拳の中の忠誠

 ビースト城は住まう者の多くの気配があり賑やかに感じるが、この月読みの塔は訪れる者は獣人でも殆ど居らず、普段から静かだ。その静かな塔の最上階は森の木々が風と遊ぶ音と、森の中で遠吠えする同胞達の声が時折聞こえる程度で、そんな場所に彼らは月光の下で佇んでいる。
 塔の一階には、本来なら月のマナストーンが鎮座していた。そのマナストーンはとうに失われ、目覚めた月の神獣はマナの聖域でマナの剣を抜いたという勇者によってこの場所で倒された。その勇者というのが、彼の視線の先に居る男の――王の息子だった。何でも、親友である仔狼を殺してしまったと勘違いし、聖都ウェンデルで情報を得たマナの剣を求めて旅立ったらしい。暫く姿を見掛けなかった上に城内に大きな穴が開いていたので、てっきり親子喧嘩をしたケヴィンがミントスにでも行っているのかと彼は思っていたが、森を出たと王から聞き、相変わらず自分の仕える王は何もかも言葉が足らないと心の中で溜息を吐いたものだ。
「……お戻りにならないので?」
 自分以外の誰もが遠慮して声を掛けなかったその大きな背中に、この場に居る最古参の親衛隊員である彼が漸く問う。側近とも言って良い彼は王から見届け役を頼まれ承諾し、この場に数人の隊員を引き連れて側に控えていた。彼は若かりし頃の王の強さに惹かれ、古くから仕えているが、彼以外の見届け役の隊員の忠誠心はまばらだ。勿論、強さが全てであるこの国では絶対的な力を持つ王をリーダーと認めて付き従う者ばかりであるし、今までも王であった者は居ても現在の王国を築き上げたのは今この場に居る王であるから、城の兵士達は王を敬服している。ただ、その座を狙う者は多く、王もそれを問題視せず挑んでくる者は全て実力で打ち倒してきたというだけだった。その度、見届け役として控えていたのが彼であるが、久しぶりに声が掛かったと思えば挑戦者がケヴィンであると聞き、思わず時期尚早ではと思ってしまった。
「……お前から見て、どうだった」
「どう、とは」
「あれが強くなったのか、ワシが衰えたのか、あるいは両方か」
 王は、息子であるケヴィンが悪しき者と戦う為に必要であると探しにきた本能のオーブを巡り、月読みの塔のこの最上階で戦った。ケヴィンは知らなかった様だがそのオーブは歴代の王が実力を認めた者、有り体に言えば王と戦って勝った者が継ぐ事が出来る、謂わば王位継承権を有するもので、だから彼は見届け役を賜った時に時期尚早だと思ったのだ。何の小細工も無い、己の肉体のみを武器とした拳同士のぶつかり合いは、今までの挑戦者達との戦いよりも遥かに凄まじく、ペダンに城を攻め込まれ陥落した時でさえ見た事が無かった程の激しさで、彼よりも年若い隊員達はその苛烈さに呆然としていた程だった。畏怖の念を以て見ていたと言っても良い。
 そんな強大で圧倒的な強さを前にしても、ケヴィンは怯まなかったし立ち向かった。何度倒れても立ち上がり、馬鹿正直に真正面から向かっては拳を繰り出した。城から旅立ち、多くの戦いを経験して高度な立ち回りを覚えたであろうし、実際彼はケヴィンが攫われたフェアリーを奪還すべく城に戻ってきた時にどういう戦い方をしているのかを見たが、獣人兵相手に鮮やかな立ち回りをしていて感心した。しかしその鮮やかさは王の前には無く、ひどく泥臭い戦い方だった。だがそれも、恐らく王がそう望んだと判断したからなのだろう。……否、王がそういう戦い方をしたからかもしれない。
 ケヴィンは、確かに強くなった。王に膝をつかせる程、王位継承さえ意味するオーブの受け渡しをされた程に強くなった。だが、昔から仕えている彼は知っている。
「全盛期の貴方は、ケヴィンよりも今の貴方よりも強かった」
「………」
「けれども国を纏めるには強さだけあれば良い訳ではないと、王よ、誰でもない貴方がご存知の筈だ」
 王は、強い。それは誰もが認めるであろうし、反論する者も居ないだろう。そして多くの場合、王はその力を国と民の為に使っていた。一国の王ではなく一人の男として力を誇示したのはただ一度きり、人間の女を伴侶に迎えた時だけだ。人間を憎む獣人を統べる王がよりによって人間の女を娶るとは、と反対した者達の中でも過激な者を制圧した時だけだった。
 本音を言えば、彼だって人間を好ましく思っていない。しかし個を捨て民の為の存在となり、その中で多くのものを失ってきた王の、初めての我儘だったのだ。ならばそれくらい叶えてやれずに何が親衛隊か、と腹を括った当時親衛隊隊長だった彼は、隊長の座を辞して王妃となった人間の女の付添人となった。忙しい王に代わって、反対派の者達から王妃を守る為だった。
 そこまでさせたのは、王が強いからだけではない。そうやってちゃんと我儘も言い、弱さも見せ、何より一貫して自分の信念と信条を曲げずに誰に対しても平等であったからだ。そして、何より。
「貴方と戦っていた時のケヴィンのあの目――あれは、貴方が先代の王と戦った時の目と同じだった。強く、揺るぎない意志を持つ良い目だ。だからこそ貴方はオーブを譲ったのではないですか」
「ワシがわざと負けたと言いたいのか?」
「まさか。楽しさのあまり体力の配分を誤っただけでしょうに」
「……ふん。まあ、確かに久方ぶりに楽しめた」
 世界が滅ぼされようとしているから必要だと言われても王が簡単にオーブを渡さなかったのは、一人の戦士として強い者と戦いたかったからだ。強くなった息子と、自分と対等に戦える戦士と、真正面からぶつかって戦いたかったのだろう。少なくとも彼はそう解釈している。その戦いの最中、二人の戦士の目は、オーブの事や世界の事など一切忘れてお互いを捉え、強い者と戦える歓びに満ちていた。そして、王の背には自分の全盛期の頃に今のケヴィンと戦いたかったという微かな悔しさが滲んでいた様に彼は思う。生きとし生けるものは必ず老いるし、いつまでも若い頃のままの強さではいられない。進行を遅れさせる事は出来ても、止める事は決して出来ない。
 それでも、オーブは譲渡されたとしても、彼の仕える王はただ一人だ。老いようが、王位を譲ろうが、目の前の男ただ一人なのだ。
「興が乗った。お前達、組み手に付き合え」
「おや、まさか直々にお相手頂けるとは。ケヴィンに感謝しろよ、お前達」
「は……はっ!」
 親衛隊隊長であった頃はよく組み手の相手を務めたものだが、若手の台頭、取り分けルガーが隊長の座に就いてからはその機会がめっきり減っていた彼は、声が掛かった事に年甲斐無く歓喜した。勿論ケヴィンの様な強さは無いが、あれ程の戦いを見せ付けられては嫌でも血が騒ぐ。ケヴィンに対して感謝しなければならないのは誰でもない自分なのだが他の隊員にそう言った彼は、王と間合いを取りながら静かに構え、隊員達の準備が出来たと判断すると獣化したその身で石畳を蹴った。相対する王の、体は老いても若い頃と変わらぬ純粋な闘争心と強い光が満ちている目に、言い様もない充足感を感じていた。