猛獣の飼い方10の基本・その10:いがいときずつきやすいいきものです

 ―――誰かが泣いている。底知れない悲しみの中で、誰かがひどく泣いている。
 どこで泣いているのか分からず、暗闇の中を手探りで探そうとするのだが、思う様に動く事が出来ない。しかし全身で感じる悲しみが、体を切り裂く程に痛い。
 その泣き声は尋常ではなかった。赤ん坊が火が点いた様に泣く、という表現をよく聞くけれど、これはまるで火が点いたと言うよりは炎を上げていると言っても良い様な気がする。まるで獣が力任せに吠えているかの様だ。
 誰が泣いているんだろう。何故泣いているんだろう。
 それが知りたくて冷たい闇の中を漂う様にその感情の方へ向かおうとすると、拒絶されているのかいつもそこで目が覚める。
 最近毎日の様にその夢を見るのだが、何を訴えようとされているのか分からず、だからジェレミアは起きる度に溜息を吐く事しか出来なかった。



「ジェレミア、そろそろ許してあげたらどうですか」
 野営を張った中心に焚かれた炎に集めてきた小枝を投げ入れ、少しだけ困った様に笑いながらそう言ったユリエルに、ジェレミアは何の事を言われたのかよく分からず小首を傾げた。その仕草はいつも勝気なジェレミアからは思いつかない仕草なのでユリエルもまた苦笑してしまう。戦場では両手に持った短剣を武器に大立ち回りを見せる彼女ではあるが、こういう風に年相応の表情を見せる事もあるのだ。
「随分遠慮して、前にも増して私達と一緒に居る事が少なくなったでしょう」
 そう言ってユリエルが指差したのは、野営のすぐ近くに停泊させてあるナイトソウルズだった。ナイトソウルズには生活空間が殆ど無い為に就寝する時はこうやって野営を張る事が多いのだが、万一の時に備えて野営で休む者とナイトソウルズ内で休む者の二手に分かれている。今はミラージュパレスに向かう最後の休息を取っている為に各々が良く休める様にと野営で休んでいる者の方が多い。ジェレミアはユリエルの言葉にナイトソウルズに居る者を思い出して、少しだけ不愉快な顔をした。
「別に遠慮する様な事じゃないだろう。あいつが進んで一人になりたがっているんだからそれで良いじゃないか」
 ジェレミアのその言葉に、ユリエルはまた困った様に笑う。一度気に食わない事が起こってしまえば根に持つジェレミアは未だに数日前の出来事に怒っているらしく、だからユリエル以外の仲間もその事だけは少し心配している様であった。仲間内で亀裂が入ってしまうのが良い事ではない事くらい皆分かっている。
「ま、確かに今までもあいつは一人で居る事の方が多かったけどよ……
 分かってんだろジェミ、あいつがあれ以降絶対お前と野営張らなくなった事くらいは」
 ユリエルとジェレミアの会話を聞いていたキュカが半ば面倒臭そうに口を挟むと、ジェレミアは更に不機嫌そうな顔をした。ジェレミアだって自分の態度がいい加減子供の様だとは分かっているのだが、思い出すとどうしても頭にきてしまうのだから仕方ないのだ。
 話題に挙げられた当の本人は、現在ナイトソウルズに居る。ジェレミアが彼を見る度に何だか面白くない様な、そういう表情をしてしまうので自然と彼もジェレミアを避ける様になった。だからジェレミアがナイトソウルズ内で休む時は彼は野営で休むし、反対にジェレミアが今の様に野営で休む時はナイトソウルズで休む様になってしまっている。別に不自然な事ではないのだが、気を遣ったり不穏な空気が流れるのはユリエルでなくても避けたいし、一方的に怒っているのはジェレミアなので、何とかジェレミアを宥めようとこうやってフォローしているのだ。しかしジェレミアにとってみればそれが少しばかり腹立たしい。
「だって腹が立つじゃないか、下僕だぞ? 何か他にも言い方があっただろう」
「ですが、それを本心で言った訳ではない事くらいジェレミアも分かっていますよね?」
「………」
 ユリエルから反論を許さぬ様な事を言われ、ジェレミアは言葉に詰まる。確かにジェレミアだって彼が本心で自分達を下僕だなどと言った訳ではないと知っているし、そんな者ではないと分かっている。分かっているのだが、どうしても苛々してしまうのだ。拗ねた様に押し黙ったジェレミアを見て、ユリエルは苦笑した。
「ジェレミアは、少しショックだったんですよね? あんな風に言われてしまって」
「ショッ…?!」
「あ、なるほどな」
 ジェレミアはユリエルの発言に仰天してしまったのだが、キュカはどこか納得した様な顔をした。それがカチンときたので、取り敢えずキュカの頭を叩いた。
「いってー! ……でもよぉ、正直、そうだろ?」
「そんな訳あるかっ!」
「ではどうしてジェレミアはそこまで根に持っているのです?」
 キュカの言葉を力一杯否定したジェレミアに、ユリエルは静かに問う。その答えを分かっていて敢えて問うユリエルの顔を見て、キュカは本当にこの人だけは敵にしたくねえなと思った。ユリエルは相手の首を真綿で絞める様な言動が得意なのである。
「どうしてって………」
 単に腹が立つから、としか答えを持たないジェレミアは、だからそのユリエルの問いに上手く答える事が出来なかった。だが彼女が持っている本当の答えは、ユリエルが先程言った事と同じなのだ。
「仲間だと認識していた者が、自分達を見下げた様な事を言ったのがショックだったんですよね?
 特に、獣人なのに私達人間を殆ど敵視していなかったガウザーがそう言ったから、ではないですか?」
「………じゃあ、あの態度のふてぶてしい先祖に反論すれば良かったじゃないか」
 ユリエルに勘付かれたくも無い己のその思いをどんどん暴かれていくのが悔しくて、ジェレミアがせめてもの反論を返すと、それまで黙って見ていたロジェがぽつんと呟いた。
「してたよ」
「……いつ」
「月のマナストーンを探してる時」
 手を止めたユリエルに代わって炎の中に小枝を投げ入れながら、ロジェは少しだけ暗い顔をした。月読みの塔での事を思い出しているのだろう。真正面から叩き付けられる様な憎しみというものを、ロジェはあの時初めて知った。時をそう経ずして同じ様に憎しみをぶつけてきた恋人の事も少し思い出されて、ロジェは目を細める。
「昔の獣人王の幻影に襲われた時に、庇ってくれたんだけど……
 仲間を庇う事に何の不思議があるか、罵られるのは俺一人で十分だって言ってた」
「………」
 罵られるのは自分一人で良い、それはつまり彼はロジェ達を罵る事を仮令先祖であっても許したくないという事だ。彼は仲間が傷付けられたり、罵られたり、そういう事を嫌っているから、いつでも真っ先に飛び出していく癖がある。そうしていつも大きな傷跡を体に作るのだ。それがさも当たり前であるかの様に。
「……あの、テケリ、ずっと不思議だったんでありますが」
 大人達の会話を膝を抱えて黙って聞いていたテケリがジェレミアの沈黙を破って言葉を発したので、ユリエル達の視線は一斉にテケリに集まった。それに少したじろいだのか、テケリは目をぱちくりとさせたが、気を取り直して口を開いた。
「何でガウザーさん、テケリ達人間にあんなに優しいんでありますかね?
 獣王城に居た獣人さん達はとっても怖かったでありますが……」
 そのテケリの疑問は、仲間の誰しもが持っている疑問であっただろう。証拠に、テケリの言葉を聞いたユリエル達の誰一人として答える事が出来なかった。彼は理由など誰にも言った事が無かったし、誰も彼にそんな事を聞かなかったからだ。聞いても、彼は答えてくれない様な気がしていたのだ。
「ガウザーさんのご先祖様達、獣王城の獣人さん達より怖かったでありますよね?
 昔の獣人王さん達はあんなにテケリ達人間を毛嫌いしてるのに、何でガウザーさんは全然そういうのが無いんでありますかね……」
 ロジェはもう一度、月読みの塔でぶつけられた彼の祖先の憎しみを思い出す。昏い目の中に宿る、業火の様に激しい光は、確かにロジェを通して全ての人間に対する憎悪を表していた。それを宿していたのは、過去の獣人王なのだ。その地位を受け継ぐ彼は何故その光を湛えないのか、ロジェ達には分からない。
「……俺、あの時、あいつが泣くかと思ってたんだぜ」
 そして考え込んでしまったジェレミアの思考を遮る様に発せられたキュカの言葉に、ジェレミアは驚いた様にキュカを見た。同じ様に、ユリエル達も少し驚いた様にキュカを見ている。しかしキュカはそんな仲間達を見る事無く、胡坐の上で組んだ手に視線を落としたままぽつりと呟いた。
「ミントスが落ちた時もそうだけどよ、あの塔でも、な……。
 仕方ねえ事だったとは言え、よっぽど言いたくなかったんだろうな」
「…………」
 焚き火の火がぱちりと爆ぜ、温かなオレンジの光がキュカのその憂い顔をぼんやりと浮かび上がらせる。そんな顔を見ていると、ジェレミアは自分一人だけが悪者の様な感じがしてきて、何だか面白くなかった。黙り込んでしまったジェレミアにユリエルは何か考えていたのだが、やがてふむ、と口元に手を当ててからにっこりと微笑んだ。
「では良い機会ですし、ジェレミア、それを聞いてきてくれませんか」
「……は?」
「どうして私達人間を敵視しないのか、聞いてきて貰えませんか?」
「な、」
「おお、そりゃ良い案だ」
 ユリエルの発言にまた仰天したジェレミアは、キュカの脳天気な言葉にもう一度キュカの頭を叩いた。何しやがんだこの暴力女、とキュカが言ったのは無視して、ジェレミアはユリエルを睨む。
「な、何であたしが聞いて来なきゃいけないんだ」
「おや、この状況を考えてもジェレミアが一番適任だと思うのですが。ついでに謝れば一石二鳥ですよね?」
「謝るって……」
「どう考えてもジェレミア、貴女の態度は行き過ぎです。他の者達はもう気にしていないのですよ」
「………」
 それまで浮かべていた微笑を消して、少しだけ厳しい表情でユリエルがそう言ったものだから、ジェレミアはそれ以上の反論が出来なくなってしまった。ジェレミアも自分の態度がひどいという事は分かっているのだが、改める機会を失ってしまっていた為にずるずると喧嘩腰が続いてしまっているので、確かに良い機会とも言えた。
「という訳でお願いしますね。善は急げとも言いますし、今から聞いてきて下さい」
「……今から?」
「今からです」
 そうしてまた表情を緩やかに微笑に戻してから、ユリエルはジェレミアにお願いというよりも寧ろ命令した。拒否する事は決して出来ないユリエルのその命令に、ジェレミアは暫く苦虫を噛み潰した様な顔をしてユリエルをじっとりと睨んだのだが、やがて諦めの溜息を吐いて口を尖らせた。
「……分かった、聞いてくれば良いんだろう」
「ええ、よろしくお願いしますね」
 にこにこと笑うユリエルの目は「逃げるなよ」と如実に語っていて、ジェレミアは本当に苦いものを食べたかの様な顔をする。そしてそれを見ていたロジェ達はユリエルが敵でなくて良かったと心底思った。
 ジェレミアがゆるゆると立ち上がって消え入る様な声で行って来る、と言い、その後ろ姿を見送った少し後に、ヴァルダ達が水浴びから帰ってきた。ロキが見張りをして、ヴァルダとアルマとファルコンが水浴びをしていたのだ。
「あれ? ジェレミアは?」
 ファルコンがさっぱりした顔で聞くと、ユリエルは肩を竦めてナイトソウルズを指差す。
「ちょっとお願いしましてね」
 何を、という事を敢えて言わなかったユリエルの言に、しかしヴァルダは苦笑してそうですか、と言った。他の二人もその少し後に理解したのか、同じ様に苦笑する。
「じゃあロキに見張りはもう良いですよと言わなければいけませんね。ジェレミアが交代で来るのを待っている筈ですから」
「あ、んじゃ俺達が行くわ。火の番、頼むな」
「ん、分かった」
 ヴァルダが水浴びをしに行った方を見遣りながら言うと、キュカが腰を上げたのでアルマがそれに手を挙げて返事をした。穏やかに燃え続ける焚き火は、そんなユリエル達の心を照らすかの様に煌々と光を放っていた。



「あの、ジェレミアさん」
 不承不承ナイトソウルズに向かっていたジェレミアの後ろからテケリの声が聞こえてきた。走って追いかけてきたのだろう、少し息が上がっている。テケリもジェレミア達と一緒に戦場を駆けている身とは言えまだ子供なので、野営を張っている時は常に誰かと共に行動するのだが、この時は一人だった。ジェレミアに何か話したい事があるのだろう。
「……何だ?」
 立ち止まって振り返ると、テケリは上がった息を落ち着ける為に二回ほど深呼吸した後におずおずとジェレミアを見上げた。今日の夜空は雲がかかっていない為に、テケリの何かを絶対に伝えるのだという意志が出た表情が良く見える。
「あの……テケリですね、ちょっと前にガウザーさんに肩車して貰ったんであります」
「肩車?」
「そうなんであります。ガウザーさんは背が高いのですごく気持ちが良いんでありますよこれがまた!」
 握り拳まで作ってそんな事を力説されてもどう返事をして良いのやら分からず、ジェレミアは不可解そうな表情を浮かべてテケリの次の言葉を促した。本題は肩車ではない事くらいジェレミアにだって分かる。
「それで……テケリ、てっきりガウザーさんの肩って大きいと思っていたんであります。
 背も高いし体付きもしっかりしてるから、大きいのかなって思っていたんでありますよ。
 でも……思ってたより、ずっと小さかったであります」
「………」
 緊張しているのか必死なだけなのか、それとも両方であるのかジェレミアには分からないが、テケリの表情は真剣そのもので、小さな手は先程からぎゅっと握られたままだ。余程ジェレミアにそれが分かって貰いたいらしい。ジェレミアは沈黙したままテケリの言葉に少しだけ目を細めた。
「ガウザーさん、王様だから、色んなもの背負わなきゃいけない人だと思うんであります。
 きっと今までずっと、あんな小さな肩に全部担いで頑張ってきたんだと思うんでありますよ。
 いっぱいいっぱい、辛い事も悲しい事も、あった筈であります。
 テケリ達と一緒に来てくれた事も他の獣人さん達から何か言われたかも知れないし、
 それでもガウザーさん、真っ先にテケリ達を仲間って言ってくれたであります」
「……だから、謝りに行くって言ってるだろう」
 あまりに必死なテケリの表情に、ジェレミアはそこまで喧嘩をしに行く様に見えたのだろうかと思ってしまった。確かに不機嫌な顔はしたけれど、ジェレミアだってきちんと自分に非がある事は分かっているのだ。こんな子供にまで心配されてしまったらしい。
「……あの、テケリ、ジェレミアさんも好きだし、ガウザーさんも好きだから、
 だから……な、仲良くして欲しいんであります」
 テケリは一層力を篭めてそう言うと、口を閉ざしてジェレミアの出方を伺った。仲間同士ギスギスするのは良くないと言いたいのだろうが、テケリのその言葉は物凄く直接的過ぎてジェレミアは思わず眉間に皺を寄せる。別の意味合いが篭められている様で嫌だ。
「……仲良……くは分からんが……取り敢えず、話してくる」
「はいっ! 行ってらっしゃい!」
 ジェレミアの言葉にぱっと顔を明るくしたテケリは手を振ると、元来た道を駆け戻って行った。ジェレミアはその後ろ姿をぼんやり眺めて、またナイトソウルズの方へ歩き始めた。



 暗くてももう慣れている為に、足元が見え辛くても艇内へ上がるタラップも難なく登ったジェレミアが甲板に上る為の階段まで行こうとすると、いつも施設を構築している場所に誰かが膝を付いているのが見えた。艇内は暗くてよく見えなかったので誰だと目を凝らすと、その人物もジェレミアに気が付いたのかゆっくりと顔を彼女に向けた。
「……ジェレミア殿か。どうしたのかね?」
「……神官殿か」
 そこに居たのは、野営で姿を見かけなかったベルガーだった。どうも今までずっとこの場所で祈りを捧げていたらしい。ベルガーは余程の事が無い限り朝と晩の祈りを欠かさないのだが、今日は艇内で祈っていた様だ。ジェレミアは邪魔をしてしまった様な気がして、少しだけ済まない気持ちになった。
「……ずっと、ここで祈りを?」
 ベルガーの問いに敢えて答えず、逆に質問すると、ベルガーもそれを気にしていないのか静かに頷いた。
「そう長い時間ではないがね。ちょうど良い音楽もあったのでな」
「音楽?」
「聞こえぬかね?」
 ジェレミアが首を傾げると、ベルガーが穏やかに微笑んでジェレミアに耳を澄ます様に促したのでそれに従う。すると確かに微かではあるが何かの曲が聞こえてきた。楽器、ではない。恐らく口笛であろう。生憎とジェレミアはその曲に覚えは無かったが、ひどく優しく切なく、どこか哀しい曲だと思った。
「ウェンデルに伝わる古い賛美歌なのだが……どこで知ったのだろうな、私でも所々しか知らぬのに」
「……神官殿も知らない程古い曲なのか?」
「ああ、殆ど知らないんだが……獣人族には伝わっているのかも知れんな」
 ベルガーは本当に心地の良い音楽を聴くかの様な顔でそんな事を言った。確かにジェレミアも聞こえてくるその口笛の曲は聞いた事が無く、どこかに伝わる曲だろうかと思った程だ。そしてベルガーの言で、その口笛は誰でもない獣人王が吹いているのだと知った。彼がこんな風に音楽を奏でるとは思わなかったジェレミアはそれにも驚いてしまった。
「……ところでジェレミア殿は今日は野営で休むのではなかったか?」
 そしてあまり聞かれたくなかった疑問を切り出され、ジェレミアはちょっとだけ言葉に詰まり、妙な顔をしてしまった。だが、何も言わずにベルガーの隣を擦り抜けて甲板へ上がるのも何だか気が引ける。正直、ジェレミアは仲間内の中ではユリエルの次にベルガーが怖いというか敵にしたくないと思っているのだ。
「……ちょっと、聞きたい事があって」
 僅かな沈黙を挟んでからベルガーの後方に見える甲板へと続く階段を指差し、ジェレミアが簡素に答えると、ベルガーもその階段の方に顔だけ向けてからああ、と何かに気付いた様な声を上げた。
「そうか、ちょうど良い、私もそろそろ野営に戻ろうと思っていたしな。ジェレミア殿が来たなら見張りの心配も無いな」
「………」
 素なのか要らぬ気遣いなのか、それは全く分からないが、ベルガーはどうも艇から出ようとしているらしい。引き止める理由など一つも無いジェレミアにそれを止める事など出来る筈も無く、だからベルガーはでは、とジェレミアに軽く会釈をしてからその場を後にした。残されたジェレミアは暫くその場から動けなかったのだが、決意したかの様に一度深呼吸をすると、微かな音色が聞こえてくる甲板の方へと足を向けた。



 甲板に上がると、月明かりの中、行儀悪くも手摺に座ってぼうっと虚空を眺めながら口笛を吹いている彼を見付け、ジェレミアは階段を上り終えた所で立ち止まった。彼は気配に聡く、ジェレミアが上がってきた事に気付いていない筈が無いのだが、ジェレミアの事など全く無視している様に顔も向けずに口笛を吹いている。ジェレミアはそれに少しむっとしたのだが、彼の邪魔をしたのは自分なので何も言わずに彼が口笛を吹き終わるのを待った。
 やがてその旋律が緩やかに終わると、彼は漸く口に銜えていた指を解放し、ゆっくりとジェレミアの方に顔を向けた。月の光が照らした彼の表情は、普段の無愛想な顔に比べて随分無表情だった。
「……何の用だ」
 そして冷たい沈黙を破って彼が発した言葉は、どことなくジェレミアに対してよそよそしかった。ジェレミアがここ数日、彼に対して喧嘩腰であった事を受けてそういう言葉になってしまったのかも知れない。しかしジェレミアには彼が自分がここに来た事が邪魔であると思っている様な気がして、来るべきではなかったと思ってしまった。
「……お前に、聞きたい事があって」
 それでもジェレミアも疑問に思っていた事を聞かねばならないので、退く事はせずにジェレミアは切り出した。すると、彼は座っていた手摺から降りると甲板に静かに足を付け、ジェレミアをきちんと真正面から見た。久しぶりに向かい合った様な気がして、ジェレミアは何歩か彼に歩み寄る。彼は聴力にも長けているからジェレミアの声など耳を済まさなくてもきちんと聞こえるだろうが、生憎とジェレミアは小声で言われても何と言っているのか聞こえないのだ。
「ふん……お前が俺に質問か。……誰かに聞いて来いとでも言われたか?」
「…………」
 図星を突かれてジェレミアは思わず眉を顰めたが、ここでたじろいだら負けの様な気がして、小さく頷いてから反論した。
「それもあるけど……あたしも聞きたかったから」
「……何だ」
「……その、」
 彼の感情の篭っていない声がどこか苦しく思えてジェレミアは目線を泳がせて唇をちょっとだけ噛んだのだが、やがて決心したかの様に顔を上げて彼の目を見た。その目に普段に比べて憂いというか哀しみというか、そういうものが混じっている様な気がして、ジェレミアは思わず戸惑ってしまったが、頭に描いた質問はきちんと口から出てきてくれた。
「……何で、お前はあたし達人間を憎まないんだ?」
 獣人は人間を憎んでいる、それは常識としてジェレミアの頭の中にあった事だ。過去、人間に迫害された事を恨んでいて、人間を敵視していると思い込んでいた。だから獣王城で彼が逃走の手引きをしてくれた事にはジェレミアだって驚いた。てっきり自分達を捨てて、配下達を引き連れて逃げたのかと思っていたのだ。だが彼は先に配下を逃がしてから、ジェレミア達も逃がす為にわざわざ戻ってきてくれた。あの時は全員で驚いたものだ。人間を憎む獣人族の王でありながら、ジェレミア達人間を助けた彼がよく分からなかった。今でもよく分からないが。
「何でって……何故俺がお前達を憎まねばならん。理由が無かろう」
「……でも、人間は獣人を迫害しただろう?」
「過去の事をいつまでもぐだぐだ言っても仕方なかろう。迫害した人間とお前達は関係が無い」
「………」
 彼の言葉は正論ではあるのだが、同時に更なる疑問もジェレミアに与える。だったらどうして他の獣人達や過去の獣人王はジェレミア達人間に対してあんなに敵対心剥き出しなのか分からない。彼の考えはどうも特殊である様だが、何故人間に対して恨みを持っている者達の中で育ったであろう彼がそんな思考を持てたのかは謎だ。
「それに……育ての両親が人間だったからな」
「えっ……」
 思いもよらない彼のその言葉に、ジェレミアは驚きのあまり目を丸くしてしまった。確かに人間に育てられたのなら彼がこんなにも人間慣れしている事にも納得がいくが、あんな森の奥深くの城の主が人間に育てられたとまでは考えが及ばなかった。彼は目をぱちくりさせているジェレミアがおかしかったのか、ほんの少しだけ笑った。
「ガキの頃、間違って森から出てしまってな。
 連れ戻しに来た母親が俺を庇って人間に殺されたんだが……逃げた俺を匿ってくれたのも人間だった」
「………」
 簡素に淡々と語られる彼の過去は、まさか彼がそんな幼少時代をすごしたとは思ってもいなかったジェレミアの心臓をいとも簡単に抉っていく。ジェレミアだって幼い頃に両親を亡くしたが、心優しい叔父に引き取られ、何不自由無く育ったのだ。けれど彼は匿ってくれたと言っている以上は隠れ住んでいたに違いない。森へ戻すのも、恐らく容易には人間があの森へ近寄れないから彼が成長するのを待ったのではないだろうか。
「母親を殺したのは人間だが、俺を育ててくれたのも人間だからな……。
 憎まなかったと言えば嘘になるが、だからと言って人間全てが憎い訳じゃない。
 ……お前は違うか?」
「え……」
「人間には俺達獣人を見下げる奴も居るが、お前達の様に対等に見る奴も居る。同じ事だ」
「………」
 真っ直ぐにジェレミアを見る彼の目は、初めて見た時の忌々しそうな色は全く見えず、とても穏やかだが強い光が浮かんでいる。嘘を言っている様には見えず、ジェレミアは上手く言葉が出てこない自分が歯痒かった。だがどうしても聞きたい事が残っているから、張り付きそうな喉を震わせながら声を絞り出した。
「……そのご両親は、今どこにいらっしゃるんだ?」
 ジェレミアは、もし叶うのならば彼をその両親に会わせてやりたかった。彼は今ではあの森からそう容易く出られる様な身ではないのだから、叶うのであれば連れて行ってやりたいと思ったのだ。だが彼はジェレミアのその言葉に少しだけ黙ってから、静かに空を指差した。
「死んだ」
「……死ん、だ?」
「……殺された」
「………!!」
 彼の感情の篭っていない声で発せられた言葉に、今度こそジェレミアは全身から血の気が引いていくのを感じて思わず体をぶるりと震わせた。表情を全く変えずに彼は言ったが、意図的に感情をジェレミアに見せない様にしている風に見える。
「な……何、で」
 冷たくなって感覚が無い足に力が入らず、立っている事が不思議なくらいだ。月明かりでは分からない事を願っているが、ジェレミアの顔は蒼白と言って良い程血の気が引いている。嫌な予感がした。彼が一番言いたくない事を言わせようとしている様な、嫌な予感がした。
「俺を匿っていたからな」
「………、」
「獣人の俺を匿っていたから他の人間に殺された」
「………!」
 ジェレミアはそこで思わずああ、と嘆息を漏らしてしまった。本当は顔を覆いたかったのだが、出来なかった。彼は表情を変えなかったが、やはり言いたくなかった事なのだろう、心なしか先程よりも握った拳に力が入っている様に見えた。
「俺だけを殺せば良かったのにな。何もあの二人を殺す必要は無かったのに……」
 彼はゆるりとジェレミアから視線を外して風が吹いてくる方に顔を向ける。その風は優しいが、恐らく今の彼にとっては何の慰めにもなるまい。当時の事を思い出しているのか彼の眉間がぎゅっと寄り、それがジェレミアの心臓を締め付けた。多分、彼は目の前で両親を殺されたのだろう。
「……それでもお前は、あたし達人間を、憎まないのか」
 自分の震える声がいやに滑稽に聞こえたが、ジェレミアは彼に問いを投げかける。今聞かねばもう尋ねる事が出来ない様な気がしていた。
「さっきも言っただろう、あの二人を殺した人間とお前達は関係が無い。
 その言い分は俺の国を侵略したからペダンの民間人まで敵だと言うのと同じくらい乱暴だぞ」
「……でも」
「人間を憎んだらあの二人まで憎まねばならん。あの二人が大切に想っていた人まで憎む事になる。
 俺はそんなのごめんだ」
「………」
 きっと彼は今でもその両親を心底敬愛していて、心底愛しているのだろう。そうでなければそんな仕打ちを受けた彼がこんな風に人間に対して友好的である筈が無い。ウェンデルに避難した獣人兵の中にはジェレミア達に向かっても仲間を殺したと怒鳴り喚いた者も居たのだ。彼がその兵士を止め、その場は治まったのだが、ジェレミア達はあの後何とも言えない様な気分になった事を覚えている。
「あの二人は俺を随分可愛がってくれたし、本当の子供みたいに育ててくれた。俺もあの二人が凄く好きだった。
 母親は殺されたが、その代わりにあの二人に出逢えた。
 ……幸せだった」
「………!」
 静まりきった水面の様に酷く穏やかな彼のその微笑は、ジェレミアに全身を激しく打ち貫かれた様な錯覚を与える。今の彼はジェレミアに痛い程の衝撃をぶつける様な事しか言えないのだろう。
 呆然と立ち尽くすジェレミアにもう一度顔を向けた彼は、悲壮な顔をしているジェレミアに僅かに目を細め、言った。
「……そんな幸せをくれたあの二人を憎みたくないから、俺は人間を憎まない。それが答えだ」
 彼の目が湛える、真っ直ぐな強い光。彼が持つ強さは恐らく、その光に集約されているのだろうとジェレミアは思う。
「………そう……か」
 彼の答えにそう応じるだけが精一杯だったジェレミアは、目の前の彼の姿がよく見えなかった。あまりの衝撃に、目の前が暗くなっていた。じっとりと汗をかいた体が吹いてくる風で冷やされて、ジェレミアは思わず体を振るわせる。彼は僅かな間を挟んで一度息を吐くと、また静かに話し始めた。
「お前は、あの時の俺の発言とか、先祖の態度が気に食わんのだろう。……まあ、仕方ない事だとは思うが」
「………」
「おさげ、これだけは言っておく。俺の事をどれだけ罵っても良い、だが先祖を責めてくれるな。
 彼らは長い年月の間、人間からあらん限りの迫害を受け続けてきたんだ。
 妊婦は腹の中の子供の性別がどちらかを賭ける為だけに腹を裂かれ、子供は狩りの標的にされ、
 男共は奴隷の様に扱われ、無力な女は犯され殺された。
 そういう扱いを先祖は長い間受けた挙句にあの森へと追いやられたんだ。
 俺はそんな記憶は無いからお前達人間に対してそこまで深い憎悪の念は無い、
 だが先祖にとってみれば耐え難い屈辱と底なしの怨念しか持つ事は出来んのだろう。
 ……だからと言って俺のあの言葉が適切だったとは思わんが、な」
 半ば自嘲気味な顔をした彼は、本当にキュカが言った通り、ジェレミア達を下僕だ何だと言うのが嫌だったのだろう。ジェレミアだって彼が真っ先に彼の先祖に向かって自分達を「仲間」だと言った事は意外で驚いた事ではあったのだが、同じ程ああこいつはちゃんと仲間だと思ってくれていたんだなと思ったのだ。だから下僕と言われた事に裏切られた様な気がしてしまって、彼に酷い態度を取り続けてしまった。それでも彼はこうやってジェレミアを真正面から見、言葉を投げる。まるでジェレミアの仕打ちが当然だと言うかの様に。
 そして、ジェレミアが抱いた先祖への怒りを自分一人で背負うと言うかの様に、彼はジェレミアに言った。


「お前達から薄情者と罵られるのも、先祖から腑抜けと罵倒されるのも、俺一人だけで良い。
 だからジェレミア、先祖を責めるな。責めるのは俺一人だけにしろ。
 お前達を下僕と言ったのは、俺一人だ」


『俺、あの時、あいつが泣くかと思ってたんだぜ』
『ガウザーさんの肩、思ってたよりずっと小さかったであります』

 本当は、ジェレミアだって分かっていたのだ。ミントスが落ちた時に彼が涙も流さず泣いていた事も、彼の肩が小さい事も、彼がジェレミア達仲間を見下してなんかいない事も、そしてジェレミアの夢の中でひどく泣いていたのが彼だという事も何もかも。分かっていたのに、知らぬ振りをした。気付かぬ振りをした。理由など無い。……否、あるにはある。だがそれを認めるのがジェレミアは嫌だったのだ。
 全て分かっていたというのは、ジェレミアがそれだけ彼をきちんと見ていたからに他ならない。反発しても嫌悪しても、それでも尚彼の居場所を目で追い掛け、声を追い掛け、常にどこに居るのかを知っていた。何故なのかなど、彼女は自問するのも嫌だった。自覚する事が、嫌だった。
「―――悪いが一人にして貰えるか?今日はあの二人が死んだ日なんだ。
 あの二人が好きだった曲を、天上に居る二人に聞かせてやりたいんでな」
 沈黙を破った彼は黙ったままのジェレミアにそう言うと、彼を見たジェレミアとは敢えて視線を合わそうとはせずに天に輝く月を見た。今の彼ならば、ジェレミアではなくとも誰をも拒絶するだろう。
「……あぁ、」
 それを察知したジェレミアはからからに乾いてしまった口で短くそう答えるのがやっとで、彼女は半ば石の様に重く感じる体を引き摺る様に踵を返して甲板から降りる階段へ向かった。そして階段を降りる前に、堪らず彼を振り返った。
「ガウザー」
 少し掠れた声はそれでも何とか彼の名前を紡ぐ事が出来、その呼び掛けに彼も僅かに顔をジェレミアに向ける。邪魔をするな、と言いたそうな彼に躊躇いはしたのだが、それでも彼女は言わねばならなかった。今を逃せば機会が永遠に失われると思った。
「……すまなかった」
 短い謝罪の言葉は二人の間に流れる夜の冷たい空気を振動させ、彼の元へと届いた。彼はそれを拒絶しようとはしなかった。ジェレミアは自分が投げた謝罪が何に対しての謝罪なのかよく分からなかったのだが、それでも彼は受け止めてくれた様で、僅かに片手を挙げて応えた。ジェレミアからはその時の彼の表情は良く見えなかった。
 力無く階段を降り、重い足を叱咤しながら外の野営へと向かおうとするジェレミアの耳に、階段の向こうから僅かな旋律が聞こえてきた。それは彼女が先程甲板へと上がろうとした時に聞いた曲と同じだった。彼は同じ様に口笛を吹いているのだろう。天上に居る大切な人達の為に、心の底からの敬愛を篭めて。
 彼は人間を憎まないと言った。大切な人を殺したのは人間だが、その大切な人もまた人間だったから憎まないと言った。彼が護りたかった国の住民達も目の前で人間に虐殺されたのに、彼はそれでも人間を憎まないと言った。ジェレミアにはその想いをまだ理解する事が出来ない。ジェレミアは両親を愛していたし、育ててくれた叔父も敬愛している。その存在を奪ったと思われる者を憎まないなどと、ジェレミアには言えない。
 鳴り止まない口笛をジェレミアは暫くじっと聞いていたのだが、目線を足元に落とすと微かに震える足をその場に折り、そしてそっと胸の前で手を組んで瞳を閉じた。何に祈るのか、彼女にも分からない。彼の大切な者達の、女神の許での安らかな眠りを祈るのか、彼の深い哀しみが少しでも和らぐ事を祈るのか、それはジェレミアにもよく分からなかった。しかし祈らずにはいられなかった。罵られるのも罵倒されるのも自分一人で良いと言った彼が壊れてしまわぬ様に祈らずにはいられなかった。
 彼の拒絶を聞いた時、ジェレミアは己の胸が痛んだ事には気が付かなかった。そして今、何故自分が涙を流しているのかも分からなかった。ただ一つ分かるとすれば、彼が今まで歩んだ道は彼にとって傷を与えるものでしかなかったのに、それでも幸せだったと言った時の彼の顔が鮮烈に心に残っている事だけだった。

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意外と傷付きやすい生き物です。
その猛獣は過去に色々な傷を負っていますので、古傷を抉られると流石の猛獣も痛がるのです。
いじめるのも程々にしてあげないと、いつか壊れてしまうかも知れません。



































 次元の狭間の空をナイトソウルズで飛行するのにも慣れてきた頃、ジェレミアは艇のエンジン音や吹き抜ける風の音が耳に大きく響いているにも関わらず、微かな音色が聞こえてきた事に気付いてつい辺りを見回してしまった。当たり前なのだが、何かがある訳でも無いし誰かが居る訳でも無い。仲間は全員艇の中に入っている。だからジェレミアの耳にその音色が届いたという事自体がおかしいのだが、確かに風の音に混じってそれは聞こえてきた。
 聞き覚えのあるその音色は、もうジェレミアが会う事の出来ない者が吹いていた口笛だ。聞こえてくる筈もない、幻聴か、あたしもおかしくなったかと思ったその時、不意に彼の人の声が頭の奥で蘇った。

『だからジェレミア、彼らを責めるな。責めるのは俺一人だけにしろ』

 そうして漸くジェレミアは気が付いた。彼は確かにあの時、ジェレミアの名を初めて呼んだのだという事に。
 彼は仲間の名を呼ばなかった。呼んだ事が無かった。全員、妙な呼び名で呼んでいた事を覚えている。ジェレミアだってずっとおさげと呼ばれていた。それなのに、彼はあの時ただ一度だけではあるが、ジェレミアの名を呼んだのだ。それ以外で彼が他の仲間を名で呼んでいる所を見た事などついぞ無い。ジェレミアが知らぬだけかも知れないが、彼の性格からして他の者は名で呼ばれた事は無かっただろう。
 彼が仲間の名を呼ばなかったのは最後までジェレミア達「人間」と一線を引いていたからだ。別に彼本人は人間に対してそこまで憎しみは持っていなかったし、実際彼は人間を憎まないと言った。だが彼は長い間人間に迫害を受け続けてきた獣人族の王なのだ。彼なりのけじめもあっただろう。人間と馴れ合うつもりはないと他の獣人達に示す為のものであったのだろう。故に名を呼ばなかったのではないか。
 なのに、あの時だけ。あの時、唯1度だけ、ジェレミアを名で呼んだ。それに気付いて、ジェレミアは思わず舵に顔を伏した。
 彼はジェレミアを拒絶したのではなかったのだ。確かに一人にしてくれとは言ったが、艇から出て行けとは一言も言わなかった。あれは拒絶などではなく、寧ろジェレミアを受け入れていた。
 何故、気付けなかったのだろう。傷付いた者だと知っていたのに、何故それに気付けなかったのだろう。一人で泣いて、傷を治さないままずっとずっと這い蹲ってでも進み続けていた人だとあの時自分は知っていたのに、何故それに気付けなかったのか。

 何故、何故、何故―――

 自問しても、答えなど返ってくる筈も無く。

 ジェレミアは、伏せた顔をゆっくりと上げる。未だ微かに聞こえるその音色は、何処から聞こえてくるのかなどジェレミアにとっては問題ではなかった。ただ、彼がまた一人で大切な者の為に吹いている事だけは分かった。だからジェレミアも震える唇で息を吸って、口笛の代わりにその音色を歌った。言葉が届かぬなら、せめて歌を。そう願って。
 少し歌っていると、僅かにその口笛が反応を返した様な気がした。だからジェレミアも少しだけ歌声を大きくしてみる。すると旋律が先を促すかの様に伸びやかに響いた。
 共鳴、している。それが分かってジェレミアは舵から手を離し、胸の前で手を組んだ。まるであの時女神に祈った様に、その歌を歌った。

 もう届かないなら、せめて歌を。
 お前がもう泣く事の無い様に。
 お前の哀しみは、全て異界のあたしの元へ送るが良い。

 多分、ジェレミアは彼が好きだったのだと思う。今ならそれを素直に受け止められる。だがそれは、今だからこそ受け止められるのだ。もう会えぬ今だからこそ。
 歌いながら、ジェレミアは祈った。誰でも良いから、彼を支えてやれる者が側に居てくれる様に。彼の哀しみを癒して埋めてやれる者が居てくれる様に。ジェレミアは歌いながら、ただそれだけを祈り続けた。










































 ペダンから攻め込まれた傷跡も漸く癒えてきた城の屋上で、彼は一人で行儀悪く屋上の手摺に座ってぼんやりと月を眺めていた。相変わらず夜だけのこの森は、それでも美しく月が輝いてくれるお陰で全くの闇に覆われている訳ではない。しかし一度森の外を経験した兵士や住民の中には太陽の光を恋しがる者も居た。
 仕方ない事だと、彼は思う。彼だって育ての両親が殺された後にこの森に戻ってきた時は、太陽が恋しかった。母が命懸けで助けてくれたから見る事が出来た太陽の光は、育ての両親が匿ってくれたから彼に注がれていたのだ。そうでなければ多分彼だって太陽が恋しいと思わなかっただろう。
 暫く彼はぼんやり月を眺めていたのだが、やがてゆっくりと指を口に銜えると、緩やかに口笛を奏で始めた。今日は彼の母親が死んだ日だった。彼が奏でている口笛は、森から出てしまった幼い彼を連れ戻す為に森から出て、人間に捕まってしまった彼を助ける為に殺された母親が生前彼に教えてくれた曲だった。
 暫く吹いていると、不意にどこからか微かな歌が聞こえてきて、彼は思わず目を丸くした。五感をフルに活用してみたが、周りに誰かが居る気配など無い。しかしどこからともなく聞こえてくる声は、確かに彼が吹いている口笛と同じ曲を歌っていた。その声に聞き覚えがあったので彼は記憶の棚をひっくり返す様に声の持ち主を探ってみたのだが、すぐに思い出した。太陽の様な金髪を持った、少女の様な女の――ジェレミアの声だった。
 彼にとってジェレミアは思い入れのある女だった。あんな風に真正面から激しく自分にぶつかってきた様な女など、彼はジェレミアしか知らない。自分より背も高く力も強い彼を、全く恐れず怯まずにぶつかってくる様な女は、恐らくこれから先もジェレミア以外現れるまい。変な女だったと彼は思ったが、同時にあの輝く髪は悪くなかったとも思った。
 ジェレミアの声に呼応するかの様に口笛の音を少し大きくすると、聞こえてくる歌の音量が心なし大きくなった様な気がして、彼はその先の旋律を促す様に口笛を伸びやかに空に響かせた。
 共鳴、している。そう感じた彼は顔を上空に向け、もう見る事も叶わないだろう艇に向かって祈りの曲を奏でた。もう届かないなら、せめて旋律を。そう思って。
 あの時、ジェレミアが初めて自分の名を呼んだ事に、彼は気付いていた。ジェレミアはいつでも彼を獣人王とかお前とか呼んでいたのだが、彼があの時ジェレミアの名を初めて呼んだ様に、ジェレミアもあの時彼の名を初めて呼んだのだ。それは恐らく、ジェレミアが無意識の内に彼を受け入れた証拠でもあっただろう。ジェレミアは初対面の時から彼に対して何処かよそよそしかったし、何かにつけて食って掛かった。子供が好意を抱いた相手に対して素直になれないのと同じ様なものだったのだろう。お互い、自分の事さえよく分かっていないものだな、と彼は苦笑した。
 口笛を吹きながら、彼はジェレミア達の行く先に希望が欠片でもあれば良いと思っていた。アニスの呪いに打ち勝つ為の希望が、一欠片でもあれば良いと思っていた。そして今この時に、ジェレミアが自分の為に同じ歌を歌ってくれている様な、そんな自惚れを感じていた。