私の踏み台

 セシリアは、目の前の偉そうな下碑た笑いを浮かべている男を静かに睨んでいる。否、態度をあからさまにすれば相手の機嫌も損ねてしまうのでそこまで目付きを厳しくしてはいないのだが、嫌悪を感じる者に対して睨んでしまうのは仕方あるまい。
 彼女の容姿は美しいの一言に尽きる。それ故男が多い軍の中にあっては目立つ事この上無く、こうやって上官に絡まれる事も少なくない。セシリアとしてはそういう者共は単なる踏み台としか思っていないので殆ど相手にする事無く巧くあしらってから自分の方が地位が上になるように過ごしてきた。 体の関係を求められる事も毎度の事であったが、それだけは彼女も潔しとはしておらず、巧くかわしてこれてきたのだ。
 だが、今目の前に居る男は今までの相手とは訳が違う。曲がりなりにも、この国の将軍なのだ。セシリアにしてみれば何故こんな男が将軍という地位に就けたのか理解に苦しむのだが、実力があるという訳ではなくて単にコネだろうと思っている。
「どうかねバジリオス君、これから食事にでも行かんかね。皆、君の様な優秀な者は居らんと言うし、私も興味がある。
 是非一度ゆっくり話がしてみたいと思っていたのだよ」
 年はそんなに上ではないだろうが、体格のせいかかなりの中年に見えてしまう。それだけでも滑稽なので笑ってしまいそうになるのだが、ぐっと堪えた。笑いどころではないのだ。
「大変恐縮なのですが、本日は私の分隊の者達と訓練稽古をする事になっております。
 新人兵も多いですし、隅々まで目を行き届かせたい故、申し訳御座いませんが本日は辞退させて頂きたいのですが」
 やんわりとした口調とは裏腹に、セシリアの表情は硬い。彼女は軍に入ってから表情を顔に乗せるという事を控えてきた。そうした方が軽く見られずに済むのだ。ただでさえ女であるだけで軽んじられてしまうのだから、少しでも弱味を見せぬ様に気を配ってきた結果の顔でもある。
 しかしセシリアのその言葉にもめげず、男は尚も食い下がった。
「ほうほう、流石その若さで中将にまでなっただけあって部下達の育成にも熱心なのだね。
 結構結構、そういった者に兵士というのはついてくるものだ。
 だがたまにはこういう誘いにも乗らねば、君もそれ以上の地位は望めんぞ?」
 まるで見下す様な目で、男はセシリアに対してそう言う。気持ちの悪い男だと彼女は思ったが、おもむろに肩に乗せられた手が一層その気持ち悪さを増してくれた。男はセシリアの肩に手を乗せたまま、彼女の全身を嘗め回す様に見てからまた下品に笑った。
「バジリオス君、焦らすのも女性の嗜みだが、私はそんなに気が長く無いのだよ。
 君が断るなら、私もそれなりの考えがある」
「………」
 ああ本当に下らない、何故こんな奴が将軍なんだとセシリアは愛する祖国の行く末を案じずにはいられない。蹴落としてこの男の上にすぐにでも上り詰めてやりたいと思ったのだが、そこに至るまでのプロセスが今の所彼女には用意されていなかった。
 さてどうやってこの気持ちの悪い状況を打破するかと押し黙っていると、男が舌打ちをした。
「さあ、返事をしたまえバジリオス君。さっきも言ったが私は気が――」
「セシリア君、こんな所に居たのかね。随分探したよ」
 男が醜く顔を歪ませたと思ったその時、不意に別の明るい声が男の声を掻き消したので、セシリアは思わずそちらの方を見てしまった。ファーストネームで呼ばれる事が滅多に無いので誰かと思ってしまったというのもある。しかしそこに居たのはセシリアが思いも寄らない人物だった。
「これは……大臣殿、どうされたのですか」
「ああコルドン将軍、取り込み中の所すまないね。
 彼女の軍規についての改正案を読ませて頂いてね、ちょっと話したい事があったのだが……お邪魔してしまったかな?」
「あ……いえ……」
 柔和な笑顔を見せてそう言った人は確かにこの国の大臣その人で、だから将軍といえども国王の信頼の篤い者相手に不遜な態度をとる事が出来なかったらしく、男はさっきの威勢はどこへ言ったと聞いてやりたい程に縮こまった。その姿も滑稽でセシリアはまた吹き出しそうになってしまったのだが、すんでの所で耐えた。
「急な用事でなければ、済まないが今日の所は私に譲って頂けないかな。陛下にも書面をお目通しして頂かなければならないし」
「それは……あぁ、はい……」
大臣は穏健派と言われているだけあって争い事を好まない性格らしく、対応も穏やかなのだが、相手に有無を言わせない所もある。そういう部分をセシリアは評価していて、この国はこの方による部分も多いのだろうなと思っているのだ。
「申し訳ない、感謝する。……セシリア君、行こうか?」
「あ、はい。では将軍、致します」
 微笑みながら促されたセシリアは恭しく男に頭を下げると、先に歩き出した大臣の後を追った。残された男は、何処か腑に落ちない様な顔で二人の後姿をじっとりと睨んでいた。



「……あの、大臣殿」
「何かね?」
「私の案に、何か不都合でも……?」
 前を歩く大臣の背にセシリアが言葉を投げると、彼は緩やかに振り返った。相変わらずの微笑は何故かセシリアに尻込みさせたが、その理由は彼女にも分からない。大臣はセシリアのその問いに、少し困った顔をした。
「いや、別にこれと言って無いよ。ただ、絡まれている様だったから、ね。
 君が不本意そうな顔をしていたから声を掛けただけだったんだが……迷惑だったかな」
「あ……いえ、……助かりました……本当に」
 セシリアが軍規についての書面を提出したのは本当だったし、殆ど話した事が無い大臣にまさか助け舟を出されるとは思っていなかったので、本気でその書面について疑問点でもあったのだろうかと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。思ってもみなかった事態にセシリアはどういう顔をして良いのか分からず、押し黙ってしまった。そんなセシリアを見て大臣はほんの少しだけ目を細めて、また微笑した。
「セシリア君、君がどんな手を使って上に行こうが、それは君の勝手だ。自由にすると良い。
 だがね、あんな小物を使った所で所詮はあの程度にしかなれないよ」
「………」
「まあ、君が将軍を使おうと思っていたかは知らないがね。少なくとも私は君には上り詰めて欲しいと思っている」
 柔らかな表情とは裏腹に、その言葉はセシリアの胸を抉ろうとする。大臣としてみても、恐らくはセシリアが体を使っていないという事くらいは承知しているだろうが、彼女はこの人にだけは誤解されたくないと思った。だからセシリアが何か言おうと言葉を選んでいたのだが、先に大臣が発言した。
「どうせ踏み台にするのなら、あんな小物より、そうだな、私を踏み台にするくらいの心意気でいなさい。
 君にはそれが出来る程の素質もある」
「……それは、……買い被り過ぎです」
「ふふ、自分を見縊ってはいけないよ。君がどこまで大物になれるのか、楽しみにしている」
 接触を持った事が殆ど無い大臣が何を思ってそう言ってくれたのか、セシリアには分からない。だが大臣はセシリアが近い未来に上まで上り詰めるという事を確信している様で、本当に楽しそうに笑った。その顔を見た時、セシリアはこの人が望むのなら上り詰めてやろうと思ったし、許可してくれているのだから踏み台にしてやろうとも思った。それは何も蹴落とそうと思った訳ではなく、純粋にそう思ったのだ。
「また何か絡まれたのなら、私の名前でも出しておきなさい。変な噂が流れない程度に……ね」
「はい、決して大臣殿にも私にも不利益が無い様に致します」
「良い返事だ」
 居住まいを直してセシリアが答えると、大臣は満足そうに頷いた。それを見て、セシリアも張り付いた表情を緩めて少し笑った。久しぶりにほっとして笑ったと、その時のセシリアは思っていた。