墓標

 光の神殿は大きく、敷地は広い。王城に勝るとも劣らない程の広大な敷地の中に、多くの僧侶が勤め、住まう。その敷地の一角に隠された様に、そして隔離された様に、密やかに存在する庭園がある。古い壁で囲われたその庭は箱庭と呼ぶにふさわしく、多くの薬草が栽培されており、見る者が見れば感心を通り越して垂涎する庭であるだろう。
 この庭園の主は、ウェンデルに戻ってきたヒースだ。マナの女神となったフェアリーから命を与えられ、聖都に戻る事が出来た彼は、ケヴィンがマナの聖域から庭園の鍵を持ち帰ってきていたので庭園に入る事が出来た。庭に詰まっていた生前の――聖都に居た頃の父の想いと知識を継ぎ、試行錯誤しながら薬草を育てて調合し、薬を作っている。マナが失われてしまった今、光魔法で傷を癒やしたり軽度の病気を治したりする事が出来なくなってしまったので、どの病気にはどの薬を調合するのか、また似た症状でも人によっては別の薬を使ってみるなど、様々な事を試していた。
 勿論、それは治験者の同意を得てからやっている事だ。拒絶する者に薬を使用しては効くものも効かないし、無理矢理の使用はヒースも不本意であるから、必ず病人の意志を聞いてから施す。マナが失われ、回復魔法が使えなくなったとは言え、今でもその力に縋ろうとする者も多いし、このウェンデルは光のマナストーンがあった古代遺跡の近くのせいかヒールライトの恩恵を受けた者も多い為に、医学や薬学は二の次と思っている者もそれなりに居た。
 その事を危惧していたのか、はたまた本来の性格からだったのか、ヒースの父は光魔法に頼らない病気や怪我の治療を研究していたから、ヒース本人もこの庭園で同じ事をしている。遺されたノートや文献、古い書物からは父の息吹が感じられ、父に師事している様な気分になれた。実際、ノートには後の人間が見る事を意識しているのであろう書き方がされてあり、「取り扱いには十分注意する事」「棘で怪我をしやすいので手袋着用が望ましい」などの注釈も散見され、自惚れかもしれないが父が自分に宛てて書き残してくれていたのではないかとヒースは思ったりもした。
 今日は歯痛に効く薬でも作ってみようかと、丁子の花蕾を干したものを用意していると、庭園の入り口の扉が開いた音がした。この庭園をシャルロットとケヴィンと一緒に見付けてから、全体的に錆びていた扉を彼らに手伝ってもらって新しいものに取り替えており、神殿の神官達にも存在は知らせているので他人の来訪は不思議な事ではないのだが、元の持ち主の事もあってか殆ど誰も立ち寄らない。珍しい事もあるものだとガゼボから顔を出すと、そこには見知った顔があった。
「司祭様。どうなされたのですか?」
「最近、お前の顔色がとても良くなったのでどうしたのかと思ったら、シャルロットがこの庭の事を教えてくれてな。美しい良い庭じゃ、お前の体にも良い影響を与えてくれておるのだろう」
「あ……、申し訳ありません、司祭様にはお伝えしておらず……」
 扉を閉め、ゆったりとした足取りで小道を歩いてきたのは光の司祭で、彼にはこの庭の事を話しそびれていたヒースは顔を曇らせた。今でも巡礼に来た者や悩みを相談しに来た者の対応で日々忙しい司祭の耳に入れるタイミングを逃していただけで、意図して言わなかった訳ではないのだが、何となく後ろめたくなる。しかし、そんなヒースに光の司祭は緩やかに首を横に振った。
「良い。ここはもうお前の庭じゃ、ワシに気兼ねなく使いなさい。……お前に唯一残された、あれの遺産じゃからの」
「………」
 僅かに哀しみを帯びた目で所狭しと生えている草花を眺めた光の司祭のその言葉には、憂いが見え隠れしている様にヒースには思える。光の司祭にとってヒースの父は――ベルガーは親子と言って良い程年の離れた友人であったから、禁忌を犯して追放されたベルガーに関するものが一つだけでも残されている事は嬉しい反面、追放したのは誰でもない自分であるから、太陽の光に反射する緑や水の美しさがその事実を突き付けてきてつらいのかもしれない。
 光の神殿には、闇の司祭が居た頃の痕跡が殆ど残っていない。かつて父が使っていた祭壇や祈りの場所は全て撤去や改装され、存在していた事さえ有耶無耶にされている。それは光の司祭が望んだというよりは、神殿全ての者達が聖都ウェンデルの双頭の最高職の片割れであった闇の司祭のスキャンダルを抹殺しようとした事に由来する。幼いヒースも父は死んだものと思いなさいと言われ、後を追って出奔する事を許されなかった。
「あれもよくここに籠もって研究をしておった。まんまるドロップを作る花の妖精と仲良くなれたと教えてくれた事もあってな」
「そ、そうなのですか?」
「ああ。よその地域ではどんな花の花粉を使って作っているのかを尋ねたりしておったそうじゃぞ」
 マナの力が失われたからなのかどうかは分からないが、ヒースは未だにその花の妖精の姿を見た事は無い。長い年月をかけてこの庭園を育て上げたのだろう父は、若くしてこの光の司祭と並ぶ程の地位に就任していたのだから、それだけの魔力を持つ者に力を貸そうと妖精や精霊が父に姿を見せてくれる様になったのかもしれない。
 光の司祭の助手の様な事をヒースも以前からしているが、ウェンデルに戻ってからは光の司祭が少しずつ闇の司祭が執り行っていた儀式や行事を復活させヒースに任せており、その忙しさに改めて父の偉大さを知った。これ程の仕事量をこなし、この庭園の手入れもしつつ研究もしながら、自分の相手をしてくれていたのだと思うと、父と言うより人生の先輩に対して頭が下がる思いだ。
「この庭は、一部の神官しか知らぬ場所でな。あれを追放した時、敢えてこの庭の事は聞かずにおったのだが、この庭を遺していたとシャルロットに聞いて胸を撫で下ろしたんじゃ」
「……司祭様は父が去った後、何故この庭を改められなかったのですか?」
「ここは、言うなればあれの自室でな。神殿に自室を設けない代わりにこの庭を許可してほしいと言われて、この一角全てあれの所有にしたのじゃ。いくらワシでも、他人の私室を改める気は無かったのでな」
「そうだったんですか……」
 ひら、と飛ぶ白い蝶を目で追いながら、光の司祭はヒースに答える。嗄れた声はこの庭に入ってきた時と変わらず憂いを帯び、また懺悔している様にも聞こえて、ヒースは少しだけ胸が痛んだ。先も述べたが父を追放したのは光の司祭だ、彼としても友人を追放するのはつらかっただろう。父がこの聖都を追われる数年前にはシャルロットの父親であるリロイがディオールに駆け落ちし、亡くなっている。息子を亡くし、友を追放せざるを得なかった光の司祭には、親しく言葉を交わせる相手が居なくなってしまったのだ。
「禁断の闇の呪法に手を出したという理由で、未だに墓さえ作ってやれなんだ。シャルロットに聞けば、マナの樹の側で戦ったと言うから、マナの聖域があれの墓になるやも知れぬが……」
「司祭様……」
 光の司祭の言う通り、このウェンデルの墓地には父の物が無い。作っても人目を忍ばねばならないであろうし、心無い者が破壊してしまう恐れもあるからだ。それ故、ウェンデルに帰還したヒースはマナの女神像に向かって祈る事しか出来なかった。
 だが、この庭園を見付けてからというもの、ヒースは父の冥福をここで祈る様になった。作業台が置かれたガゼボには文献を収めた書棚があり、その上には小さなマナの女神像を模した置物があって、それに向かってヒースは祈るのだ。だから、ヒースにとってこの庭園は父の遺産であると同時に父の墓でもあった。光の司祭はそれを見越して言ったのだろう。
「のうヒース、この老いぼれの最後の頼み、聞いてはくれぬか。ワシも時折この庭に来ても良いか?」
「……はい、はい……! 司祭様がお望みであれば、いつでもおいでください。……父も喜びます」
 先程までの憂いは鳴りを潜め、遠い記憶にあるものを見る様な、親しい者を見る様な、そんな慈しみの色を内包した光の司祭の視線は、庭園の中央に設えられた噴水から湧き出る水に反射する光に向けられている。その向こうに、ひょっとすると懐かしい姿を見たのかもしれない。植物の成長具合を確かめ、そこに息吹く昆虫達や妖精達の邪魔を決してせず、飽くまで自分はその手伝いをするだけで恵みを分け与えてもらうスタンスを崩さなかった、細身の男の。
「……そうであれば、良いがのう」
 ヒースの返事を聞いた光の司祭は目を細め、噴水に向かって聖印を切る。そしてゆるりとヒースに顔を向けると、いつも通りの柔和な顔で微笑んだ。次に光の司祭が来た時には、父が好んで淹れていたハーブティを淹れて、自分の知らない思い出を聞かせてもらおうとヒースは思っていた。