その日の朝は珍しい事に、クロサイトがダイニングに姿を見せなかった。毎朝ギベオンとペリドットよりも早く起きて着替えまで済ませているという彼の姿が見当たらなかった。ギベオンが休息日の早朝にたまたま目が覚め、日が昇る前の街を散歩しようと出た時に、用事があったのか丹紅ノ石林まで行って戻ってきたというセラフィと一緒に行っていたらしいクロサイトと入れ違った日以外は、この診療所に来てから四ヶ月程経った今まで無かった。具合でも悪いのかな、自室かなとペリドットと顔を見合わせたギベオンは逡巡した後に自分が見てくると告げて、クロサイトの自室まで向かった。ペリドットは患者ではあるが、女を男の自室に向かわせるのは何となく憚られたからだ。
「お早うございます、クロサイト先生いらっしゃいますか?」
「……どうぞ」
「……? 失礼します」
ノックをして声を掛けると、部屋の中から少し声のトーンを落とした返事が聞こえ、ギベオンは首を捻りながら部屋のドアを開ける。居るのに何で出て来ないんだろうという疑問は、しかしクロサイトが腰かけているソファを見て吹き飛んだし心底驚いた。
「どっ……どうしたんですか?!」
「すまない、大声は出さないでくれ」
「あ、す、すみません」
クロサイトの膝を枕にして横たわり、ソファで眠っていたのはセラフィだった。彼の額や肩に巻かれた包帯には血が滲んでおり、毛布で隠された体にも同様の処置が施されているのだろうという想像がつく。しかしその大怪我に驚き、思わず声が大きくなってしまったギベオンに、クロサイトは自分の人差し指を口元にあてて静かにする様に促した。
「だ……大丈夫なんですか、セラフィさん」
「命に別状は無い。ただ、出血がひどかったのでな。
 もう少し休ませてやりたいから、先に朝食を済ませておいてくれるかね。
 九時には合流するから、それまでにストレッチまで済ませておきたまえ。ペリ子君にもそう伝えてくれ」
「は、はい」
「すまないな」
「いえ……、もし起きられたらお大事になさってくださいとお伝えください」
「有難う、言っておこう」
聞きたい事は山程あったが、クロサイトがてきぱきと指示を出してそれ以上は尋ねる事が出来ず、ギベオンも見舞いの一言を言伝てるだけに留まった。騒がしくしてもセラフィの傷に悪かろうと、ギベオンでも分かる。人の気配に敏感そうなセラフィが入室してきたギベオンの大声にも全く目を覚まさなかった辺り、本当に出血がひどかったのだろう。だから頭を下げてからそのまま退室した。
指示された事をダイニングで待っていたペリドットに伝えると、彼女もひどく驚き、そして不安そうな顔をした。故郷に一時帰省をした際に同行したセラフィと彼女がどういう遣り取りをしたのかはギベオンは知らないが、自分達の起床と彼の帰宅の時間が重なった時は短い会話を交わしている程度の仲にはなっている様であったから、心配なのだろう。
そもそも、ギベオンもペリドットも重傷を負った事が無い。クロサイトの庇護のもと樹海に繰り出しているので危険な時は彼が助けてくれるし、実力に見合った場所にしか連れて行って貰えていないからだ。樹海は恐ろしい所であると、意識を失って真っ青になった仲間を背負ってタルシスに急いで戻って行く冒険者達くを見て学んでいるので、余計に守って貰っているという自覚が二人にはあった。
「後でクロサイト先生にも食事持って行こうか。
 セラフィさんも何か食べられたら良いんだけど……女将さんに頼んでみる?」
「うん……そうしようか」
今ここでやきもきしても仕方ないので指示通り宿屋に向かい、朝から活気のある食堂で朝食を受け取る時にクロサイトの姿が見えない事に首を傾げた女将に事情を説明すると、じゃあ先生には片手で食べられる様なものをご用意しましょうねー、と特に心配はしていない様な返事が得られた。
「久しぶりに先生が付きっきりのお怪我されたんですねー。
 でも、その調子なら多分獣王の時に比べたら何て事無いと思います」
「獣王……?」
全てのメニューは既に作り終えているのだろう女将は、一息つくためにギベオンとペリドットが座ったテーブルに同席した。食堂のカウンターに並べられたおかずがバイキングになっているので減り方を見ながら彼女が足すのだが、今は特に注ぎ足しは必要無いらしい。クロサイトとセラフィとは昔からの知り合いであるという女将は、獣王という単語に不思議そうな顔を浮かべた二人に話を続けた。他の席の者達は彼らの話など耳に入っておらず、食堂でも地図を広げたり情報交換をしたりしているために、食堂のざわめきは普段と変わらなかった。
「お二人が良く先生に連れて行かれる碧照ノ樹海があるでしょう?
 あそこの地下に、タルシスの兵士さん達がたくさん犠牲になった獣王が居たんです。
 その獣王を、先生とセラフィ君が倒されたんですよー」
「ふ、二人で?! あ、でもそんな事をワールウィンドさんが仰ってた様な……」
「ええ。でも戻ってきたセラフィ君の傷がひどくて虫の息だったんです。
 先生も重傷を負われてましたけど、側から離れなくて……
 あの時だけですねー、あんな風に取り乱されたのは」
「………」
「僕を一人にするな、って泣き喚いていたんです。……内緒ですよ?」
もう十年近くも前の事を、女将はまだつい昨日の事の様に思い出せる。女将から見ればクロサイトとセラフィは年下であるし若いのだが、そんな彼らがもっと若かった頃、兵士ではなかったが迷宮の探索の最前線に居た。タルシスの兵士達は彼らより先に進む事が出来ず、だからクロサイトとセラフィはあの樹海の最深部に潜む獣王にたった二人で挑み、辛うじて倒したものの二人共命に関わる重傷を負った。特にセラフィは意識が無いまま診療所に担ぎ込まれた。
夥しい量の出血、抉られた肉、微かにしか聞こえない呼吸に、クロサイトの泣き声で何事かと訪れた女将は足が竦んでしまう程背筋が凍った。クロサイトだって引き裂かれた衣類を鮮血に染めてぼろぼろの風体であったのに、セラフィの側を離れようとせず手を握ったまま泣いていた。当時の診療所の主であり、クロサイトの師であったバーブチカという名の医者が君も治療が必要なのだから離れなさいと言っても聞く耳を持たず、寝台の側でずっとセラフィの名を呼び続けていた。

『フィー、頼む、目を開けてくれ、僕を一人にするな!!』

普段は物静かで従順にバーブチカの元で医学を学んでいる彼がそこまで取り乱している姿を初めて見た女将は、何も言えずに口許を押さえて泣く事しか出来なかった。彼らを連れ帰ってきた兵士達も祈る事しか出来ず、あの時その部屋の中で冷静であったのはただ一人、セラフィの手当てを終わらせて寝台から離れようとしないクロサイトの腕の傷に黙々と包帯を巻いていたバーブチカだけであった。
だが、女将は滲む視界の中ではっきりと見た。血色が無くなり紫になったセラフィの唇が震え、苦しそうに眉間に皺を寄せて、顔がゆっくりとクロサイトの方に向いたのを。

『……クロ……耳元で……喚くな…… 傷に、響く、し……、ゆっくり……眠れん……』

掠れた声は確かにその場の全員に聞こえたし、クロサイトにもちゃんと届いていた。彼が握り締めたセラフィの手に大粒の涙を溢しながら口付け、絞り出す様な声で言った言葉を、女将は一言一句違えず覚えている。

『ぼ、僕が耳元で、騒がしくする、くらいで、お、お前が目を覚ます、ならっ、
 た、タルシス中に響く、くらいっ、な、泣き喚いてやる』
『やめろ、喉が潰れる』
『お前の命と引き換えられるなら声なんて二度と出なくたって良いっ!!』

「……あの時の先生の声、この近辺まで響いたそうなんです。
 それだけ先生にとって、セラフィ君は大事な弟さんなんですよー」
「……そうなんですか」
クロサイトがセラフィを大事にしている理由をガーネットから聞いていたギベオンは、しかしそこまでであったとは思っておらず、ただ気の抜けた様な返事しかする事が出来なかった。宿屋の食堂の窓から見える診療所は、当時の事を知っていてもギベオンとペリドットに詳細を教える事など無く、静かにそこに佇んでいた。



碧照ノ樹海の地下三階の地図もとうに完成させ、ある程度自由に歩き回れる様になっている二人も、やはり狒狒からビッグボールを投げ付けられながら熊と遭遇したりなどすると上手く立ち回れず、一応は城塞騎士であるが故に盾役となる事が多いギベオンは今日も痣や切り傷を多く手当てして貰って街へ戻ってきた。ただ、クロサイトから同じ鎚使いとしてたまに稽古をつけて貰える事があり、そのお陰か怪我の頻度は減ったし深い傷も今のところ負った事が無い。タルシスに来た時に拵えて貰った防具は既にサイズが合わず、また新しく拵えて貰ったものを着けており、それもそろそろ大きく感じる様になってきたので新しいものを依頼しようという話をした後にクロサイトはその足で風邪で寝込んでいるという近所の男性の家へと向かった。ペリドットは朝に女将さんと夕食を作る約束したからとそのまま宿屋へ行ったので、ギベオンは彼女の荷物を引き受けて診療所へと戻った。
そして、入る前に手足を清めようとギベオンが診療所の裏に回ると、そこには目を覚ましたのだろうセラフィが簡易流し台のポンプの側で上着を脱いで体を拭いていた。服装の上からでも細身と分かるその体は、顕になると余計に細さが際立つ。骨が浮く程ではないが、もう少し肉を付けた方が良いのに、などとギベオンが余計なお節介を口にしてしまいそうになる程、セラフィの体は細かった。その彼が、気配に気が付いたのかギベオンの方を振り向いた。
「……戻ったのか」
「あ、は、はい。……もう大丈夫なんですか?」
「まだ血が足らんから二、三日は養生しないといかんのだがな。もう大事ない」
「そうですか……」
「心配してくれたと聞いた。礼を言う」
「いえ……、無理なさらないでくださいね」
肩に巡らされた包帯は自分で巻いたのか、セラフィの足元には血が滲んだガーゼや包帯が落ちていた。朝にギベオンが見た、額に巻かれた包帯は既に無く、頭部に負った傷はそこまで深手ではなかった事を教えてくれている。だが、ギベオンが目を見張ったのは包帯に隠れた左肩から右脇腹へと大きく刻まれた傷跡だった。
「……あの、その傷……」
「ん? ……ああ、これか。昔碧照ノ樹海でちょっとな」
「女将さんからお話聞きました。
 獣王を倒された時の傷って聞きましたけど、身のこなしが軽そうなのに意外だなって……」
「腕の振り下ろしを咄嗟に避けようとしたんだが、真後ろにクロが居てな。避けられなかった」
「……あまり無理されるとクロサイト先生が悲しまれるのでは?」
どんな表情をしたものか分からず、やや戸惑いながらも傷跡について尋ねたギベオンに、セラフィは素っ気なく答える。生死を彷徨った程の傷であった事は朝に聞いたし、実際見てみると本当に生きている事が奇跡に近いくらいの深い傷は、ギベオンの背中に冷たいものを走らせた。勿論セラフィは今彼が言った様にクロサイトに被害が及ばない為に避けられた攻撃を敢えて避けなかったのだろうが、クロサイトがどれ程彼を大事にしているかを知っているギベオンは、今回の怪我も含めてもっと自分を大事にして欲しいという感想しか浮かばなかった。
しかし、そんなギベオンの言葉に対しセラフィは何かを逡巡した後、くっ、と喉の奥で苦笑した。ギベオンが初めて見たセラフィのその笑みは自嘲と諦めが混ざった様な、そんな苦笑だった。
「お前、フォートレスだろう。じきに分かる様になる」
「え……」
「俺は避ける事しか出来ん。だから自分の身しか守れんのだ。
 ……だが、お前は受け止める事が出来る。誰かをちゃんと危険から守れる様になる」
「………」
「いつも誰かを庇えと言っている訳じゃない。
 ただ、本当に必要な時に、誰かを守る為にどんな攻撃も受け止められる様になっておけ。
 後悔しない様に誰かを庇え。そのための修練だ」
「は……はいっ」
「良い返事だ」
普段は殆ど顔を合わせないし、会話も数える程度しか交わした事が無いセラフィの言葉は、ギベオンにとってどこか重みがあった。否、クロサイトの言葉も同様なのだが、あの樹海を一人で歩き、今日の様な怪我を負っても生きて戻って来るセラフィの言葉に背筋が伸びる思いだった。
クロサイトが初めてギベオンを診察した際に体の頑丈さを手放しで褒めた様に、今ではある程度ペリドットやクロサイトを守る為に盾となって何とか踏ん張れる様になっている。まだ太り気味である事には変わり無いが、それでも脂肪は少しずつ筋肉へと変わってきており、立派な盾役となれる日はそう遠くないだろう。しかしセラフィはそんなギベオンとは違って肉がつきにくい体であり、瞬発力や速さはタルシスに集まっているどの冒険者よりも優れているであろうが、誰かを守るという立ち回りは出来ない。クロサイトを庇った一件も、下手をすれば共倒れになっていた。セラフィはギベオンの様に守りながら戦うという事は出来ないから、ある意味ギベオンが羨ましかった、のだ。先程の苦笑には、そんな意味が篭められていた。
「……少し、出てくる。クロに聞かれたら工房に出掛けたと言ってくれ」
「あ……はい、分かりました。お気を付けて」
足元の包帯を拾って水を再度張った盥の中に入れ、黒いシャツを着てから普段のジャケットを羽織ったセラフィは、ギベオンに出掛ける旨を伝えてから裏手の階段を降りて行った。ギベオンは盥の中に残された血がついた包帯を、何とも言えない気持ちのまま眺めていた。



籠の中に入れた野菜とメモ紙をチェックして、ペリドットは宿屋への道を歩く。仕入れた野菜が足らなかった、との事で女将にお遣いを頼まれ、香草や香辛料のストックの補充も兼ねた買い物は商店の店番の娘との会話を弾ませてくれて、思った以上に時間を掛けてしまったから少々早足になっていた。
以前はペリドットが一人で歩いていると、体型の所為で時折振り返ってくる様な者も居たのだが、今では誰も気に留めない。既に「少しふっくらしている」という言葉で表現出来る程に体重が落ちた彼女は、飲まされていた薬の副作用も原因不明の病の後遺症にも悩まされなくなっていた。常に冷えていた体はもう寒さを感じる事は無いし、おかしな胸のむかつきも無くなり、踊る時に体が重たいと思う事が殆ど無い。樹海を随分と走らされたお陰で脚力がつき、以前よりも高く跳躍出来る様になったのもある。身体が小さいが故に足元に良く気が付き、目線の高いギベオンが気が付かなかった抜け道も彼女が見付ける事が多かった。そういう事を経て、ペリドットは小さく縮こまるのではなく胸を張る事を覚えた。
この街に来て良かった、と思う事は多い。人通りが賑やかなタルシスはペリドットにくよくよ悩む暇を与えてくれず、宿屋の女将や工房の娘、ガーネットの様な気の良い女性達との会話は故郷の嫌な事を忘れさせてくれた。ペリドットは許嫁の事や結婚の事を言わず黙っていたから妙な同情も掛けられなかったし、却ってそちらの方が気が楽であったので母の事しか話さなかった。
そうした中でウィラフという同じダンサーとも仲良くなり、時折酒に酔った彼女に腕を引かれて孔雀亭の舞台で共に踊ったりもした。聞けば、故郷から飛び出して一人前になるために冒険をしているらしい。知り合いも居ない街に一人で不安ではないんですか、とペリドットが尋ねると、辺境伯が父さんの友達だったんだ、と曖昧な笑みを浮かべて教えてくれた。そして、同じダンサーの友達も出来たんだから寂しくないよ、とも言ってくれた。ペリドットにしてもウィラフを友人と呼びたかったのでその言葉は嬉しかった。ただ、その友人ともあと二月もすれば別れなければならない。
重たい籠を持ち直し、ペリドットは小さく溜息を吐く。夕方の人通りも疎らな道は彼女の溜息を掻き消してはくれたが、二ヶ月後の事を考え籠よりも重たくなった胸の内は消してくれなかった。一日が終わる度、あの男に嫁ぐ日が近付いてくる。それを思うと、遣る瀬無かった。未だに肩を抱かれた時の寒気を思い出すだけで不快感が込み上げるので、ぶんぶんと頭を振って今は忘れる事にした。
「ねえ、そこのお姉さん、ちょっと良い?」
「はい?」
路地裏を通って診療所へと上る階段を目視出来る所まで戻って来ると、不意に知らぬ声に呼び止められた。振り向くと、見知らぬ男が良く言えば人懐こく、悪く言えば馴れ馴れしく間合いを詰めてきて、ペリドットは背筋に僅かに寒気が走ったのを感じた。本能的にこの男は嫌いだと察知してしまったのであるが、しかし無碍にするのも気が引ける。
「何かご用ですか?」
「うん、あのさあ、暇?」
「……暇、ではないです」
一応は用件を聞こうとペリドットは小首を傾げたのだが、男の言葉に少しだけ眉間に皺が寄ってしまった。どうやらナンパ、であるらしい。手に野菜が入った籠を持っているのが見えてない訳でもなかろうに、暇かと聞いてくるのもすごい。生まれてこの方ナンパされたのは初めてであるペリドットは、本当にこの街は色んな人が居るんだなと思った。いつだったかクロサイトが言った、どんな体型であれ君は女だし男は良くも悪くも男だという言葉が思い出され、果たしてそれが当たっていたと今分かったところでペリドットは嬉しくも何ともない。
「そんな事言わないでさ、良かったら食事にでも行かない?」
「いえ……、急いでいますので」
「えー、ちょっとだけで良いからさあ」
断っているというのに、不躾に抱かれた肩から一瞬にして全身を駆け巡った不快感による寒気が彼女の体を硬直させる。これはいつかどこかで、そうだ、故郷であの男に肩を抱かれた時の不快感と同じだと気が付き、目に入れたくもない下品な笑みを思い出して全身に鳥肌が立った。気持ち悪くて吐きそうで、しかし体が小さいが故に男の肩を引き寄せる力に勝てず、逃げられなかった。
「ね、ほんとちょっとだけで良いからさ。行こうよ」
今まで男に強引に連れて行かれそうになった経験が無かったので恐ろしく、声も出せずに真っ青になってしまったペリドットの肩を抱いたままにやにやと笑う男が歩き出した。路地裏を通った所為で人が疎らな往来からは見えなかったらしく、彼女が連れて行かれそうになっている事は誰も気が付いていないらしい。だが、恐怖で指先に力が入らず持っていた篭をペリドットが落としてしまったその時、男の頭頂を猛スピードで掠った何かが壁に突き刺さった。硬い石の壁を割いて突き刺さったそれは柄が黒い、どこかで見た事がある様な投擲ナイフだった。
「え、な、ど、どこから?!」
本当に頭頂ぎりぎりを掠って飛んできたものだから男も驚き、ペリドットの肩を抱いていた手の力が緩む。その隙をついて何とか彼女は男から離れたのだが、ナイフが飛んできたのであろう方向から歩いてきた人影に目を丸くした。
「連れに何か用か」
そんな事を言いながら肩をぐいと抱き寄せペリドットを更に驚かせたのは、診療所で休んでいるとばかり思っていたセラフィだった。彼女は診療所に戻っていないのでセラフィが出掛けた事を知らず、思わず怪我の具合は如何ですかと尋ねそうになってしまったのを辛うじて飲み込む。見上げたセラフィは無表情であったが、却ってその無表情が怖い。
だが、慌てた様な顔をしている男やクリソコラから肩を抱かれた時の様な不快感や吐き気は一切沸き起こらなかった。鼻腔に心地よい、何か不思議な匂いのするジャケットは見た目程硬くはなく、抱き寄せてくれた肩に触れた荒れた手はペリドットに安堵感すら与え、それが彼女の中に戸惑いを生んだ。こんな状況なのに不謹慎な、と訳の分からぬ事を思ってしまったのは単に混乱している所為であろう。
「な、何の用事も無いです、失礼しましたぁっ!」
投擲ナイフを寸分の狂いも無く投げてくる様な腕前が怖かったのか、はたまた単に無表情のセラフィが怖かったのか、男は引き攣った笑いを浮かべてそそくさと逃げて行ってしまった。随分と逃げ足が速い、とペリドットが思っているとセラフィは素っ気なく離れたのだが、薄れた香りは彼の後を残り香が追いかけている様に思わせた。
「……遣い物か?」
「あ、はい、女将さんから頼まれてて。
 それで絡まれちゃって……有難う御座います、助かりました」
「ん……」
壁に突き刺さった投擲ナイフを抜いてジャケットの内側に仕舞ってから、落としてしまった籠を拾ったセラフィがちらと横目で尋ねてきたので、ペリドットは頷いて返事をした。竦んでいた足は既に元に戻り、ひどい安堵感を覚えたペリドットが深々と頭を下げると、セラフィはやはり素っ気なく短い返事を寄越した。クリソコラや暴言を吐いた医者の事もあってペリドットは比較的男が苦手であったのだが、クロサイトやギべオンは彼女にその苦手意識を取り払わせてくれたし、最初は怖いと思っていたセラフィも今の様に優しいのだと知ると苦手意識も無くなったから、肩を抱かれても平気に思えたのだろう。……未だに初対面の時にボールアニマルの様だと言われた蟠りは残っているが。
「あ、あの、私が持ちます、セラフィさんまだお怪我なさってるじゃないですか」
「同じ方向に帰るのに女に荷物を持たせる男と思われるのは不本意だ」
「でも……」
「……もう大事無い。そう気を遣うな」
籠を持ったままセラフィが歩き出したので慌ててペリドットが止めようとしたのだが、彼は頑なに荷物を寄越そうとはしなかった。確かに背が低く、力があまり無いペリドットが重たい荷物を持っているというのに、外見だけでは怪我人と分からないセラフィが手ぶらで歩いていれば外聞は良くないだろう。助けて貰った挙げ句に荷物持ちまでさせてしまった……と気落ちしそうになったペリドットは、しかし何かを思い付き、先を歩くセラフィに駆け寄った。
「……あの、も、もし体調が良かったら、今日は夕食ご一緒しませんか。
 その……い、いつもお一人で食べられてるみたいだし……
 あ、でも、まだお体も本調子じゃないでしょうから、本当に良かったらなんですけど」
夕食を一緒に、という言葉にセラフィがきょとんとした顔をしたので言葉尻を萎ませてしまったペリドットは、それでも退くつもりは無かったので目を反らさなかった。そうなるとセラフィからでは上目遣いで見られている形になるため、何となく照れ臭いやら恥ずかしいやらで彼は思わずふい、と顔を反らしてしまった。
「そうだな、たまには誰かと食うのも悪くない」
「ほんとですかっ? 良かったぁ、食事は一人だとちょっと味気無いですもんね」
しかしペリドットにはその返答だけで十分であり、寧ろはにかむ様に笑って小走りでセラフィの後をついてきたものだから、彼は少しだけ歩幅を小さくし、普段は一段飛ばしで上る階段もペリドットに合わせて一段ずつ上った。上る途中、初めて診療所に来た時に比べて階段で息を上げなくなった事をセラフィが短く褒め、それに対してペリドットが嬉しそうに礼を言う。その光景を、診察を終えて立ち寄った統治院から帰宅する途中であったクロサイトが口元を緩ませて見ていた。



長い様で短かったペリドットの半年のタルシス滞在は、見事に彼女の体を絞り上げた。廃坑の狒狒も樹海の熊も、一人では無理だがギべオンと二人であれば倒せる様になっている。苦手であったサンバのリズムはそれが得意であるウィラフから教えて貰い、病を得る前よりもずっと健康的で引き締まった体になったしダンスの技術も向上した。剣だけではなくて試しに使ってみた弓が殊の外楽しく、その腕前も上達した。盾となってくれるギベオンの後ろから弓を引く彼女の姿は、一端の冒険者として樹海を歩くギルドの者達には見えた事だろう。
ただ、ペリドットは飽くまでクロサイトの患者であって冒険者ではなく、また期限付きでタルシスに滞在していたので、もう樹海へ繰り出す事は出来ない。クロサイトが設定していた目標体重である44キロまで脂肪を落としたペリドットは、診療所を卒業しなければならなかった。最初から分かっていた事ではあるがやはり別れというものは寂しいものがあり、挨拶回りの足取りは決して軽くはならなかった。
「そっか、もう卒業かあ。寂しくなるわね」
「随分お世話になりました」
「こちらこそ、時々依頼を受けてくれて有難うね」
故郷に戻る旨をガーネットに告げる為、酒場を訪れると、彼女は本当に寂しそうに笑って餞別のオレンジジュースを出しながら今までの礼を言った。ペリドットはここのオレンジジュースが好きで良く飲みに来ていたから、これももう飲めなくなると思うと一段と美味なものに感じ、ちょっとだけ鼻の奥がツンとした。
「ウィラフさんにお会い出来ないのが残念ですけど……戻られましたらよろしくお伝えください」
「そうね、伝えておくわ。ダンサーのお友達が出来て物凄く喜んでいたのにね」
「えへ……私も嬉しかったです」
ガーネットが言った様に、ウィラフは辺境伯からの依頼でタルシスの外に一月程前から遣いに出ている。二、三ヶ月は掛かるかな、と苦笑しながらペリドットに一足先に別れを言った明るい彼女ともうこの孔雀亭の舞台で踊れないのだと思うと悲しかったのだが、これが現実だ。
「ペリドットちゃんも、何か機会があったらまた来て頂戴ね。お早いお帰りを待ってるわ」
ペリドットが事情を何も話していない為に、彼女が故郷に戻れば望まぬ結婚をしなければならないという事を知らぬガーネットは、時折クロサイトが選んだ依頼をギべオンと二人で引き受けた時に必ず言ってくれた言葉を掛けてくれた。出来る事なら本当にすぐ戻ってきたいと胸が痛んだペリドットは、曖昧に笑って返事をした。
工房や孔雀亭、交易場、冒険者ギルドの面々にも挨拶を済ませたペリドットは、誰も居ない診療所に戻ってきた。ペリドットが卒業するからと言ってもギベオンの卒業はまだかなり先の事であるから、この日も彼はクロサイトと二人で碧照ノ樹海へと出掛けている。別れの挨拶回りの時間も必要だろうと数日前からペリドットは自由行動になっており、希望すれば共に樹海に連れて行って貰えるし、今日の様に街を歩くと言えば放っておいて貰えた。そちらの方がペリドットとしても申し訳なくならず、一人にして貰えた方が不意に泣きたくなっても気兼ねなく泣ける。
ここでの生活は本当に楽しかった、と、ペリドットは素直な感想を抱きながら診療所の裏庭から臨む世界樹を眺めながら思う。雄大で、美しくて、夜でもぼんやりと光って見えるあの巨木は、これからもこの街に集まる冒険者達が好奇心と挑戦心を胸に目指し続ける存在であるのだろう。ここで眺める朝焼けに照らされた姿も、風馳ノ草原の上空で見る高く昇った太陽に照らされた姿も、広場で遠目に見える夕焼けに染まった姿も、闇の中月明かりに浮かぶ姿も、もう明日からは見る事が出来ない。だがこの街の繁栄の大部分はあの巨木のお陰であり、痩せる為に樹海へ繰り出せたのも世界樹へ続く道があの樹海に存在し、冒険者達が踏み均してくれたお陰であるから、ペリドットは純粋に世界樹に感謝をしていた。樹海に入る様になって生息している樹木について興味もあったので、世界樹もいつか触れてみたいものの一つとはなっていたけれども、それは叶わない。ならばせめてと、ペリドットは大地を蹴り舞い始めた。
彼女が故郷に戻る頃、大地の恵みに感謝を捧げる収穫祭が行われる。その際、地の神に奉納する舞を、今年はペリドットが担当する事になっていた。一時帰省して舞台に立たされた時にも披露した舞は、彼女が一番好きな舞だ。今は故郷の土着の神ではなく、遠くに見える世界樹に対しての奉納のつもりで体を翻し、音楽も無く木立や庭に植えられた薬草が風でそよぐ音がするだけの静かな裏庭で全ての嫌な事を忘れて軽やかに舞った。遥か遠くに佇む、巨大な人の様なあの巨木へ尊敬と畏怖の念をこめて、祈る様に。
そして故郷の舞台と同じ様に地に伏せる形で舞い終え、ここで踊るのもこれが最後なんだと思うと無性に悲しくなって涙が滲んだ。そのまま暫く泣こうと背を丸めようとしたのだが、いきなり拍手が聞こえたので驚きのあまり涙が引っ込み、条件反射で体を起こすと、いつの間にか診療所の裏口の所に黒服の男が居た。
「い、い、いつからいらっしゃったんですか?!」
「いつからって……お前が踊り始めたくらいからだが」
「何で声掛けてくれないんですかぁ」
「邪魔するのも悪いかと思った」
「うぅ……」
今日は休息日にあてているのか、はたまた夜まで仕事は無いのか、診療所には居ないだろうと思っていたセラフィがそこに居たのでペリドットは心底驚いた。故郷に戻った時と言い、ナンパに絡まれた時と言い、思いもよらぬ時に姿を見せるその男を、ペリドットは恨みがましく見上げる。
「……良く踊れていた。舞台で踊った時よりもな」
「そ、そうですか? えへ……」
しかし褒められると嬉しくて、ぱっと顔を明るくした自分に対して現金だとは思ったが本当に嬉しかったのだから仕方ない。相変わらず背が高くて細くて、微かではあるが不思議な匂いがするのは、眠る際に時折香を焚くからだと以前教えて貰ったのでペリドットは特に気にならなかった。香が趣味だと聞いた時は意外に思ったものだが、例えば患者が樹海での運動で興奮して寝付けない時は焚いてやる事もあると言われて納得した。本当にこの男は、クロサイトのサポート役なのだ。
簡易の流し台に備え付けている盥に水をポンプで汲み上げて顔を洗い始めたセラフィは、寒い季節でもないというのにタートルネックのニットを着ていた。いつも羽織っているジャケットが見当たらない辺り、恐らく今まで寝ていたのだろう。結局最後まで何の仕事をしているのかを教えて貰えなかったペリドットは、その事を残念に思った方が良いのかクロサイトの知らない方が良い事もあるという言葉を信じた方が良いのかは分からない。ただ、顔を合わせる機会も少なく会話を交わす事も殆ど無かった頃に比べると、多少はこの男を知る事が出来ているだろう。明日からはもう自分の人生に干渉しなくなる人間なのだから、今以上知る必要は無い。……無いのだ。
「……明日、戻るのだったな」
「あ……はい、本当にお世話になりました」
「……体を労れよ」
「……有難う御座います」
持っていたタオルで顔を拭いたセラフィが奇妙な沈黙を破って短く労ってくれて、ペリドットは微かに笑って礼を言った。自分の体を労りたいのは山々だが娶った相手であるあの男が労ってくれるかは甚だ怪しく、そんな懸念が彼女の笑みを曖昧なものにさせる。それを察知したのかセラフィが少しだけ眉を顰めたのだが、同時にペリドットはある事を思い出した。
「セラフィさん、一つお願いがあるんですけど、あのお護り石もう一度見せて頂けませんか?」
「………? ……手を出せ」
「はい」
いきなり何を言い出すんだと疑問の色を浮かべたセラフィは、しかしペリドットの望み通りにニットの下に隠しているペンダントの紐を首から外して差し出された手の上に乗せてやった。彼女の小さな掌に乗せられた石は、深い緑の中に幾重もの白い模様が浮かんでいる。その模様が羽の様に見えるから熾天使の名を冠しているのだと教えて貰った様に、ペリドットはこのペンダントを貸して貰って踊った時は体がひどく軽くなって綺麗に踊れた。あの時のこのペンダントは、セラフィが言った護り石という言葉通り、ペリドットを護ってくれたのだ。心の中の重く冷たいものをゆったりと軽く温かなものにしてくれた様に思えたし、今もそう思う。見ているだけで胸のどす黒いものが軽くなった気がして、彼女は自然と微笑んでいた。
「有難う御座います、お返ししますね」
「……やるから持っていろ」
「え?」
石の持つ不思議な力を十分に堪能し、長々と借りていても悪いのでペリドットが返そうとすると、セラフィは手を伸ばそうとせずに短く譲渡の旨を伝えた。一瞬何を言われたのか分からなかったペリドットは、しかし言葉を理解すると慌てた。
「あ、あの、でも、大事なものなんでしょう?」
「お前とベオは今までの患者の中でも突出した努力家だったから、褒美だ。
 気に入ったんだろう」
「……ほ、本当に良いんですか……?」
「……ああ」
装飾品など一切着けない様に見えるセラフィが普段から肌身離さず着けていると想像がつくその石を譲ってくれるとは全く思っていなかったものだから、ペリドットは戸惑いながらも彼を見上げる。護り石というからにはずっと彼を護ってくれていたものであろうから、これからは何が護ってくれるというのだろうと思ったのだ。だがセラフィは譲渡の意志を変える事無く頷いてくれたので、ペリドットは震える手で石を包んだ。
「あの……本当に有難う御座います。大事にします」
「ん……」
「…… ……す、すみません、あの、……」
掌の上から伝わる石の心地よい冷たさは、それでもペリドットの胸の内を温かなもので満たしてくれる。その力に思わず鼻の奥がツンとして、引っ込んだ筈の涙が押し留まる事が出来ずに溢れた。泣いても困らせるだけだと分かっているがどうしても止める事が出来ず、彼女は石を持った手を胸にあて、俯いて泣いてしまった。
故郷のあの男のものになる事は最初から嫌だと思っていたが、それでもどこか踊り子であるから拒否権は無い、仕方ないと諦めていた。だがそれが死んでしまいたい程、身が引き裂かれそうな程につらいと思う様になってしまった。そう思う様になってしまったのは何故なのか、ペリドットは気が付いても余計に苦しいから気が付かないふりをしていたのだが、今痛切に自覚した。――恋をしているからだ。目の前の男に。
分かったところで、どうなる訳でもない。ペリドットは踊り子であり、次期領主には逆らえない。何か一つでも粗相をすれば母や劇団の者達の生活が保証されなくなってしまうから、全てを諦めて生きていくしかない。残酷なまでの現実は、ペリドットに涙を流させた。
「……… ……」
一方で、突然彼女が泣いてしまった事に戸惑いを隠せず、何か気の利いた事の一つでも言えたら良かったのだろうが、生憎とそういう芸当が出来ないセラフィは口を開きかけてまた閉ざしてしまった。結局はペリドットが泣き止むまでただ黙って側に居る事しか出来ず、彼は改めて自分の不器用さに苦い顔をした。



しんと静まり返った深夜の診療所は、少し肌寒い。体脂肪が常人より少ないセラフィは寒がりであるし、あまり自室に居る事が無いので余計に寒く感じる。その静かで冷たい部屋に響いたノックの音と兄の声に、樹海へ向かう為の支度をしていた彼は手を止め返事をした。入室してきたクロサイトは、マグカップが乗った盆を手にしていた。
「今日は行くのを止めて、少し話をしないか。最近お前とゆっくり話していなかったし」
「……そうだな」
セラフィの仕事は、主に樹海の死体掃除だ。戻る事が叶わなかった冒険者の遺品を持ち帰る事もある。深夜の樹海を探索する冒険者もそれなりに居る為に人目に触れない様にするには中々骨が折れる事であるし、水が苦手な彼は池や湖、川の近くでは大変な苦労をする。いつぞやの大怪我も、丹紅ノ石林の水場に半分沈んで息絶えていた者の遺体回収に手間取って魔物から奇襲を受けたので、常に危険が伴う仕事と言えた。
そんな仕事を続けているセラフィと、クロサイトはたまにこうやって茶を飲みながら話をする。クロサイトが患者を受け持っている時は傾向と対策を話し合ったりするし、居ない時は樹海や草原、石林の状況などを報告したりする。最近はその話し合いの機会が無かった為に、セラフィが仕事に出ようとする前にクロサイトが呼び止めた形になる。
「まずは一人、無事卒業させられたな。ペリ子君からお前によろしく伝えておいてくれと言伝てられた」
「……そうか」
「別れを言うのが辛くて出掛けたのか?」
「………」
調度品が殆ど無いセラフィの部屋にも、テーブルくらいはある。ただ、椅子は一脚しか無いのでクロサイトが椅子に座ってセラフィが寝台に座っており、チェストに置かれたマグカップに伸ばそうとしたセラフィの手がクロサイトの言葉で止まった。
今日の朝、ペリドットは故郷からの迎えに連れられてこの街を去った。クロサイトとギベオンはその彼女を見送ったのだが、セラフィは朝から出掛けて居なかった。朝の内でなければ採れない植物があるから、が理由であったけれども、本当はクロサイトが言った様に別れを告げる事が辛かったからだ。
ペリドットがセラフィに対して好意を自覚するよりもっと早くから、彼はペリドットに対して好意を抱いていた。無口で表情を変える事が少ない彼はその好意を隠し通せたが、双子の兄であるクロサイトには隠せるものでもない。だからクロサイトはやろうと思えば三ヶ月で卒業させる事が出来るペリドットをわざと半年この診療所に置き、彼女が一時帰省する時にセラフィを同行させた。そして帰省から戻ってきたペリドットがそれまでとは打って変わってセラフィを怖がらずに話し掛け、またセラフィも彼女との会話を楽しんでいた事を微笑ましく思っていた。
だが、セラフィがペリドットの故郷で知った様に彼女には許嫁が居り、インフィナに手紙を送って事情を教えて貰い、その許嫁が絶対に逆らえない相手であるという事を知った時は流石に沈思した。何でもクリソコラという名のペリドットの許嫁は領主である父親の権力の元で好き勝手な振る舞いをしており、領地で暴れていた竜退治もした事があるらしく、誰も何も言えない状態であるそうだ。本当はそんな男の元に嫁がせたくはないが、条件を飲まなければ自分や娘だけでなく他の多くの者が露頭に迷う事になるから娘は泣く泣く嫁ぐ事を決めたのですという返事に、クロサイトも砂を食む様な心持ちになった。
「お前、あの護り石をあげたんだろう? ペリ子君が教えてくれたぞ。
 そこまで好いたなら、何故彼女に伝えなかった」
「俺はあいつの母親と同い年だぞ? 俺を選ぶと思うか?」
「年は関係無いしお前はこの世で一番良い男だし、そもそもあんな男など比較対象にすらならん。
 それとも何だ、お前は好いた女が不幸になるのを黙って見過ごすのか?」
「………」
ペリドットの母親であるインフィナは、クロサイトやセラフィと同い年であるだけでなく、彼らより生まれ月が後だ。以前その事実をペリドットから聞いたクロサイトがセラフィに伝えたのだが、クロサイトが思った以上にセラフィはそれを気にしていたらしい。確かにクロサイトも聞いた時は微妙な心持ちになってしまったものだが、だからと言ってそれが弟にとって彼女を諦める理由にはなり得ない。不本意な婚姻を結ばなければならないペリドットが不幸になる事は目に見えており、それはセラフィは勿論クロサイトだって避けたい。半年という短い期間とは言え指導に当たった可愛い患者なのだ、みすみす不幸にさせたくはない。
クロサイトは、セラフィがそれでも彼女の手を取る事を躊躇っている最大の理由を知っていた。知っているからこそ、自分の持ち得る人脈全てを使ってお膳立てをした。それこそずっと断り続けていた辺境伯の依頼を受けてまで、だ。
「俺は、……俺はっ、お前の左目の代わりになると、約束した、のに」
幼少の砌からクロサイトは左目が殆ど利かず、それでも体が弱く臥せがちであったセラフィをいつでも側で守ってきた。子供ながらに兄として弟を不安にさせない様にと、片目が利かない事への不安を口にした事が無かった。そんなクロサイトが視界の狭さへの注意をいつも払っていた姿を知っていたから、セラフィは自然とクロサイトの左側に立つ様になった。常に神経を尖らせるクロサイトの負担を減らしたくて、可能な限り彼の左目の代わりとなった。母と別れた父の元から助け出してくれた時に、暗黙の了解であったその行動を改めて口に出し約束したのだ。彼の中でクロサイトの左に立つ事は責務であったと言っても良い。だが誰か別の者の手を取ってしまうと、その責務を放棄せざるを得なくなる。だから、セラフィは今まで誰の手も取らなかった。その事をクロサイトは知っていた。
「十分代わりを務めて貰った。もう大丈夫だ。僕はお前の枷になりたくはない」
「でも、」
「僕の為に命の次に大事にしていた護り石を譲る程好きな女を不幸にするな。僕の様なろくでなしにはなるな。
 お前が幸せにしてやらなくて誰がするんだ?
 自信を持て、お前は僕の自慢の弟で世界一良い男だ。きっと彼女を幸せにしてやれる」
セラフィがシャツの下に常に忍ばせていた護り石は彼にとってとても大事なもので、ペリドットが帰省して舞台に立った際に貸したという事をクロサイトはインフィナから手紙で教えて貰っていた。インフィナはクロサイトから借りたと勘違いしていた様であったが、勘違いしてくれていたからこそクロサイトに対し貸してくれた事への礼を書いて貰えたのであり、知る事が出来た。寝る時ですら肌身離さず着けていたそれをペリドットに貸したというのはクロサイトから見れば告白に近い。しかも、それを譲渡したとなれば心を彼女に一生捧げたも同じだ。無論、ペリドットは微塵もそんな事は知らぬ筈であるのだが。
「……あいつの、親達は」
「全部僕に任せておけ。抜かりは無いから心配するな、誰にも手出しはさせん。
 あんな男の元から、お前のお姫様を助け出しに行こう。
 お前の花嫁だ。お前が攫いに行かなくてどうする」
「………」
セラフィは昔から、クロサイトの前では良く泣いた。両親が離婚し離れる事になった時も、父親の元から連れ出した時も、死ぬなと自殺を止めてくれた時も、初めて人を殺してしまった時も、初めて樹海で他人の死体を埋めて来た時も、そして今も。
その度に涙を拭いていたのはクロサイトであったが、これからは違うし、また違わなければならない。彼らの前では明るく振る舞い、恐らくは心配や迷惑を掛けたくないと気遣い、踊り子はそういうものだと諦めて一言も望まぬ結婚の事を言わなかった、体は小さくとも芯の強いあの少女の様な女性が、この涙を拭いてくれる様になれば良い。クロサイトはそんな事を思いながら、一度だけだがしっかりと頷いたセラフィの目尻の涙をやや乱暴にぐいと拭った。
「……お前、一つ勘違いしてるぞ」
「うん? 何だ?」
泣いた事にばつが悪そうな顔をしたセラフィが自分でも袖で目を拭いた後に少し赤くなった目でじろりと睨んできたので、クロサイトは首を捻る。何か間違えていただろうかと疑問に思う彼に、セラフィは思い切り眉間に皺を寄せた。
「命とお前の次に大事にしていたんだ」
そうして言われた言葉に一瞬何の事かと瞬きをしたクロサイトは、それがペリドットに譲った石の事を指しているのだと気が付いて思わず苦笑いした。これからは命と自分の間に彼女が入るのだろう。否、命の前に彼女がくるのかも知れない。それで良いし、そうでなくてはいけない、とクロサイトは心の中で呟いた。
「そうだな、すまない」
彼は不服そうな顔をしているセラフィの頭を撫でながらそう言い、知っている、という言葉を飲み下してから弟の赤くなっている目尻を親指で撫で、そっと手を離す。その時のセラフィの目に迷いの色はもう見受けられず、クロサイトは満足した様にすっかり冷えてしまったマグカップを呷った。説得の緊張の為にからからに渇いてしまっていた喉は、その茶を喜んで受け入れた。



実りの季節は恵みを与えてくれた大地に感謝し、収穫祭が執り行われる地域が少なくない。ペリドットが生まれ育った土地も例外ではなく、その日は祭に相応しいと思わせる様な澄んだ青空が広がっていた。誰もが綺麗だと思う空を、しかし今日は誰も見上げない。この地域で古くから存在し、樹齢は八百年と伝えられ神木と呼ばれている木の前に設置された舞台の上で軽やかにしなやかに舞うペリドットに視線は集中していた。
以前は森であった地域は、この神木を中心に雑木林の様な形で残された以外、全て伐採されて街や畑、牧場などが作られた。繁栄の為に近くの山も切り開かれようとしたのだが、その山の主である竜が怒り、暴れたので、以前クリソコラが討伐に出掛け、討ち取りはせずに住み分けをするという協定を飲ませたと言われている。だから、山の麓だけに人の手が加えられた。この収穫祭での奉納の舞は、神木とその竜に対する畏怖と感謝も篭められていた。
そんな謂れのある舞は近隣の街や村から見学に来る者も多く、観光資源となっているのも事実だった。元からペリドットの母であるインフィナの劇団は近隣各地にファンが存在し、この収穫祭は普段よりも多く人が訪れる。そんな一大イベントに加え、次期領主であるクリソコラが舞い手であるペリドットと挙式をするとあって、見物客の数はそれまでの収穫祭よりも多かった。そんな大衆の前でも見事に奉納の舞を終えたペリドットには、割れんばかりの拍手が送られた。
収穫祭の奉納の舞台に上がる事は、彼女の夢であった。だからその拍手は純粋に嬉しいものであったし、舞うのは楽しかった。病を得て処方された薬で太ってしまった彼女を嘲笑った者達も、今は称賛と尊敬の眼差しで見ている。しかしそんなものはペリドットにとっては気分の良いものではなく、ぼんやりとした頭で観客に向かってひら、とお辞儀した。
そして慌ただしく舞台の上に用意される挙式の為の祭壇や、自分の手を引き舞台袖で婚礼の衣装にお色直しをさせているクリソコラの屋敷のメイド達、観客のざわめきはペリドットの目や耳には遠い国のものの様に思えて、気が付けば舞台の上で婚礼の儀式が始まっていた。あまりの現実の受け入れ難さに意識が途切れがちであったらしい。女として生まれた者の大半が憧れるであろう婚礼衣装は囚人服の様に思え、舞い終えた後から彼女に表情は無く、式の中で自分が何を言っているのかすら分からなかった。何に対して返事をしたのか、何を言われて何と言ったのか、全く分からなかった。心が壊れるというのはこういう事なのだろうかと他人事の様に思ったペリドットの意識を何とか保たせていたのは、婚礼衣装の下に隠して首から下げているあの護り石だ。この男と寝台を共にする時以外は常に身に着けておくつもりだった。
「―――それでは、誓いの口付けを」
いつの間に誓いの言葉まで終わってしまったのか、向かい合ったクリソコラから両肩に手を掛けられ、身長差があるので屈んだ男のすかした顔が真正面にくる。それまで無感動で、無表情であったペリドットは急に込み上げてきた悔しさで涙が滲み、触れられた肩から全身を一気に巡った寒気に眉を顰めてしまった。覚悟はしていたのに、この男のものになってしまうのだと思うとこの上無くつらくて悲しくて、大声で泣いてしまいたかった。
「……きゃっ?!」
「う、わっ?!」
だが、クリソコラが口付けの為に顔をペリドットに近付けようとしたその瞬間、彼の目の前を何かが猛スピードで飛び、神父の頬を掠って後ろにある祭壇に突き刺さった。風圧に驚き、慌ててクリソコラから離れたペリドットがその何かに目をやると、見覚えのある投擲ナイフが腰を抜かした神父の後ろに刺さっていた。タルシスで変な男に絡まれた時に飛んできた、あの投擲ナイフだった。
「ペリドット!」
そして木立から飛び降りたのだろう音がした方向にペリドットが弾かれた様に振り向くと同時に、飛び降りた誰かは見物客の最前列で彼女の名を叫んだ。黒い長髪、黒いジャケット、細身の体のその男は、タルシスに居る筈のセラフィだった。

「好きだ! 結婚してくれ!」

飾り気も気取った素振りも何も無く簡素で短い、だが全ての想いが籠められた彼のその叫びに、ペリドットは驚くよりも先に自分を引き寄せようとしたクリソコラの手を振り払って駆け出した。そんな事をしたらどうなるのかなど少しも考えずその胸に飛び込んだ自分を抱き留めてくれたセラフィが肩を抱きながら心底安堵した様に息を吐いたのが聞こえたが、その息を掻き消す様に彼女は声を上げて泣き出した。うっすらとではあるが香の匂いがする胸が彼女に安らぎを与えてくれたし、クリソコラの手が肩に掛けられた時の様な寒気など全て消え失せる程の温もりがあった。
「な、な、何だ君は! こんな真似をして許されると思っているのか?!」
「領主の息子だからと言ってやりたい放題の貴様に言われたくはないな」
「な……?!」
神父と同じ様に腰を抜かしかけたクリソコラは、しかし突然現れた男に花嫁が迷わず駆けて行った事と見物客の一部から憧れが混ざった黄色い歓声が上がった事が腹立たしかったのか、儀式用に腰に挿した剣の柄に手をかける。だが、彼が抜こうとするより速くセラフィがペリドットの肩を抱いたまま剣を抜いて切っ先を向け、クリソコラの動きを封じた。まさか自分に剣を向けた男が手練の者であるとは知らぬクリソコラは、しかし切っ先よりも鋭く冷たい目に何かを感じ取った様であった。
「身寄りが無くて見目の良い女が居れば言葉巧みに囲って傷物にしているらしいな。
 子供が出来れば堕胎させる、堕胎が叶わなければ認知せずに女を捨てる、
 薬漬けにして廃人にもしたそうだな?」
「……よ、よくそんなでっち上げを」
「挙げ句、こいつの母親が手に入らなかった腹いせにこいつにも毒を盛ったそうだな。薬師が白状したぞ」
忌々しげに、それこそ殺意が見え隠れする程のセラフィの声は、観衆のざわめきの中にあっても良く通った。それ故にセラフィが暴露した事はその場を水を打った様に静かにさせたし、クリソコラの顔から血の気を引かせた。そして、ペリドットの涙も止めてしまった。
セラフィが言った通り、クリソコラに買収された薬師はペリドットの母親であるインフィナの劇場内で飲み物の差し入れと称して彼女だけに毒を盛っており、その毒が原因でペリドットは病を得た。症状が比較的軽い病であっても原因不明となれば不安になるもので、医者に診て貰うのも自然な流れだ。だが、その医者がいけなかった。
「毒を盛って金銭的に回復を支援してこいつの母親に恩を売ろうとしたんだな?
 だがこいつが預けられた医者は貴様が廃人にした女の身内でな、
 貴様に見るも無残な花嫁を宛がってやろうと思ったらしい。
 貴様の所為でこいつもこいつの母親もいらん涙を流した訳だ。
 そんな貴様に許されると思っているのかなどと言われたくない」
ペリドットが一時帰省を果たした時にクリソコラの女癖の悪さの評判を聞いたセラフィは、タルシスに戻ってからも情報を集めた。何せタルシスは様々な地域から冒険者が集う街であるから、大した労力は必要無かった。噂だけど、と前置きする者も居れば、遠い縁者があの近辺に住んでいるから手紙で聞いてみようか、と言ってくれた者も居る。それまで樹海の掃除屋として一部の冒険者達から存在を知られていた彼は善意で寄せられる情報量の多さに驚き、自分が思っていた以上に良くも悪くもそれなりに評価をされていたのだと知った。
薬師の事を知ったのは、祭の前にこの街に到着して情報の真偽を確かめていた時だ。収穫祭まではそれなりの日数があり、タルシスから来たセラフィの顔などペリドット以外の者は知る筈も無いので行動は容易く、薬師もペリドットの病を診たという医者もあっさりと見付かった。身寄りが無いとクリソコラが思って囲った女は、遠い縁者ではあるが一応身内が居たらしい。医者の方は被害者側の立場であるので責める事は出来なかったが、だからと言って気分の良いものではない。
「被害に遭った女から可能なら貴様を殺して欲しいと依頼を受けている。
 殺してやろうか? 今、ここで」
その医者の身内であるという女にも会い、話を聞こうとしたのだが、すっかり中毒になりまだ薬が抜けきらないその女は寝台に縛り付けられ時折発作の様に激しく暴れていた。不明瞭な声、ボロボロになった肌、濁った目は樹海で様々な死体を見たセラフィに思わず顔を顰めさせる程で、話が通じるのかと思われたものの辛うじて意志疎通は出来、自分の様になってしまった女を山に捨てていたとも聞いた。竜が棲むと言われているあの山に、だ。そしてまだ生きている自分は良かったと思うべきなのか、それともいっそ急性薬物中毒で死んだ方が良かったのかと考えて過ごす地獄の様な日々を与えたあの男を殺して、と女は絶叫し、セラフィはひりついた喉で可能ならな、と返事をするのが精一杯だった。
「だめっ!」
その後もろくでもない話をちらほら聞き、まさかそこまでひどい男であったとは思っていなかったので一度はペリドットを諦めようとした自分が腹立たしく、本当に殺してやろうかとセラフィが剣の切っ先を向けたままペリドットの肩に置いた手の力を緩めたその時、彼女が剣を持っている腕にしがみついて止めた。あんな男を庇うのか、とセラフィが不可解さを滲ませてペリドットを見ると、彼女は目に涙を溜めたまま必死に叫んだ。
「だめ、だめです、あ、あんな男の為に、人殺しになんてならないでっ!」
その意外過ぎる叫びはセラフィの目を丸くしたし、クリソコラを呆気に取らせた。セラフィは今まで生きてきた中で人を殺した事もあるがペリドットはそれを知らないし、知っていても同じ言葉を叫んで止めている。彼女は貴方が殺す価値も無いと言いたかったのだ。
「……だそうだ。命拾いしたな」
依頼してきたあの女の願いを叶える事は出来ないが、命を奪う意味で殺さなくても社会的な抹殺は出来る。今暴露した内容を領民達が糾弾するも良いし、追放するも良い。それはこの地の領民達の仕事であってセラフィの仕事ではない。
しかし、セラフィがクリソコラを睨みつけながら切っ先を下ろして剣を収めようとしたその時、観衆を掻き分けた大きな影がセラフィの前に踊り出て何かが弾かれた音が響いた。背丈がセラフィと大差無いものの体格は随分と大きいが、ほぼ毎日重装備で樹海を走らされている為に咄嗟に庇う事が出来る程瞬発力が身についたギベオンが、盾を構えてそこに立っていた。彼の足元にはセラフィに向かって放たれたのだろう矢が数本、折れた状態で落ちていた。
突如として現れた、戦場に赴くかの様な装備を身に着けた男にざわめく観衆の間から、ギベオンと似た格好をした美しい金髪の青年が現れ、静かにギベオンの隣に立つ。まるで物語の様な展開に、既に民衆は興味と好奇の入り混じった目で彼らを見守っていた。そしてどこかの国の紋章が描かれている盾を持つ自分達を見て怖気付いたかの様に一歩後退ったクリソコラに、ギベオンは殆ど篭もらなくなった良く通る声で名乗りを上げた。
「水晶宮宮廷騎士、エコンドライト家長子のギべオン」
「同じく水晶宮宮廷騎士、キルヨネン。
 我が双臂王ビョルンスタットよりこの二名の護衛を仰せつかっている」
護衛の言葉通り二人を守る様に前に立ったキルヨネンとギべオンが手に持っている盾に描かれているのは、水晶宮の宮廷騎士団の紋章だった。二人を見たペリドットは何故この二人がここに居るのかという疑問よりも先に、ギベオンが初めて自分の家名を口にした事とキルヨネンと同じデザインの服を着ている事に驚き、目を見張ってしまった。水晶宮の宮廷騎士のみ着る事が許される、とキルヨネンから以前聞いた事があった為だ。
ギベオンは、ペリドットにも殆ど実家についてを話した事が無い。精々キルヨネンに伝えた事をクロサイトが聞いた程度で、セラフィも詳しく知らない。それ故、宮廷騎士を名乗れる程の身分である事を知らなかったので余計に驚いてしまった。ただ、ギベオンの実家も本来はキルヨネンの様な双臂王直属の騎士ではなく騎士団の一員であるに過ぎず、今着用している衣服や防具は下賜された事が無かった。
では何故彼が着用出来ているかと言うと、ペリドットに許嫁が居ると知ったクロサイトから彼女を助け出す為に手を貸して欲しいと頼まれた時、相手が領主の息子であるから権力を振りかざしてくるだろう、ならばこちらも権力を振りかざすと彼が言ったので、ギベオンは使えるものは使おうと実家の名を出す事にし、キルヨネンに水晶宮の名も出しても良いかと尋ねたのだ。すると、何とキルヨネンはちょうど良いと言わんばかりに聖印記章をギベオンに渡して陛下に話はつけてある、君は僕直属の騎士にして貰ったから堂々と宮廷騎士を名乗って良いと言ってくれた。まさかキルヨネンにそこまで気に掛けて貰っているとは思っていなかったギベオンは目を白黒させるだけであったし、工房の親方にサイズを聞いて故国から取り寄せたと渡された文様が入った盾や鎧に心臓が口から飛び出るんじゃないかと思う程驚いた。しかしクロサイトは権力には権力を、と言ったのでこれを利用しない手は無く、有難くその誉れを受け取る事にした。
そういう経緯があり、ギベオンはキルヨネンと同じ格好をしている。だが何となく落ち着かないし、タルシスに戻ってまた樹海へ赴く際はいつもと同じ鎧を着けよう……と彼は顔に出さない様にしながら思いつつ、再度盾を構えた。ここはタルシスではなく別の自治領であり、領主が法だ。現領主はこの収穫祭が終わると同時に息子に領主の座を譲るらしいので、実質クリソコラが領主となる。侵入者を殺せと命じればこの祭り会場の周りに居る警備の兵士達が押し寄せてくるのは目に見えていた。
しかしそれも対策済みであり、この場から逃げ出そうとしたクリソコラは背中に何か衝撃を受けて体を硬直させた。その姿に、思わずキルヨネンが珍しくもにやりと笑う。
「動かないでくれる? 今度は抜身で突くわよ」
「な……」
「あんたが竜退治? 笑わせてくれるね、私の父さんと兄さん達の後ろで腰抜かしてたのは誰だった?
 大体、あの竜はこの一帯の守り神じゃない。その住み処を荒らそうとした癖に何が協定を結んだ、よ」
気の強そうな女性の声は、キルヨネンもギベオンもセラフィも、勿論ペリドットだって知っている。ペリドットよりは薄いが褐色の肌に額には赤いバンダナを巻き、美しい装飾が施された剣の柄でクリソコラの背を突いたのはペリドットが故郷に戻る一月前に用事があるとタルシスを出たウィラフだった。
「ウィラフさん……」
「水臭いよペリドット、何で言ってくれなかったの。
 確かに踊り子は身分が低いって見られがちだけどさ、だからってこんなろくでなしに無理矢理嫁がされる事無いよ」
ウィラフもまたクロサイトに協力を要請された一人であるが、クリソコラの名を聞くとあいつそんなふざけた事やってるの、と言い、逆にクロサイトを驚かせた。クリソコラは竜退治を得意とするウィラフの父が請け負い、兄達と同行して手伝った仕事の依頼人であったそうだ。世界はこんなにも広いのに世間はこんなにも狭い、とウィラフは苦笑し、快くその要請を引き受けた。彼女にとってもペリドットは良い友人であり、また良いダンス仲間である。ペリドットはウィラフが苦手なワルツが得意で、ウィラフはペリドットが苦手なサンバが得意であるから、教えて貰いたい事は沢山あったからだ。
そしてペリドットが帰るよりも早くこの街に入り、流れの傭兵と偽って祭り会場の警備に上手く潜り込む事が出来た。予め仕入れておいた情報をセラフィに教えたのもウィラフであるし、装備故に外見が目立つキルヨネンとギベオンが見付からない様に手引したのも彼女だ。
「こ……ここは私の領地だ! その娘を連れ去れば、母親以下劇団員の首を落とす事も出来るんだぞ!」
いよいよ以て追い詰められたクリソコラは、この地では自分が法であるという事を叫んだ。その様な暴挙は民衆の心を離れさせるものであるし、そもそもこんな男であったという事をこの場に居る大勢の者が知った今、この男を領主にと望む者は一人として居ないだろう。だが追い詰められた人間程、何をするか分からない。この暴君を黙らせる為に次は何を出してくる、と、不謹慎にも観衆の一部は最早芝居を見ている様な心持ちで待っていた。
「それを懸念されたタルシスの辺境伯は、亡命を受け入れる通達を出された」
「は……っ?!」
その期待に応えるかの様に観衆の人波を掻き分け出てきたクロサイトは、左目こそ隠してはいるが普段のぼさぼさの頭をきちんと整え白衣ではなくタルシスの統治院で辺境伯の部下達が着ている制服を身に着けていた。これにはギベオンもキルヨネンもウィラフもいつ着替えたんだ、そもそもそんなものを何故持っているんだと驚いたし、ペリドットはもう頭がパンクしそうでよろける様にセラフィに体を預けてしまった。驚いていないのはセラフィだけだ。彼だけは、クロサイトが統治院の制服を以前から所持している事を知っていた。所持していると言っても辺境伯の下には優秀な補佐官が多く存在しているから特に何もする事は無く、クロサイトは医者業を続けている。
そんな彼であるが、今回は外交員として辺境伯に相談し、恐らくそういう卑怯な手を使ってくるであろうからなるべく多くの者を助ける為に亡命を申し出られたら受け入れて欲しいと頭を下げた。タルシスの民の殆どが良い統治者であると評価をする辺境伯はクリソコラの様な領主をあまり快く思わない男であるから、クロサイトの頼みも条件付きではあるが聞き入れて書面を作成してくれたのだ。
「タルシス辺境伯直筆の書面を持参した。
 もし貴公がその様な暴挙に出たなら、タルシスも軍を所持する自治領として黙っていない旨も当然書かれている」
「我が王も完全同意だ」
クロサイトは手に持っている丸めた書面を留めている麻紐を解いて掲げる。その距離からであれば当然クリソコラは内容までは見えないであろうから彼の背後に居るウィラフが剣を抜く事を牽制している事を確認してからゆっくりと歩み寄り、突きつけて見せた。キルヨネンはビョルンスタットから公式書面までは賜っていないが、お前の采配に委ねるという返事を貰っている為にそう言った。統治者からの絶対的な信頼というのは得る事が難しいが、クロサイトもキルヨネンもその点で言えば積み重ねた実績というものがある。
「さて――クリソコラ公、ここは潔くペリドット君をそこの男に譲っていただけまいか。
 インフィナ殿の劇団はこの領地にとって重要な資金源だ、存在が無くなって困るのは貴公だろう?
 花嫁に逃げられ、劇団から逃げられた領主と後ろ指を差されるよりも、
 花嫁を好いた男の元へやり、母親もお咎め無しにした懐の広い領主と言われた方が余程良いと私は思うが、
 如何かね」
水晶宮もタルシスも、名の知れた王国や街であり軍事力もある。そこを敵に回せばどうなるかは愚かなこの男でも流石に分かったらしく、今度こそへなへなとその場に座り込んだクリソコラが顔面蒼白で力無く頷くと、それまでじっと見守っていた観客からわっと歓声が上がった。悪事を散々尽くしてきた男が完膚なきまでに叩きのめされるという、大衆が好む様な物語が目の前で繰り広げられたのだから。
「クロサイト殿、ここは僕とウィラフが引き受けよう。君達はもう行くと良い」
「この男キリキリ締め上げとくからさ! 揉みくちゃになる前に行ってよ」
「うむ、すまないが頼む」
この場の収拾をつける役を申し出てくれたキルヨネンと呆然と座り込んでいるクリソコラの両脇を抱えてからからと笑ったウィラフに、クロサイトは頷いて礼を言う。そして何と言って良いのか分からない様な表情でペリドットの肩を抱いている弟を振り返ると、にやっと笑った。良かったな、と口には出さなかったが、セラフィはクロサイトがそう言いたかったのだと分かっていた。
「あの、あの、キルヨネンさんもウィラフさんも、有難う御座いました! その……」
「お礼はまたタルシスに戻ったらゆっくり聞くよ! そうだな、ジャック・ターでも奢ってよ」
「では僕はモスコー・ミュールを一杯奢って貰おうかな」
「は……はい、はい……!」
ペリドットが礼を続けようとするのを遮ったウィラフが好きなカクテルを挙げたので、キルヨネンも冗談交じりで微笑む。風馳ノ草原や丹紅ノ石林で世話になっているクロサイトやセラフィの役に立てたと思ったらしい二人は、ペリドットが涙声で頷いたのを見て片手を挙げて会釈をした。
そしてその場を去る為に祝福の声を掛けてくれている観衆達に道を開けて貰おうとしたギベオンの前に、一人の女性が軽やかに進み出てきて、あ、と彼が声を上げ、ペリドットを振り向いた。彼女にとって、大事な女性だ。別れは言わねばなるまい。
「ペリドット、良かったわね。本当に良かった」
「……お母さん!」
その女性は、ペリドットの母であるインフィナであった。すらりとした長身、長い髪、中性的な顔立ちのインフィナは、クロサイトから手紙で今日の計画を詳細に教えて貰っており、娘が幸せになるならタルシスにやっても構わないと返事をしていた。ただ、自分は飽くまでもこの地に残るとも伝えている。ペリドットの父であった男が眠っている場所は、ここしか無いからだ。
「今までずっと、踊り子だからって我慢させてしまったわ。でももう良いの。幸せにおなり」
「……お母さんは、幸せじゃなかったの……?」
「あら、どうして? こんな可愛い娘が居るし、こんな素敵な旦那さん見せてくれたのに。
 これ以上無く幸せよ」
「……わ、私、私もお母さんの娘で良かったよ、だから」
「私はここに残るわ。あんな男でも一応は領主だものね、私達が教育し直さなきゃ。
 徹底的に根性叩き直してやるわよ」
「………」
ペリドットとしては共にタルシスに来て欲しいのだがインフィナの意志は固く、頑としてここに残ると言った。キルヨネンとウィラフに引きずられる様に連れて行かれているクリソコラはもう領主としての体裁は保てないであろうが、次の領主が決まるまでの人形程度にはなるだろう。否、なって貰わねばならない。今まで被害に遭った女達に対しての償いは死を以て、ではなく、生きながら苦しんで貰う事にする。
それは竜が棲む山に捨てられ、辛うじて生き長らえ山での生活を選んだという女性にも言ってある。山には代々竜の世話をしているという一族が隠れ住んでいたらしく、久しぶりに外部からの血が貰えると喜んで受け入れて貰えたらしい。今ではその一族の長が竜に頼み込んで女の体を癒して貰い、外部の血が云々を差し引いても誠実に甲斐甲斐しく世話をしてくれた若い男との子供を妊娠しているそうだ。女が捨てられたと聞き、万一にでも生きているなら保護がしたいと赴いたウィラフからそれを聞いたクロサイトは、世の中は複雑なものだと唸ってしまった。
「娘を迎えに来てくださって有難う。この子をよろしくね」
「……はい」
既にこの街に来てセラフィが一番最初にインフィナに会いに訪れた際に正式にペリドットを妻に迎えたいとの旨を伝えて快諾して貰えていたが、それ以降は顔を合わせると外部に話が漏れるかも知れないからとわざと接触を断っていたので、ペリドットを同伴しての挨拶はこれが初めてとなる。何か一言、例えば誓いの言葉など言えたら良かったかも知れないが、生憎とセラフィはそういう事が言えぬ男であったから短く、しかし万感の思いを込めて頷いた。インフィナはそれに対し、ひどく嬉しそうに微笑んだ。



祭り会場の人混みをギベオンを先頭にして何とか脱出した彼らは、人目に触れない様に何とか郊外に停めてあった気球艇まで戻ってきた。緊張の糸が緩んでどっと疲労が出たギベオンは盾を落として座り込み、クロサイトも彼の横にやれやれと座る。慣れない正装はするものではない、という二人の心境は今まさに合致しており、ちらと横目で視線が合ったギベオンにクロサイトが拳を掲げるとギベオンも照れた様に拳を掲げ、軽くタッチした。ご苦労様、と、どういたしまして、の挨拶だった。
そんな二人の前にセラフィも座ったが、婚礼衣装のままのペリドットが座ろうとしたので上着を脱いで下に敷いてやると、彼女は申し訳なさそうに有難う御座います、と言った。
「……まずは礼を言う。助かった」
「ああ、いえ、お役に立てて良かったです。ペリドットも、良かったね」
「うん、本当に有難う」
そしてセラフィが深々とギベオンに頭を下げたので、ギベオンは恐縮しながらもペリドットに対して祝いの言葉を述べた。人の事を言えないがペリドットも殆ど実家の話をしなかったのでまさか彼女があんな男に嫁ぐ事になっていたとは露も知らなかった為に胸が痛み、クロサイトから事情を説明された時に手伝ってくれるかねと聞かれてはいと即答していた。ただ、セラフィがペリドットの事を好いていたとは全く気が付かなかったので心底驚いてしまい、彼女の故郷に来るまでの気球艇の中で何を話して良いのやら分からず、数日胃が痛い思いをした。
「……お前、何故あんな事をした。一歩間違えれば死んだかも知れんのだぞ」
しかし、胸を撫で下ろしたギベオンに対し、セラフィは礼は終わったと言わんばかりに睨みつけた。あんな事、というのは、矢を放たれた時にギベオンが自分達を庇った事だ。避ければ後ろの観客達に当たったであろうし避けなければ自分に刺さっていたのでギベオンの行動を責めるのはお門違いではあるのだが、それでもまだ城塞騎士としては未熟の部類に入る彼を盾にしてしまった失態はセラフィをこの上なく苦い顔にさせる。そんなセラフィにギベオンはきょとんとした後、眉尻を下げて苦笑いした。
「何故って、やだなあ、セラフィさんが僕に仰ったんじゃないですか。後悔しない様に誰かを庇えって」
「………」
セラフィが大怪我を負ったあの日、意識が戻った彼は樹海から帰ってきたギベオンに対して確かにその様な事を言った。自分は避ける事しか出来ないけれども城塞騎士であるお前は誰かをちゃんと危険から守れる様になる、本当に必要な時に後悔しない様に誰かを庇えという言葉は、セラフィが思った以上にギベオンの胸に残ったらしい。それを言われていなくてもギベオンは同じ行動をとったであろうという事は、セラフィには容易に想像がつくけれども。
「あの時、ああしなかったら一生後悔すると思ったから飛び出しました。それだけです」
「……この、馬鹿」
「はい、馬鹿です」
城塞騎士としての責務を全うした、晴れ晴れとしたギベオンの笑みと声に、セラフィが毒づく。しかし呆れた様に言い放たれた言葉はどこか照れ隠しの色が含まれており、ギベオンは擽ったい様な気持ちになった。
「……何かお前に礼をしなければならんな」
苦虫を噛み潰した様な顔のまま、今回手伝って貰ってしまった事に対する礼をせねばとセラフィが頭を掻く。キルヨネンとウィラフがペリドットに一杯奢ってと冗談交じりに笑った様に何か奢るかと考えていた彼に、ギベオンはうーん、と首を捻った。
「お礼なんて別に何も……あ、じゃあ、いつからペリドットの事好きだったのか知りたいです」
「はあ?!」
「あ、それ私も知りたいです。
 セラフィさん、初対面の時に私の事ボールアニマルみたいって言ったのに」
「ぐ……っ」
高価な物品を要求された方が何百倍もマシなのではないかと思う様な事を突如聞かれ、セラフィは珍しく素っ頓狂な声を上げた。挙句、ペリドットに追い打ちをかけられ、退路を断たれてしまった形になる彼は頬を引き攣らせて絶句する。しかしギベオンはともかくとして、ペリドットにはその疑問を問う権利がある。未だに彼女は初対面の時に言われた言葉が引っかかっているのだ。
「ペリ子君にベオ君、良い事を教えてやろう」
「クロ!」
「良いじゃないか、どうせばれるんだ」
それまで黙ったままでいたクロサイトが口元を隠しておかしそうに笑い、震える声で二人に何事かを言おうとしたので、セラフィが余計な事を言うなと声を遮る。しかしクロサイトは止めるつもりはなく、手を口元から離して言った。
「あのな、フィーは子供の頃から小さくて丸くてころころしたものを可愛いと思うし好きなのだ」
「小さくて丸くてころころしたもの……ああ、ボールアニマルみたい、なあっ?!」
喉の奥で笑うクロサイトから教えられた単語の連なりを復唱したギベオンは、それから連想される動物の名を口に出して驚きの声を上げたし、ペリドットはその一息後に理解して一気に顔が熱くなった。小さくて丸くてころころと転がるものと言えば、彼らの中ですっかりお馴染みとなったあのボールアニマル、である。二人して呆然と向けた視線の先には、真一文字に結んだ口元と真っ赤に染まった首元を手で隠しきれず撃沈したかの様に黙っているセラフィが俯いていた。
「あの……ひょっとして最初から……?」
「………」
「…… ……あ、りがとう、ござい、ます……」
まさかあの時の言葉がセラフィにとっての賛辞であったとは思いもしていなかったペリドットは、沈黙は肯定であると判断して彼と同じく首まで赤くして途切れがちに礼を言った。一目惚れだったんだ……とギベオンも何となく照れてしまったし、クロサイトはずっとおかしそうに笑っている。彼はセラフィからそう言われたとペリドットに言われた時から知っていたので、漸く暴露出来てかなり上機嫌そうだ。
そしてその上機嫌な笑みを引っ込めたクロサイトはやおら真面目な顔をしてから居住まいを正し、ペリドットに向き合った。
「さてペリ子君、聞いての通り、君はフィーが生まれて初めて一目惚れをした女性だ。
 きっと君を幸せにするから、君もフィーを幸せにしてやって欲しい。
 ……どうか私の弟を、よろしく頼む」
今までずっとクロサイトの左目の代わりを務めてきてくれたセラフィは、今日からその場を離れてペリドットの手を取る事になる。この世でたった一人の肉親が選んだ女性なのだ、クロサイトとしても幸せになって欲しいと心から願っている。その願いを込めて深々と頭を垂れたクロサイトに、ペリドットも慌てて居住まいを正してから頭を下げた。
「こ、こちらこそ、大事な弟さんをくださいまして有難う御座います。
 えっと、あの、あの、セラフィさん、私、絶対幸せにしますからね! 約束します!!」
「ちょっと待て逆じゃないか?! それ俺がお前に言う言葉じゃないか?!
 おい笑うなそこの二人!!」
「す、すみませ、ぶふっ……」
「よ、良かったなフィー、ふ、ふはっ、あーっはっはっはっ!」
クロサイトを納得させるというか安心させる為に何か良い言葉は無いかと考えを巡らせたペリドットの口から出たのは、本来なら恐らくセラフィが彼女に誓うべき言葉であった。しかも両手を掴まれて言われてしまっては形無しだ。まるで夫婦漫才の様な――否、もう夫婦となるのだが――遣り取りを目の前で繰り広げられたギベオンは堪らず吹き出し、クロサイトに至っては腹から笑った。そんな二人を恨めしそうに睨んだセラフィは、しかし二人が笑ったのでひどく恥ずかしい事を言ったのだと気が付いて赤い顔を両手で覆ったペリドットが自分に寄り掛かってきてくれた事に言いようもない幸福を感じていた。