重苦しい沈黙と気まずい空気の中、ギベオンは鎧の下に着用しているインナーシャツがじっとりと汗で濡れていくのを感じていた。ひどい緊張は体内の静電気も蓄えさせ、気取られぬ様にガントレットを通して鎚に流し込んでいるが、その鎚が何かに触れてしまえばたちまち大きな放電現象を引き起こしてしまうから、余計に鎚を持つ手が緊張で強張った。
 今、彼はタルシスでもなく、風馳ノ樹海でも丹紅ノ石林でも銀嵐ノ霊峰でもない大地の、書籍が壁一面に陳列された建物に居る。金剛獣ノ岩窟で巫女を連れ去ったワールウィンドを気球艇で追ったのはつい先日、それこそ昨日の事なのであるが、追った先には霊峰の雪に閉ざされた世界とは全く違う緑の大地が広がっていた。そこには見た事も無い巨大な気球艇が三隻も待機しており、ギベオンが纏っているものよりも厳つい鎧を着用した者が姿を見せ、ここは帝国の領地である、大騎士――恐らくワールウィンドの事であろう――がとった行動についての説明をし平和的に事態を解決する準備があるので辺境伯を連れてくる様にと告げられた。ギベオン達は質問すら許されず、帝国の気球艇の大砲を見れば無茶な行動も出来ず、結局は言われた通りタルシスへ引き返すしかなかった。
 そして、キバガミを連れたまま辺境伯へ事の次第を話した。クロサイト達がホムラミズチを倒した事を称賛した彼は最初こそワールウィンドが巫女を連れ去った事を冗談と思って笑っていたが、クロサイトもギベオンも真剣な顔付きであったからその笑みを消し、帝国側の要請を飲むと判断した。ついては君らに護衛をして貰いたいとの申し出をされたが、クロサイト達がホムラミズチを倒した後でかなり疲労していると辺境伯も分かっていたし、イクサビトの里も混乱しているであろうからと長であるキバガミを帰して、セラフィ達をタルシスに戻らせてからその日は休んだ。
 全員疲労困憊であったから泥の様に眠ったが、やはりペリドットのショックは大きく、彼女はタルシスに待機させてクロサイトとセラフィとギベオン、そしてローズが指定された場所に辺境伯を連れて行く事となった。本当はローズも置いていきたかったところであるが、どうしても行くと言って聞かなかった。ウロビトは巫女を世界樹の声が聞ける者として崇めている一族であるから、幼いながらも巫女の事が心配であったからだ。
 意外であったのが、港長までついて来た事だ。彼は気球艇の開発に携わった者なので、軍艦の様な帝国の気球艇と聞いて見てみたかったのかもしれない。自分の気球艇で時折大地を偵察に行ってはどんな機能が必要なのか、どんな風の吹き方をする大地なのかを常に意識しながら今でも精力的に気球艇に備え付ける事が出来るものの開発に余念がない港長は、帝国という未知の存在への恐怖よりも好奇心が勝っている様だった。しかし曲がりなりにも彼は交易場の主であるから、そこで取引をしている者達にとって不在は困るであろう。交易場はどうするんですかとギベオンが聞くと、港長はアルビレオを無理矢理退院させて代理で置いてると笑った。笑い事ではないのではとギベオンは思ったが黙っていた。
 銀嵐ノ霊峰を経由して辿り着いた先の大地の、指定された建物は、図書館の様だとギベオンに思わせた。建物は古く見えるが造りはしっかりとしており、側にはその建物には似つかわしくない帝国のものであろう無骨な気球艇が停泊していた。港長は気球艇で留守を預かり、有事に備えていつでも飛び立てる様にしておくと言って辺境伯を護衛するギベオン達を見送った。
 入り口を守り警戒にあたっていた兵士が扉を開け、辺境伯を護る様にしてギベオン達が扉を潜り抜けると、そこには髪を整え無機質な鎧を着用し、巨大な剣を背負ったワールウィンドが立っていた。髪型が違うのでギベオンは一瞬別人かと思った程だ。着用している鎧が建物の入り口に立っていた兵士のものとはまた少し違っており、彼の方が格上だという事を知らしめていた。ワールウィンドはセラフィの姿を認めると僅かに目を細めて気まずそうな表情を見せたが、すぐさま格式張った挨拶をし、更に奥の部屋の扉を開けて一人の青年を紹介した。それが、帝国の皇子であるバルドゥールという男だった。まだ若く見えたし、実際若いのだろうバルドゥールは、王族なだけはあってか凛とした振る舞いを見せた。
 バルドゥールと辺境伯は奥の部屋で話し合いをする運びになり、ギベオン達はその間ワールウィンドと待機する事になったのであるが、何せワールウィンドはペリドットを負傷させてしまっているのでセラフィがこの上なく不機嫌であり、沈黙がかなり重苦しかった。ここまで機嫌の悪いセラフィを見た事が無かったギベオンは申し訳ないと思いつつも恐ろしいと身を縮こまらせたし、ローズに至っては怯えてクロサイトの後ろに隠れて叔父の様子を窺っている程だ。クロサイトはクロサイトで弟が殴りかかってしまわない様にと目線で牽制しており、随分と長い静寂を破って口を開いたのはセラフィの不機嫌さにギベオン同様気まずい思いをしているワールウィンドだった。
「……先頃はすまなかった。君の奥方を傷付けてしまって」
「俺に謝ってどうする」
「いや、君の奥方だし……怪我の具合は」
「神経もやられてないし筋に沿って斬られてるから痕も残らんだろうが、俺がお前にあいつを会わせたくない」
「……君の怒りも当然だ。謝っても許されない事をした」
 ワールウィンドの謝罪を、セラフィは冷ややかに拒絶する。イクサビトの里での騒動の後、里に残ったペリドットは泣き続けた。ワールウィンドを止められなかった事、巫女が連れ去られてしまった事、イクサビトの青年が自分を庇って瀕死の重傷を負った事を嘆き、ずっと自分を責めて泣いた。セラフィはそんな彼女の体を抱き、泣き疲れて眠るまでずっと宥めていた。ペリドットの憔悴した表情を思い出すと一発殴る程度では気が済まないのだが、自分の後ろでそわそわとしているギベオンとローズの気配を背に受けてはぐっと堪えるしかなかった。ひょっとするとそれを見越したクロサイトがローズを連れて来たのかも知れないと思うと、セラフィは更に苦い顔になる。さすがにまだ年端も行かない子供の前で顔見知りと殴り合いをする訳にはいかなかったからだ。
「そもそも、お前は一体何者だ。まずそれから説明しろ」
「俺か。……そうだな、君達には本名すら言ってなかったな」
 思い出すだけで湧き上がってくる怒りを何とか鎮めつつ、全員が抱いている疑問をセラフィが尋ねると、ワールウィンドは一つだけ頷いて自分の素性を話し始めた。
「俺の名はローゲル。代々、皇家に仕える帝国騎士だ。
 十年ほど前、先程のバルドゥール皇子の父君であるアルフォズル陛下から使命を与えられ、
 陛下や仲間と共に結界……谷にあったあの雲の障壁を越えようとした。
 ……だがタルシス目前で気球艇は墜落し、現在に至る。
 以後、俺は旅の冒険者としてタルシスに潜伏して機会を待った」
「なるほど、それで君は再々私達に冒険者復帰をせっついたのだな」
「……その通りだ」
 確かに、ワールウィンド、否、もうローゲルと言った方が良いだろう、彼がタルシスにふらりと旅人の装いで訪れたのは十年程前の事で、気球艇の原型が見付かったのもその時期だった事はクロサイトも覚えている。そして浮力となる虹翼の欠片の事を先代の港長に言ったのも、またローゲルだった。
 だが風馳ノ草原の北にあった谷の雲の障壁を払ったのは、獣王を倒したクロサイトとセラフィだ。ローゲルとしては二人がそのまま丹紅ノ石林の探索も果たし、障壁の開放を目指すものだと思っていたのだろうが、その目論見は当たらなかった。クロサイトもセラフィも、養親の死を切っ掛けにぱったりと探索を止めてしまったからだ。
 何故、ローゲルは自分で先に進もうとしなかったのか。それは実に簡単な事で、単にウロビト達が里の扉を固く閉ざしていたからだ。深霧ノ幽谷はあの里を通らずに地下の階層に進む事は出来ず、長らくの間ローゲルを含む他の冒険者達はあの里の前で足止めを食らっていた。
「……あの、何でクロサイト先生とセラフィさんに一緒に行かないかって言わなかったんですか?」
「………」
「お二人の目の前では裏切れないと思われましたか」
「……俺だって人間だからね。色々手を貸してくれた人を目の前にして裏切るのはつらい」
 ローゲルは以前ギベオンの人の良さを懸念して、そんなじゃ傷付くよ、信頼してる誰かに裏切られた時には特に、と忠告してくれていた。その際にギベオンは胸に何か蟠りを感じたのだが、どうやらローゲル本人が抱いている欺いている事への罪悪感が滲み出ていたかららしい。クロサイトやセラフィがそれで傷付くと思っていたのかは知らないが。
「えっと……あ、あの、わたしも、ききたいことがあります」
「うん?」
「みこさまは、みこさまはごぶじですか?」
 それまでクロサイトの後ろで大人達の様子を窺ってローズがおずおずとしながら錫杖を握り締め、しかしはっきりとした声で尋ねた質問に、ローゲルは彼女を安心させるかの様に頷いた。いくら緊張の糸が張り詰めている空気の中でも、子供を怯えさせてはいけないという思いがある様だ。
「大丈夫、巫女は無事だよ。
 今は貴賓……大事なお客様としてこの建物から見て北にある木偶ノ文庫という所で休んでいる」
「でくのふみくら?」
「ここと同じで、帝国に伝わる夥し……いや、とても多くの書物が納められている建物なんだ。
 イクサビトの伝承に、ウロビトは巨人の心を持ち帰ったと伝えるものがあったが、巨人の心とは巫女本人の事だ。
 巨人の心を帝国に持ち帰る事は俺の使命の一つだったんだよ。……まさか、娘の姿をしているとは思わなかったけどね。
 巫女に危害を加えるつもりはないけど、彼女から力を借りるまではこちらで預からせて貰うよ」
 ローズに分かる様にと言葉を易しいものに変えたローゲルは、アルフォズルから賜った使命を漸く口にした。何故巫女の力が必要なのか、ローゲルがあの様な暴挙に出なければならなかった程の使命とは一体何だったのかとクロサイトは訝しんだが、思い当たる点がある。巫女は、イクサビトの里で世界樹の呪いの病を和らげていたではないか。世界樹本体から離れた金剛獣ノ岩窟でもあれだけの人数が病に罹っていたのだから、この帝国では推して知るべしというものだろう。だが、あの病以上に切迫したものがある様に思えた。
「クロサイトの娘がウロビトとは思わなかった。帝国はかつて世界樹の麓に住んでいた人間達の末裔だ。
 つまり、ウロビトやイクサビトを作ったのは俺達の祖先になる」
「君の祖先は、ウロビトからは逃げたと言われイクサビトからは共に戦ったと言われている。どちらが真実なのだね」
「その昔、世界樹である事故が起こった際に、帝国民は一部の者を除いてこの絶界雲上域より北に避難した。
 それが、ウロビトの伝説に伝えられる聖樹の護りの真実だ。ウロビトが言う、巨人から逃げた人間とは俺達の祖先の事でね。
 ……彼らにはそう見えたんだろうな」
「じゃあ、ウロビトさん達の言い分もイクサビトさん達の言い分も正しい訳ですね? 逃げたんじゃなくて、避難したっていうだけで」
「ああ、そうだ」
 そして、ウロビトとイクサビトに伝わる話の中の人間の行動に齟齬がある原因がやっと分かり、ギベオンは少しだけ胸の支えが取れた気がした。見た訳ではないから何とも言えないのだが、この大地、絶界雲上域というらしいが、ローゲルを追って初めて侵入した時に対峙したあの軍艦とも言える気球艇に乗って多くの者が避難したのであれば、確かに逃げたと思われてしまうだろう。今ローゲルが話してくれた事実をウロビト達に伝えたところで、彼らが信じてくれるかどうかは分からないけれども。
「……百年以上前より、帝国は問題を抱えていた。それを解決するには世界樹の力が要る。その為の巨人の心臓と心、そして冠だ。
 ウロビトに守られた心、イクサビトに守られた心臓、辺境伯が家宝として受け継いでいた冠、全てが必要だった。
 辺境伯が価値を知らなかったから冠の入手はそう難しくはなかったんだが……問題は心臓と心の入手だった」
 世界樹の力を解放する為に、ローゲルが挙げた三つのものが必要なのであろうが、それが何故帝国民の手元に残されていなかったのかという新たな疑問がギベオンの中に生まれた。ただ、あれだけ壮大な樹の力を使用したなら、何か大きな反動が起こる事も十分に有り得る。ウロビト、イクサビト、そして恐らく帝国の民であったのだろう人間がタルシスまで落ち延び、三つの鍵を受け継がせる事で、安易な力の解放を防いだのだろう。それにしても鍵を預かる民の内、この絶界雲上域から一番離れたタルシスの辺境伯からの入手が一番簡単であったというのは皮肉な話だ。
「ウロビトの里が解放された時、俺はとにかく巫女を連れ去る事を考えた。だがそうなっては、俺はタルシスに居られなくなる」
「巨人の心臓を見付けられなくなるな、それだと。しかも俺達は石林から先に進む意思は最初は無かったからな」
「そうだ。だからそこの彼……ギベオンがクロサイトを説得すると聞いて、悪いがしめたと思ったよ。
 ……そして心臓の所在を突き止めるまで息を潜めた」
「運良く両方が同じ場所に揃ったから、行動に移したんだな」
「……ああ」
 セラフィの質問に、ローゲルは力無く頷く。ギベオンやローズはローゲルと知り合って日も浅いが、タルシスに潜伏し始めてから知り合ったクロサイトとセラフィは十年程前からの顔見知りとなり、そんな二人を前にすると、ローゲルも歯切れを悪くした。ウロビトの里に先に着いていたのも、イクサビトの里に巫女を連れて来たのも、熟練の冒険者であるからではなく己の使命を果たす為であったのだろうし、実際イクサビトの里の墓地で話した時にローゲルは打算がある事は認めると言っていた。十年という長い歳月は、ローゲルに巫女を攫うという暴挙とも思える行動を取らせる程には追い詰めさせたのだろうとギベオンは何となく気の毒に思った。
「随分苦労なさったでしょう。このお二人を相手に、ずっと欺き続けるのは」
「……え?」
「僕なら無理です、すぐ事情を言っちゃいます。クロサイト先生になんて、食べた食事の量でさえ嘘吐けないですし。
 すごいなあって感心しちゃいました」
「……心底変わっているな、君は。欺き裏切った俺に対して、そんな事を口にするとはな」
 ギベオンが眉根を下げて言った言葉に一瞬目を丸くしたローゲルは、困惑しながらも嘆息を漏らした。家庭の事情が複雑であったとは言え、その事情を知っているクロサイト達が驚いてしまう程に心根が真っ直ぐであるギベオンは人を疑う事を知らないし、嘘を吐く事が苦手であるから、ローゲルが十年とっていた行動は素直に驚いたのだ。戸惑いの色を浮かべたローゲルがちらと横目でクロサイトを見遣れば、彼は僅かに考える素振りを見せた後に軽く肩を竦めた。その子はそういう人間だ、と伝えていた。
「……殿下もそうだ。あの方は俺のした事を誹り、俺一人に責任をとらせる事も出来た。
 ……しかしそうはなさらなかった。俺はそんな殿下の為にこの命を使いたい。
 殿下は不要な争いを望んだりしない、あの方が望まれる道は共存の道だ」
 ローゲルの、巨人の心臓を持ったまま巫女を攫ったという暴挙は、帝国騎士として恥ずべきものだろう。いくら失敗が許されなかったとは言え、それは恐らく騎士道に背く不誠実なものだ。そんな行動をとったローゲル一人に責任を取らせ、帝国側は知らぬ存ぜぬで通す事も出来たであろうに、バルドゥールはそうしなかった。ローゲルよりも随分と年下の帝国代表は、きちんと部下の責任を取るつもりらしい。まだ若いのに為政者とはどういうものかを心得ている様だ、と、クロサイトは感心した。
「今、殿下は事を荒だてた理由と、世界樹の力の必要性を辺境伯に御説明されている。
 全て終わったらイクサビトに心臓を返そう。勿論巫女も里に帰って貰って構わ……」
 説明を続けていたローゲルの声を遮る様に、突然奥の間に続く扉が大きな音を立てて開け放たれた。その音に全員が驚き、扉の方に視線を向けると、辺境伯が怒気を含んだ瞳と怒りを顕にした表情を浮かべ、珍しくも足音を荒立てて出てきた。腕に抱いている犬のマルゲリータの怯えた様子を見ると、彼がいかに憤怒しているか分かる。何事か、と、誰よりも速く動いたのはクロサイトで、ローゲルを一瞥もせずに自分達に歩み寄ってきた辺境伯の側に足早に駆け寄った。ローズをギベオンの側に行かせる事も忘れずに。
 困惑の表情を浮かべたローゲルは、奥の部屋から出てきたバルドゥールに何があったのかを問い質そうとしたのだが、その前にバルドゥールが口を開いた。
「理想郷を作るというこの計画が理解出来ぬと申すか、辺境伯。貴公も執政者ならば、何がタルシスに最も益があるか考えよ。
 我らは同じ祖を持つ人間、その我らが手を取り合えず何とする?」
「その為に巫女を犠牲にし、ウロビトやイクサビトを手にかけろと言うのか!
 私には考えられない……、屍の上に築かれた理想郷にどんな価値がある!」
「?!」
 バルドゥールが辺境伯にどういう説明をしたのか、ギベオン達は勿論ローゲルも知らなかった様で、彼は辺境伯の怒号に目を見開きバルドゥールを見詰めた。びくりと体を震わせたローズは、大人の男の怒鳴り声が怖かったというのもあるのだが、それ以上にウロビトやイクサビトを手に掛けるという言葉にただならぬ事態を察知したのだ。それはギベオンやセラフィも同じ事で、彼らは咄嗟に手に持つ武器をすぐ振るえる様にと身構えた。どんな話し合いがあったのかは分からないが辺境伯の言う事が正しければ、たとえ強大な軍艦を所持する帝国相手であっても立ち向かう覚悟は出来ていた。
 そんなギベオン達を見て、バルドゥールは僅かに目を細めた。
「貴公にはより詳しい説明が必要と見える、このまま返すわけにはゆかぬな。
 ローゲル、辺境伯をお引き留めしろ。その護衛達は……お前の判断に任せる」
「………は、仰せのままに」
 自分の考えとバルドゥールの考えが大きく食い違っている事に違和感を覚えつつも、この命を使いたいという言葉は本心であった為か、ローゲルは一瞬躊躇いを見せたものの背に挿していた巨大な剣を抜き、何をしたのかギベオンには見えなかったが刀身を駆動させた。そのローゲルの姿を見て、セラフィははたと金剛獣ノ岩窟でエレクトラ達を埋葬した時のキバガミの言葉を思い出した。
 エレクトラ達を埋葬した墓地には、それより以前にイクサビトの里で亡くなったらしい人間が葬られており、その人間達は鉄の鎧とイクサビトには操れない複雑な武器を持っていたという。今のローゲルは鉄の鎧を纏い、イクサビトでなくとも操る事が難しそうな剣を持っている。ひょっとすると、あの墓に眠っているのは帝国の者ではないのか。そんな事を思いながら、ゆっくりと辺境伯へと近付こうとしているローゲルの前にセラフィが剣を構えながら立ち塞がった。
「お前、その剣をペリドットに向けたのか」
「………」
「そうか。なら、遠慮も何もいらんな」
 イクサビトの里で負傷したペリドットの傷痕は、鋭利で大きな刃物で斬られた様に見えた。セラフィがアイスシザーズに斬られた時の傷痕に似ており、塞がるのも早ければ傷痕もあまり残らない様なものではあるが、しかし体も小さく柔らかい女のペリドットに事情があったとは言えその大きく無骨な剣を向けた事は許し難い。少なくとも、セラフィは許せなかった。沈黙は肯定であると判断した彼はギベオンが制止しようとする前に地面を蹴り、ローゲルも呼応してけたたましい音を上げる剣を構えた。
 セラフィの剣は件のアイスシザーズを辛うじて倒した時に手に入れた鎌で作られており、彼の細い体とは対照的にそれなりに大きい。しかしローゲルの持つ剣ほどではない為に、真っ向から斬り掛かれば折れる事は目に見えていた。その大剣は機械仕掛けである事は間違いないし、刀身の中に見え隠れする高速で回転している丸い車輪の様な刃で斬られれば、腕の一本など簡単に飛ぶだろう。しかし、そんな事など問題無いとでも言うかの様にセラフィはローゲルに向かって走り、身軽さを生かして間合いに入る寸前で横に跳んで着地と同時に空いた脇腹に斬り掛かった。
「さすがに速いな! だが君一人で相手に出来る程、俺の腕は落ちてない!」
「百も承知だ!!」
 そんなセラフィの剣を受け止め、刃と刃がぶつかる音と共に響いたローゲルとセラフィの怒号は広間に響き、ローズの小さな体を再度びくりと震わせた。そんなローズに自分の側に来る様に手招きしたクロサイトは、ギベオンが意外に思ったのだが動かなかった。
「あ、あの、クロサイト先生、加勢しなくて良いんですか」
「しなくて良い。あれの好きにさせてやってくれ」
「でも」
「男の意地だ。私達が出る幕は無い」
 セラフィが斬り掛かり、その刃を受け止める音は何度も響き、ローゲルの大剣が降り下ろされる風圧にも時折セラフィは体勢を崩されているというのに、それでもクロサイトは全く動こうとしなかった。ただ、鎚を持っていない手を腰のナイフホルダーに掛けている辺り、咄嗟に投げられる様にはしているらしい。辺境伯も意外そうな顔をしていたものの、クロサイトのその回答を聞いて納得した様に頷き、ローゲルと剣を交えるセラフィを見遣った。否、正確にはその向こうに見えるバルドゥールを見ていた。ローゲルを信用しているのだろう彼は、こちらと同様微動だにしない。
「不利と分かって何故無謀な真似をする! 君はそこまで愚かな男ではない筈だ!」
「お前は俺の女を傷付けた、それ以上の理由があるか!!」
「っ!!」
 ローゲルはセラフィの刃を受け止めるだけで、自分から斬り掛かる事を殆どしなかった。バルドゥールが辺境伯を引き留めろと命を下した以上は逆らう事も手加減する事も本来なら許されない筈だが、セラフィにはローゲルの目に躊躇いや迷いが浮かんでいるのを見逃さなかった。それを差し引いても手加減して良い相手だと思っているのか、と苦々しく舌打ちしたセラフィは軋む刀身に込めていた力をわざと緩め、不意を突かれ一瞬だけバランスを崩したローゲルの腹に容赦なく蹴りを入れた。
「お前こそ手加減して、何のつもりだ。そんな中途半端な剣で俺をどうにか出来ると思っているのか?
 舐められたもんだな」
「……悪いが状況が変わった今、君達に語るべき言葉を俺は持ち合わせていない」
 蹴りを入れられ、大きく仰け反ったローゲルに、セラフィは追い打ちをかけない代わりに忌々しげな声を出した。そんな彼に対し、ローゲルは鳩尾を襲った衝撃で生じた吐き気を何とか抑えこみ、苦しそうな声を絞り出した。それと同時に息を吐いたバルドゥールが今日はこれまでかと呟き、手を叩くと、ギベオン達の背後にある建物の出入り口が開いた。
「辺境伯、貴公がどう手を打とうと余の考えは変わらぬ。再度言うが、タルシスにとって最も益があるのは何であるかを考えるのだな」
「バルドゥール皇子よ! 私は君を何としてでも止めてみせる!」
「愚かな。民を守るには犠牲はつきものだ。これ以上話しても無駄だな、失礼する。余は忙しい」
 出入り口から姿を見せたのは、この建物に入ってくる時には見掛けなかった数の帝国兵士達だった。こちらに危害を加えるつもりはない様だが物々しい雰囲気である事は変わりなく、セラフィは顰めっ面をしながら剣を仕舞う。クロサイトはこんな切迫している状況にも関わらず片手を白衣のポケットに突っ込む癖が出ており、空いた手でローズを引き寄せた。ギベオンはそんなクロサイトと辺境伯を守る様に彼らと兵士達の間に立つ。彼らの視界をバルドゥールは悠然と横切り、建物を後にした。そしてバルドゥールの後を追う様に剣を仕舞ったローゲルが扉に向かい、足を止めてギベオン達を振り返った。
「巫女の身を案じるなら来るがいい、木偶ノ文庫へ。君達が正しいと思うなら俺達を止めてみろ。
 ……だが次に会う時は、俺も全力で相手になる」
「首洗って待ってろ」
「待ちくたびれさせないでくれよ」
 バルドゥールへの忠誠は本心であっても彼の考えには賛同出来ないとの心があるのだろうローゲルは、やはり迷いのせいで全力を出していなかったらしい。吐き捨てる様にセラフィが言った言葉に、ローゲルは憂いの翳りのある弱い笑みを浮かべて返事をしてから出て行き、兵士達も彼らに倣って出て行ってしまった。残ったギベオン達の間には静寂が訪れたが、緊張の糸が切れたローズはクロサイトの腰に抱き着き、啜り泣き始めた。物々しい姿の大人達に囲まれ、怖かったからだ。クロサイトはそんなローズをあやす様に優しく頭を撫で、辺境伯を見た。
「……どうやら皇子は去った様だな。ご苦労だった。セラフィ君、怪我は?」
「大したものは無い」
「そうか、大したものはなくても後でクロサイト君に診て貰うと良い。
 ……皇子から帝国の計画はおおよそ聞いたが、とても賛同出来る内容ではなかった」
 辺境伯は、真っ先にセラフィを労った。彼はペリドットがローゲルの剣によって負傷している事も聞いており、先の一騎打ちはそれ故にとった行動であると重々理解しているし、またその意思を尊重して責めなかった。無茶な事をして死んだらどうする、と責める事も出来るのに、それをしなかった。代わりに、表情を険しいものにして腕の中のマルゲリータを抱え直した。
「良いかね、彼らは帝国を救う為にウロビトやイクサビト、巫女殿を犠牲にしようとしている」
「は……?!」
「彼らを止めなければ……続きはタルシスで詳しく話す、今は撤収するとしよう」
 聞かされた要約に、四人は一気に表情を凍らせる。特に、ローズは顔を真っ青にした。娘を安心させる為に鎚をギベオンに渡し抱き上げたクロサイトは辺境伯の言葉に頷き、全員に外に出る様に促した。



「うーん……どんどん話が複雑になっていくわねえ……」
「はい……」
 弱いとは言え雨が降っているせいか、踊る孔雀亭の店内は普段に比べて人が少ない。ペリドットは酒が飲めない為、人が少ない時の方が酒の臭いが薄くて安心する。ここのところ微熱が続いて下がらない彼女は好物のオレンジジュースを飲み、その冷たさにほっとしつつもガーネットの言葉にしゅんとした表情で頷き、統治院で聞いた話をもう一度思い出していた。
 帝国の皇子と名乗る者との協議に辺境伯の護衛としてついて行ったギベオン達が診療所に戻って来たのは昼下がりの事だった。無事に皆が戻ってきてほっとしたのも束の間で、君もきちんと聞いておいた方が良いからとクロサイトに言われ、連れられて行った統治院で聞いたのは信じ難く、また受け入れ難い帝国の、否、バルドゥールの考えだった。
 帝国はこのタルシスと全く違い、土地が荒れ果て作物がろくに育たないらしい。存亡の危機を迎えた彼らは祖先が汚れた大地を浄化する為に作った世界樹の力を使用し、大地の浄化を計画したのだそうだ。ただ、世界樹の力の発現には辺境伯の家宝であった巨人の冠と呼ばれる頭飾り、ホムラミズチが守っていた巨人の心臓と呼ばれる宝石、ウロビトが守っていた巨人の心である巫女が必要であったから、それらを手に入れる為にアルフォズル達が出国したのだろう。何故国王自らが出向いたのか、それは辺境伯も聞けなかった様だ。
 そして、世界樹の力が一度でも発現すれば大地は浄化されるが、同時にその周囲で暮らす者達を一掃してしまうらしい。イクサビトの里で見た、あの巨人の呪いは世界樹の力で大地が浄化される際に起こる一種の副作用であり、それがさらに広範囲に発生してしまうという事らしいのだ。世界樹から遠く離れたタルシスには害は及ばない可能性は高いが、イクサビトの里やウロビトの里はその浄化作用に巻き込まれてしまうだろう、と、バルドゥールから聞いたと辺境伯は言った。
 しかし、ギベオン達ははっきりと聞いた。殿下は不要な争いを望んだりしない、あの方が望まれる道は共存の道だ、というローゲルの言葉を。恐らくそれは、バルドゥールの考えというよりもアルフォズルの考えであったのだろうし、息子であるバルドゥールも同じ考えの筈だとローゲルは考えていたのだろう。だからこそ、バルドゥールが辺境伯を引き留めろと言ってセラフィと剣を交えた時にあんなにも迷った剣筋だったに違いないのだ。バルドゥールとローゲルの間にも擦れ違いがある事は明白だった。
 その時に初めてペリドットはワールウィンドの本名がローゲルであると知ったし、またセラフィがローゲルと一騎打ちをしたと聞いた。何でそんな無茶したんですか、あんなに大きな剣持ってるのに、と思わずペリドットは咎めたのだが、お前が傷付けられて黙っていられる程俺は寛大じゃないと言われ、沈黙せざるを得なかった。セラフィは金剛獣ノ岩窟でタルシスの兵士を葬った際に死臭がするからと言って潔く短くした髪が幾分か伸び、漸く肩の辺りまで届く様になったとは言え、長かった頃に比べると顔が見えやすい。夜賊である彼は時折人を殺さねばならない場合もあって、相手に顔が見えにくい様に、相手の顔を極力見なくて済む様にと髪を長くしていたが、今の様に髪を短くしていると本当によく顔が見える。だから、面と向かってそんな事を言われては赤くなったものやら怒って良いのか分からないやらで、結局それ以上の事は何も言えなかった。
「だけど、ペリドットちゃんが初めてここに来てから一年も経ってないっていうのに、何だか目まぐるしく色んな事が起こっちゃったわね。
 誰も行けなかった丹紅ノ石林の向こうに、元々は冒険者志望じゃなかったギベオン君とペリドットちゃんが行っちゃうなんて。
 しかも、今までだーれも説得出来なかったクロ先生とセラフィ君連れて」
「私はギベオンのお手伝いをちょっとしただけですよ」
「ちょっとどころか、うんと役に立ってるじゃない。でも無理だけはしないでちょうだいね。
 気球艇をもっと高く飛ばさないといけないんでしょう?」
「はい、明日はそれに必要なものを探しに行きます」
「本当に、無理はしちゃ駄目よ。
 ウロビトの里に害が及ばない様にして欲しいと私も思うし、急がないといけないのも分かるんだけど」
 他の客からオーダーされ、シェイカーにラムとライムジュース、砂糖を入れてシェイクし、カクテルグラスに注いでスライスしたライムを飾ったガーネットは、そのカクテルグラスを取りに来た客に渡した後に眉根を下げながらペリドットに忠告した。ペリドットは辺境伯の護衛としてついて行ったクロサイト達を休ませる代わりにガーネットに事の次第を話しに来ており、明日の探索には同行する事になっている。いつまでもくよくよしてはいられないから、と言うと、ギベオンもガーネットと同じ様に無茶しないでねと言った。故郷に居た頃、踊り子という身分の低さ故に軽視されていた事など忘れてしまう程に、タルシスの自分の周囲に居る人々は優しい、と彼女は思った。
 巫女が囚われているという木偶ノ文庫に行かねばならないのだが、絶界雲上域にある水道橋が行く手を遮っており、ペリドットが言った様に気球艇を更に高く飛ばしてその水道橋を飛び越えなければならない。気球艇の高度を上げる為の調査は辺境伯の護衛に同行した港長が協議の間に調べたらしく、藍夜の破片を水に溶かして作られる浮力用の気体を黒き者の炎という特殊な炎で化合すれば良いそうだ。帝国の祖先の遺産になるらしいそれは、辺境伯がバルドゥールと協議した南の聖堂と名付けられている建物から東にある風止まぬ書庫という所にあるのだという。よく調べられましたねとギベオンが言うと、港長はどこの国でも技術者ってのは他所の技術に興味があるし教えを請われれば悪い気はしないもんさと笑った様で、早い話が彼は帝国の艇に近付き、素早く技師を見付けて聞いたのだ。中々どうして、冒険者以上の度胸がある。
「何にせよ、気を付けて行ってらっしゃい。お早いお帰りを待ってるわ」
「はい、有難う御座います」
 気を取り直して微笑んだガーネットは、艶やかなその笑みをペリドットに向ける。そしてしっかりと頷いた彼女を見て、籠の中からオレンジを取り出した。もう一杯は、奢るつもりでいた。



 明けて翌日、銀嵐ノ霊峰にある磁軸を経由して絶界雲上域に赴いたギベオン達は、港長から言われた通り南の聖堂から見て東に進んだ所に一つの建築物を発見した。相変わらず聳え立つ水道橋を眺めどうやって建てたのかなあなどと呑気に思っていたギベオンであったが、しかしその建物の脇に南の聖堂で協議が行われた際にも見た、恐らく帝国のマークなのであろう紋様が描かれた旗をたなびかせる気球艇が停泊しており、全員に緊張が走った。ペリドットは初めてその軍艦の様な気球艇を見た為に、戦争でも始めそうな艇ですねと呟いた。彼らの乗る気球艇は停泊している気球艇に比べて規模が小さいし、攻撃を仕掛けられる様な装置もついていない。精々大地をうろつく魔物に対して囮になる様な食料を発射させるカタパルトがあるくらいだ。
 書庫の中で帝国兵が待ち構えているのか、それは分からなかったが、黒き者の炎がそこにあると分かっている以上、彼らは行かねばならなかった。巫女を取り戻す為、そしてバルドゥールの思惑を阻止する為にも、尻込みしている暇は無かった。気球艇の舵をとっていたギベオンは皆の顔を見回してから行きましょうと言い、全員が頷いた。
 持ってきた背嚢の中にアリアドネの糸がある事を確認してから扉を開けた面々は、この建物の名付けの理由を身を以って知る事となった。北から南に抜ける様に、凄まじい音を立てながら猛烈な風が吹き抜いているのだ。全身を殴りつけてくる様な風は体格の良いギベオンですら移動が容易ではなく、壁伝いに歩く事にしたのだが、何せ体重が軽いローズは歩く事さえつらそうで、万が一にでも潰してはいけないからとは思って最初はクロサイトを風除けにして貰っていたギベオンであったが、結局自分が風除けになってローズを強風から守った。
 そんな強風の中でも魔物は居るもので、しかもギベオンが大の苦手としている猫の魔物も居り、随分と苦労した。幸いにも炎を纏ったその猫や鼠はセラフィの氷の刃とローズの氷の印術が効果的であったものの、彼らは体重が軽いので動く事も一苦労だったのだ。しかもこちらの体を硬直させ、まるで石の様にする毒を持つ蠍の魔物まで居たので、クロサイトも暴風の中での処置に手間取っていた。また書庫を覆い尽くす薄紫の花の花弁が常に飛び交い、目を傷付けない様にするのも骨が折れた。何でこんな所に書庫なんて作ったんだ、そもそもこんな風の中に火なんてあったらこの建物が燃えないか、というセラフィのぼやきに皆が微妙な顔で同意したのは言うまでもない。
 北からの風はかなりの強さであるにも関わらず、とびきり強く吹いている所など、ギベオンですら押されて先に通った道に逆戻りしてしまう有り様で、壁に羊皮紙を押し当て書いた地図は既に判読が難しくなっている。金剛獣ノ岩窟での環境の激変にも苦労させられたが、今またこの風の中の探索と戦闘は、全員の体力を随分と消耗させた。一番体力があるギベオンでさえしんどいと口にしそうになったというのに、子供であるローズなどそれ以上で、顔色が真っ青になっている。我慢強い彼女はつらさを口にする事が滅多に無いし、言えば岩窟の時の様に探索に連れて行ってもらえないと思っているのか、一言も言わなかった。朝から探索を始めてこまめな休憩を取り、昼には一旦気球艇に戻って交代で仮眠を取る羽目になってしまったが、全員倒れるより余程良いとの意見は一致していたので、特に不満が漏れる事は無かった。
 そして漸く目当ての炎がある部屋に辿り着いた頃には、既に時刻は夕方に迫ろうとしていた。部屋の中にも風は吹いているというのに、古風なデザインの燭台には巨大な炎が音を立てて煌々と燃え盛っている。この建物を吹き抜ける強い風は強い炎を育んでいるらしい、と妙な感心をする間も無く、ギベオン達には緊張が走り身構えさせた。その燭台の側に、ローゲルが身に着けていた物とほぼ同じ鎧を纏った帝国兵であろう者が立っていたからだ。
「タルシスの者達だな? 思ったより遅かったな、ここの強風にあてられたか」
 炎の側に居るにも関わらず涼しい顔をしているその帝国兵の声は、風の中にあってもギベオン達の元に届いた。灰銀の髪を風に遊ばせ竜の翼の髪飾りを着け、強風に動じる事無く静かにギベオン達を見つめている。背に負った巨大な剣がローゲルの持っていた物とサイズが同じであるならば長身と思われるその者は、彼らが見る初めての女性の帝国兵であった。
「聞け、お前達に伝える事がある。巫女は木偶ノ文庫に居るが、周囲は我ら帝国の艦隊が待ち構えている。
 その艦隊を構成する気球艇はお前達が南の聖堂で見た物より遥かに大きい」
「……でも僕達は行かなきゃいけないんです」
「死ぬかも知れないのにか?」
「はい」
 その女性の声はペリドットのものより低く、気の強そうな張りを持った声だった。南の聖堂で見た一般兵士であろう者達とは階級が上であると推測される彼女は、何の躊躇いも無くこくりと頷いたギベオンを面白そうに眺めた。
「危険を承知でも乗り込んでくる、か……。外の世界は分からない事だらけだ。……ローゲル卿の言う事も今なら理解出来る」
「ローゲル?」
「では伝えたぞ。どうやって木偶ノ文庫に入るのかはよく考える事だな」
「ちょ、ちょっと待って下さい、あの、今の言伝ってその、ローゲルさんからの……?」
 不意に出たローゲルという名に反応したギベオンは木偶ノ文庫周辺の危険をローゲルが報せようとしてくれたのかと思い、咄嗟にそう尋ねたのだが、彼女は肩を竦めて薄く笑った。
「まさか。帝国騎士であるローゲル卿が殿下の不利になる様な事をするものか。
 だが、あの苦痛に歪んだ顔を見たら……、あの方が騎士でなく真に自由であるならどうしていたか……そう思っただけだ」
 彼女のその言葉はどこか憂いが見え隠れしており、ローゲルに親しい者なのだろうかとギベオンの後ろで聞いていたペリドットに思わせた。ローゲルは、先日帝国に約十年ぶりに帰還したばかりだ。なのに、まだ若く見える彼女はローゲルをよく知っている様な発言をした。それを尋ねようとしたのだが、彼女は部屋の隅の抜け道であろう所からさっさと出て行ってしまった。名前さえ聞けなかった……、とギベオンは残念に思ったけれども、クロサイトが持ってきた松明を片手に燭台の方へと歩き出したのでそれに従った。この強風吹き荒ぶ書庫からやっと帰れると、全員がほっとしていた。
 そして持ち帰った黒き者の炎を港長に渡し、一日くれと言われたギベオン達は、統治院にその報告をした後に木偶ノ文庫に乗り込む為の準備をしようと買い出しや休息をとる運びになったのだが、ここで予期せぬ事が起こった。
 ペリドットの妊娠が、発覚したのである。