまた笑った。
「私も父と同じ様に孤児だったのです。それを、父が引き取ってくれたんです」
 恐らく青年の父、ベルガーは、自分と同じ髪の色の子供を見て放ってはおけなかったのだろう。同じ血を引く者として、せめてその髪の色を疎んでしまわぬ様に、と思ったのではないだろうか。ベルガーが死んだ今となってはもう分からないが。
「……父が助けようとした少女も孤児で……この色の髪の持ち主でした」
 詳しい事は彼は知らないのだが、ベルガーは不治の病にかかった少女を治す為にずっと手を尽くしていたらしかった。その少女もまた、ベルガーやこの青年と同じ様に銀髪の持ち主だったらしい。だからこそベルガーも、禁術などに手を出したのだろう。危険を顧みず、その少女を救う為だけに、ベルガーは闇に堕ちた。よほど助けたかったのだろう。自分の様に人間の世界で生きる、獣人の血を微かに引く少女を。そしてきっと、少女にもヒースと同じ様にその髪についてを話していたのではないだろうか。少女が決して自分の髪を疎んでしまわぬ様に。
「……お前は、その髪を疎んでいるか?」
 彼は、ベルガーにも問うた事を青年にも同じ様に問うた。答えは分かっているのだが、何故か聞かねばならない気がした。そして青年は、案の定首を緩やかに横に振った。
「いいえ、私はこの髪も、この身に流れる血も疎んだ事はありません」
「……その命は、女神から貰ったものなのだろう」
「ええ。ですから私は人間としても獣人としても、この世の者としても不完全かも知れません。……ですが」
 青年はそこまで言うと、言葉を一度区切った。言いたい事をどう言葉に表そうか考えている様だと彼は思ったが、先を急かす事はしなかった。青年はそれに応えようと、小さく深呼吸してから、言った。

「私達生き物は不完全だからこそ生きていける……父がそう教えてくれました」


『生き物なんぞ、不完全だからこそ生きていけるんじゃねえのか』


 懐かしい言葉だと、彼は思った。あの言葉がベルガーにとって救いであったという事を、彼は今知ったのだ。だが、それに感銘した訳でも、感動した訳でもない。不完全だからこそ、ベルガーは約束を守る為に敢えて不器用な道を選択したのだろう。己を悪しき存在として、その己を倒す為に人間と獣人が手を取り合えば良い。そういう考えだったのだろう。だが、それもあの男らしい、と思った。
 最期を見届けて欲しい、というベルガーの願いを叶える事は出来なかったが、同じ瞳を持つケヴィンが息の根を止め、見届けたのなら、ベルガーも納得してくれるだろう。出来る事なら、その願いを自分の手で叶えたかったと彼はぼんやり思った。
「……そうか」
 今更ながらにずきりと疼いた背中の火傷痕の痛みにそ知らぬふりをした彼は、目の前の青年の微笑が瞼の裏に蘇った微笑と重なった気がした。