マフィン

 型紙からあふれんばかりの、甘い香りがする大きな山に、満月色の瞳が一層輝きを増している。旅の中で食事の礼儀作法をある程度覚えたとは言え、バスケットに盛られた大きなマフィンは魅力のスキルを持っているらしく、ケヴィンはテーブルに身を乗り出して繁々と眺めた。今日はケヴィンだけではなく、シャルロットも同様にテーブルに乗せた手の上に顎を乗せてバスケットの山を見上げていて、ピッチャーから牛乳を注いでいたデュランは注意したものやら苦笑したものやら、判断しかねていた。
「二人とも、背筋を伸ばそうか? そうそう、折角の男前と別嬪をよく見せておくれな」
 そんな二人の姿勢を正したのはマフィンを焼いてくれたステラで、言われるがまま背筋を伸ばしたケヴィンとシャルロットに朗らかに笑った。彼女はこんな風に悪癖を正す事が非常に上手く、デュランもこの伯母のお陰で国王の前に出ても恥ずかしくない礼儀作法を身に付けた。幼い日々の父母の躾もあろうが大半はステラに依るものであるから、デュランは今でも彼女に頭が上がらない。ある意味、幸せな事だと思う。
「これが、マフィン?」
「そうだよ。今まで食べた事無いかい?」
「似た形のは、ある、と思う」
「あれはカップケーキでちよ、ケヴィンしゃん」
「あっはっは。マフィンとカップケーキは似てるからね」
 キッチンを片付け終わったステラが着席したのを確認してから尋ねたケヴィンは、旅の中で口にしたものと合致するのかどうか自信が無く、予想通りシャルロットから訂正が入る。ステラは美味しければ良いんだよ、と言いながらデュランを見、幼い頃の甥も同じ様にカップケーキとマフィンを同一視していた事を思い出しながらニッと笑った。そんな伯母に、デュランは牛乳を注いだグラスを供して微妙な顔で押し黙る。
 マナの聖域で新たなマナの女神となったフェアリーに別れを告げ、フォルセナに戻ってきたデュランと共に英雄王と謁見した後、ケヴィンとシャルロットは初めてデュランの自宅に招き入れられた。旅が終わるまでは家に帰らないと頑なに言い張ったデュランに了承の意を示していた二人は、それでも無事旅を終えた暁には時折聞かされていたステラの手料理、取り分け絶賛していたマフィンを食べたいと申し出ており、今日めでたくこうやってありつけた訳だ。
「デュランに聞いたけど、好き嫌いは無いって言うから色々作ってあるよ。ほうれん草やニンジンのマフィンは夕食に出してあげようね」
「夜も、ここで食って良いの?」
「急がないなら泊まっておいき。ウェンディも、夜までには起きるだろうし」
 この場に居ないデュランの妹は、兄が無事な姿で帰ってきた事、そして記憶にないが繰り返し聞かされた偉大な父親が冠していた称号を兄が新たに継いだ事に感極まったのか大いに泣き、泣き疲れて眠っている。兄が長らく戻らなかった日々の中、最悪の事態も想像して眠れない夜も幾度となく過ごしたらしく、それをステラから聞いたデュランは眠るウェンディの泣き腫らした瞼を指先で撫でてから階下へ降りたのだ。
 ウェンディ抜きで食べたと知れるとまた拗ねられてしまうかもしれないが、起こすのはしのびなかったと言えば良いし、何よりマフィンを前にしたケヴィン達を待たせるのは良心の呵責に苦しんでしまう。そんな事を思いながらデュランは漂う香りを逃すまいと鼻をひくつかせているケヴィンに食って良いぞ、と声を掛けると、彼は瞳の輝きを顔いっぱいに広がらせた。
「やった! じゃあオイラ、これ!」
「シャルロットはリンゴにするでち〜」
「んじゃ、俺はプレーンにしようかな」
 ケヴィンがバスケットから取ったのはブルベリーがトッピングされたマフィンで、まだ温かかった。型紙を外す事なく山の頂上からかぶりつこうとする彼をシャルロットと共に眺めるデュランは、その口を象った笑みで伯母を驚かせていたなど気付いていなかった。
「……うまーい! あったかくてふわふわしてて、甘いけどそんなに甘くない!」
「時間が経つとしっとりしてくるぜ。晩飯の分も楽しみだな」
「うん!」
 一口食べて一層破顔させたケヴィンに満足したのか、シャルロットもデュランも手に持つマフィンを口にする。バターではなくオイルを使った軽い食感と甘さ控えめの生地の素朴な味は、旅の中で何度か宿屋で挑戦したもののデュランは納得出来る味に焼き上げられなかった。幼少の頃から食べ慣れた懐かしい味を食べる事が出来、何だか漸く帰ってこれた様な気がして、美味い、としみじみ漏らした。
 そんなデュランが、何故自分が食べるより先にケヴィンの一口目を見ていたのか納得したステラは、フォルセナの草原で放牧され健康に育った乳牛から搾乳された牛乳を飲みながら、騎士として帰ってきた以上の成長を見た気分になっていた。旅立ち前は他人より自分を優先する癖があったが、ウェンディの兄としての素地はあったもののこんな風に他人の食べる姿を嬉しそうに眺めているところなど見た事が無かったから、余計にそう思うのかもしれない。
「デュランしゃんがたべたいってよくいってたの、わかりまちね〜。おいしいでち!」
「うん、これ、デュランが作ったのよりうまい!」
「へえ? デュラン、あんた、マフィン作ってたのかい?」
「と、時々だよ……懐かしくて食いたかったから」
 随分と逞しく成長したもんだ、と感慨深くなると共に一抹の寂寥感を覚えていたステラは、ケヴィンと同じく嬉しそうに頬張って牛乳で流し込んだシャルロットが上機嫌そうに言った言葉を受けて、にやっと笑って隣の席のデュランを肘で小突く。ばつが悪そうに、しかし否定しなかったデュランが眦を赤くしており、子供の時分から照れた時はそこを赤くするのだと知っているステラは少し嬉しくなってしまった。どれだけ強くなろうとも、偉大な騎士であった父親と同じ肩書を背負おうとも、彼女にとって甥はいつまで経っても可愛い甥だ。この温かな食卓に帰ってきてくれて本当に良かった、と思った。しかも、気の置けない友人を二人も連れて。
「あー! ずるい、みんなで食べてるー!」
 そんな事を考えていると
「おや、ウェンディ、起きたかい? そんな膨れ面してないでおいで、別嬪が台無しじゃないか」
「そーでち、おんなのこはわらったほうがいいでち! というわけであんたしゃんはシャルロットのおとなりにくるでち」
「リンゴある?! 残ってる?!」
「はいはい、あるから慌てずお座り」
 既に二つ目を食べているケヴィンは自分が食べているマフィンがリンゴではなくプレーンである事に胸を撫で下ろしつつ、それでもシャルロットの隣に座ったウェンディに目を丸くしている。数ヶ月間、共に旅をしたシャルロットと似て非なる元気さを見せるウェンディは、それなりに改善されたとは言えまだ人見知りするケヴィンに対して距離感が掴めず、それを察したシャルロットが間に入って白詰草の様な緩衝材となってくれていて、彼は当たり前の様に自然に自分とウェンディの間に入ってくれたシャルロットにはにかみながらも笑った。シャルロットも旅を通して精神的にぐっと成長しており、デュランは折に触れて感心してしまう。今日も感心した。
「デュラン、あんた、良い友達出来て良かったね」
「ああ、それは本当にそう思うよ」
 自分の言葉に大いに領いたデュランに、ステラは目を細める。以前は自負ばかりが前面に出て友人など作ろうとしなかった甥は、僅か数ヶ月でこの先も長い付き合いになるであろう友を得た。デュランの二人に向けた眼差しは、若かりし頃のロキがまだ王子であったリチャードを見るそれを彷彿とさせ、ステラはもう遠い昔の記憶となってしまった光景を瞼の裏に蘇らせたが、すぐにその光景をケヴィンとシャルロットとウェンディを眺めて頬肘をついた手で隠した口元を緩ませているデュランに変化させたのだった。