父として、友として、戦士として

 久方ぶりに多人数と組手をした彼は、この沸き上がった血の感覚のまま城に戻る事は避けた方が良いと判断し、塔に一人残って立ったまま腕組みをして瞑想していた。気にあてられ、本能を刺激された若者達が暴走すると面倒なので、彼は組手をする時は必ず城の外で少人数でやる。ケヴィンを城の屋上ではなく月読みの塔の屋上に呼び出したのは、城内の者達に気取られない様にする為だった。
 城外での手合わせはいつも通りの事であったが、今日は特にその判断は正しかったと彼は思う。先述した事が一番の理由であるし、実際自分達の剥き出しの闘志にあてられた見届け人達とも組手をしたけれども、中には座り込むまで彼に向かってきた者も居る。少しだけ、その若さが羨ましかった。そしてもう一つ、一人になって暫くした後に不意に感じた空気のざわめきが同程度の理由となった。
 それなりに遠い記憶の中にあるその気配は、しかし彼にとって懐かしくもあるが決して忘れる事は無いものだ。彼は自分が強いと認めた者の気配は、たとえほんの僅かの期間しか共に居なかったとしても何年経とうが覚えていて、取り分けこの重厚でどこか鋭さのある気配は、先程まで組手をして漸く鎮めた彼の闘争心を刺激し、僅かに震わせた。
「……とうにヴァルハラにでも逝ったかと思っていたが」
「ヴァルハラ? お前がそんな冗談を言う奴とは思っていなかった、意外だな」
「お前はワシ……いや、オレを何だと思っているんだ。そもそも冗談を言ったつもりは無いぞ」
 どこからともなく姿を現した男に彼は特に驚きもしなかったし、黄金色の鎧をその身に纏った男が彼の記憶の中の姿と殆ど変わらなかった事にも動揺しなかった。懐かしさのついでに一人称を若かった頃に戻すと、男は口角だけ上げてみせて音もなく彼に歩み寄る。そう、足音一つ立てずに。
「お前のものと似ている魂の色をした子を見た。生憎と話す時間は無かったが」
「オレもお前の髪と目の色がそっくりな男と会った。オレとケヴィンが闘っている間、そこで微動だにせず見ていた」
「奇遇だな、お前の魂の色に似ている子も俺とデュランが戦っている間、じっと俺達を見ていた。仲が良いんだな」
 男が何故ここに居るのか、何故昔と変わらぬ姿なのか、そんな事は彼にとって特に興味は無い。自分の目の前に現れた、ただその事実だけが重要なのであって、それ以外は何ら問題無かった。もう二度と会う事も無いだろうと思っていた者が現れたのだ、驚きよりも懐かしさが――彼にしては珍しく嬉しさが勝っていた。
 十九年前に森から出ざるを得ない出来事が彼を襲い、暫く人間と行動を共にした経験があり、いくらその者達が獣人を蔑んでいないと分かっていても自分と同じ場所に居るのは居心地が悪かろうと、彼は大抵一人で空母内の人気が無い所に居るか野営での火の番を買って出ていた。月夜の森から出て、慣れない太陽の光に具合が悪くなった事もあり、とにかく夜が恋しくて夜間に外に出ていたかったというのもある。フォルセナが陥落しアルテナに落ち延びた時も夜間のアルテナ城の城壁の上で月を眺めていて、その時に声を掛けてきたのがこの男だった。寒いだろう、風邪ひくぞ、と差し入れてくれたウォトカ入りの紅茶と松の実のヴァレニエを飲み食いしながら、お互いの国の事をぽつぽつと話した。城壁の上から見える月明かりに反射する白銀の雪、良い香りのする紅茶、濃厚なコクのヴァレニエという何ともロマンチックな条件が揃っているというのに、何が悲しくてむさ苦しい男二人で国防の話なぞしているのかと笑った事を彼は覚えている。
「では、お前も息子と戦ったクチか」
「ああ。自分が認めた剣士の腕の中でこの世を去るのも悪くなかった」
「去ったのにわざわざ戻ってここに来たのか?」
「デュランと戦った時の実体も無くなったし、あの世に直行かと思っていたらどうも少しだけ時間に猶予があるらしくてな。デュランとお前の息子が一緒に旅をしているのが嬉しかったものだから、別れの挨拶も兼ねてお前に会っておこうかと思って」
 あの一件以来、アルテナ城も陥落した以降の戦いの中、男はよく彼を気にかけてくれた。慣れない人間との共同生活に距離を測り損ねている彼と、同じく距離感が上手く掴めていない仲間達との中間地点に立ってくれていた。彼は王であり、友と呼べる者は殆ど居なかったけれども、恐らくこの男は彼の数少ない友と言っても差し支えはない。だから男はこうやって別れの挨拶に来てくれた。義理堅い事だ、と彼は声に出さずに呟いた。
「強い剣士に育ってくれた。あれならアニスにも立ち向かえるだろう」
「あれも随分強くなった、勝てるかどうかは本人の努力次第だろうが」
「ふ、静かな月明かりの下という何ともロマンチックな情景なのに、何が悲しくてむさ苦しい男二人で息子の成長を喜んでいるんだろうな」
「何だ、オレの部下が居た方が良かったか?」
「もっとむさ苦しくなるから嫌かな」
 二人が仲間と共にミラージュガーデンでアニスと戦った当時、生まれてもいなかったデュランとケヴィンは、父親と同じ様に魔女に挑もうとしている。戦士として不安は無いが、では父としてはどうかと問われれば、二人共僅かな心配はある。ただ、その背を送り出してやった事に後悔は無かった。彼も男も、お互いのそんな心境を察知し、顔を見合わせて苦笑した。
「じゃあな、ガウザー。ニヴルヘイムで待っているから、その時が来たらお互い本気で手合わせしよう。結局お前とは一度も出来ず終いだったからな」
「オレがニヴルヘイム行きなのは分かるが、お前はヴァルハラ行きだろう。さっきも言ったが冗談で言っている訳ではないんだが?」
「竜帝に操られて息子を殺そうとしていたんだ、流石にヴァルハラには逝けんだろうよ。もし俺がニヴルヘイム行きではなかったら、お前を訪ねて行こう」
「……は! お互い息子に一度は膝をついた身だ、それまでに精々鍛えておくとしようじゃないか」
 本当に数少ない、軽口を叩ける程の間柄であった男は、彼の言に深く頷いて良い笑顔を見せた。何も後悔していない、清々しい笑みだった。己が認めた実力の剣士と戦いこの世を去る事が出来る男を、彼は心の底から羨ましいと思ったが、顔にも口にも出さず、薄い笑みを浮かべたまま軽く手を挙げ握り拳を作って見せる。それを見て男も心得た様に握り拳を掲げて見せ、永の別れを無言で告げた。男の姿が消え失せた後も彼は長い間その場に立ち尽くし、人生の中でも五本の指に入る程度には記憶に残る日になったとぼんやり思った。