猛獣の飼い方10の基本・その3:きちんとききかんりをしましょう

 ファルコンは急いでいる。これでもかという程、急いでいる。どれ位急いでいるかと言えば、擦れ違う者達が声を掛ける暇も無く疾風の様に走り去ってしまう程急いでいる。本来ならば走ってはいけない所で全力疾走しているファルコンが向かう先には彼女が会いたくて堪らない者達が待っているので、彼女は全力で走っている。
 そして辿り着いた広間の中央に設えられているソファに座っている人を見ると、ファルコンは心の底から愛情を篭めて名前を読んだ。
「サンドアロー、ホークアイ!」
「……ああ、ファルコン、戻ってきたのか」
 ファルコンに呼ばれた彼女の夫、サンドアローは腕に抱いている小さな息子をあやしながら彼女の方へと振り返るととても優しげに微笑んだ。ファルコンはサンドアローのこの笑顔が好きだ。なので、自然と顔が綻んでしまう。
「傷はもう良いのか? ホークアイを任せきりにしてしまってすまない」
「良いんだ、僕もホークアイを独り占めに出来るからね」
 おどけてそう言って見せたサンドアローはファルコンが息子を抱きたがっている事を察知して、彼女に腕の中の息子を彼女へと渡す。するとホークアイは暫くぶりの母親に会えて嬉しいのか、きゃあきゃあと笑ってファルコンの顔へと手を伸ばした。小さな柔らかい手がファルコンの頬に触れ、そんな些細な事が彼女には酷く幸せに感じてしまう。愛しい息子に頬擦りをすると、ホークアイも嬉しかったのかまた声を上げて笑った。
 そんな風に暫くの間親子三人水入らずで過ごしていると、広間の入り口の所で自分達の様子を伺っている人影に気付いて、ファルコンは視線をそちらに向けた。視線の先には声を掛けようかどうしようか悩んでいる風な幼い少年が立っている。ファルコンが笑顔で首を傾げると、少年ははっとした様な表情を浮かべたのだが、何かを言おうとする前にサンドアローが声を掛けた。
「やあ、最近ずっと僕達の所に来ているけど……どうしたんだい? 良かったらこっちに来ないかな?」
「……良いの?」
 サンドアローの言葉におずおずと問うた少年に、ファルコンもにっこり笑って頷く。ホークアイが生まれてからというもの、ファルコンは取り分け子供に対して優しくなった。それまでも子供は好きだったし、異母弟が年が離れているというのもあって子供の相手をするのも好きだった。
「この間からずっと来てたけど……僕も声を掛けて良いのか分からなかったんだ、ごめんね」
「ううん、だって俺、獣人だから」
 そう、先日から何度かサンドアローとホークアイの様子を見ていた少年は獣人だった。獣人は人間を嫌っているというのが一般的であった為にサンドアローは少年に声を掛ける事が出来なかったのだが、今日は折り良く声を掛ける事が出来た。
「お母さんから人間は獣人を嫌ってるって言われてたから……話しかけづらくて」
 目線を合わせず足元を見ながら言った少年に、サンドアローは困った様に笑う。どうも同じ様に思っていたらしい。そんな事はない、と頭を撫でると少年はびっくりした様に顔を上げた。
「僕達も君達獣人から嫌われていると思っていたんだ。だから君に声を掛けて良いのか分からなくてね。
 でも君達の王様は僕達を助けるのを手伝ってくれたし、少なくとも僕は感謝しているよ」
「……本当?」
「ああ、勿論」
 王の事を言われて嬉しかったのか、少年がはにかむように笑ってくれたのでサンドアローも少しだけほっとした。別に自分だけで双方の種族の誤解を解こうとは思わないが、こんな風な小さな遣り取りが増えていったら良いと思う。
「で、どうしたんだ? 私達に何か用か?」
 その光景を微笑ましく見ていたファルコンが問い掛けると、少年はまた足元に視線を落とし、手をもじもじさせながら言おうかどうしようか迷っていたのだが、やがてちらりと上目遣いでファルコンを見ると小さな声で言った。
「あのね……赤ちゃん、抱っこしても、良い?」
 勇気を振り絞って言われたのであろうその一言は、少しだけ震えていた。恐らく少年がここまで来るというのも勇気が要る事であったのではないだろうか。母親から人間は獣人を嫌っていると言われているのであれば、わざわざこんな小さな子供がここまで来る筈が無い。
 ウェンデルに避難している獣人達は基本的に人間とは別の場所に集められている。それは別に差別ではなく、混乱を防ぐ為だ。ミントスの村の住民達はそこまで好戦的ではないし、そんなに人間に対して敵対心を持ってはいないのだが、獣王城に居た兵士達はあまり人間を快く思っていない。それを考慮しての振り分けであった。故に少年が避難している場所からこの広間までは結構な距離があると言って良い。なのに少年はここ数日、毎日サンドアローに抱かれているホークアイを遠目から見ていた。余程抱きたかったのだろう。
「ああ、この子は人見知りもしないから構わない。……ほらホークアイ、お兄ちゃんに抱っこされてこい」
 ファルコンは腕の中のホークアイにそう言うと、何の躊躇いも無く少年に抱かせた。ファルコンの言った通りホークアイは大して人見知りをしない為、少年に抱かれても母親を求めて不安がる事をせずに鳶色の目を少年に向けてぱちぱちと瞬きをしている。少年は赤ん坊を抱き慣れているのか、抱き方が覚束無いという事は全く無かった。
「本当だ、怖がらないんだね。普通は知らない人を怖がるのに……おっきくなったら、強くなるぞ」
 少年はひどく優しげな表情でホークアイに語りかける。ホークアイも少年の心の穏やかさを察知したのか、何事かの声を上げた。言葉を話せないので何を言いたいのか分からないが、少なくとも少年を気に入った様である。
「良かったなホークアイ、強ーい獣人のお兄ちゃんのお墨付きだ! 強くなれるぞ」
 ファルコンが少年の腕の中のホークアイの柔らかい頬を指先で突付くと、分かっているのかどうなのか、ホークアイはまたきゃあきゃあと笑う。少年も嬉しそうに笑っていた。
 その時。
「……フレディ、こんな所に居たのか」
 不意に広間の入り口の方から聞いた事のある声が聞こえ、三人は同時にその方向に顔を向けた。その瞬間、少年の体が硬直する。
「あ、……獣人王、様」
 少年は悪い事をして怒られるのを怯える様な声で自分達の王である彼を呼んだ。恐らく叱られると思ったのだろう。王である彼はそうでもないが彼に仕えている者達は人間を嫌っている。故に彼もそこまで人間に馴れ合おうとはしない為に、馴れ合うなと言うのではないかと少年は思った様だ。
「あ、あの、……えっと」
「ミュリンが探していたぞ。何も言わずにこっちに来たのか?」
「え……お母さんが?」
 しかし彼は全くそんな事を気にしていないのか、ファルコン達の方へ歩み寄りながら自分の後ろを親指で指し、少年に母親が探している旨を伝えたので、少年はその事に驚いたと同時にしまった、という顔をした。彼の言う通り、何も言わずに出てきたらしい。
「心配掛けさせるな。すぐ戻ってやれ」
 彼はホークアイを抱いている少年の頭を一撫ですると、ファルコンとサンドアローが驚いてしまう程の穏やかな笑みを浮かべた。二人は灼熱の砂漠で見た様な、闘っている時の彼の烈しい表情しか印象に残っていないのだ。そんな風に笑うとは思っていなかったのである。
「あの……」
 頭を撫でられた少年がおずおずと彼を見上げると、彼も少年が何を言おうとしているのか分かったらしく、ちらりとファルコンを見てからホークアイの頬を指先で撫でた。
「また抱かせて貰えば良い。取り敢えず今は帰ってやれ」
「……はい!」
 彼のその言葉に少年は顔をぱっと明るくし、ファルコンの方へと振り向く。そして名残惜しそうにホークアイを見て彼と同じ様に指先で頬を撫でると、ファルコンへと返した。
「また、抱っこしに来て良い?」
「ああ、いつでもどうぞ」
 最初に頼んだ時と同じ様にもじもじしながら聞いてくる少年が何だか可愛くて、ファルコンもサンドアローも小さく笑って頷いた。それに嬉しそうに笑った少年はファルコンの腕の中のホークアイに笑うと、彼に失礼します、と言ってから母親の元へと走り始めた。そして何かを思い出したのか、入り口近くで足を止めて振り返り、
「あ、獣人王様は赤ちゃん抱っこしたら駄目ですからね!」
 と謎の発言をしてから広場を後にした。残ったのはファルコン達親子と彼である。
「すまんな、驚かせてはならんから宛がわれた場所からはあまり出るなとは言っているんだが……」
「私は別に構わない。大体、子供に閉じ篭っていろというのも無理な話だ」
 少年の姿を見送った後にファルコン達の方へ向いた彼に、ファルコンも肩を竦めて見せる。ファルコンの父のフレイムカーンは孤児を引き取る事が多く、だから子供達がどれだけ活発な生き物であるのかをファルコンもサンドアローも知っている。だから別に少年の事はさして気にしていなかった。
「……弟をな」
 そしてぽつりと呟かれた彼の言葉の意図する事が掴めず、サンドアローが彼を見上げる。彼はファルコンの腕の中のホークアイを見てから少しだけ目を細めた。……その顔が、あまりにも憂いを帯びていたから、サンドアローは掛ける言葉を失った。
「あれはミントスが落ちた時、それと同じ頃合の弟を亡くしてな。……弟が恋しいんだろう」
 彼らの国、ビーストキングダムがある月夜の森の中のミントスという村がペダンによって侵略された事は聞いている。罪も無い無抵抗の住民が焼き出され虐殺されたとは知っていたのだが、まさか自分の息子と同じくらいの赤子まで喪われたとはファルコンは思っていなかった。否、思いたくなかったというのが正解か。
「……殺された、のか?」
 震えそうになった声を隠しながらファルコンが尋ねると、彼は緩やかに首を振った。
「村が焼かれた時、その炎の熱に耐えられなかった様でな。気付いたら死んでいたと言っていた」
「………」
 ファルコンは彼の言葉を聞きながら、知らぬ内に腕の中のホークアイを抱き締めていた。この小さな命を喪う事など、彼女には考えられない。少年の母親はどれだけ深い悲しみに襲われたのだろうと思うと、ファルコンは居た堪れなくなった。
「だが、まだ全てを喪った訳ではないからな。もう一人の子供は元気にああやって生きているしな……
 お前らがそんな顔をする事はない」
 ファルコンがあまりにも沈痛な顔をしていた所為か、彼は苦笑しながらそんな事を言った。彼なりのフォローなのだろう言葉は少しではあるがファルコンの表情を明るいものに変える。喪われた命は戻りはしないがまだ残されている命がある、その事は少年にも少年の母親にも救いとなっただろう。そうであれば良いと年若い夫婦は思っていた。
「……そう言えば、何であの子は貴方にホークアイを抱いてはいけないと言ったんですかね?」
 そしてはたと疑問を口にしたサンドアローが彼を見ながら首を傾げたのだが、彼は思い当たる節が無いのか同じ様に少し首を傾げた。あんな子供に注意されるという事は何かあると思われるのだが、当の本人は身に覚えが無いらしい。
「でも、良かったら抱いてやってくれないか? なるべく色んな人に抱いて貰って欲しいんだ」
「……ん……そう、か?」
 ファルコンがそう言いながら彼に向かってホークアイを抱え上げると、彼は少し躊躇ったものの、その小さな体を受け取った。少年と同じ様に慣れているのかどうなのかは分からないが、抱き上げる姿は結構様になっている。子供が居たとは聞かないが、あれだけ民に慕われているなら子供にだって懐かれているのだろうし、抱き慣れているのかもしれない。
「あうー。だぁー」
 そして彼が抱き上げてから暫くもしない内にホークアイは彼の髪を楽しそうに引っ張り、先程よりも無邪気に笑い始めた。繰り返すがホークアイは人見知りをしないので誰に抱かれても泣いたりせず、笑ったり大人しかったりするのだが、髪を引っ張ったり服を掴んだりするのは両親であるファルコンやサンドアローに対してのみである。珍しい事もあるものだ、とサンドアローは思っていたのだが、彼はされるがままではあったが困った様に立っていた。抱いたは良いものの、どうして良いか分からない様である。
「……な、中々見れなさそうな構図だな」
 ファルコンが笑いを噛み潰しながらそう言うと、彼はちょっとだけ不機嫌な顔でファルコンを睨んだのだが、それが照れである事はファルコンにもサンドアローにも分かった。
「失礼します、獣人王様、ちょっと用が……ああっ、抱っこしちゃ駄目って言ったのに!」
 暫く微笑ましくその光景を見ていたファルコン達の耳に届いたのは、先程の少年の声だった。肩で息をしている所を見ると、走って戻ってきたらしい。
「誰か呼んでいたか? 戻らんといかんな」
「お父さん達が、皆にお姿をって……」
「そうか……やはり慣れん場所では不安なのだろうな」
 どうも村人達は彼の姿を見て安心したいらしい。そうでなくても彼は人間と共に戦場へ出た身なので、心配なのだろう。まだ年も自分と大して変わらないのに、とサンドアローは妙な所で感心してしまった。そういう器の持ち主など、サンドアローは義父しか知らなかったのだ。
「じゃあ、また後でな」
彼がそう言ってファルコンにホークアイを返そうとした、その瞬間。

「ふぇっ、うみゃああああああぁぁぁ!!」

「……えっ?」
 その場の、少年とホークアイを除く大人三人の目が点になった。少年だけはやっぱり……と呟き、沈痛な表情を浮かべている。そう、ホークアイは彼の腕から離れた瞬間に泣き始めてしまったのである。
「えっ? ほ、ホークアイ、ど、どうしたんだ?」
「ほら、ホークアイ、ママだぞ」
「うみぇええええええん!!」
 何とか息子をあやそうとファルコンもサンドアローも語りかけるのだが、ホークアイは力いっぱい泣いている。腹が減っている訳でも、おしめでもなさそうではあるが。
「だから、抱っこしちゃ駄目って言ったのに」
大泣きするホークアイを見た後、少年はそんな事を言いながら隣の彼をちらりと見上げる。彼は俺が悪いのか? と言いたげに少年を横目で見ると、少年は深い深い溜息を吐いた。
「俺の弟の時も、抱っこした後ああなったの覚えてないんですか?」
「……あぁ、そう言えば」
「弟だけじゃなくって、他の赤ちゃんもああなったの、覚えてないんですか」
「……そうだったか?」
「そうですよぉ……」
 つまり彼は何故か赤ん坊に懐かれやすく、抱かれた子供は降ろされると悉く泣き出してしまうらしい。あやしているのが親なのにこんなに大泣きされてしまっては、とサンドアローはちょっとだけ切なくなってしまった。
「そ、その……何だ……、……すまん」
「う、うーん……」
 彼が首を傾げながらファルコンに謝ったのだが、ファルコンもどう言って良いのか分からず、唸る事しか出来なかったのだが、少なくとも二度と彼に息子を抱かせるのは止めた方が良いという事だけは分かった様で、少年の忠告は正しかった……と未だ泣き続けているホークアイを抱きながら途方に暮れた。

 ちなみに余談ではあるが、彼は某神官の一人息子にも初対面にも関わらず同じ様に懐かれてしまって大変だったらしいので、神官殿がちょっとショックを受けたとか、受けなかったとか。

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きちんと危機管理をしましょう。
その猛獣はこう見えて中々子供に、取り分け赤ん坊に懐かれやすいのです。
親としての威厳を保つなら、その猛獣に余り子供を近付けない事です。



 


































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 今どこに居るのかも良く分からない妻の無事を祈りながら、サンドアローは息子を抱いてあやしていた。手がかからないと言えば嘘になるが、それでもぐずる事が少ない息子のホークアイは、今日は珍しくぐずってサンドアローを困らせた。
 やはり母親が恋しいのだろうなとサンドアローは思う。赤ん坊というのは無意識に母親を探すものだ。そんなホークアイを何とか宥め、そして先程漸く寝ついた。久しぶりに子守りで疲れてしまったとサンドアローは苦い笑いが出てしまった。傍らに作った簡素な寝床にホークアイを横たえ、凝った肩を軽く叩く。まだ若いのに肩凝りか、と何とも言えない笑みが自然と溢れた。
 その時、こちらを伺う様な視線を感じて、顔を広間の入り口の方へと向けると、先日から度々訪れてきてくれている少年がサンドアローを伺っていた。否、サンドアローというよりホークアイを伺っていたのだろう。
「やあ、こんにちは。今寝てしまったけど、良かったらこっちにおいで」
 サンドアローが笑顔で声を掛けると、少年も表情をぱっと笑顔に変え、なるべく足音を立てない様に歩み寄ってきた。感心するのだが、少年は気配の消し方も足音の消し方もサンドアローが驚いてしまう程上手いのだ。森で暮らしている獣人は元々そういう事に長けているのだろう。
「随分ぐずってたね。お母さんが恋しいのかな」
「うーん、多分ね」
 少年が眠っているホークアイを覗き込みながら言ったのを受けて、サンドアローも肩を竦める。しょうがないよね、と少年は苦笑してホークアイの柔らかい頬を指で小さく突付いた。
「もうすぐ帰って来るよ。きっとね」
 どこか確信めいた事を言った少年はまるで弟に言い聞かせる兄の様でもあった。少年達を統べる王から少年はホークアイと同じ頃合の弟を亡くしていると聞いているから、恐らく少年はホークアイと弟を重ね合わせているのだろう。
「……でも、お母さんが帰ってきたら、もう会えなくなるね。ちょっと寂しいな」
「………」
 サンドアローは少年の言葉にはっとしてしまった。妻のファルコンが帰ってくるという事は即ち少年達の王も帰ってくるという事だ。それは少年達が月夜の森へ帰る事を意味している。月夜の森は獣人の森であり、獣人は基本的に人間を嫌っている。少年は例外なのだ。だから容易に訪れる事も出来るまい。
「……今すぐには無理かも知れないけど、この子が大きくなる頃には、僕達人間と君達獣人が手を取り合えていたら良いね」
 今が一番幸せだという様な表情で眠るホークアイの頭を撫でながら、サンドアローはそんな事を言った。今は無理でも、今回の戦いを切欠に少年や彼の王の様に人間に対してそこまで敵意を持たない獣人が増えたなら、そしてサンドアロー達の様に獣人に対して偏見を持たない人間が増えたなら、それもきっと夢物語ではなくなるまい。少年はサンドアローの言葉に小さく頷いた。
「……お兄さん、あのね……」
 暫くの間黙ったままだった少年はサンドアローの傍らで眠るホークアイを見てから、何かを決意した様に顔を上げてサンドアローを見た。サンドアローはそれに少しだけ首を傾げる。少年は視線を僅かに泳がせたのだが、最後にはサンドアローの目を見てから、言った。
「……俺の死んじゃった弟、……ホークって名前だったんだ」
「………!」
 生後間も無く死んでしまった少年の弟は、図らずもホークアイと近しい名を持っていたらしい。だからだろう、少年がホークアイの名を聞く度に少しだけ曇った顔をしていたのは。
「別に、言わなくても良い事なんだけど……、でも、もう会えなくなるから……
 同じくらいの生まれで、同じ鳶色の目だったから、弟が生きてるみたいで嬉しかったんだ」
「………」
「だから……いっぱい可愛がってあげてね」
 恐らく、少年は弟を目一杯可愛がりたかったのだろう。以前少年が訪れてきた時に、獣人は生まれてすぐに森に放され森に育てられるが、中には手元に置いて育てる者も居るのだと聞いた。少年の母親もその一人で、少年も少年の弟も親元で育っていたと言っていた。少年の弟、ホークが死んだ時、少年の母は森に放していれば死なずに済んだかもしれないのにと随分後悔したのだそうだ。
 サンドアローには、少年が泣きたいのをぐっと我慢している様に見えた。悲しいのを堪えて、泣かない様にしている風に見えた。まだこんなに小さいのに、とサンドアローは居た堪れなくなってしまい、気が付いたら少年の頭をそっと撫でていた。
「大きくなれなかった君の弟の分まで、君の代わりに可愛がるからね。
 ……だから何にも心配しなくて良いし、何にも我慢する事無いよ」
「え……」
「ずっと、我慢してたんだろう。大丈夫、ここには僕しか居ないから。だから、泣いて良いんだよ」
 少年は、来る度に母親の事ばかり心配していた。幼い子供を亡くし、悲しんでいる母親を何とか元気付けてやろうと、ずっと明るく振舞っていた様だ。だが、少年だって悲しくて泣きたかった筈だ。獣人を嫌っていると言われている人間の居住区に行ってはいけないと言われているにも関わらず、ホークアイを抱く為だけにたった一人でサンドアローを訪れた程、弟を恋しく思っていたのだから。
「お母さんの前では泣けないかもしれないけど、僕相手だったら気兼ねしなくても良いだろう?
 ずっと我慢したままだと、悲しいままだよ。
 さよならの前に、君の「悲しい」をここに残していくと良い」
「…………」
 少年の頭を優しく撫でるサンドアローは、穏やかな顔をしていた。それが少年が自ら塞き止めていたものをいとも簡単に崩し、少年の表情は見る間に歪んでいく。それを見てサンドアローは周囲を見回して、誰の気配も無い事を確認してから少年の頭を自分の肩に埋めさせた。
「誰も居ないから。泣く事は恥ずかしい事じゃないよ」
「う……う〜〜〜〜〜っ」
 苦しそうに、半ば呻く様に泣き声を上げ始めた少年は、小刻みに体を震わせ、サンドアローの肩に埋めていた顔をそのままずるずると下へと滑らせ、結局はサンドアローの膝に突っ伏して泣いた。しかしそれでも眠っているホークアイに無意識に遠慮しているのか泣き声を噛み殺し、小さな体に今まで溜め込んでいた悲しみを一気に外に出してしまうかの様に体を震わせながら泣いた。その間中、サンドアローは少年の頭や背中を優しく撫で続けた。同情をしていた訳ではない。ただ、少年のその悲しみが少しでも薄れれば良いと、そう思っていた。少年が泣いている間、ホークアイはそれでも幸せそうにぐっすりと眠っていた。



「……やはりここか」
 泣き疲れてそのままサンドアローの膝の上で眠ってしまった少年の頭を小さく撫でていると、不意に広間の入り口の方から聞いた事のある声が聞こえて、サンドアローは声のする方に顔を向けた。そこには少し苦い顔をしている少年等の王が立っていて、サンドアローは彼らが帰ってきた事を知った。少年がきっともうすぐ帰ってくると言ったのは当たっていた様だ。獣人の勘というのは当たるものなのだな、とサンドアローは妙な所で感心してしまった。
「戻られたのですか。……ファルコンは?」
「お前達の仲間に呼ばれてまだこっちに来れん。もう少ししたら来るだろう」
 静かに歩み寄ってくる彼は、少年がホークアイを起こさない様にと足音を忍ばせたのと同じ様になるべく足音を立てない様にしている風に見えた。ホークアイを気遣っているのか、少年を気遣っているのか、それはサンドアローには分からない。恐らく両方ではあるだろう。
「……泣いたのか?」
 そして彼は眠っている少年の閉じた瞼が少し腫れている事に気付き、眉を顰めたので、サンドアローは慌てて弁明をした。彼が怒ってしまったのかと思ったのだ。
「僕が泣かせたんです。……ずっと、我慢している様だったから」
「……そうか」
 しかしサンドアローの憂慮を余所に、彼はあっさりと眉間の皺を緩めた。サンドアローの短いその言葉に全て理解した様だった。
「度々来ていたみたいだな。迷惑じゃなかったか」
「いいえ、全く。逆に感謝しているんですよ。とても可愛がって貰いました」
 彼が少年を見遣りながら聞いてきたので、サンドアローは微笑を浮かべてそう答えた。少年が来るとホークアイの機嫌も不思議と良くなるので、最初の内は複雑な顔をしていたラークボーン達も訪れてくる少年に気軽に声を掛ける様になっていたのだ。だから、別離は少年だけではなくてサンドアローにとっても寂しいものであった。
「……この子を探しておられたのですか?」
「戻ってきたらまたどこかに行っていると言っていたからな……
 ミントスの者達は別に人間を嫌っている訳ではないが、俺にこれがお前の所に行っていると言うのは憚られたんだろうな」
 確かに、ミントスの村人達は気性は穏やからしいのでサンドアロー達人間に対してそう敵意の目を向ける事は無かったのだが、獣王城の兵士達は接触すら殆ど持とうとはしていなかった。彼はその兵士達を統制する者だ、その彼に向かって少年が人間の元に行っているとは大声では言えまい。
「帰る準備をせねばならんし、俺達もお前達も慌しくなるだろうからな。早めに戻そうと思ったんだが」
「……そう……ですか」
 彼の言葉に、別れの言葉も言えぬままお別れするのは寂しいとサンドアローは思ってしまい、思わず顔を曇らせた。今生の別れになるかも知れないのだ、やはりきちんと本人に別れを言いたいと思った。そのサンドアローの思いを見越したのか、彼はやれやれと言いたそうに頭を掻き、着ていたマントを脱ぐと少年の体にそっとかけてから、言った。
「子供は昼寝も仕事だ、起きたらマントを戻しに帰れと言っておいてくれ。お前に任せる」
 そして彼はサンドアローの答えを聞く事もせずに背を向け、また元来た方へと歩き出したので、意味を漸く飲み込んだサンドアローは彼の不器用な優しさに苦笑し、少年の頭を撫でながら返事をした。
「ええ、起きたら送って行きますので、ごゆっくり準備なさって下さい」
 彼はサンドアローのその返事に振り向く事はしなかったが、軽く右手を挙げてひらひらと振った。ぐっすりと眠り込んでいる少年と息子を眺めながら、サンドアローは両手に花というのはこういう事なのかな、と小さな幸せを噛み締めた。

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after 19years...

 懐かしい匂いがすると、フレディは思った。随分昔に少しの間側に居ただけの匂いをこんなに時間が経っても覚えているとは、我ながら記憶力が良いものだとフレディは小さく笑う。
 薄暗い牢の奥に閉じ込められた、まだ少年の面影を残した青年は彼に背を向けているからその表情を伺う事は出来ないが、何となく何かを企んでいる様な気がしていた。フレディはそんな青年の背に言葉を投げたかったのだが、すんでの所で耐えた。見張りは自分だけでは無かったからだ。しかし程無くしてフレディは青年と会話を交す事となる。
「なあなあ、ここの鍵、開いてるぜ?」
「な、に?」
 空々しい青年の言葉に、しかしフレディも空々しい言葉で返す。青年はフレディのその反応にしめたと思ったのか一瞬にやりと笑ったのを、フレディは見逃さなかった。こいつ、鍵開けやがったな。フレディはそう思ったけれど黙っていた。
「簡単さ、ほら、ここをこうしてさ…」
「ふんふん、」
「ほい、いっちょ上がり! ごめんな〜そのままそこに居といてくれよ!」
「……、」
 悪戯が成功した子供の様に笑った青年は、当たり前だがフレディを覚えていない。だからフレディがわざと閉じ込められてやった事にも気付いていない。
 フレディは、青年を牢から出したかったのだ。19年程前、赤子だった弟を亡くした自分の心の空洞を埋めてくれた、鳶色の瞳の子供を。

―――おっきくなったら、強くなるぞ。

 腕の中で無邪気に見上げてきた瞳は、今はとても強くて、真っ直ぐだ。その事にフレディは満足する。
 隣の牢をいとも簡単に開けて、急いで階段を駆け上がっていく足音を聞きながら、フレディは苦笑して牢の中で大の字に寝転んだ。そして、死ぬなよ、生きろよ、と呟いてから、後でルガーにどやされるな、ともう一度苦笑した。