ギベオンが全く目覚める様子を見せぬまま、夜も更けた。大きな怪我をすると必ずと言って良い程夜中に熱を出すギベオンの側で何度か座ったまま休んだ事があるクロサイトであるが、この日は全員ギベオンの部屋で休んだ。体を痛めるから部屋で休みなさいとセラフィ達に言ったのだが彼らは聞かず、ローズも自分から離れようとしてくれなかったしガーネットからいくらでも父親するんでしょ、と言われて、結局はクロサイトが折れた。
 ペリドットは体を冷やさぬ様にと毛布を肩から掛け、セラフィの膝の上に抱かれたまま眠っている。ローズも同様に、クロサイトの膝の上で眠っていた。彼の隣でガーネットが椅子に座って、眠らずに付き合ってくれている。怪我や出血の程度を考えればギベオンの意識が今夜中に戻るとは思えなかったが、彼の回復力は凄まじく、今までクロサイトが手当てしたどんな冒険者よりも早く怪我が治るのだ。意識を失う程の大怪我は今回が初めてであるから楽観視は出来ないが、それでも戻ってくる事を信じて待つしかない。クロサイトもかなりくたびれており、瞼が重たかったのだが、眠ってしまえばローズを落としてしまいそうだったし悪夢を見てしまいそうなので、気力だけで起きていた。
 そんな中、浅い眠りから目を覚ましたセラフィは、喉の渇きを覚え体を捻って壁に掛かっている時計を見た。そろそろ夜が明けるといった時分で、兄は隣のガーネットと毛布を半分ずつ肩に掛けて暖を取りながらぼそぼそと何か話しており、まだギベオンの意識が戻っていない事と二人がほぼ寝ていない事を教えてくれていた。少し交代してやりたいところだが、と、足の痺れを何とか堪えて膝に乗せたペリドットを抱えて立ち上がると気配に気が付いたクロサイトが振り返った。
「部屋で休むか?」
「いや、交代しなくて良いのか」
「どのみち、気になって休めんよ」
「……そうだな」
 兄の膝の上のローズは目尻を腫らして眠っており、ガーネットは二冊の絵本を膝に置いている。ギベオンの処置をした医者も側で誰かが話していた方が良いと言ったのは、クロサイトが帝国の女性兵に言った様に人間は死ぬ最後の瞬間まで耳が聞こえているからであり、クロサイトは側に居る事を知らせてやる為、そしてローズに約束した絵本の読み聞かせをする為にギベオンの側で本当に絵本の読み聞かせをした。幼い頃から両親に全く見向きもされずに育ったギベオンは絵本の読み聞かせなどしてもらった事が無かった様で、クロサイトが時折ダイニングでローズに読み聞かせをしている光景を見るのが好きだったらしい。知らない話を聞くのも楽しいからと、茶を飲みながら聞いていた事もあった。だから、ここで読み聞かせをしたのだ。セラフィはその声を聞きながら眠ってしまったが、どうやらローズも同じくそのまま眠った様だった。
「しかし、こう見ると君とペリ子君は似ているな」
「ああ、そうそう、それもクロ先生達を待ってる時に話したのよ。外見が全然似てない双子なのに女の好みは似るのかしらねって」
「……お前はペリドットみたいに小さくない」
 セラフィが抱えている、まだ眠ったままのペリドットと、隣に座っている自分を見ながら言ったクロサイトに、ガーネットは軽く肩を竦めてみせる。確かに並べば姉妹に見えなくもない彼女達は、外見が似ていない双子のクロサイトとセラフィより似ているかも知れなかった。その言葉に対しセラフィがぼそっと反論したのを受けて、ガーネットが小さく笑う。彼は小さくて丸くてころころしたものを可愛いと思うし好きなのだという事を知っているからだ。
「そうだけど。でも、褐色肌で髪が黒くて長いストレートで、大きい紫の目は同じよ。それに」
「それに?」
「どっちもおっぱいが大きい」
「……それは……男として否定出来ないかな……」
 そして自分とペリドットの共通点を挙げたガーネットが胸の大きさに言及し、一瞬絶句したセラフィとは対照的にクロサイトは口元に手をあて神妙な面持ちで返答した。彼も健全成人男性であるので、女性の胸に興味が無い訳でもない。ただ、医者として接する時はそういう俗な目で一切見ないというだけだ。
「おい、俺は別に胸のでかさでこいつが好きになった訳じゃないぞ!」
「僕だって女性は胸のでかさだとは思ってないぞ」
「どうだか」
「疑うのかね」
「さあね!」
 クロサイトの言に噛み付いたセラフィを信じる事は出来るが、かと言って彼に自分もそうだと言ったクロサイトを信じられるかと問われれば僅かに首を捻ってしまうので、ガーネットはクロサイトに茶々を入れたし彼の質問にはそっぽを向いた。浮いた話も無く女遊びを一切せず、患者に手出しを決してしない為に巷で潔癖なお医者様だと言われているクロサイトであるけれども、ガーネットはこの男がそれなりに俗物であると知っている。女遊びをしない、花街に行かないのは単に仕事が忙しいだけで興味が無い訳ではなく、今でもそれなりに自分との駆け引きを楽しんでいるという事を、彼女は知っていた。
「夜明けが近いな……、ガーネット、お前は戻らなくて良いのか」
「お店には今日の昼過ぎに戻るって言ってあるわ。私だってたまにはお休み貰わなきゃね」
「君は働き過ぎだからな」
「どの口が言うのかしら!」
 奇妙なものになってしまった部屋の雰囲気を変えようと、セラフィがカーテンの隙間から空を見れば、僅かに白み始めている。昨日の夜にもならない時分から付き添ってくれているガーネットを気遣ったセラフィに、彼女は心配無用と言わんばかりに笑ったのだが、クロサイトが言った言葉に再度口を尖らせながら彼を肘で小突いた。仕事が恋人の様なものである二人は本当によく似ており、セラフィは何とも複雑な気持ちになる。
「お前こそ、ペリ子君を横にしてやった方が良いぞ。一緒に寝れば良い」
「さっき寝た」
「怪我は僕よりお前の方が多い、体力回復の為に横になれ」
「お前が寝たらな」
「強情者め」
「どの口が言うんだ」
 僅かとは言え眠ったのでそれなりに頭が冴えたセラフィは暗にクロサイトにも仮眠する様に促したのだが、一向に聞く気配が無かった。こうなると兄は何を言っても聞かないと分かっているし、確かにペリドットは部屋で休ませたかったので一旦部屋に戻るかとセラフィが彼女を抱え直した時、微かな声が聞こえて、それに真っ先に反応したのはクロサイトだった。眠っているペリドットのものでも、ローズのものでもない。もっと低い、呻きにも似た声は、確かに寝台の上に寝かせられている男のものだった。腰を浮かしかけたクロサイトの膝からローズを受け取ったガーネットは、彼が父親の顔から一瞬にして医者の顔になる様を見た。
「……… ……ぅ……」
 痛いのか、苦しいのか、眉間に寄せた皺は深く、それでも先程までの死んだ様な顔よりも生気が戻ってきている気がして、クロサイトは寝台の縁に手を掛けギベオンの様子を窺った。自力で戻って来れるか、それともこちらからの声掛けが必要か、見極めている。そのただならぬ気配に気が付いたのか、先にペリドットが目を覚まし、寝ぼけ眼を擦りながらセラフィに降ろしてもらった。ローズも、ガーネットの膝の上に移された時に目を覚ました様だ。
「………… ……」
 果たしてゆっくりと開かれた瞼からは翠の瞳が現れ、緩慢な動きで何度か瞬きを繰り返し、目覚めたばかりのぼんやりとした意識で覚醒しようと試みている様に見える。驚かせてはいけないかと思ったが、クロサイトはギベオンのその視界の中に静かに入り込み、見えているかどうかの確認をした。寝起きのペリドットやローズも今クロサイトが何をしているのかを理解し、すぐさま姿勢を正して見守った。
「目が覚めたかね。私が見えるか?」
「……… ……クロサイト先生……?」
「うむ、私だ。皆も居る」
「みんな…… ……… …………っ!!」
 夢うつつの様な声音で暫く現状を把握しようとしていたギベオンは、徐々に記憶が鮮明になり、何故自分が今ここに居るのかを漸く理解した。木偶ノ文庫で監視者と排除者に見付かり、ローズを庇い続け出血が激しくなってしまった結果、動きが鈍って監視者の鉄球に弾き飛ばされ全身を強打し、そのまま意識を失ってしまったのだ。盾役である自分が、真っ先に使いものにならなくなってしまった。そして薄れゆく意識の中で、クロサイトがローズに言っていた言葉はきちんと聞こえていた。私とフィーが囮になるから、お前はその隙にベオ君を連れてタルシスに戻りなさい、という言葉を。
「なっ、ベオ君、何を」
「申し訳ありません!!」
 それを思い出した瞬間、全身がさあっと冷え、何かを考えるよりも先にギベオンは寝台から跳ね起き、体のあちこちに負った傷の痛みと驚きの表情で自分を制そうとしたクロサイトを無視して飛び降りると、クロサイト達を前にして床に正座して床に額付いて謝罪を叫んだ。あの時、誰よりも攻撃に耐え皆を守らねばならなかったのに、真っ先に足手まといになってしまった。そればかりか、守られてしまった。真っ青になって土下座する以外、その時の彼には出来なかった。
「おい、傷口が開く、やめ――」
「本当に、本当にすみません!!
 ぼ、ぼく、僕が守らなきゃいけなかった、のにっ、お、お二人を、危険な目に遭わせて、しまってっ!!
 ペリドットも、ローズちゃんも、ガーネットさんも、目一杯心配、させたしっ、
 僕なんか、より、先にお二人に、戻ってきて貰いたかった、だろうに、
 僕が死んででも、守らなきゃいけなかった、のに、
 ご、ごめ、ごめんなさい、ごめんなさい、申し訳ありません、僕みたいなクズじゃ盾にもなれなかったっ……!!」
 クロサイトが言った様に、ギベオンには側で交わされた殆ど全ての会話が聞こえていた。ローズが泣き叫びながら戻ったタルシスの広場で助けを求めた声、駆け付けてくれた者達が必死になって診療所まで運び込んでくれた声、自室に寝かされた自分の側でガーネットがペリドットとローズを慰めている声、そして戻ってきたクロサイトが帝国兵の女性の言葉から自分の事を守ってくれた声。本来なら自分が守るべき人達が、自分をずっと守ってくれていた。ギベオンにとってそれは全て自分の至らなさが引き起こした事としか思えなかった。騎士の誓いを立てたのに、お守りしますと言ったのに、敵を討つ鎚にも敵から守る盾にもなれなかった。もう顔も殆ど忘れてしまった両親から散々言われ続けていた、お前みたいな生きる価値も無いクズという言葉が強烈に耳に蘇り、やはり自分などでは誰も守る事は出来ないのだと痛感し、申し訳なさで涙が出た。
 ギベオンのその謝罪に、クロサイトは何も言わなかった。その代わり、無言で彼に背を向け部屋から足早に出て行ってしまった。明らかに怒りを現していたその背中が扉の向こうに消え、見放された様な気持ちになったギベオンは悲しさと悔しさと恐怖がぐちゃぐちゃになった塊が目から溢れ出てまた項垂れたのだが、すぐにぐいと顔を上げさせられた。ギベオンの側で膝をついたセラフィが、彼の胸倉を掴んだからだ。
「男が軽々しく土下座するな。するなら俺かクロを死なせた時にしろ」
「で、でも、」
「未だにお前は頭のおかしい両親の言葉に縛られているのか。この場に居る全員がお前をクズだと一度でも言った事があるか?」
「無い、です、けど」
 ギベオンの体に巻かれた包帯の隙間に突っ込んで掴み上げたセラフィの拳は、怒りで微かに震えていた。ペリドットを攫いに行った時、彼女の結婚相手であったクリソコラに向けられた目の様に怒りを孕んだその瞳は、間近で見たギベオンの背に冷たいものを走らせる。セラフィは、ギベオンが自分自身を見下す発言をした事に対して怒ったのだ。男が本気で怒った所をあまり見た事が無いペリドットとローズは完全に怯えてしまい、ギベオンへの助け舟を出す事が出来なかった。ガーネットはただ一人、怯えて自分にしがみついている膝の上のローズの背を撫でながら傍観者として冷静に彼らを見守っている。
 そしてセラフィがギベオンを軽い力で突き放したその時、再度開かれた扉を潜り、先程出て行ったクロサイトが姿を見せた。手には自室に置いた自分の鎚を持っており、それを取りに行った様だった。
「え、あ、く、クロサイト先生、」
「クズと言ったな」
「あ、う、」
「君は私とフィーが命懸けで守ろうとした君自身を侮辱した」
「………」
 珍しく足音を荒げて部屋の隅に立て掛けられていたギベオンの鎚も取ったクロサイトは、ギベオンの包帯だらけの腕を何の配慮も無く乱暴に掴んで無理矢理立ち上がらせて引っ張った。戸惑いながらも引き摺られて行くギベオンの後ろ姿と何も言わず止めなかったセラフィを、ペリドットはおろおろしながら交互に見る。だがセラフィはやはり何も言わず、兄達の後ろ姿を睨み付けながら同じ様に彼らの後を足早に追い掛けていったので、彼女もローズやガーネットと顔を見合わせた後に結局追い掛けた。
「わ、あっ」
 ギベオンが連れ出されたのは、診療所の裏庭だった。適度な広さがあるこの裏庭は、ギベオンがよくクロサイトに鎚の稽古を付けてもらっていた場所でもある。そこに突き放されたギベオンは、鎚を自分の足元に放ってきたクロサイトを半ば怯える様に見た。白み始めた薄暗い庭では表情は良く見えないが、気配で分かる。かなり、怒っている様だった。それも、ギベオンがタルシスに初めて来た時から今までに見た事が無いくらいに。
「盾にもなれないクズであるなら、生きている価値は無いと言うんだな? だったら、私自ら引導を渡してやろう。構えたまえ」
「あ………」
 いつも通り、担いだ鎚で肩を軽く叩いたクロサイトは、感情の篭っていない冷たい声でそう言いながら先程まで寝台で横になっていた為に靴を履けていないギベオンと同条件になる様にと靴を靴下ごと脱ぎ捨て素足になり、おもむろに鎚を構えた。普段の手合わせの時には専ら木で作ったものを使用しているけれども、実戦で使っている鎚を持ち出した辺り、引導を渡すという言葉は本気だろう。心臓が一気に冷えたギベオンは言われた通り足元の鎚を震える手で拾い、やはり躊躇いながらも鎚を構える。その構え方は、クロサイトのものとほぼ同じものだった。指導したのがクロサイトなのだから当たり前と言えばそうなのだが、遠く離れた水晶宮の見習い騎士であったギベオンがタルシスの騎士でもない一医者と同じ型の構えを見せるのは不思議なものだ。
「せ、セラフィさん、クロサイト先生本気なんですか?」
「本気だ」
「止めてください、ギベオンが死んじゃいます! あんな怪我してるのに」
「止めればあいつは一生自分をクズだと思ったままになる」
「………」
「死ねばそれまでの男という事だ。だが勝つ事が出来れば、あいつは本当の意味でフォートレスになる事が出来る」
 少し遅れて裏庭に出てきたペリドットはセラフィに二人を止める様に懇願したのだが、彼は首を横に振って仲裁を拒絶した。クロサイトが何度か実施したカウンセリングの中で聞いた、ギベオンが両親から言われ続けたという言葉はセラフィも知っている。そう言われていた様だとクロサイトが教えたからなのだが、敢えてその言葉をクロサイトが使ったのは、クズではないと自分自身で証明しろと言いたかったからだ。ギベオンがいつまで経っても自身の事を卑下してしまうのは両親から受けた仕打ちも大きな原因だが、それと同じくらいに己の力量に不安があるからで、もう手練の冒険者と言っても過言ではないというのに自分の腕は未熟だと必要以上に謙る。セラフィは、そんなギベオンに時折苛立ちを覚えた事もあった。クロサイトだってそうだ。驕りは身の破滅を招くものであるけれども、かと言って過度の謙りは聞いていてあまり楽しいものでもない。
「どうした、仕掛けてこないのか」
「出来、ません、そんな、」
「そうか。来ないならこちらから行くぞ」
「!!」
 構えたものの、動く事が出来ないギベオンに目を細めたクロサイトは、その言葉通り彼の方へと駆けると何の躊躇いも無く鎚を頭上にかざし、重さを活かして振り落とした。金属がぶつかる音が大きく響き、その音が体全体の骨に響いてギベオンは眉を顰める。鎚の重さもクロサイトの振り下ろしの重さも、今のギベオンにとっては体に激痛を走らせる。巻いている包帯の下で縫合してもらった傷から血が滲んだ事が分かったが、傷を押さえようにも何度も襲ってくる鎚を受け止めるだけで精一杯で、体勢を立て直す事が難しい。クロサイトもかなりの怪我をしているというのに、珍しくも怒りでその痛みを感じず、暗く目があまり利かない中で動くギベオンの体の気配だけを頼りに鎚を振るった。
「脇ががら空きだぞ、しっかり締めろと何度も言っただろう!」
「わあぁっ!! あっ、わっ、わっ!!」
 普段は盾を構えている左手に何も持っていない事も手伝って、バランスが上手く取れないギベオンは開いてしまった脇腹を襲った鎚を辛うじて避けた。だが利き手が自分とは逆であるクロサイトが繰り出す攻撃は相変わらず予測がつきにくく、また翻された彼のドランボルレグは先日新調したばかりのものであるがギベオンの金砕棒はホムラミズチと戦った時と同じものであるから傷みもあり、クロサイトの一撃を受ける度に金属であるにも関わらず持ち手が軋んだ。この鎚が壊れてしまえば、ギベオンには防御の術が無い。それは即ち死を意味しており、初めて彼は死の恐怖を実感した。
「ローズ、父様が怖い?」
「はい、だって、あんな、」
「そうね。だけど、母様だってあんなに怒ってる父様初めて見るわ。
 だからちゃんと見ておきなさい。誰かの為にあんなに怒れるって、そうそう無いから」
「………」
 激しく鎚がぶつかり合う音が響く光景を見ながら、ローズはガーネットの腰に抱き着いて涙目で母の言葉に頷いた。だが、見上げたガーネットは飽くまで冷静に、そしてローズの頭を撫でつつも視線は薄暗い中で動く二人の影から離さずに言った。誰もがクロサイトがギベオンを死に至らしめる所など見たい訳でもないが、その逆も見たくはない。その事態を回避する為の行動は、誰でもないギベオンが考え実行しなければならないものだった。
 ギベオンの体に巻かれた包帯のあちこちに血が滲み、またクロサイトも負った傷からの痛みを感じて目が霞み眉を顰める様になり、二人の上がった息が明るくなり始めた中でも僅かに白く見える。ギベオンを睨み付けたままシャツの袖で額の汗を拭ったクロサイトは再度姿勢を正すと、ぎゅっと鎚の持ち手を両手で握って構えた。ギベオンには、うっすらと朝日が照らす裏庭の中に立つそのクロサイトが、次の一撃で確実に自分を仕留めようとしていると映って見えた。稽古を付けてもらっている時にその一撃を何度か受けた事があるが、かなり加減してもらっていたにも関わらず毎回食らっては暫く立てなかった。今回は加減など一切無い、受け止める事が出来なければ死ぬ。そう思った。
「お、おおおぉぉっ!!」
「――――!!」
 何の小細工も無く、一直線にギベオンに向かって走り間合いを詰めたクロサイトは、全身の痛みを追い遣り全ての力を籠めた鎚を振り下ろした。彼が得意とし、魔物を失神させ動きを一時的に封じてしまう程の威力を持つその一撃は、重傷を負っているギベオンに直撃すれば死んでしまう程度には重たい。だが、クロサイトは本気で鎚を彼に向かって振り下ろした。その振り下ろされた鎚は、鈍く大きな音を立て、水平に構えられたギベオンの鎚の柄に受け止められた。
「はっ、 はぁっ、はっ、 は、 は……っ」
「……… ……」
「ぁう、うーっ、うぅ、……」
 荒い息を吐き、噛み合わない歯をガチガチと鳴らして真っ青な顔で、しかし目を瞑る事無くクロサイトを真っ直ぐ見るギベオンは、間違いなく生きたいという意思を伝えていた。翠の瞳は揺らぎ、まだ迷いの色は見え隠れしている。だが、涙を零してでも逸らす事はなかった。それを見てクロサイトは自然と口角を上げ、ゆっくりと鎚を降ろした。
「……今私は、本気で君を仕留めようとして振り下ろした。だが君は、私の渾身の一撃を受け止めた。
 今まで一度も受け止められた試しが無いあの一撃をだ」
「は、い」
「君がこのタルシスに来て、まだ一年も経っていない。その中で、君は贅肉だらけの体を筋肉に変えて頑強な男になった。
 自分の意思でタルシスに留まって冒険者になる決意をした。ウロビトの里からローズを連れ出して私を説得した。
 他のギルドの者達の死を目の当たりにしても、逃げ出さずにあのホムラミズチに立ち向かった。
 今まで何度、君は私達を庇う盾になったと思う?」
「………」
「俯くな、前を向け。目を逸らさずに胸を張れ。君は私達の自慢のフォートレスだ。
 そして、私の大事な友人だ。君が生きていてくれて、こちら側に戻ってきてくれて本当に嬉しい。
 だから二度と自分をクズだと言うのは止めたまえ。悲しくなる」
「………… ……はい!」
 クロサイトが握り拳を作り、筋肉で厚くなったギベオンの胸をとんと軽く叩く。それに対し、ギベオンは色々礼を言いたかったし初めてクロサイトの口から友人などという言葉が出て恐れ多いと言いたかったのだが、結局は一言、口を戦慄かせて涙混じりの元気の良い返事をするだけで精一杯だった。その返事を聞いて満足したクロサイトは良い返事だと言おうとしたけれども、安堵感と満足感、そして極度の疲労感に一気に襲われ、膝から崩れ落ちて意識を失った。倒れる瞬間の彼の口元は、優しげな笑みが浮かんでいた。



 探索に出られる四人の内、三人が負傷したとあって、クロサイト達は三日程休養日を設けた。本来なら巫女の事を思えばすぐにでも出て行きたいところであったが、傷が塞がらないまま行けばそれこそ全員死んでしまう可能性もあったので、事情を辺境伯に説明して休ませて貰った。これには統治院側もやむなしという姿勢であったし、若干名ではあるがタルシスの兵士も木偶ノ文庫に送り込んで調査をさせているからきちんと治す様に言われたと、倒れ込む様に眠ってしまったクロサイト達の代わりに報告に行ったペリドットから聞かされた。
 ずっと働き詰めであったクロサイトは、ギベオンとの手合わせの後に倒れてから、本当に丸一日眠り続けた。ここまで寝るのも珍しいとセラフィが言ったくらいには目を覚まさず、ギベオンの傷の処置をした医者が経過を見に来てくれた時にクロサイトも診てもらったが、単に寝てるだけで脈も呼吸もおかしくないから大丈夫だよと言ってくれた。それだけ疲労を溜めさせていたとは気が付かず、無理をさせてしまってすみませんでしたと倒れた翌日になって漸く目を覚ましたクロサイトにギベオンは頭を下げ、謝罪されたクロサイトはたまには他人に心配をかけるのも良いものだなとはにかむ様に苦笑した。長時間寝た事により凝ってしまった体をほぐしながらダイニングに入った時、その場に居た全員が自分を見てほっとした顔になった事が嬉しく、そして気恥ずかしかったのだ。
 セラフィがアイスシザーズから受けた傷を治した時の様に、ローズと共に街中を散歩する事で、三人の傷も幾分か早く塞がった。かなりの出血で血が足りていなかったギベオンも見舞いに来てくれたアルビレオから呆れられた程食べた事により随分と顔色が良くなり、改めて四人で統治院へと赴き辺境伯に明日から探索に戻ると報告した。彼からはやはりまだ木偶ノ文庫の、ギベオン達が到達出来たその先に行けた者はほぼ居ないという情報が得られた。ギベオンはクロサイトとセラフィを助けてくれた女性兵士の事をさりげなく尋ねてみたのだが、タルシスの兵士達は巨人の呪いにかかった兵士は見たけれどもその女性の姿は見ていないらしく、会えたら二人を助けてくれたお礼が言いたいんだけどな、と思っていた。
 メディカやアリアドネの糸を補充する為に訪れたベルンド工房では、看板娘が三人の回復を喜びながら品物を集めてくれた。そして、ギベオン達が港長から頼まれて伐採し納品した後、余分を売却していた千年樹の幹から新しい鎚が出来たと見せてくれた。
「ふむ。これは中々……ごついな」
「改良も出来そうだって親方も言ってたよ。でも、クロサイト先生はこないだ新調したばっかりだったね」
「ああ。だからこれはベオ君に持たせる」
「……へっ?」
 店の奥の作業場でセラフィの剣の修繕をしてくれている親方の姿を見ていたギベオンは、思いがけない言葉に素っ頓狂な声を上げた。今まで彼が扱っていた武器は全て鎚を新調したクロサイトからのお下がりであり、新品を使った事が無い。技術はクロサイトの方が上であると分かっていたので特に不満も無く使っていたギベオンは、突然の提案に驚いてしまったのだ。
「金砕棒が随分傷んでいたな、そう言えば」
「この間の僕の打ち込みで余計に傷んだからな。新調させた方が良かろう」
「あ、あの、僕、クロサイト先生が使ってるので良いです。そんな、新しいのなんて」
「お前が使えると判断したんだ。素直に受け取れ」
「うぅっ……はい……」
 娘が持ってきた鎚を見ながら話すクロサイトとセラフィにギベオンは首を横に振ったが、セラフィから鎚を差し出されては受け取る他無く、こっくりと頷いて自分のものにした。その傍らでクロサイトはローズにオーロラの様な色合いの外套を試着させて長さを見ており、それも購入する様だ。
 長らく仕事一辺倒で遊ぶという事を知らずに過ごしてきたクロサイトとセラフィは稼いだ金に頓着する様子が全く無く、武具も迷わず現金一括払いでひょいと買う。ギベオンがギルド主となってそこそこ経つけれども、こんな風に武具の購入をする時は持ち帰った動物や野菜、果実を食材として売り払ったり、魔物から採れる様々な素材を工房に売り払って得た金はそれこそギベオンが正式に冒険者になる前から貯まっていたので、こうやって早急に武具が必要な時に困らない。ギベオンだって鉱物を売却して得た金を己の取り分として貰っており、好きなものや必要なものを買う時に使用していた。
「さて、では戻って支度をしたら早めに休もう。明日からまた木偶ノ文庫だ」
「はい」
「がんばってね!」
「うん、有難う」
 会計を済ませたクロサイトが購入した外套が入った紙袋を小脇に抱え、ローズの小さな手を繋ぐ。彼のその言を聞いて激励の言葉をかけた工房の娘に、ギベオンは礼を言いながらしっかりと頷いた。



 数日ぶりに足を踏み入れた木偶ノ文庫は、相変わらず無機質で人の気配が殆どしなかった。出発前の打ち合わせでギベオンには以前見付けた抜け道を利用して地下二階へと進む旨を伝えており、道順を頭の中でしっかりと組み立てた彼の歩みは全く迷いが無い。途中で遭遇する魔物に対しても余計な体力は使わず逃げる術を覚え、どうしても回り込まれて逃げられそうにない時だけ戦った。まだギベオン達の体が万全の状態でない事も手伝って、いつも以上に慎重に進む彼らは、先日監視者と排除者に襲われた広間へと足を進めた。ローズが落とした耳飾りはクロサイトもセラフィも戻る事が精一杯であったから結局回収出来ておらず、それも見付ける事が出来れば、とギベオンは考えていた。見付からない可能性が高いから期待はしてはいけないよ、と屈んで目線を合わせたクロサイトに言われたローズが悲しそうに小さな声ではい、と返事をしたのを見て、時間が許す限り探して見付けてあげたいと思ったのだ。
 クロサイト達が何とか仕留めたので、前回徘徊していた監視者は見当たらなかったが、確かにそこに落とした筈のローズの耳飾りは見当たらなかった。この広間に限らず木偶ノ文庫内には多くの魔物が潜んでいるし、光り物を集める習性があれば持ち去られていてもおかしくはない。しゅんとしているローズが可哀想で、もう少し探してみようと先に進むと、扉を二つ潜った先の広間に入ってすぐの石畳に人間のものであろう血痕が点在し更に奥へと続いていた。そして。
「―――!!」
 広間の柱の向こうに見えたのは、風止まぬ書庫で帝国による木偶ノ文庫周辺の厳戒警備の件を教え、この広間でクロサイトとセラフィを助けてくれたあの帝国女性兵士で、自国の兵器である筈の排除者に倒され乗り掛かられ、剣で何とか食い止め様としているその喉笛に食らい付かれる寸前だった。咄嗟に動いたのはセラフィで、素早く投擲ナイフを懐から取り出し投げたと同時に、ギベオンが全速力で駆けてナイフが命中し動きが止まった排除者を側面から盾で思い切り叩き付けて吹き飛ばし、彼女から離した。
「大丈夫?! 怪我は……っ、クロサイト先生、彼女をお願いします!」
「了解した、気を付けたまえよ!」
「はい!」
 盾を構え直しながら見た彼女の足が真っ赤に染まっており、ギベオンは追い付いてきたクロサイトを弾かれた様に振り返り手当てを頼むと、自分達の横を疾風の様に駆け抜けて体勢を戻そうとした排除者に斬り掛かったセラフィの手助けに走った。
「ローズ、ここから方陣は届くか?」
「とどきます、だいじょうぶです」
「そうか。頭を封じるより麻痺させてくれ、動きが鈍る筈だ」
「はい」
 クロサイトが下ろした鞄から包帯やガーゼを取り出し、女性の足を縛って止血しながらローズに指示を出す。ギベオン達の向こうには監視者も居り、こちらに向かってくる事が無い様にギベオンとセラフィが何とか踏ん張ってくれており、ローズが張った方陣によって監視者の動きが鈍ったのでそちらをセラフィが仕留めに走った。麻痺した相手に対しての彼の一撃は、他の誰のどの攻撃を凌ぐ程の火力がある。それは機械仕掛けの監視者にも有効だった。
「おおぉっ!」
 そして高揚により全身に溜まった電気をガントレットを通して乗せられたギベオンの鎚が直撃し、排除者は彼女のものであろう血がついた牙を剥き出しにした口を下げた。前回戦った時より有利に戦闘を進める事が出来たのは彼女があらかじめダメージを与えてくれていた事と、行動パターンが読めていたから、ギベオンも繰り出される攻撃をある程度受け流す事が出来たので、大きな怪我を負わずに済んでいる。
「セラフィおじさま、ベオにいさまといっしょにうしろにとんでください! はじんします!」
「ベオ、こっちに来いっ!!」
「わあぁっ?!」
 頃合いを見計らってローズが叫んだと言葉に瞬時に反応したセラフィが、いつもの様にギベオンの首根っこを掴んで共に後ろに飛ぶ。その一呼吸後に張られていた方陣の光が爆発したかの様に弾け、上に居た監視者と排除者を直撃し、致命傷を与える事が出来た様だった。二体の帝国兵器を倒す事が出来たギベオンは、セラフィにもう動かなくなった監視者達からの素材採集を任せてクロサイト達の方へと来た。
「怪我の具合、どうです?」
「肉が少し抉れているな。神経はやられていないから、暫く安静にしていれば大丈夫だろう」
「だって。間に合って良かった、他に怪我は無い?」
 縫合を済ませ糸を切ったクロサイトが、消毒液を染み込ませたガーゼで縫合した傷口の血の汚れを拭き取る。金属で作られているであろうブーツを貫通した排除者の牙の威力の凄まじさを物語る彼女の傷は、それでも神経までは達していないらしい。ほっとしたギベオンが痛みを堪えている彼女にしゃがみながら尋ねると、彼女はその質問には答えず逆に問い返してきた。
「……何故助けた?」
「何故って……だって君、クロサイト先生とセラフィさんを助けてくれたでしょ?」
「貸し借り無しにする為か?」
「うーん……それもあるけど、巫女さんを助ける為に先を急ぐから襲われてる人を捨て置くなんて、人の命を天秤にかける様な真似は出来ないよ」
「甘い考え方をするのだな」
「手厳しいなあ……」
 ギベオンの返答にぴしゃりと言い放った彼女は、極力感情を篭めない様にしている風に見えた。僕は敵だから当たり前かなと苦笑したギベオンは、それでも彼女に対して言わなければならない事があったので、居住まいを正しながら石畳の上に座ってきちんと彼女と向き合った。
「あの、差し支えなければ、お名前を教えていただけますか?」
「……モリオン」
「モリオンさん。僕はタルシスよりもっと遠くの、水晶宮と呼ばれる都から来たギベオンと言います。
 先日は僕のギルドの大事な……仲間を、助けてくださって有難う御座いました」
 言葉遣いを改め、深々と頭を下げたギベオンに、モリオンと名乗った彼女は困惑する。確かに帝国兵でありながらタルシスから来た者達を助けた事は彼らにとって不可解に思わせてしまうだろうけれども、咄嗟に体が動いて助けに入ってしまったし、何より傍から見たら朴訥で、少々締まりのない顔をしているこの褐色肌の男がこうも改まった態度を見せるとは思わなかったのだ。
「……別に、たまたま通り掛かっただけだ」
「たまたま通り掛かっただけで、皇子に忠誠を誓っている帝国兵士がタルシスから来た者を助けるとは思えません。
 ……いや、今はその事は良いんです。ただ僕は、貴女にお礼が言いたかった」
「………」
「お二人を助けてくださって、本当に有難う御座いました。この御恩は一生忘れません」
 だから何と言って良いのか分からず、結局ぶっきら棒に、そして多少苦しい言い訳をしたモリオンに、ギベオンは再度深く頭を下げた。クロサイトはギベオンの事を友人と言ってくれたが、彼はクロサイトやセラフィの事を大切な師として仰いでいる。だが師と言えば後で不服を言われてしまいそうであったから、多少の躊躇いはあったが仲間と言ったのだ。そんな二人を助けてくれたモリオンにどうしても畏まって礼を言いたかったギベオンはへへ、とはにかむ様に笑い、のそりと立ち上がってから彼女に軽く会釈し、セラフィの方へと踵を返した。
「君の目には甘い考えの男と映るかも知れん。それは否定出来ない。だが、私も君を助ける事が出来て良かったと思っている」
「……タルシスから来る奴は皆そうなるのか?」
「さて。それは私には分かりかねるが……少なくとも以前の彼なら、助けるべきかどうなのか迷って動けなかっただろう。
 君が帝国兵士だからな。
 だがそんな事お構いなしに、彼は君を助ける為に走った。何の打算も無く」
「………」
「彼は良い男になった。本当に」
 手当て道具を鞄に仕舞いながら言うクロサイトに怪訝な顔をしたモリオンは、しかしギベオンの成長を喜ぶ様に薄く笑った彼を見て再度口を閉ざした。ローゲルが言った、あいつらは強いという言葉の意味を、漸く理解した気になった。それと同時に、やはり外の世界は分からない事だらけだとも思った。帝国には荒野が広がり、壊滅の危機にある。それは人の心を荒ませ、殺伐とさせていった。だから他人を信じるという事が難しく、今や信じられる者など皇子バルドゥールしか居ないのだ。否、そこに漸くローゲルが加わったけれども、モリオンにはギベオン達が互いを信頼しきっている様がひどく眩しく見えた。
「あ! ローズちゃん、あった! 耳飾り、あったよ!!」
「ほんとうですかっ?!」
「ほら! ちょっと金具が壊れちゃってるけど、石も欠けてないよ。このパープルアノールがここまで持って来ちゃったんだろうね」
「……よかったぁ……」
 その時、セラフィの側に行った筈のギベオンがもう少し離れた場所で声を上げ、倒れたパープルアノールの傍らでローズが落とした耳飾りを見付けた事を告げた。拾い上げた耳飾りは確かにパーツを繋ぐ金具が破損していたが、何とか繋がったままで、駆け寄ったローズが安堵の溜息を吐きながら両手でギベオンからその耳飾りを受け取った。まだクロサイトが父と名乗る前に、右目の視力を失ってしまったローズに詫びと慰めの為に贈ったそれは、今でも彼女の大切な宝物だ。
「お前、あの耳飾りを追ってここに来たのか?」
「……何の事だ」
「ホムラヤマネコやモモイロカラスが扉を開けるとは考えにくい。だがパープルアノールなら扉を開けるだろうからな。
 俺達は南の聖堂であれより大型のカメレオンみたいな魔物がカフスボタンを持ち去るのを追い掛けたから、お前もそうかと思っただけだ」
 監視者と排除者からめぼしい部品を粗方採集し終わったセラフィが、機械油が付いてしまった手を拭きながらギベオンとローズの方を見遣り、そらとぼけるモリオンに淡々と言う。このパープルアノールと言い南の聖堂に居た真っ青な大型カメレオンの様な魔物と言い、どうやら装飾品が好きな種族の魔物である様だ。否、装飾品というよりも人間の大事な物を持ち去り追い掛けさせ、馬鹿にするのが楽しいのかもしれない。
 クロサイトとセラフィを助けたあの広間で、確かにモリオンはローズの耳飾りを見付けた。別にローズがそれを着けていたと覚えていた訳ではないが、こんな所に女物の装飾品が落ちているなど考えられなかったし、ならばあの娘の落し物だろうと思い、磁軸の側にでも置いておこうと拾おうとした瞬間に、パープルアノールが長い舌を使って持ち去ってしまった。それを追い掛け、仕留めた代わりに、監視者と排除者に襲われたという訳だ。しかも、足に牙を立てられ無様にも殺されかけた。それはモリオンにとって恥以外の何物でもなかった。
「……君をここに残しておくのは危険だし、この怪我では動けまい。君は嫌かも知れないが、タルシスに連れて行く」
「な……っ、ふざけるな、誰が行くか!」
「医者に国境も敵も味方も無い。傷病人は保護するものだと私は思っているのでな。
 それに、言っただろう、傷を治して改めて君に礼を言いに行くと。君を保護して傷を治させる事が私の礼だと思ってくれ」
「屁理屈を、やめろ、離せ!」
「怪我人は黙って医者の言う事を聞きたまえ!」
「……っ!」
 かてて加えて、クロサイトがタルシスに連れ帰り保護するなどと言ったものだから、恥の上塗りをさせられる様な気がして、肩を担がれたモリオンは抵抗した。しかしクロサイトから一喝され、足の裂傷の痛みも手伝い、言われた様にここにこのまま居残っていても動けないのであれば、いくら自国の迷宮といえども危険だ。クロサイトの怒鳴り声に驚いたギベオンが何事かと駆け寄り、事情を聞くと、彼もローズもそうした方が絶対に良いと揃って頷き、セラフィに至ってはモリオンの剣を拾って勝手に背嚢からアリアドネの糸を取り出し、行くぞと有無を言わさず発動させてしまったものだから、彼女は再度タルシスの街に行く事になってしまった。思った以上に変な奴らだ……、と、診療所へと続く階段をギベオンに肩を借りて上りながらモリオンは思っていた。



 タルシスに連れ帰ったモリオンは、ペリドットの遠縁という体にして診療所に暫く置く事になった。傷は神経まで達していなかったとは言え、足であるからローズと共に散歩に出るという事も出来ず、そもそも人目に触れる事をモリオンが嫌がったしクロサイト達もあまり見られない方が良いかもしれないと、彼女は基本的に診療所内で過ごしてもらう事にした。留守を預かるペリドットがモリオンの世話をすると言ったが、ペリドットが妊婦であると知ったモリオンは世話は良いから自分の体を大事にしろと渋った。だがこの診療所に女性はペリドットとローズしか居らず、また日中はローズもギベオン達と共に探索に出るのだし、面倒を見る事が出来るのはペリドットしか居ない。妊婦は怪我人でも病人でもないんだから大丈夫、動いていた方が体も楽だからとにっこり笑ってはいるものの反論を許さなかったペリドットに、最終的にモリオンが折れた。ペリドットは、こういう時の押しが強い。
 空いている部屋の寝台を整え、そこにモリオンを休ませた後、まだ夜までには時間があったので彼女の為の買い出しやその他の事はペリドットとセラフィに任せ、ローズはモリオンが無茶をしない様にと彼女の側で控えさせ、辺境伯への報告はクロサイトとギベオンが赴いた。訪れた際に人払いをしてくれた辺境伯は執務室の外に声が漏れない様に警戒しながら話すクロサイトの意図をきちんと汲み取り、いつも座っている執務机ではなくクロサイト達が座るソファの真向かいに座って声を小さくしてくれたし、今は敵である帝国兵を連れ帰ったクロサイトを一言も責めなかった。そして、モリオンを捕虜にしたり人質にする意思は微塵も無いと言うクロサイトとギベオンの言にしっかりと頷き、もしこの件が外部に漏れても彼女に一切の手出しはさせない様にすると約束してくれた。辺境伯も帝国と戦いたい訳ではなく、飽くまで目的は皇子バルドゥールによる世界樹の力の解放の阻止だ。辺境伯の変わらぬ考えに安堵したギベオンは頭を下げ、そんな彼に辺境伯は私の優秀な部下を二人も助けてくれた兵士に敬意を払っているまでだよと笑った。
 辺境伯への報告を済ませた後、クロサイトは久々に近所の回診に行ってくるとそのまま出掛け、ギベオンだけで診療所に戻ると、セラフィとペリドットはまだ戻っていなかった。二人で連れ立って出掛けるなどクロサイトの回診以上に久々であろうからゆっくりしているのだろうと解釈したギベオンは、少し迷ったがモリオンに宛がわれた部屋へ足を運んだ。生まれてこの方女性の部屋に入るなど初めてであったからノックするのに随分緊張したし、ノックするまでに数分扉の前で立ち尽くした。それでも意を決してノックし、返事が聞こえたので恐る恐る入室すると、まだ必要最低限のものしか置かれていない殺風景な部屋の中にある寝台に座るモリオンと、傍らの椅子に座るローズが居た。
「おかえりなさい、ベオにいさま。セラフィおじさまとペリドットねえさまはまだもどられてなくて」
「うん、クロサイト先生も回診に行ってくるって。ローズちゃんはずっとここに居たの?」
「はい」
 何か話す事があったのか、ローズの表情は明るく、にこにこしている。逆にモリオンは黙ったままであったが、窓の外を窺って明るさを確認してからちらとギベオンを見た。
「……母親に耳飾りが見付かった事を言いに行きたいらしい。連れて行くと良い」
「へ? クロサイト先生が戻るの待っ……てたら暗くなっちゃうか。でも君一人にするのも……」
「逃げないから行けと言うんだ」
「あ、いや、逃げるって疑ってる訳じゃ」
 ローズは耳飾りをモリオンが取り戻そうとしてくれた事に対し礼を述べ、どういう経緯でその耳飾りを貰ったのかを彼女に説明していた。とても大切なものだったので見付かって嬉しい、とはにかんだ彼女は、父と叔父の帰宅を待つ間に母から見付かると良いわね、と慰められていたので、無事に見付かった事を報告しに行きたかったのだ。
 しかしギベオンがローズに付き添って行けば、モリオンを一人にしてしまう事になる。逃走を疑う訳ではなかったのだが、かと言って彼女の人となりをそこまで知っている訳でもないギベオンは困ってしまった。ここはローズに我慢してもらうしかないだろう。そう思ったギベオンが申し訳ないけどと言う前に、ローズが口を開いた
「あの、わたし、ひとりでいけます。くらくなるまえにかえってきますから」
「でも……」
「だいじょうぶです。すこしずつひとりでできるようになりましょうねって、かあさまもおっしゃいました」
 診療所から孔雀亭までの距離は、そこまで遠くはない。ギベオン達に混ざって探索に参加しているローズにとってみれば本当にすぐそこの距離だ。だがいくらタルシスが平和な街とは言え、以前ペリドットを無理矢理連れて行こうとした男の様な者も居れば、それこそ昔セラフィを路地裏に引き摺り込んだ様な人間だって世の中には存在する。八歳の子供を一人で酒場に向かわせるのはいくら何でも憚られるので止めようとしたけれども、母親の言葉を出されてしまったらギベオンも止めようが無い。困っていると、モリオンが小さく溜息を吐いてズボンのポケットから一枚の札を出した。
「これを持って行け。何か危険があれば使え」
「……これ、なんですか?」
「爆炎の起動符だ。御守り代わりに持っておけ」
「いいんですか? ありがとうございます」
 真っ赤な紙に業火の紋様が描かれたその符は、炎を起動させるものであるらしい。ローズは印術も使えるので不要と思われてしまうかも知れないが、彼女はまだエレクトラから貰ったロッドが無ければ上手く発動させる事が出来ない。そういう事情も手伝ってローズは笑顔でモリオンに礼を言ったけれども、ギベオンはやや引き攣った笑顔で物騒な御守りだと思っていた。
 残ったギベオンは先程までローズが座っていた椅子に座ったは良いものの、モリオンと二人で果たして何を話して良いか分からなかったし、そもそも彼は女性と二人きりになるなどペリドット以外経験した事が無かったので、それに気が付き扉の前でノックを躊躇っていた時の様に一気に緊張した。ローズの様に子供の純真さがある訳ではないので、結局は気まずくて口を閉ざしたギベオンに、横にならずに座ったままのモリオンはタートルネックのシャツの首元を広げ、中を探りながら言った。
「ギベオンと言ったな。お前に頼みがある」
「え……なに?」
「これを、ローゲル卿に渡してくれ」
 いきなり服の中を探る姿を見てぎょっとしたギベオンにモリオンが差し出したのは、首に着けていたらしい深紅とも言える石のペンダントだった。受け取ったその石は、彼女の体温による温もりがある。ギベオンは何度も読んで内容を覚えてしまった鉱石図鑑を頭の中で捲り、該当する鉱物を瞬時に見付け出した。彼は見たページそのままの映像で記憶する癖があり、その記憶の中のページに大きく書かれた名を読み上げる。
「レッドジャスパー……赤碧玉だね。立派だなあ」
「……知っているのか?」
「あ、僕、鉱石はそれなりに分かるんだ」
 図鑑に載っていたものよりも赤が濃く、朱色と言うより深紅であったから、ギベオンは思わず嘆息を漏らした。ジャスパーはタルシスに自分を送り出してくれた先輩の名だから、彼にとっては余計に思い入れのある鉱石になる。しかしそれ以上に気を取られたのは手の上の石が図鑑に載っていた色彩よりもうんと濃い赤だったのでギベオンは思わずうっとり見入ってしまい、怪訝な顔をしたモリオンの視線に気が付いて慌てて彼女に視線を戻した。
「これをワールウィンドさん……じゃなかった、ローゲルさんに渡したら良いの?」
「ワールウィンド? ……ローゲル卿はワールウィンドと名乗っていたのか?」
「え……うん」
「……そうか。あの方は素晴らしい。結界の外からただ一人、戻られたのだから」
 ギベオンはローゲルの事をずっとワールウィンドと呼んでいた為についそう言ってしまったが、本名は違うのだからと言い直すと、モリオンが不可解そうな表情をしたもののすぐに話題を変えた。ここにギベオン以外の、例えばクロサイトなどが居れば意図的な話題変換と思われる様な彼女の言葉に、しかし残念ながらギベオンは特に気付かず、口を挟まなかった。そして、バルドゥールにとって信頼出来る騎士であるローゲルは、モリオンにとって尊敬に値する騎士であるらしいと認識した。
「ローゲル卿とは、南の聖堂で殿下が辺境伯殿との会談を終えた後にお会いした。……殿下に何をしたと、酷い剣幕だった」
「あ……」
「何も、していないのだ。……何も出来なかった」
「………」
「陛下やローゲル卿達の帰還を待ち続ける殿下を、悪しざまに言う者も居た。
 陰謀が渦巻く宮殿で孤立した殿下は、心無い者達の誹謗にずっと一人で耐え抜いてみせられた。
 その中で、殿下は私欲で動く文官を粛清し、強固な支配体系を確立して、陛下の計画実現の為に動き出した。
 ……私はそれを見ていただけで、何も出来なかった」
 アルフォズルがローゲル以下数名の騎士を連れ、幼かったバルドゥールを残して消息を断った後の事をモリオンは端的に纏め、淡々と話した。彼女とバルドゥールの年は大して変わらないのか、側に仕えてきた者の様な口ぶりだった。ローゲルの、殿下に何をしたという言葉も、恐らくモリオンの立ち位置を分かっていたからであろうし、ローゲル自身は代々帝国に仕える家柄の者らしいので、モリオンは知人である可能性がある。
 しかし、それを考慮しても、モリオン一人でバルドゥールを諌める事は難しかっただろう。女性に年を尋ねるのは良くない事だとギベオンは思っているので聞かないが、自分とそう大して変わらない年齢であろうから、ローゲルが皇帝と共に出国した当時はバルドゥールは勿論、モリオンだって幼かった筈だ。宮廷内で子供に出来る事など、ほぼ無いだろう。いくら頭に血が上っていたとしてもそれを責めるのはおかしいのではないか、とギベオンは何とも複雑な気持ちになった。
「私は殿下をお止めする事も出来なかったし、お守りする事も出来なかった。ローゲル卿を失望させてしまった」
「そんな……」
「帝国に帰還して以降、あの方はずっと思い詰めた様な顔をしている。陛下とは違う殿下のお心を辺境伯殿との会談の際に聞いたからだろう。
 殿下は、巨人の呪いが発動して犠牲が出てもやむなしとしたのだ。
 陛下なら絶対に許さなかった事だろうが……今、殿下を止める者は一人としていない。ローゲル卿が、殿下に従う限りは」
 つらいのか、苦しいのか、モリオンはギベオンを見ずに目線を組んだ手に落とし、項垂れる様に話す。流れる様な長い髪は憔悴した彼女の顔を少しだけ隠したが、ギベオンには顔が見えずとも今のモリオンの姿が痛々しく見える。とてもあの大きな剣を振るう兵士とは思えなかったし、彼女が感じているのだろう悲しみが伝わってくる様で、思わず掌に乗せた赤碧玉を握ってしまった。
「卿は、殿下をお止めしたいというのが本心だろう。だが殿下が一番つらい時にお側に居られなかったから、逆らえないのだろうな。
 ……だから、せめてお前達が殿下をお止めしてやってくれ」
 そんなギベオンに、弱々しく顔を上げたモリオンがバルドゥールの暴走を止める様に頼んだ。彼女は今日ローズと話をしてウロビトも人間と変わらないと知ったし、こんなあどけない子供が自分達の身代わりとなり犠牲になるなどあって良い事なのかと思ったから、何とかバルドゥールを止めて欲しいと願ったのだ。外部の人間である、ギベオンに。
「殿下は帝国の民を守る事しか考えていない。だからこそ、私も命を賭してお仕えした。
 しかし……どうしても私は、他の民を犠牲にする事に賛同出来ないのだ。
 ……止められなかった者の言う事など、お前は信じないだろうが」
「ううん、信じるよ。
 皇子を止めて欲しいから風止まぬ書庫で僕達が来るのを待っててくれたし、クロサイト先生とセラフィさんを助けてくれたんだよね?
 ……それに、木偶ノ文庫のあの磁軸、使える様にしたの、君でしょ?
 たくさん手助けしてくれて有難う。止められる様に精一杯努力するよ」
 自嘲気味に薄く笑ったモリオンに対して首を横に振ったギベオンは、彼女が今までどれ程自分達を助けてきてくれたかに対しての礼を言った。木偶ノ文庫の入り口の磁軸がある小部屋は、初めてギベオンが足を踏み入れた時、他の場所に比べて随分と埃臭かった。使われていなかった証拠だ。何をどうしたのかギベオンには分からないし尋ねるつもりも無いけれども、モリオンはその小部屋を解放し、磁軸を使える様にしたのだろう。外からの侵入者を防ぐ為に長らく使用不能にされていたのであろう磁軸を。そうでなければ、ローゲルはとっくの昔に帝国に帰還していた筈だ。
「……じゃあ、この赤碧玉、大事に預かるね。ちゃんとローゲルさんにお渡し出来る様に頑張るね」
「ああ」
「でも、ほんとに立派だねこれ。君の目みたいで綺麗だね」
「……はあ?」
「あ、ご、ごめん、似た色だと思ってつい」
 朱色が混ざらない赤碧玉のその深紅色に再度顔が綻んだギベオンは、しかしモリオンの反応に慌てて謝った。彼女の瞳の色はどちらかと言うとワインレッドに近い色だが、手の上の赤碧玉にも似ており、つい素直な感想が出てしまったのだ。鉱石に似ているなどと言ったから不機嫌にさせてしまったのではないか、と内心冷や汗をかきながらギベオンがモリオンを上目遣いで窺うと、彼女はむっつりとした顔で黙っており、彼はただ縮こまるしか出来なかった。しかしモリオンはその言葉をきちんと賛辞として受け止めており、単に照れ臭くて黙ってしまっただけなのだが、幸か不幸かギベオンはその事には全く気が付かなかった。そして部屋の扉の向こうでは、ローズと入れ違いで診療所に戻って来て、ギベオンがモリオンの側についていると告げたローズを孔雀亭に送って行ったセラフィを見送ったペリドットが二人の会話を「たまたま」聞いており、何となく頬を緩ませていた。



 モリオンを連れ帰ったその夜、彼女が木偶ノ文庫の主要な抜け道を教えてくれたので、一階から地下二階中央にすぐ降りられる様になった。地下二階の階段を降りてすぐの所には抜け道に出来そうな壁の裂け目があるからそこを使え、狭いから貴殿達はともかくあの男が通れるかは知らんが、と言った彼女に、ベオ君の心配までしてくれて有難う、とクロサイトが地図を書きつつ礼を言うと黙ってそっぽを向いた辺り、モリオンは照れると黙ってしまう性格であるらしい。だがクロサイトはセラフィが同じ様な癖を持っているので大して気にならなかった。
 そして翌日、出発する前に挨拶に来たギベオン達に、モリオンは壁に立て掛けてある自分の剣、砲剣というものらしいが、指差しながら言った。
「我ら帝国兵がその剣で繰り出す攻撃、そこの二人はもう知っていると思うが、ドライブを使うと刀身が暫くオーバーヒートする。
 その隙を狙うと良い」
 彼女がクロサイトとセラフィを助けた際に見せた、爆音を鳴らしながらのあの攻撃はドライブというものらしく、確かに一撃は強力だがその後に隙が出来やすい。実際、モリオンは排除者に不覚をとったのだから、推して知るべし言ったところだろう。どのくらいの時間を稼げるか、と、共闘した時に彼女がドライブとやらを使った後に再度使用した間の時間を思い出そうとしていたクロサイトが顎鬚を撫でながら呟いた。
「まともに受けると死ぬだろうな、あれは」
「ああ。……セラフィ殿と言うのだったか?貴殿は動きが速いから、わざと注意を引き付けてかわすのも良いかも知れん。
 危険な賭けになるが」
「そうだな。どのみち、あの男とは決着をつけねばならんしな」
「強いぞ、ローゲル卿は」
「知っている」
 セラフィの身軽さと速さを見たモリオンの言葉に、彼本人は頷いて見せたが、側で聞いていたペリドットは顔を曇らせた。なるべくなら危険な真似はして欲しくないというのは誰しも思っているけれども、危険を冒さなければ先に進む事は出来ない。不安そうに俯いてしまったペリドットを見て僅かに沈黙したモリオンは、ちらとローズを見て再度口を開いた。
「ローズ、だったな。印術を使えるんだな?」
「は、はい」
「ローゲル卿はショックドライブ……雷のドライブを得意とする。後は自分で考えろ」
「……はいっ! ありがとうございます!」
 モリオンとしてもローゲルが不利になる事を教えるのは不本意であったが、かと言って彼を倒さねばバルドゥールの計画を止める事は出来ない。ローズの元気の良い返事を何とも複雑な表情で眺めたモリオンに、ペリドットは胸が締め付けられる様な錯覚に見舞われた。
 磁軸を使って木偶ノ文庫に着くと、クロサイトはまずモリオンに教えてもらった抜け道を確かめた。出入り口から扉を潜ってまっすぐ突き進んだ先の抜け道は分かっていたが、モリオンが教えてくれた地下二階へ続く階段の抜け道がある場所の本棚はよく見れば動かせる様になっており、本棚に隠された様に狭い抜け道があったしその奥には階段があった。その階段を降り、更に教えてもらった抜け道を探すと、モリオンが言った通りかなり狭い裂け目を見付けた。小さいローズや細身のセラフィはすぐに通れそうであるし、クロサイトも何とかと言った感じなのだが、体格の良いギベオンは難しそうだ。クロサイト達が先に通って向こう側から裂け目を広げようという事になり、まずセラフィがその裂け目を通り抜けると、通路の先に人影を見付けた。言い争いとまではいかないが何やら揉めている様な声に、後に続いて出てきたローズを自分の背に庇いながらセラフィが身構える。
「シウアンさま!」
「……ローズ?!」
 だが彼が人影に声を掛けるより早くローズが叫んだのは、バルドゥールに手を引かれ更に下に続くのであろう階段に向かわせられている巫女の名だった。巫女はローズに仲良くなれたのだから名前を呼んで欲しいと頼んでおり、つい名を呼んでしまった。そのローズの声に反応したのは何も巫女だけではなく、クロサイトも急いで裂け目を通り、娘が飛び出していかない様に肩を掴む。……残念な事にやはりギベオンは通れず、困りながら裂け目の間から様子を窺った。
「辺境伯の護衛についていた者達だな。遂にここまで来たか…」
 巫女の手を離さぬままローズ達を見たバルドゥールの利き手には砲剣が握られている。ローゲルやモリオンが持っていたものとは少し違って見えるのは、彼が王家の者だからであろう。そして額には、硝子の様なもので出来た装飾品を着けていた。恐らく辺境伯がローゲルに与えたという巨人の冠だろうという事は、クロサイトにもセラフィにも分かった。相変わらず通れていないギベオンには、見えなかったけれども。
「世界樹の力の発現は皇帝アルフォズルと帝国の民全ての願い。
 陛下が探索より戻られぬ今、計画は皇帝の残された子である余に果たす義務があるのだ。
 慈悲深きアルフォズル陛下はウロビト、イクサビトに情けをかけようとしたが……余はそうはいかぬ」
「何故そうはいかないのかね」
「未熟な余の力では世界樹の完全な支配は叶わぬ。ならば、ウロビトとイクサビトには帝国の贄になってもらう他無い」
 揺るぎない態度で言い放つバルドゥールからは、どこか追い詰められている様な雰囲気が見受けられた。その事に引っ掛かりを感じたクロサイトは、びく、と体を震わせたローズの肩をしっかりと抱き、怯みもせず聞き返す。そんな彼の質問にバルドゥールは僅かな自嘲を含めた声音で答え、クロサイトは己の力量不足を他の民の命で補おうとするか、と眉を顰めそうになったが、セラフィが剣を構えそうになったのでそれを制する事で冷静になれた。
「なるほど、君は父親に代わって帝国の民を守る義務があると言いたいのだな。だが私も、父として娘を守る義務がある」
「娘……? そこのウロビトは貴公の娘なのか?」
「ああ。君の父君が三十年程前に結界の外へと派遣した帝国兵がウロビトとの間に娘を儲け、その娘と私の間に生まれたのがこの子になる。
 君は帝国の民の血が流れるこの子も犠牲にして良いと言うのだな?」
「……多くの民の命とその娘一人の命を天秤に掛けるまでもない」
「どうして! あなた、お父さんのしたかった事、まるで分かってないじゃない!」
 ギベオン達の傷の回復を待っている間に再度タルシスを訪れてきたウーファンからは、ガーネットの父親が持っていた剣はギベオンが描いた絵とそっくりであったという事を伝えられていた。アルフォズルが派遣し、戻らなかった帝国兵がガーネットの父親とほぼ確定しても良いだろう。つまり、ガーネットもローズも帝国の民の血が流れている事になる。クロサイトの言にバルドゥールが多少の躊躇いを見せたのは、自分の父がかつて派遣した兵士が故郷の地に帰る事が叶わずとも子を儲け、その血脈が続いているという事実を目の当たりにしたからだろう。しかし、彼にはローズ一人の命よりも大勢の帝国の民の命を救う方が重要なのだ。クロサイトはホムラミズチを倒しに行く前夜にガーネットから言われた、ローズを見捨てて貴方が助かった結果大勢の人が助かったとしても自分の命に替えてでも守るつもりなの、という質問を思い出してしまった。彼はバルドゥールの心よりもアルフォズルの心の方が分かる。欲張りだから、どちらも助けたいのだ。
 そして、バルドゥールに手を掴まれていた巫女はその手をぐいと引っ張って彼の注意を自分へ向けた。巨大な砲剣を、ローズに向けられたくなかったからだ。巫女にとってはウーファン同様ローズも大事な友人で傷付けられたくはなかったし、何より自分を守り育ててくれたウロビト達を犠牲にされたくはなかった。ほんの僅かな交流しか持てていないが、イクサビトの里で接した者達も礼節を重んじ、人間やウロビトという種族の壁など全く気にせず外部の者を受け入れていた。その者達を見捨てるなど彼女には出来なかった。
「お父さんの夢を叶えたいんでしょ? だったらダメだよ、こんな事しちゃ!」
 巫女が攫われ、この木偶ノ文庫に連れて来られてからバルドゥールとどんな話をしたのか、クロサイト達には分からない。だが彼女の口振りからすると、今バルドゥールが口にした話を聞いたばかりとは考えられなかった。途中で遭遇した、病に罹かった帝国兵は巫女の治療の申し出を断ったと言っていたし、彼女がこの建物内を連れ回された事は想像に難くない。そんな巫女の言葉を、バルドゥールは無表情で受け止めた。飽くまで感情を表に出そうとせず自制しようとしている様子はモリオンに似ている様にセラフィには感じられた。
「余を恐れぬか……何も知らぬが故か、それともその方の強さがそれを言わせるの、か……っ?!」
「?!」
 誰も犠牲にはしない世界樹の力の発現を試みたアルフォズルの志を、誰でもない息子のバルドゥールが無視しようとしている様に感じられて声を上げた巫女は、もうウロビトの里で崇め奉られ、守られてばかりの少女ではなかった。そんな巫女を静かに見詰め、呟く様に言葉を漏らしたバルドゥールは、突然巫女の手を掴んでいた手を離して口元を押さえ、激しく咳き込んだ。その尋常でない咳き込み方に驚き、思わず巫女が手を差し出そうとしたのだが、バルドゥールはその手を再度掴むと奥へと歩き出した。
「余には時間が無い。そして、計画に変更は無い。
 貴公らの決意が変わらぬと言うなら……余の騎士が、その行く手を阻もう」
 まだ止まらぬ咳混じりにクロサイト達を一瞥しながら言ったバルドゥールの顔は、どこか具合が悪いのか真っ青だった。脂汗をかいている様にも見える。それに引っ掛かりを覚えたクロサイトやセラフィが追い掛ける為に駆け出そうとしたその時、後ろから切羽詰まった声が響いた。
「待って! 待ってくださいクロサイト先生にセラフィさん、僕まだここ通れてないです!!」
「あっ……」
 そう、裂け目が狭くて通れてなかったギベオンは、クロサイトの声は辛うじて聞こえていたものの、離れた所に居たバルドゥールや巫女の声は聞こえておらず、だから彼らがどういう会話をしていたのか殆ど分からなかった。その上いきなり自分を置いて走り出そうとしたのだから、叫ばざるを得なかったのだ。ギベオンの声に慌てて足を止め、振り返ったクロサイトとセラフィは、裂け目の向こうの困り果てた、というより心底すまなさそうな顔のギベオンに微妙な心持ちになる。
「本当に締まらないな君は……」
「す……すみません……」
 バルドゥールを追い掛けたいのは山々だが、かといって魔物が多いこの木偶ノ文庫にギベオン一人を残していくのは不安であるし、何より盾役が居ないのはクロサイト達も痛手だ。バルドゥールが通路の奥に消えたのを確認したセラフィはローズに少し離れている様に言い、クロサイトと共にその裂け目を広げる。あまり広げ過ぎるとそこの壁が脆くなってしまう可能性もあるので、ギベオンが通れるギリギリの広さにまで拡張すると、潜り抜けたギベオンにクロサイトよりも先にセラフィがそれ以上太るなよ、とぼそっと言い、ギベオンも体を縮こまらせてはい、と頷いた。ローズだけがベオにいさまごいっしょにいけてよかったですとフォローしてくれたのだが、ギベオンはそれも居た堪れなかった。
 無事通れたギベオンに、バルドゥールが言った事をクロサイトが説明しながら奥へと進むと、地下三階に続くのであろう階段があった。鞄から取り出した羊皮紙を広げたクロサイトはモリオンが少しも嘘を吐かずに教えてくれていた事を確認したし、彼女の心中はいかばかりかと思う。モリオンの側に居させたローズは、彼女から御守りと称して爆炎の起動符を貰ったと孔雀亭から帰ってきた時ににこにこしながらクロサイトに見せてくれた。そして、クロサイトやセラフィが名を略してしまう前に、リオねえさまと呼んでいた。ギベオンの事をベオにいさまと言ったローズに、モリオンが怪訝な顔をしながら誰だそれはと言ったらしく、ローズは説明がてら彼女にモリオンねえさまはリオねえさまですねと言い、モリオンはそれを拒まなかったそうだ。クロサイトが後でその呼び方で良いかを尋ねると、彼女は好きに呼べば良いとやや不承不承ながらも承諾してくれた。気難しそうに見えるが、根は優しい女性であるのだろう。ウーファン君に少し似ているな、と、地図を再度畳んで鞄に仕舞ったクロサイトは思った。
「……どうしたんですかセラフィさん」
「……居るな」
「居る? 誰が……あ、ひょっとして」
 地下三階の床が見えたその時、階段の途中で足を止めたセラフィが確信にも似た呟きを漏らす。ギベオンは一瞬何の事か分からなかったのだが、階下に降りてすぐに何が、否、誰が「居る」のか分かった。階段を降りてすぐにある扉の向こうからは、深霧ノ幽谷でホロウクイーンから発せられたものや他の魔物から漂うものとは異質で強烈な殺気が発せられていた。ギベオンは階段を降りなければその殺気に気が付けなかったが、セラフィが下る途中から気が付いたのは彼の五感が研ぎ澄まされているからというのもあるし、南の聖堂で真正面からその殺気を受け止めた覚えもあるからだ。間違いなく扉の向こうにはバルドゥールの騎士であるローゲルが居る、そう判断したセラフィは目を細めて扉を睨み付けると細く長く息を吐き、そして大きく息を吸った。あの男と決着を付けねばならんと言ったのは誰でもないセラフィだ。ぎゅっと口を引き締めた彼が扉を開ける為に手を伸ばそうとした時、細い肩を軽く二度、叩かれた。振り向けば、クロサイトが静かに見詰めている。冷静にな、と言ってくれているのが分かったセラフィは無言で小さく頷くと、今度こそ扉を開けた。
「……やはり君達が来たか」
 扉を開けた先に居たのは、髪を整え無骨な鎧を纏い、いつも見せていた眠たげな表情を真面目なものにしたローゲルだった。体中に叩き付けられる様なおぞましい殺気にギベオンでさえ怯みそうになったし、ローズに至っては真っ青になってクロサイトの後ろに隠れ様子を窺っている。びりびりと刺してくるその気配に眉を顰めたクロサイトは、しかしそれをかわす事無く堂々と受け止め、微動だにしない黒い背中に今までの中で一番の頼もしさを感じていた。
「俺が君達にした事も、今更取り繕おうとは思わない。 ……その必要も無い。先には行かせない」
 先程巫女を連れ去ったバルドゥールからの命を受けているのだろうローゲルは、砲剣を構えると躊躇いなく駆動させた。それに呼応し、セラフィはゆっくりと歩いてギベオン達から離れる。例えて言うならローゲルのものは触れない程の熱さがあるのに対し、セラフィの足元からぞろりと出された殺気は触れない程の冷たさがある様にギベオンには感じられた。手出し無用と言わんばかりのその行動にギベオンは戸惑ったが、クロサイトを見ると南の聖堂の時と同様にあれの好きにさせてやってくれと言わんばかりにゆるりと首を横に振ったので、祈る様な心持ちでローゲルとセラフィを見遣った。
「また君一人で俺の相手をするつもりか」
「首洗って待ってろと言っただろう」
「……そうだったな。俺も全力で相手をすると言った、約束を果たそう!」
 誰の手も借りず、一人で自分と対峙したセラフィの言と表情に偽りは無いと判断したローゲルは、砲剣の音を一際大きなものにさせてセラフィの方へと駆け出した。刀身からは青白い火花が散り、モリオンが言っていた様に雷のドライブを使うらしい。受けたら一溜まりも無い、どうか避けて欲しいと剣を構えたセラフィを歯を食いしばりながらも目を逸らさず見ていたギベオンは、ローゲルに向かって石畳を蹴ったセラフィが砲剣を振り落とされる瞬間に突然視界から消えた事に目を疑った。驚いたのは何もギベオンだけではなく、そう広くはない部屋にドライブの爆音を鳴り響かせたローゲルもかわされた事に舌打ちしながらすぐに振り返り、襲ってきた剣をすんでのところで受け止めた。
「思った以上に身軽だな、まさか頭上を飛び越えるとは思わなかった」
「脚力には自信があるんでな」
 セラフィがギベオンやローゲルの視界から消えたのは、ローゲルの頭上を跳躍したからだった。着地と同時に斬り掛かったのにすぐさま剣を受け止められたのはさすがと言ったところか、とセラフィは柄を握る手の力を緩めず口の中で呟く。ローゲルの砲剣の刀身からはオーバーヒートによる高温と先程のショックドライブによる放電の余韻で火花が散り、二人の顔にその火花が掠めた痕が走った。
「主が間違っていると分かっていて諾々と従うのか? それがお前の忠義か」
「殿下はこの十年、私利私欲にまみれた者が潜む王宮の中でたった一人で戦ってきた!
 あの方が一番つらかった時、俺はお側に居られなかった!
 そんな俺に、貴方の十年は間違っていたなどと言える資格は無い!」
「だから従ってお前達の王であった男を献身的に介抱し手厚く葬ったイクサビト達や、
 ホロウクイーンに里を破壊され怪我をした事を気の毒がってお前が何度も見舞ったウロビト達を犠牲にするのか!!」
「!!」
 砲剣の刀身の熱さが服の上からでも皮膚を焼き、負った火傷の痛みを誤魔化す様に怒鳴ったセラフィの言葉に、ローゲルは目を見開く。巫女を連れてイクサビトの里に訪れたローゲルは、里にある墓地の中の二つの墓標の前で佇んでいた。その墓標こそが、アルフォズルと彼と共に出国したのであろう帝国兵士のものであったのだ。だから、ローゲルもイクサビトが見知らぬ異種族であっても己の一族の者と同じ様に手を尽くして介抱し、死を悼み、葬った後も墓前の花を絶やさないと知っている。それ以前にも、彼はホロウクイーンから里を襲撃され深い傷を負ったウロビト達、とりわけ子供達にはよく菓子を持参して見舞っていた。最初は警戒していたが徐々に打ち解け、家屋の修繕を手伝うローゲルに懐いた子供も少なくない。人間との違いなど何も無いという事は、重々分かっていた。
「っ?!」
 セラフィもかなりの力の持ち主であるが、ローゲルもその巨大な剣を片手で振り回す程度には腕力があるので、ぐんと片足に力を籠めて重心を移動させ、刀身を勢い良く押し出しセラフィの剣を弾いた。バランスを崩し二、三歩後ずさったセラフィは次の剣技に備えて構えたが、ローゲルは踏み込んで来ず、砲剣に何か細工したのか音を立てながら刀身の赤味が引いていった。排熱させたらしい。だが、まだ完全には熱が引いていない様だった。
「……セラフィさん、あんなに怒る人だったんですね」
「うん?」
「いえ、クロサイト先生と同じで冷静な人だと思っていたので」
「あれは激情家だぞ。特に、自分の大事な者に危害を及ぼされたら相手を殺しかねん。
 ペリ子君もそうだが、ローズ、お前もフィーにとっては大事な姪だから」
「……わたし、ですか」
「お前は皇子が犠牲にしようとしているウロビトだ、腹が立ったんだろうよ」
「………」
 激しい金属音を立てながらローゲルと剣を交えるセラフィを見ながら意外そうに呟いたギベオンに、それまで目線をずっと弟から離さなかったクロサイトは僅かに下を見てローズに語り掛けた。ローズもギベオンと同様、意外に思いながら両手に携えた剣で砲剣の巨大な刀身を受け止めたり、かわす際に剣が掠った箇所から飛び散った鮮血を物ともせずに斬り掛かる叔父をじっと見た。ギベオンだってウロビトやイクサビトを犠牲にすると言ったバルドゥールの発言は受け入れ難いものだと思ったが、セラフィがあんなに激昂する程の怒りを抱いたとは思っていなかったし、ローズはペリドットを傷付けられたからあんなに怒っているのだとばかり考えていたものだから、本当にセラフィの意外な一面を見た気分になっていた。
 ローゲルは剣の巨大さ故の風圧で、セラフィは速さ故の予測のつきにくさでお互いの体に傷を付ける事を許してしまっており、ローゲルは鎧を、セラフィは黒い上着をそれぞれ所々血で濡らしている。実力がある者同士がぶつかれば当然無傷で終わる訳はなく、お互い肩で息をし始めていた。石畳に点在する血はどちらのものか、もう判別もつかない。それでも二人は睨み合う事を止めなかった。南の聖堂でクロサイトが言った、男の意地だ。
「見事だ、想像以上に強い。さすがエトリアの英雄の愛弟子なだけはある」
「知るか。俺にとってあの二人は英雄じゃなくて単なる優しい養親だ」
「剣技も瞬発力も洞察力も判断力も申し分ない、熟練帝国騎士でも君相手では膝をつくだろう。
 ……だが、俺は負ける訳にはいかない!」
 自分達の師であった二人を調べたのだろう、口に溜まった血を床に吐いてかつての養親の事に言及したローゲルに、セラフィは彼らの過去など関係無いといった素振りで吐き捨てた。そんな彼に、ローゲルは再度砲剣から大きな駆動音を発しながら構える。ドライブを繰り出せる程に砲剣が冷却されたらしい。最初の一撃をかわせたセラフィもこの対峙の中で動きを把握されてしまったであろうし、何より切り傷の痛みが柔軟で俊敏な動きを阻んでいるので手練のローゲルの一撃を完全にかわせるかが怪しい。それでも、ギベオン達に手助けを求める気にはなれなかった。
「俺はバルドゥール殿下の騎士ローゲル! 命に替えてでも君を止めてみせる!」
 そしてぎゅっと石畳を踏み締め電流による火花が飛び散り始めた剣を握り締め、叫んだと同時に自分に向かって跳んだローゲルの剣を見極めようと下半身に重心をぐんと下げたセラフィは、突如この部屋を覆った不思議な感覚に一瞬だけ動きが鈍った。だがその感覚は自分に不利になるものではないと判断するや否やローゲルの剣を避けるのではなく、彼の懐に飛び込んだ。
「な………っ?!」
「お、おおぉぉっ!!」
 足首の柔らかさを活かしてローゲルの懐に潜り込む寸前、手に持っていた剣を投げ捨てたセラフィは瞬時にその手を握り拳に変えて、力の限りローゲルの頬を殴り付けた。避けきれなかった砲剣はセラフィの肩を電流で焼き、血が舞ったが、深手とはならず倒れずに済んだ。彼の拳を避けられなかったローゲルは吹き飛ばされ、石畳に強かに打ち付けられた。
「はあっ、はぁ、は……っ、」
「大丈夫か」
「……何とか、な……」
 大きく肩を上下させるセラフィにゆっくり近付いたクロサイトは、肩からの出血を止める為に首元の一点を指で押さえながら鞄からガーゼと縫合糸を取り出した。ギベオンは殴られた衝撃でローゲルが離してしまった砲剣を急いで回収し、一先ずは安堵の溜息を吐いた。
 部屋を覆ったのは、ローズが咄嗟に発動させた雷の聖印だった。まだそこまで強力なものは操れないが、それでも強烈な帯電をしている砲剣にセラフィが近付ける程には和らげてくれており、またひどい感電をせずに済んだ。電流によって焼かれた肌が痛んで眉を顰めたセラフィは、それでもローズに対して短い礼を言った。
「……止めは、刺さないのか」
 荒い息を吐きながらも起き上がったローゲルは立ち上がれない様で、座ったままセラフィを見上げて尋ねた。クロサイトが手負いのセラフィを手当てしているとは言え、鎚使いのギベオンや封縛や印術を操る事が出来るローズが側に居る以上、武器が手元に無いローゲルには勝ち目は無い。
「俺はお前を殴れたらそれで良い。それに、絶対に殺すなと言われている」
「君の奥方に、か……。だが俺は、命を代償にしてでも君達を止めねばならない」
「馬鹿かお前は。バル……皇子を一人にするつもりか?」
「!!」
 死と引き替えに自分達を進ませまいと痛みを堪えてなお立ち上がろうとしたローゲルに、セラフィはバルドゥールの名を思い出せなかったので単に皇子と言ったのだが、それでもローゲルにとってはセラフィの言葉は刺さった様で、目を見開いた。クロサイトは相変わらず黙々と手当てを続けており、弟を座らせてからジャケットを脱がせ、いつも所持している薄手のゴム手袋を嵌め傷口付近の服の布を鋏で切り取ると、消毒液を染み込ませたガーゼで患部を慎重に拭って傷の縫合をし始めた。何も言わなかったのは、言いたい事は全てセラフィが言ったからだ。
 そんな二人を呆然と見ているローゲルに、ギベオンは静かに歩み寄って膝をつくと、そっと手を差し伸べた。その大きな掌には、赤碧玉のペンダントが乗っていた。
「……これは……」
「モリオンという女性の帝国兵の方から預かりました。貴方に会えたなら渡して欲しいと」
「………」
「忠義を尽くして死んだ者の血は、地中で数年経つと赤碧玉になるという言い伝えがあります。ご存知ですよね」
 モリオンからローゲルに渡して欲しいと託された赤碧玉には、古くからの伝承がある。彼女から受け取った後、ギベオンも気になったので故郷から持ってきて部屋に置いてある図鑑で改めて赤碧玉の事を詳しく調べてみると、隅に小さくではあるが異国の地にはそういう伝承があると書かれており、帝国の外に出る事もままならなかったであろうモリオンがその石を持っていたならばきっとこの地に赤碧玉があり、ローゲルも伝承を知っているだろうと思った。
 ローゲルは、帝国騎士だ。同じ様に、モリオンもバルドゥールに仕える騎士だ。だが彼ら以外にも帝国に忠誠を誓った騎士は数多く居た筈で、ローゲルが戻るまでに巨人の呪いにかかって命を落とした者もきっと少なくない。モリオンは多分、その騎士達の血の結晶だとして今ギベオンがローゲルに渡した赤碧玉を身に着け、ローゲルの帰還を待っていたのだろう。十年という長い年月を、恐らくずっと一人で。
「殿下に何をした、と、彼女に仰ったそうですが、何もしていないと言っていました。何も出来なかった、貴方を失望させてしまったと」
「な……」
「本当は皇子を止めたいのだろう、でも皇子が一番つらい時に側に居られなかったから逆らえないのだろう、
 だからせめてお前達が止めてやってくれと言われました」
 バルドゥールの側に仕えていたモリオンも、ウロビトやイクサビトを犠牲にして帝国の民を救う事には疑問を感じていたし賛同出来ないと言っていた。南の聖堂で初めてバルドゥールの考えを聞いて驚愕の表情を浮かべたローゲル同様、モリオンもバルドゥールではなくアルフォズルの考えに賛同していたのだ。彼女だけではバルドゥールを止める事は出来なかったから、帰還したローゲルに諌めてもらいたかったに違いない。だが、ローゲルはバルドゥールに従ってしまった。従う他無かった。それでもモリオンは、一縷の望みをかけて赤碧玉を渡したかったのだ。皇帝アルフォズルの志を信じ、その夢が実現された大地を見る事無く死んでいった同志達の血の結晶を。
「……モリオンは、今どこに居るんだ?」
「タルシスです。上のフロアで機械仕掛けの監視者と犬型の魔物に襲われて怪我を負ったので」
「監視者と排除者に……? おかしいな、あいつらは帝国兵は襲わない様なプログラミングをされているのに」
「……でも、本当に襲われてましたよ?」
「余程の事が無い限り帝国兵を襲わない筈だが……」
 ペンダントを受け取り、言葉も無く暫しの間見詰めていたローゲルは、モリオンが監視者と排除者に襲われ負傷したと聞いて首を捻った。既に巨人の呪いに冒された帝国の技術士官しかこの木偶ノ文庫に残っていないとは言え、帝国兵士は襲わない様にしておかねば本末転倒であるからそういう仕組みにしているらしいが、何故モリオンが襲われたのかは謎だ。クロサイトも彼女に何故と聞いたが知らんとしか答えてくれなかったし、ローゲルも不可思議な顔をしたままだったけれども、それまで黙っていたローズが何かを思い付いたかの様に口を開いた。
「……あの、ひょっとして、とうさまとセラフィおじさまをたすけてくださったからじゃないですか?」
「助けた? モリオンが君達を?」
「ああ。重傷を負ったベオ君をローズと一緒にタルシスへ逃がしたんだが、私とフィーがあの魔物達に追い詰められた時に手助けしてくれてな」
「モリオンがどちらかを破壊した?」
「した」
「それだ。あいつらは破壊すると帝国兵であってもプログラミングを修正しない限りは敵と見做すからな。
 それを知らない訳じゃないだろうに、君達を助けたのか……そうか……」
 そうして導き出された答えに、今度はクロサイトとセラフィが押し黙る番だった。どういう仕組みになっているのかは分からないが、木偶ノ文庫を守るあの監視者と排除者は全ての個体が共通した記録を持つ様だ。モリオンが二人に加勢し、破壊してしまったから、彼女も侵入者だと認識されてしまったのだろう。クロサイトとセラフィをタルシスに送った後も木偶ノ文庫を拠点とするならば危険極まりないというのに、モリオンは二人を助け、そして襲われてしまった。ギベオンは改めて、彼女を助ける事が出来て良かったと心底思った。
「……モリオンは、俺の事を何と呼んでいた?」
「ローゲル卿、でしたけど」
「そうか……、……そうか……。俺こそ、あの子を失望させてしまった」
「………?」
「姪にあたるんだ。俺の兄の娘だ」
「姪?! ……あ、そういえば、僕と殆ど変わらない年の姪御さんがいらっしゃるって……」
 ローゲルの口から聞かされた驚愕の事実に、ギベオンは勿論、セラフィの縫合を終えて大判の三角巾を二枚取り出し、組み合わせて巻き付けていたクロサイトも驚いてしまい、手を止めてローゲルを見た。ウロビトの里に初めて訪れ、統治院に報告しに行く道中についてきたローゲルは、確かに国に姪が居ると言っていたし、ギベオンとほぼ変わらない年頃だとも言っていた。気の強い子だった、という言葉も、彼女と接すれば納得出来る。
「十四だ。俺と兄が陛下の供として出国した時、あの子はまだ十四歳だった。
 義姉は兄が戻らない事を悲観して入水自殺したと聞いたから、たった十四歳で一人になった。
 一人ぼっちでずっと俺達が戻るのを待っていただろうに、俺なんかより兄に戻って来て欲しかっただろうに、
 ……俺は何て事を言ったんだ……!」
 統治院に向かっていたあの時、兄は事故で死んだとローゲルは言っていた。その事故こそが、結界越えの墜落だ。兄というのはイクサビトの里にあったアルフォズルの墓とは違う、もう一つ存在した人間の墓の下に眠っている者だろうとセラフィは思ったが、黙っていた。その代わり、片手で頭を抱え項垂れ、激しく後悔している様子のローゲルに、ギベオンが静かに語り掛けた。
「……皇子が一番つらい時に側に居られなかったと、さっき仰いましたね。
 同じ様に、彼女が一番つらい時に貴方は彼女の側に居られなかった。そうですね?」
「ああ、ああ、その通りだ、ずっとつらい思いをさせたのに責めてしまった」
「だったら、労ってやってくれませんか。謝罪ではなく賛辞でもなく、労ってやってください」
「………」
「一言だけで良いんです。一人でよくがんばったなって、どうか労ってやってください。
 彼女にとって、貴方は尊敬する騎士……いえ、叔父なんですから」
 ギベオンには、何となくであるがモリオンがローゲルに褒めて欲しい訳でも謝って欲しい訳でもないのではないかと思えた。否、褒めたり謝罪されたりしたら、また自分を責めてしまうのではないかと思われたのだ。バルドゥールを止められなかった、ローゲルを失望させてしまったという自責の念に囚われている彼女には、謝罪も賛辞も届くまい。だが、労いなら受け止められる筈だ。ギベオンも以前はそうであったから、何となく分かる。
「……あの子は、俺をまた叔父上と呼んでくれるだろうか」
「呼びますよ。きっと」
「そうか……。……その為にも、殿下をお止めしないとな」
 掌に置いた赤碧玉のペンダントを見ながら呟いたローゲルに、ギベオンはしっかりと頷く。そんな彼を見て、ローゲルは決意した様に首にペンダントを着け、痛みを押し遣りながらゆっくりと立ち上がった。セラフィから殴られた頬は赤く腫れていたが、どこか吹っ切れた様な表情をしており、モリオンからの依頼を果たせた事と彼を説得出来た事にギベオンは胸を撫で下ろしていた。



 セラフィが肩に負傷した事を受け、ギベオン達は一旦タルシスへと戻った。負傷したローゲルもクロサイトが手当てしたとは言え十分とは言えず、連れ帰りたいところではあったのだが、タルシスに混乱を招いてしまうと言って彼が辞退した。君達が戻ってくるまで無理はしないさと言ったローゲルはギベオンに金色の首飾りを差し出し、モリオンに渡して欲しいと頼んだ。彼がイクサビトの里の墓地で墓標を眺めながら指先で弄っていた首飾りだった。陛下達とはぐれる寸前に兄から投げ渡された、だからこれはモリオンが持っておくべきものだとローゲルは言った。
タルシスに戻り、モリオンにはローゲルと会えた事、彼の説得に成功した事を告げてから、ギベオンは預かった首飾りを彼女に渡した。その首飾りは肖像画を入れられるもので、蓋を開けたモリオンが息を飲んだ後にぐっと涙を堪えたのを見て、鈍感の自覚があるギベオンもさすがに察した。恐らくモリオンの父が、妻と娘の肖像画を入れていたのだろう。
「……お前達が木偶ノ文庫に行っている時に、ペリドットと話をしていてな。イクサビトの里に、人間の墓があると聞いた。
 セラフィ殿があれはアルフォズル陛下の墓だろうと言っていたと」
「うん、そうみたいだね」
「……その隣に、眼鏡を供えてあった墓があったとペリドットが言っていた」
「あった……様な気がする。うん、あった」
「私の父の墓だ」
「え」
「陛下にお供した騎士の中で眼鏡をかけていたのは私の父だけだ。……最期まで陛下のお側でお守りされたのだな」
「………」
 イクサビトの里の墓地でローゲルが見詰めていた墓はアルフォズルのものだと思い込んでいたギベオンは間抜けな声を上げてしまったが、言われてみればその墓には眼鏡が供えられていた様な気がする。もう少しきちんとお参りしておけば良かった……、とギベオンは反省し、次に行く機会があればきちんと手を合わせようと思った。あの墓地にはエレクトラ達の墓もあるから、ローズも連れて行ける。
 クロサイト達が不在の間モリオンの世話をしていたペリドットは、ローゲルが眺めていた墓に眼鏡が供えられていた事に気が付いていたので、皆が戻ってくるまでモリオンと話をぽつぽつとする中でイクサビトの里には人間の墓がある事、恐らくその墓は帝国皇帝アルフォズルとその供のものである事を伝えていた。遺品なんだろうね、眼鏡がお供えされててね、とペリドットから聞いたモリオンは、その墓が自分の父のものであると確信したし、父は皇帝に殉じたと知った。そして今、叔父が父の形見をずっと大切に持っていてくれた事を知った。丁寧に磨かれ、錆びる事も無く、傷などほぼ無い状態のそれは、ローゲルが手入れを欠かさなかった何よりの証拠だ。
 そして、ローゲルが兄でありモリオンの父であった男をずっと偲んでいたもう一つの証拠があった。
「ローゲル卿……いや、叔父上は、お前達にワールウィンドと名乗っていたのだったな?」
「あ、うん」
「父のミドルネームになる。私の家は家督を継ぐ者だけに与えられるものだが……叔父上は父上と共に生きていてくれたのだな」
「………」
 ローゲルの名を南の聖堂で再会するまではワールウィンドだと思っていたギベオンは、彼の本名を知ってもそれまで名乗っていたその名が何の意味を持つのかなど考えた事が無かった。だが今、モリオンから聞かされた事実に、胸が締め付けられる様な錯覚に見舞われた。ローゲルはただ一人、結界越えで生き延びた騎士だ。仕えるべき皇帝も、血を分けた兄も、その時喪ってしまった。知らぬ土地で素性を隠し、死んだ仲間と皇帝の遺志を継ぐ為に過ごした日々は、彼の心をどれだけ蝕んだだろうか。ギベオンには、見当もつかなかった。
「……モリオンの父さん、何て名前だったか聞いて良い?」
「……クリス」
「クリスさん。今度イクサビトさん達に墓標に名前入れてもらえるか聞いてみるね」
「……ああ」
 皇帝アルフォズルの墓にも、クリスの墓にも、名は刻まれていなかった。彼らが名乗らなかったのか、名乗る暇も無く亡くなったのか、それは分からない。だが名が判明した今、その下に眠る者の名を刻印しても良いだろう。そんな事を思ったギベオンは、イクサビトの里に行くという約束は今の状況を考えると出来ないが、タルシスを行き来する様になったイクサビトの誰かにキバガミへ言付けてもらおうと思った。
 名を忘れない様にしなくちゃ、と反芻したギベオンは、そこではたと気が付いた事がある。モリオンは、父の名をクリスと言っていた。それは、つまり。
「父さんが水晶だから、娘の名前を黒水晶にした、とか?」
「……だと聞いているがな」
「へえー……素敵だね」
 クリスという名は恐らくクリスタルが元となっており、だから娘にモリオンという名を付けたと推測された。父と娘でペアの様な名になるなんて粋な名付け方をしたんだなあなどとギベオンが思っていると、モリオンは訝しむ様な表情で言った。
「クロサイト殿とローズも似たようなものだろう。二人の名前を合わせたら一つの鉱石の名前になる」
「……あ、そっか。そうだね」
 彼女に言われてギベオンは漸く気が付いたのだが、クロサイトの名前にローズ、薔薇を冠すれば、ロードクロサイトになる。ローズに名を付けた人物をギベオンは知らないが、ウロビトの里でクロサイトに黙って産んだガーネットがせめて名だけでも父親と側に居られる様にと付けたのかもしれない。そう考えると、モリオンも今は亡きクリスと共にあると言っても良いだろう。モリオンもローズも親に愛されている娘であると分かり、ギベオンは幸福のお裾分けをしてもらった様に思った反面、自分が親から愛されなかった故に醜い悋気を僅かに抱いてしまい、そんな自分に嫌悪を感じて無理矢理話をそこで終わらせ、部屋から辞した。しかし、辞した後に女性の部屋に自主的に訪れて居座ったのだと気が付き、自己嫌悪で落ち込むよりもにわかに羞恥心が襲ってきて、誰も居ない廊下で赤くなりながら急いで自室へと駆け戻った。



※「忠義を尽くして死んだ者の血は地中で数年経つと赤碧玉になる」
 …『荘子』外物篇の記述「萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして化して碧と為る」
  (忠義を貫いて死んだ者の流した血は三年経てば地中で碧玉と化すという伝説)より。