愛のかたち#02

「どうか私の覚悟を汚さないで下さい」
 凛とした美しい微笑みで、彼女は何の躊躇いも無くそう言った。彼はその言葉に、何も言う事は出来なかった。



 しんと静まり返る部屋の中で、ホークアイは椅子に座ったまま項垂れ、額に手を当ててじっとしている。伏せられた瞼は先程から少しも動かず、それが彼の想いを如実に表している様だ。
 ここは、彼の生まれ育った場所ではない。遠く離れた山岳地帯の中腹に聳え立つローラント城に彼は居る。この国に攻め込んだ側であるナバールの者のホークアイがローラントに訪れる事が出来るのは、偏に王女リースのお陰と言って良い。リースはホークアイを含む他の仲間と共に先だってのマナの剣を巡る戦いの旅をしていたから、ナバールの事情というものをよく分かっている。それ故、ナバールの使者は大抵ホークアイが受け持っているから、彼は今ここに居るのだ。
 今回の来訪は、フレイムカーンのリースへの祝いを奏上する為に来ている。驚いた様に、そして戸惑いながらフレイムカーンから見せて貰ったローラントからの書状はホークアイも驚いた。否、驚いたどころの騒ぎではなく、どん底に突き落とされた様な気がした。
 書状はリースの直筆で、使われた紙も蝋印も細やかな心配りはあったものの、ひどく簡素な内容だった。世間話でもするかの気軽さで書かれた様な内容は、しかしホークアイのみならず恐らくローラントの者達にもショックを与えたに違いない。槍を扱うとはとても思えない様な繊細で美しい字で書かれた一文はどこか空々しく、おとぎ話の世界の内容かと思わせた。

『この度、わたくしローラント王女リースは、マナの女神と翼あるものの父にのみお仕えする巫女となる事に相成りました』

 女神と聖獣に仕える巫女となる。それは、リースがこの世のいかなる男とも、これから先死ぬまで誰とも番うつもりはないという意思表示に他ならなかった。勿論その書簡はナバールだけではなく、他のどの国にも送られた筈であるから、どの国の者であってもリースを所望するという機会は永遠に失われた。恐らく惜しむ声も多かっただろう。リースはアンジェラ程の華やかさは無いが、大人しく控え目な可憐さがある。マナの女神を模した像とリースを見比べ、同じ様な気品があると称する者も居る程だ。そんな彼女が一生独身を貫くと宣言した。しかもまだ二十にも満たぬ年の若さで、だ。
 正直な所、リースに対して淡い感情を持っていたホークアイにも動揺はあった。その想いを伝えた事など無かったが、いつかきちんと伝えて改めて迎えに来たかった。それなのにその機会を窺う隙も無く、あの書簡を送られてしまった。表情には出さなかったが、ホークアイの落胆は大きかった。多分、他の誰よりも。
 風貌と口調によって遊び人と見られてしまうホークアイだが、その実かなり潔癖で、必要以上に異性には近付かない。それが彼の中のルールであり、それを誇りにしていた。だからリースに対しても軽い男だと見られたくなかったから、軽口を叩く事はあっても失礼な口をきいた事は無かったと思う。常に一線を引いていたつもりであったのだが、今から思えば一線を引いていたのは自分ではなくリースであった様にも思えてきた。
 別に、ホークアイだって初めからリースが気になっていた訳ではない。行動を共にする様になって暫くしてから、祖国と行方知れずになった弟の為には自らを顧みない様な言動を取る彼女を、放っておけなくなった。勿論可憐な容姿も気を引いたが、それは二の次だったのだ。自分の想いを確信したのは、美獣が消え失せ、もう旅を続ける目的が無くなってしまったその時だ。あの時、ホークアイは許されるのであればまだ彼女と共に居たいと心の底から思った。リースもまた、まだ最後の敵を倒した訳ではないからと、他の仲間と戦いを見届ける事を選んだ。その時に自分の想いを言えば良かったのかも知れないのだが、情けない事にホークアイにはその勇気が無かった。そして結局言えず仕舞いのまま旅は終わり、それぞれ自国へと戻って、祖国復興の忙しい日々を過ごしてきた。そんな中の、リースの書簡だった。
 想いを伝えていなかったから、リースを責める事などホークアイには出来ない。それでも己の想いを秘めたままでは苦しいからと、リースの決定を覆せるとは思っていなかったが、ホークアイは使者として祝いを奏上した後にリースを呼び出して自分の素直な気持ちを吐露したのだ。何の飾り気も無い言葉で、好きだと。するとリースは少し何か考える様な表情を見せてから穏やかに微笑み、そして言った。


 貴方なんて、死ねば良いと思っていました。
 ああ、誤解しないで下さい、今ではそんな事は全く思っていないのです。でも、最初は思っていました。
 いくら貴方が関与していないと言っても、ナバールが私の祖母を、そして父を奪った事に変わりありません。私だって人間ですから、八つ当たりだってしたくなります。だから貴方なんて、私の知らないどこかで野垂れ死んでしまえば良いと思っていました。
 でも……やがて思ったのです。貴方は私の心を掻き乱し、平常というものを保たせてくれません。それがどういう事であるかは、私には分かりたくありませんでした。今も分かりたくありません。私は昔も今も、これからもずっと、ローラントの為だけに生きていたいからです。決してその他のものの為にこの身を捧げたくはないのです。小さい頃からずっと、そう思って生きてきました。この決意がどれ程のものであるか、分からない貴方ではないと思います。
 だから、お願いです。どうか恋情で私の決意を汚さないで下さい。


 それを言い終わるまで、リースは終始微笑んでいた。だがその微笑みは、柔らかに見えてもひどく冷たく、ホークアイを拒絶していた。ホークアイの想いを受け取る事は決して出来ないと、その言葉の中に籠めていた。だからホークアイも何も言う事が出来なかったのだ。
 ホークアイは、自分にはリースの様な覚悟が足らなかったと恥じている。確かに彼女は王女として育てられているのだから、ある程度はそういう傾向があってもおかしくは無いのだが、ホークアイだって頭領のフレイムカーンに育てられ、その地位を受け継ぐであろう息子のイーグルと物心つく頃から一緒に居た。なのにホークアイにはこの身を全てナバールに捧げ、自分を押し殺すという覚悟など少しも持った事は無かった。否、そんな事はフレイムカーンもイーグルも望まぬだろうし、実際そうあろうとすれば本気で怒って止めるだろう。だがリースには、もう止める者は居ないのだ。誰も彼女の決意を覆す事など、出来ない。

 ――どうか恋情で私の決意を汚さないで下さい。

 リースの言葉には、重みがある。その、ある種の悲壮すら漂う強い想いを、己の一方的な想いで汚してはならない。ホークアイはぎゅっと目を閉じてから細い溜息を吐いた。
 だが、その時ふと脳裏に一つの疑問が浮かび、ホークアイは思わず目を開いた。確かにリースははっきりと、恋情で決意を汚さないでくれと言った。透き通る声を震わせる事無く。だが……

 ――誰の恋情だ?

 あの時、ホークアイは告白したのは自分だから、てっきり自分の恋情で汚すなと言われたのだと思っていた。だが今、冷静に考えれば、リースは一言もホークアイの恋情とは言っていない。それに、リースはホークアイが心を掻き乱して平常を保たせないとも言った。彼女の死ねば良いと思っていたという一言がショック過ぎてその言葉が頭に残らなかったのだが、それはリースも少なからずホークアイが気になっていたから平常が保てなかったという意味にも取れるのではないか。
 だがそれに気付いた所で、もう遅い。リースは既に長かった髪を落とし、巫女となる儀式を終えた。その彼女を万一攫ってしまったとなれば、ホークアイ個人の問題ではなくナバールとローラントの問題になってしまう。ただでさえ二度も攻め込み、王である者を二人も奪ったナバールに、更なる罪を背負わせてはならない。恐らくリースもそれを見越して、ホークアイがローラントに到着する前に髪を落としたに違いない。最後まで彼女の方が一枚上手だった。
 それでも、リースがどこか他の男に嫁ぎにいくという事も無くなった。彼女は死ぬまで聖女であり続ける。女神に仕える者は婚姻も出産も許されているが、翼あるものの父に仕える巫女は許されないからだ。それはそれで彼女に似合っている様な気がしてきた。
 ならば、自分も生涯彼女への想いを貫けばそれで良い。何も結ばれるだけが男女の形ではあるまい。まさか自分がそんな事を思う様になるとは、とホークアイに何とも言えない苦笑が漏れた。
 これからは気軽に巫女においそれと会う事はままならない。その代わりに、手紙を何度も送ろうとホークアイは思った。ナバールが今どうなっているか、どれだけ良い方向に向かっているか、それを伝える為に。そして彼は荷物の中から封筒を取り出すと、その中の白紙のカードに一言したためた。



 ――恋情で汚すのではなく、愛情で見守る事は許していただけますか?