ローズの大地の気を分けてもらうというウロビトの能力はこれまでギベオン達に多大な恩恵を与えてきたが、今回も例外ではなく、ローゲルとの戦いで負ったセラフィの傷は彼女とタルシスの街を散歩している内に随分と良くなった。魔法みたいだなとセラフィは感心するが、ローズに言わせれば本人の自然治癒力を高めているに過ぎず、治りが早いギベオンやセラフィは元から怪我に強い体を持っているのだという。わたしはおてつだいしているだけです、とはにかみながら手を繋ぐローズを見て、姪があの病に罹患して欲しくはないと思うし、それを阻止するには自分の力など微々たるものかもしれないが出来うる限りの事はしたいとセラフィはぼんやりと思った。クロサイトがローズに言った様に、セラフィにとってローズは大事な姪だ。生まれた事を黙っていた負い目もある。
 ローゲルを長く待たせる訳にもいかないし、彼の傷の手当てももう少ししたいとの事で、ギベオン達はセラフィがローゲルと戦った翌日の昼過ぎには再度木偶ノ文庫に足を運んだ。ローゲルは地下三階の、彼と戦った場所で待機しており、頬の腫れは随分と引いていたものの、まだ青痣はくっきりと残っていた。どれだけの力でセラフィが彼を殴ったのかがその痣で分かるが、骨折しない程度に抑えたのだろうなという事はギベオンにも分かった。
「初めて君に手当てしてもらったのも顔の青痣だったな」
「そう言えばそうだな。
 フィーが私を呼んだのを聞いて、白衣着てるのにクロなの? などと聞いてきたのだったな」
「や、もうそれ忘れてくれよ……頼むから……」
 湿布薬を頬に貼っているとローゲルから思い出した様に言われ、クロサイトが普段通りの声音で当時の事を言うと、ローゲルは昔の失言に言及されて恥ずかしいやら気まずいやらで俯きたかったのだが、まだガーゼを完全に貼り止められていないクロサイトから動くなと言われてはどうする事も出来なかった。冗談でも洒落でもなく、本当に素で聞いてしまったので、余計に恥ずかしい。ローゲルがまだタルシスに来て間もない頃であったし、クロサイトもまだバーブチカの庇護の元で医者の見習いをしており、鬚も生やしてなかった。言い出したのは自分であるが、それを蒸し返されるとつらいものがあると、ローゲルは頬の痛みに由来するのではない苦い表情を見せた。
 そして細々した傷の手当てを終わらせたクロサイトは立ち上がりながらローズを手招きし、ローゲルに対して大真面目に言った。
「君に特別にローズと手を繋いで歩く許可を与えよう、有難く思いたまえ」
「何で君からそんな威張って言われるんだ……」
 手を繋いだ方が傷の治りが早いからと、ローゲルと合流する前にローズ自らクロサイトに申し出ており、身内以外の男と手を繋がせる事は父親としては内心かなり複雑ではあったが、クロサイトは最終的にローズの傷付いた者を治したいという意思を尊重した。ギベオンやセラフィ達だけでなく、アルビレオなどの冒険者達の傷の手当てをしてきた父の背を見てきたローズは、自分にその力があるならと幼いなりに考えている。クロサイトの癒し手としての志は、確実に娘に受け継がれている様であった。
「その……良いのか? 俺は、君の一族を犠牲にする殿下の意思に一度は下ってしまったが」
「でも、ほんとうはおうじさまをおとめしたいんですよね?」
「そりゃあ、まあ」
「だったら、おけがをはやくなおして、おとめしにいかないと。それに、わたしまだおれいをしてないです」
「お礼?」
 ローゲルが気まずそうに、それでもローズが差し出した小さな手をぎこちなく繋ぎながら尋ねると、ローズは自分のものよりうんと大きく武骨な手を握り返す。責められる覚えはあれど礼を言われる様な覚えは無いローゲルが首を捻り、そんな彼を見上げたローズはえへへ、と笑った。
「みこさまがホロウクイーンにさらわれたとき、わたしたちにおかしをつくってくださったじゃないですか。
 はくとうキャロットのケーキとか、ベビーキャロットのクッキーとか」
「………」
「おいしいものをつくるひとにわるいひとはいないって、セラフィおじさまがおっしゃってました。
 だから、おけがをなおすおてつだいがしたいです」
 イクサビトの里を初めて訪れた際、鮭の汁物を勧められあっという間に平らげたセラフィは、確かにその様な事を言った。ホロウクイーンに襲われたウロビトの里をローゲルが何度か見舞った際、無事であった民家の厨房を拝借して持参したベビーキャロットや白糖キャロットを使って子供達の為に菓子を作って振る舞っており、ローズも食べさせてもらっている。だから、ローゲルが美味いものを作れるという事を知っているのだ。ローゲルとしては材料を混ぜて焼いただけとしか思っていないのだが、一度ペリドットに手伝ってもらってケーキを焼いた事があるローズにしてみれば、綺麗に焼けたケーキを作ってくれたローゲルは美味いものを作る人間であり、それはつまりセラフィが言った「悪い奴は居ない」に通じる。自分が言った言葉を訂正する訳にもいかないセラフィは、複雑そうな顔をしている兄に何となくすまなく思ってしまった。
「俺の家は代々王家に仕える家柄というのは、以前話したね。
 俺と兄が陛下と共に出国する前、三十年近く前にも一度、陛下は巨人の心や心臓、冠を探す命を出されているんだが、
 その時に派遣されたのが俺の叔父だ」
「叔父?」
「ああ。俺の父はあまり体が丈夫な方ではなかったから、叔父にお鉢が回ったんだ」
 ローゲルが知っている抜け道を案内してもらいつつ、タルシスに居るモリオンの怪我の具合を報告すると、彼はぽつぽつと身内の話をし始めた。どうやら一階で兵士に聞いた二十年以上前に派遣された帝国兵の内の一人がローゲルの叔父であったらしい。
「……あの、その時派遣された人達の事なんですけど……、その内の一人が、深霧ノ幽谷でウロビトの女性と結ばれているんです」
「……えっ?」
「ウーファンさんにも確認をとって貰いました、その砲剣をお持ちだったそうです。
 その方とウロビトの女性の間に生まれたのが、ガーネットさんです」
 砲剣を指しながら言ったギベオンの言葉に、ローゲルは絶句する。クロサイト達も知った時は驚いたのだから無理はないだろう。だが、ローゲルが驚いたのはそれだけではなかった。
「て事は……、おい、おいおい、ひょっとしなくても孔雀亭の女主人の父親、俺の叔父かも知れないぞ」
「は……?」
「ウロビトはこのお嬢さんみたいに皆肌が白いだろう? でも女主人は褐色肌だな?
 て事は、女主人の父親が褐色肌だったって事になるな?」
「……その可能性はある、が……まさか、君の叔父君は」
「そうだ、褐色肌だった。叔父は俺の父と腹違いでな、兄や俺とは肌色が違った」
 短い思案の後に発せられたローゲルの言葉は、その場の全員の目を見開かせる程の力があった。特にクロサイトは瞬きも忘れてローゲルを凝視している。無理も無いだろう、そうなるとローゲルとガーネットは、つまり。
「……君とガーネット君は、いとこになるのか」
「……そうなる、かな」
 娘が居るとは言え結婚はしていないので、ガーネットに関して何か言える立場ではないにしても、クロサイトとしてはその事実が何となく面白くない。否、いとこなら別に何も警戒する必要など全く無いのだけれども、ついじっとりと睨んでしまった。そんなクロサイトに、睨まれても困ると言わんばかりにローゲルは眉間に皺を寄せる。普段なら父親の不機嫌さには敏感なローズは、しかし今日は気が付かずに首を傾げた。
「かあさまのいとこは、ウーファンさまじゃないんですか?」
「ええと……ガーネット君の父君と、ワール君の父君が兄弟だから、父方のいとこだ。
 ウーファン君は、ガーネット君のご母堂とウーファン君のご母堂が姉妹だから、母方のいとこだね」
「………?」
「ローズにはまだちょっと難しいかな。帰ったら図に書いて説明してあげよう」
「はい」
 ローゲルを睨んでいた顔をころりと変え、ローゲルを以前と変わらずワール君と呼びローズに説明したクロサイトは、頭の上に疑問符を浮かべている娘に苦笑して頭を優しく撫でる。ローズはまだ八歳だ、この説明では理解出来ず難しいだろう。そして、黙って聞いていたギベオンもローズと同じ様な表情をしているので、彼も理解出来ていないと判断し、ならば図で説明してやった方が早いと思った。帰ったら、などと気安く約束など出来はしないのだが、それでもクロサイトはそう言わずにはいられなかった。彼は、生きては戻れないかもしれないという覚悟の元に毎回探索に出ている。勿論生きて帰るつもりであるけれども、危険な探索である以上は誰だって生還は確約出来ない。何せ、今から皇子を止めに行くのだ。そう簡単に帰れるとは思えなかった。
「ローゲル卿……?」
 二つ目の抜け道を潜った先で不意に呼び止められ、ローゲルは咄嗟に手を繋いでいたローズをさっと自分の背後に隠す。同時にギベオンやセラフィにも緊張が走ったが、声の主の方を見遣ると、一階で見た様な兵士が一人、そこに佇んでいた。彼の腕からは蔦が伸び、絡まりついていた。
「その者達は、帝国の者……では、ありませんね」
「……ああ。やはり俺は、殿下のお考えに同意は出来ない」
「そうですか……殿下を止める為、立ち上がられたのですね。良かった……」
 兵士はギベオン達を見て僅かに目を細め、ローゲルの返答にほっとした様な表情を見せた。どうやらこの兵士も、バルドゥールの意向には添えないらしい。自分達と行動を共にしている事でローゲルが責められるのではないかと懸念していたギベオンは、胸を撫で下ろすと同時に兵士の憂いの表情に対して疑問を抱いたが、彼が続けた言葉がその疑問を解消してくれた。
「正直、貴方が羨ましい」
「羨ましい?」
「これまで殿下に導かれてきた私達には、殿下を止める事が出来なかった。
 ……怖かったのです。あの方を止める事は、私達がしてきた事を否定する事でもあったのですから」
「………」
「しかし、誰かを犠牲にした救済などあってはなりません……どうか殿下を、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げたその兵士の声は、僅かに震えていた。アルフォズルがローゲル達と共に行方知れずになってからというもの、これから先どうなってしまうのかという不安や恐怖が帝国内に広がり浸透していったが、それを払拭させる為にバルドゥールが率先して改革を行っていった。強引とも言える事もやったバルドゥールだが、皇帝が居なくなり幼い皇子しか居ない事を好機と捉えて政治を掌握し汚職にまみれた文官達を、機は熟したとばかりに粛清した彼を誰も止める事は出来なかった。国民から見ても、改革を行った皇子は正しく見えたからだ。
 ただ、それでもバルドゥールは皇帝を名乗らず、飽くまで皇子であり続けた。皇帝アルフォズルと、付き従った者達の帰還を信じていたからだ。そんなバルドゥールを裏で馬鹿にする者達も居たが、アルフォズルは戻らなかったけれどもローゲルは巨人の心と心臓、冠を手に戻って来た訳なので、誰一人としてバルドゥールに逆らえなくなった。今この兵士が言った様に、それまでやってきた事を否定する事になるからだ。誰だって己の非を認めて受け入れる事は怖いし勇気が要る。
 確かに時間の猶予は無いが、しかし何故殿下はそんなに急くのか、とローゲルが訝しんでいると、顔を上げた兵士はそう言えば、と言葉を続けた。
「モリオンには会われましたか。あの娘も、随分苦労した子ですが」
「……いや……、まだ、ゆっくりとは話せてなくて」
「そうですか……。
 貴方やクリス卿が戻られなかった事を受けて、他家の文官どもから随分と酷い仕打ちを受けたと聞いています。
 殿下の側女になってからはその様な事は無くなったそうですが」
「……そ、側女?」
 難しい顔をして黙っていたローゲルであったが、兵士からモリオンの事に言及され気まずくなったものの、出てきた側女という言葉に耳を疑った。否、身の回りの世話をする女も指す単語であるから何ら不思議な事でもないのだが、兵士がローゲルの後ろに居るローズの姿をちらと見て僅かに表情を曇らせたので踏み込んだ意味での側女、であるのだろう。幼いが故にその言葉の意味が分からぬローズはきょとんとし、クロサイトは無言で娘の耳に手をあてた。この子にそういう事は聞かせないでくれ、という意思表示だった。
 彼のその意図を汲み取ったらしい兵士は軽く会釈すると口を噤み、つらそうに壁に凭れ掛かった。巨人の呪いに蝕まれた体は、ギベオン達が思うよりもうんと弱るものであるらしい。
「殿下はこの先にいらっしゃいます……どうか我らの無能さをお許しください」
「いや……、君達もよく殿下に仕えてくれた。俺こそ、帰還が遅くなってすまなかったね。
 殿下はお止めしてみせる。きっとだ」
「はい……よろしくお願い致します」
 しっかりと頷いたローゲルを見て、兵士は安堵した様に微かに笑む。この人も早く助けてあげられたら良いな、とギベオンは思ったし、またローゲルを早くモリオンに会わせてやりたいとも思った。
 ギベオンとて、側女の意味を知らぬ程無知ではない。それを彼女が望んだのか否かはこの際問題ではなく、他にも侍らせる女は相当数居たであろうバルドゥールがわざわざモリオンを側女に指名しなければならなかった程、彼女の境遇が悪いものであったに違いない。そう考えると、誤解が解けた身内を早く会わせてやりたいと思うのだ。タルシスの診療所に連れ帰って養生させているモリオンは、手当てをされたり傷の経過を診てもらったりすると礼こそ言うものの、あまりギベオン達に馴れ合おうとはしない。帝国兵であれば敵対するのだから当然かとも思えるのだが、それとはまた別の理由がありそうだとギベオンは思っていて、今の話を聞く限りではタルシスから来た者だから馴れ合わないのではなく、他人を信用する事が出来ないのだろうと推測出来た。
 いくら家柄が良いとは言え両親の庇護も無い少女が、ずる賢い大人も多い宮廷内を渡っていくには厳しかったのではないか。そして、そんなモリオンの姿を見てバルドゥールは彼女を側女にしたに違いなかった。これ程までに兵士含めた国民に支持される皇子なのだ、世界樹の発動こそ容認出来ないがその件を除けば国を、国民を守ろうとする情熱は感じ取れるのだから、古くから王家に仕える家柄の、天涯孤独となった娘を守ろうとしたのだろう。ローゲルだけではなく、クロサイト達もそう思った。
 兵士に別れを告げ、先を急ぐ道中、ローゲルは言葉少なになっていった。モリオンの事もあるし、皇子の事もある。どうやって説得したものか考えているのだろうなと、ギベオンは邪悪な花びらから受けた花粉で混乱しかけた時にクロサイトから飛んできた平手で赤く腫れた頬を擦りながら考えていた。深霧ノ幽谷でも花粉によって眠ってしまいそうになった時に平手を食らった事を思い出したのは何もギベオンだけではなく、その光景を見ていたセラフィが慰めるかの様に逞しくなったギベオンの肩を軽くぽんぽんと叩いた。ローゲルがもう大丈夫だと言うので手を離したローズは全員が黙っているので何か言う事も出来ず、代わりに手を繋いだクロサイトをちらと見る。見上げた父の表情も心なし険しく、彼も緊張しているのだと手汗で分かった。
「この先の広間だが」
 シロショウジョウの鋭い爪やブルーワラビーの重たい拳を何とかいなしながら進んだ先の扉の前で、ローゲルはすぐに開けずに立ち止まってギベオン達を振り返った。ギベオンにおおよその位置を教えてもらいながら地図を書いていたクロサイトも羊皮紙に扉を書き込んでから手を止める。
「恐らく殿下がいらっしゃる広間に続く扉の前に、排除者が配置されている。
 監視者が警報を鳴らさないと動かないから、わざと見付からないといけない」
「無駄な体力消耗を避ける為にも戦わない方が良いだろうな」
「ああ。だから、排除者に追い付かれる前に広間に駆け込む必要がある。お嬢さんは誰かが抱えて走った方が良さそうだ」
「俺が扉を開ける、クロが抱えて走り込め」
「じゃあ僕が注意を引き付けます」
「そうしよう。頼んだよ」
 ローゲルに扉の向こうの構造を大まかに教えて貰い、各々の役目と手順を割り振った後に大人達は頷き合って準備が整った事を確認してから、クロサイトがローズを抱き上げた。幼いが故に皆の様に速く走れず、申し訳なさそうな顔をしたローズに小さく笑んだクロサイトは、娘の寄ってしまった眉間に軽く口付け、柔らかな背を優しく撫でる。それを見て仲の良さが微笑ましいやら羨むものやらで苦笑したローゲルは、思い切り良く扉を開けた。
 クロサイトとセラフィがモリオンに助けられた時に分かった事だが、監視者はその個体の視界に入らなければ他の監視者の警報が鳴ったとしてもこちらに向かってくる事は無い。手前の一体に見付かり、広間の扉を守る様に配置されている排除者をわざと動かすにはどう動けば良いのかをぼそぼそと話し合い、慎重に進んだ。そして三つの扉の前で止まり、再度全員で顔を見合わせ頷き合うと、タイミングを見計らって向かって右端の扉をローゲルが開けた。扉を開けてすぐに監視者に見付かる様に合わせたのは、自国の兵器をよく知る彼ならではだっただろう。果たして彼らは、鳴り響く警報音に呼応して排除者が起動し、駆け出した音を聞いた。
「あいつらは扉を開けられないから遠回りしてくる筈だ。一番向こうの扉に走れ!」
「はいっ! クロサイト先生、僕が殿になりますから先に!」
「有難う!」
 普段はセラフィと肩を並べ先頭を歩くギベオンが、体を翻してクロサイトに先に行く様に促す。三つある扉の内、ローゲルが真ん中を指定しなかったのは、早くに扉を潜れば地形の都合で排除者と遭遇してしまう為だ。だから一番奥の扉をセラフィが開け、ローズを抱えたままクロサイトやローゲルが足早に潜り、迫ってくる排除者をぎりぎりまで引き付けてからギベオンが扉を閉めた。
「上手くいったな。さあ、本番はここからだ。殿下はこの奥にいらっしゃる」
「君は最後に入ってきたまえ。
 まだ巫女殿がどういう状態であるか分からぬ内に君が私達と行動を共にしていると知られると、
 どういう行動に出られるか分からないからな」
「そうだな……。よし、行こう」
「開けます!」
 排除者の足音が一旦遠ざかったのを確認したが、ぐずぐずしていれば遠回りしてでも追い付いてくるだろう。その前に決意を固めたローゲルがローズを下ろしながら言ったクロサイトの言葉に頷いたのを見て、ギベオンが扉を開けた。下半身が緊張でぶるりと震え、全身に微弱な電流が走ったのを感じた。
 扉の先は、風馳ノ草原の上空を我が物顔で飛ぶ竜が巣を作れそうな程の大広間があった。無機質な空間は冷たく、人の営みの温もりは一切無い様に感じられる。その広間の中央付近に、ぐったりとした巫女が皇子に支えられて立っていた。その周囲には小さな光が集まり、ゆっくりと明滅している。深霧ノ幽谷で見た、あの小さな光だった。
「シウアンさま!」
 普段とは違い、明らかに異変が見受けられる巫女の姿に、思わずローズが駆け出したのだが、巫女の側にバルドゥールが居る事もあり、咄嗟にクロサイトがローズの肩を掴んで制止した。ウロビトやイクサビトを犠牲にする事もやむなしと考えているバルドゥールだ、下手に寄ればローズでさえ傷付けられかねないと判断しての事だったが、結果的にクロサイトは巫女よりもローズの安全を優先した事になる。誰もそれを咎める事など出来ないが、そうと気が付いた瞬間にクロサイトは苦い顔になった。
 ただ、クロサイトがその表情になった直後、バルドゥール達とギベオン達の間に、どうやって納まっていたのか天井から巨大な石像が落ちてきた。ローズがそのまま駆け寄っていればひとたまりもなかっただろう。止めていて正解だったとクロサイトも思ったし、言葉にはしなかったがギベオン達も同様の事を考えた。人の形を模していると言っても良い巨大な石像の股の向こうに見えるバルドゥールは巫女の体を支えたままちらとギベオン達を見ると、確固たる意思の籠った声で言った。
「無駄だ。帝国の民の希望を背負う余が、貴公ら一介の冒険者に止められる道理があるまい」
「民の中にそれを望まぬ人が居てもですか!」
「余より他国の貴公の方が我が帝国の民の事が分かるとでも言うつもりか?」
 ローゲルやモリオン、そして先程会った帝国兵の様に、ウロビトやイクサビトの犠牲を払ってまで世界樹を発動させる事に疑問を抱いている者が居るという事実をギベオンが叫んだが、バルドゥールは冷ややかな声で反論した。確かにギベオン達はほんの僅かな者しか接触を持っておらず、彼らの意見が帝国民の総意とは言い難い。言葉に詰まってしまったギベオンが再度口を利ける様になる前に、バルドゥールは続けた。
「あの神木は高尚な目的の為に作られた。
 汚された大地を浄化する、ただその為に作られた神木……それが世界樹だ。
 ウロビトもイクサビトも世界樹を育て、守る為に作られた。
 ならば世界樹を目的の為に使い、そのためにあの者らを犠牲にすることを何故躊躇う?」
「先も言った、私の娘がウロビトだからだ。そして貴殿の父を手厚く葬ったのがイクサビトだからだ」
「……目の前の情に流されては何も救えぬ」
 アルフォズルが異郷の地で命を落とし、イクサビトがその亡骸を葬った事は予めローゲルから聞いていたのか、バルドゥールはクロサイトの言葉に驚く訳でもなく目を僅かに細めただけだった。そして、今また目の前にまだ幼いローズが現れ、当人を目の当たりにした事で微かな躊躇いが生まれつつある事を、僅かに挟んだ沈黙が知らせてくれている。少なくとも、クロサイトにはそう感じ取れた。暴君と評されようとも、また悪名を轟かせようとも、自国の民を守る為なら厭わないという覚悟がその瞳の中には見られた。
「同様の問題は数十年の内にタルシスにまで及ぼう。多かれ少なかれ、大地は汚れているからだ。
 その時、辺境伯に何が出来ようか」
「世界樹に頼らない大地の浄化の方法を解明する事は出来るかも知れません。
 この世に散らばる叡智を集める事は容易くないかも知れませんが、不可能ではない筈です。
 僕達の世代が出来なくても、きっと次の世代が受け継いでいきます。
 僕達人間はそうやって適応して、厳しい条件の下でも営みを続けてきました。
 帝国だけの問題ではないなら、僕達も共に考える事が出来ます」
「それ程までに猶予が残されていると思っているのか? 生ぬるくて甘い考えは捨てるのだな。
 そう遠くない未来にその間違いに気が付き後悔する事になるぞ!」
 バルドゥールに毅然とした態度で意見を述べたギベオンには、もう以前の様な弱さや迷いは無い。自分の意思を持ち、恐れを勇気に変え、地に足をつけて一国の宗主に堂々とものを言える様にまでなっていた。その姿に、クロサイトもセラフィもそんな場合ではないとは思いつつも感心していた。
 勿論、ギベオンだって自分が言っている事がいかに甘い考えであるかは重々承知だ。バルドゥールが計画の実行を急いでいる事実を鑑みれば、世界樹の先に広がる大地は本当に悲惨な事になっているのだろう。殆ど見る事が出来ていないギベオンには分からないが、彼の故郷は何故こんな土地に定住しようと思ったのかと他国の者が首を捻る様な銀嵐ノ霊峰によく似た冷たい氷に閉ざされた国であり、金剛獣ノ岩窟の様な暖かな地域など皆無だ。その様な厳しい土地にも人間は適応し、日常を過ごしている。それは人々が試行錯誤し、様々な所から持ち寄った知恵の結果だ。帝国の民に荒廃した大地に適応して住めと言っている訳ではなく、どうすれば問題を解決する事が出来るのか、国内だけの問題とせず門戸を開けば良いのではないかとギベオンは思う。幸いこちらにはタルシスの外交官が居るから、よその国への呼び掛けも恐らく可能だ。アルフォズルが行方知れずとなってバルドゥールが帰還を待ち続けた十年の間、果たして世界樹の力を発動させる以外の方法を考えた者は居たのだろうかという疑問もあり、夢物語ではないのではないかとギベオンは思う。
 そんな疑問をギベオンが問い掛けようとした時、それまで辛そうに息をしていた巫女が苦しそうに目を開いてバルドゥールを見上げた。
「あなたこそ大間違いよ。みんな生きてるんだよ? どうしてそんな酷いことが言えるの?
 昔の帝国の人は、世界を少しでも良くしたくて一緒にがんばってくれる友達を作ったの。
 それがウロビトとイクサビトなの。ウロビトもイクサビトも、死ぬために作られたんじゃない。
 世界樹だってそんなこと言ってない。世界樹は嫌がってる、今のまま静かに眠らせてあげて……!」
 体に異変が起こっているのか、巫女は本当に苦しそうに言葉を紡ぎ出した。世界樹の声を聞く事が出来る唯一の者である彼女の、世界樹は嫌がっているという言葉はこの場の誰のものよりも説得力を帯びている。ウロビトやイクサビトがどういう目的で作られ、そして何故それぞれが巨人の心臓や心を持ち別の大地で暮らしていたのかをバルドゥールも分かっているのか、悲しそうな表情を巫女に向けた。容易に世界樹の力を発動させない為であり、また発動させてはならないと、恐らく彼も分かっているのだ。
「巫女の言う通りです、殿下」
 それまでギベオンやセラフィの後ろで黙っていたローゲルが進み出て、静かに語り掛けた。説得を試みようとする彼を見て、初めてバルドゥールは表情を凍らせる。無理もないだろう、自分の騎士である筈のローゲルが、タルシスから来た者達と共に居るのだ。目を見開いたバルドゥールを、ローゲルは僅かに表情を曇らせたもののまっすぐに見据えた。
「殿下、恐れながら申し上げます……計画には見直しが必要です。このような犠牲があってはなりません。
 お忘れですか? 誰も傷付けない……それがこの計画の為、命を落とした騎士と陛下の願いであった筈!」
 バルドゥールが強攻策に出ようとしている以上、アルフォズルの遺志をバルドゥールに伝え、説得出来るのはローゲルしか居ない。彼にもその自覚はあり、魂を削って乗せた一言一句はバルドゥールにどう響いたか、ギベオンには分からなかった。ただ彼は、立ち尽くして目を見開き、ローゲルを凝視している。
 十年前の結界越えでバルドゥールは父であるアルフォズルを亡くし、ローゲルは兄であるクリスを亡くした。ローゲルが帰還を果たした際、肉親を亡くした者同士でどういう会話が交わされたのか、彼ら以外に知る者はここには居ない。それでもバルドゥールが余の騎士と呼び、また自身もバルドゥール殿下の騎士と名乗る程のローゲルはバルドゥールから全幅の信頼を寄せられていると分かるし、バルドゥールがずっとローゲル達の帰還を待ち望んでいたと他の帝国兵も言っていたので心の拠り所としているだろうから、ひょっとするとバルドゥールはローゲルを肉親と見る様な思いで居るのかも知れない。そんなローゲルからの説得に、バルドゥールは顔を青くして口を戦慄かせ、そして叫んだ。
「ローゲル……お前も! お前も僕から離れていくのか!」
「違います! 俺は、」
「いいさ、十年前から僕は一人だったんだ。誰も居なかったんだ!
 今更お前が居なくても! お前無しでも、僕はやり遂げる! 見ているが良い!」
「殿下……!」
「僕が! お父様に代わって皆を守るんだ!」
 その叫びは帝国皇子のものというよりも子供の悲痛なそれに聞こえて、クロサイトの眉間は自然と寄った。例えばローズを残して自分が死んだとしても、まだ彼女には守ってくれる者達が居る。だが、バルドゥールには居なかった。否、居たけれども彼はその者に――モリオンに頼ろうとしなかったのだろう。同じ年頃の子供であったモリオンはバルドゥールにとっては守らなければならない者だったから、頼れなかった筈だ。自分を守る者も理解してくれる者も居らず、ずっと父達の帰還を待ち続けたバルドゥールは、漸く戻ってきてくれたローゲルからも見放された様に思えたのかもしれない。
 突如として帝国代表の威厳を取り払い、幼い叫びを上げたバルドゥールに驚き、巫女は手を差し出そうとした。だが、その小さく白い手すらバルドゥールは拒んだ。
「僕に触るなっ!!」
「きゃっ……!!」
 その時、バルドゥールが巫女の手を振り払った手から眩い閃光が迸り、強烈な光を浴びた巫女は悲鳴を上げて地に倒れた。その光は離れたギベオン達の目も襲い、視力の良いセラフィに至っては呻き声を上げて手で目を覆っている。倒れた巫女を見てつい駆け出しそうになったクロサイトはぎりぎりのところで踏み留まり、バルドゥールの出方を窺った。彼は咄嗟の行動にはっとして膝をつき巫女の手を取るが、彼女から何の応えも無い事に絶望したのか、天井を仰いで絶叫を上げた。
「……っ……ああああああああああ!!」
 心が砕けた様に吐き出されたその叫びに応えたのは、巫女ではなくギベオン達に立ち塞がっている石像だった。何に反応したのかは分からないが機械音を上げて駆動した様で、拳を振り上げたその姿にローゲルが声を上げる。
「いかん! 避けろ!!」
 まだ光で焼けた目が回復しきれていないセラフィの腕を引っ張り、石像が振り下ろした腕を何とか避けたローゲルは、背負っていた砲剣を素早く抜いて構えた。バルドゥールの孤独は思っていた以上に深いものであったらしいと知り、長らくの不在を後悔したが、今は気落ちしている場合ではないと肩を並べたギベオンから空気の振動で伝わる微かな電流が教えてくれていた。ローゲルはギベオンが帯電体質とクロサイトから聞いていたが、実際に見るのは初めてだ。
「あいつは揺籃の守護者と言ってね、モードが切り替わる帝国兵器なんだ」
「モードが切り替わる?」
「ああ。炎、氷、雷のモードチェンジをする。どのモードでもない時もあって、今がその状態だ」
「難しい事を考えるのは好かん、モードとやらが分かるなら指示を出せ。その通りに動く」
「分かった。お嬢さん、封縛や聖印で忙しくしてしまうと思うが、頼んだよ」
「はい!」
 セラフィは基本的に考える事が苦手なので戦闘に入るとすぐに本能で動く癖がある。ホムラミズチなどの弱点が分かりやすい相手はまだ楽だったがそういう敵は稀であったし、手探りで敵の癖やパターンを探っていたが、今回は熟知とまではいかないが知っている者が居るので心持ちは楽だ。ただ、巨大であるので相手をするには骨が折れるというのは想像に難くなかった。あまり子供の体力を消耗させたくはないんだが、と、自分の言葉に元気よく返事をしたローズを見てからローゲルは砲剣を構えた。
「上の頭が灰色の面になっているだろう。剣や鎚はこの時じゃないと通用しない、先に君達が仕掛けてくれ!」
「任せろ!」
「はいっ!」
 真正面から見ると分かりづらいが、揺籃の守護者は面を四つ持っており、ローゲルの今の口ぶりからすると色に対応してモードを切り替えるらしい。ローゲルの指示を受けて鎚や剣を構え、ギベオンとセラフィが駆けた。自身が放つドライブは揺籃の守護者がモードチェンジをした後に使った方が良いと判断したローゲルも、まずは一太刀叩き込む為に彼らの背を追う。その後ろで、クロサイトが鎚で悠然と肩を叩きながらローズに言った。
「ローズ、あの石像を見てどんな攻撃をしそうだと思ったね?」
「えっと……さっきみたいに、パンチしてきそうだなって……」
「そうだな、私もそう思った。じゃあ、今からローズが張る方陣は?」
「うでふうじのほうじんです」
「よろしい。上手く封縛出来なくても諦めずに張り続けておくれ」
「はいっ」
 ローズに問いかけながら答えを引き出したクロサイトは、娘の回答に満足して鎚を構え、ギベオン達の背を追う為に走り出した。セラフィから教えてもらって氷の刃で打ち込む事が出来る様になったとは言え、本職の弟の様には繰り出せない。だから、まだ全員が怪我をしていない内に自分も攻撃に加わろうと思ったのだ。自分達の何倍もの大きさの石像を相手に挑む父達の背はローズにとってひどく頼もしく、また格好良く見え、そんな彼らが少しでも楽になる様にと錫杖を石畳に突き立て意識を集中して方陣を張った。
 勿論、その方陣がすぐに効いた訳ではない。腕の良い方陣師であっても中々成功しないものであるし、頼りにしているとは言え任せきりにするつもりは全員には無かったので、出来る限りローズは後ろからの援護に徹する様にさせた。あまり離れすぎるとギベオンも庇いきれなくなってしまうから適度な距離を保たせたが、封じが間に合わなかったのか高速で回転する腕が全員を襲ってきた為にギベオンはローズを守ろうとしたクロサイトを庇った。離れていたセラフィやローゲルを守る事は出来なかったけれども、身のこなしが素速いセラフィはすんでのところで避けた瞬間に投擲ナイフを繰り出していたし、ローゲルも避けきれなかったが何とか耐えていた。
「ギベオン、無事か?!」
「な、何とか……っ」
「ローズ、焦らなくて良いから前に出過ぎるなよ!」
「はいっ」
 痛みを追い遣りながらローゲルが後方のギベオンに声を掛け、無事を確認したセラフィがローズに釘を刺す。フロアに張られている方陣から溢れ出る不思議な光によって受けた傷の痛みがじわりと薄れていくのを感じながらも、やはりまともに受け止めたギベオンのダメージは大きい。それでも立ち向かわなければ、と軋む体の重心をぐっと下に落とし、盾を構えた。揺籃の守護者の頭部が、ゆっくりと回転したからだ。
「あれがモードチェンジか?」
「ああ、炎モードになった。君の出番だな」
「お前もドライブとかいうのが使えるんだろう、サボるな」
「俺はショックドライブを叩き込む、氷モードにチェンジしたら張り切らせて貰うよ」
 その様を見ていたセラフィが剣を構え直しながらローゲルを横目で睨むと、彼は僅かに苦笑して砲剣を起動させた。印術師であったエレクトラに元素の事を教わっていたローズは揺籃の守護者が炎属性に切り替わった事で氷の元素に弱くなったと理解出来ており、だから氷の刃を使えるセラフィが出番だと言われたのだと納得した。それはつまり、セラフィにその剣筋を教わったクロサイトも再度攻撃に加わる事を意味していた。
「ベオ君、氷モードになったら君も出番だ! それまでしっかりローズを守ってくれたまえ!」
「はい!」
 普段からそこまで使い慣れている訳ではない剣を手に揺籃の守護者の方へまた駆けたクロサイトのその要請に、ギベオンはしっかりと頷いて返事をする。ホムラミズチの炎にも耐えたのだ、今回も耐えてみせると握り締めた鎚に体内を走る電流を送り込み、その時を待った。
「おおおおっ!」
 元から両手に剣を携えているセラフィがその刃を氷に変えて二連続で叩き込んだかと思うと続くクロサイトも二連続の打ち込みを披露したので、変な所が似ている双子だなと妙な感心をしたローゲルは起動させている砲剣で鋭い一太刀を浴びせた。ただ、ローゲル本人が言った様に炎などの属性モードに切り替わっていると剣は通用しない様で、彼の攻撃は殆ど威力が無かった。
「何か意味があるのかね、今のは」
「ドライブの威力を嵩増しする為にチャージエッジを繰り出さないといけないんだが、今のシャープエッジを使わないと出せないんだ。
 砲剣の扱いは中々どうして癖がある」
「面倒な武器だな、俺は性に合わん」
「君はそのスタイルが一番似合ってるよ」
 巨大な割には正確に攻撃してくる揺籃の守護者の破壊力は凄まじかったが、こちらの攻撃に対する反撃は遅く、体勢を立て直す猶予は十分とは言えなくともあり、三人が軽口を叩く余裕はまだ今のところ残されている。ただ、それも今の内だろうなとギベオンは思ったし、三人も同様の思いだった。ローズは方陣を張りながら印術を操り、先達て訪ねてきてくれたウーファンから教わった邪眼を試す事に忙しく、揺籃の守護者の動きに対応出来る余裕が無かった為、誰かが必ず側に居なければならなかった。
「ミキサーが来ないままモードチェンジしたな、ギベオン、出番だ!」
「はい! クロサイト先生、交代してください!」
 漸く腕封の方陣が効いたのか、ローゲルの言ったミキサーという攻撃がどんなものであるのか分からないがそれの被弾を免れる事は出来たらしく、頭部が青い面に変わったのを見てローズの側で彼女を守っていたギベオンにローゲルが顔だけ向けて叫ぶ。それに元気良く返事をしたギベオンは、ローズに前に出過ぎない様にね、と言いながらクロサイトと交代した。
「そうだ、これの存在をすっかり忘れてた。ちょうど良いから使おう」
 そのクロサイトが下がりながらはたと何かを思い出し、鞄の中から書物を取り出して開いた瞬間、辺り一面を黒い霧が覆った。以前ウーファンが巫女から預かったと言って寄越してくれたもので、書かれていた文字が随分と捻っていたものであったからクロサイトも解読に苦労したのだが、要約すればこの書は魔物と戦っている最中にこうやって封じや麻痺などの異常を魔物に掛ける事が出来た時にその効能を持続させる事が出来る、というものらしい。炎の鳥が現れる書物があったり魔物からの攻撃を防いでくれるバリアの様なものが現れたり、キバガミから貰った奥義書に至っては複数の格下の魔物から襲われてもセラフィに使わせるとほぼ全滅させる程の威力を見せる。この世には偉大なる何かの力を発現させてくれるものがあるのだな、とクロサイトはこういったものを使う度に思った。ただ、いつも使えるのではなく、皆で戦闘意識を昂らせた時でなければ使えないので、使用するタイミングを見定める事が重要なのだが。
「うあああぁっ!」
「きゃあっ!!」
 しかしその時、フロア全体が震えたかと思うと突如全身を襲った痺れに全員が悲鳴を上げた。腕を封じられても印術の様なものは使える様で、強力な電磁波を飛ばしてきたらしくひどい痺れが体を貫き、クロサイトはローズを背に隠すだけで精一杯だったので麻痺したのか石畳に膝をついて動けずにいるセラフィの元には駆け付ける事が出来なかった。だが何とかその痺れを追い遣った、というよりも自身の電流に変えたギベオンは鎚に乗せた電流を増大させて思い切り打ち込み、気力だけで足を動かしたローゲルも砲剣の爆音を鳴らしながらギベオンに続いた。
「こいつも食らっておけ!!」
 凄まじい程のその砲剣の音と共に、まるで爆撃の様な衝撃を受けた揺籃の守護者は大きく体勢を崩した。先日セラフィ相手に繰り出したショックドライブより音も威力も大きく、先程言っていたチャージエッジを事前に発動させるという下準備の賜物だろう。それでも頑強な揺籃の守護者を倒せる訳ではなかったし、刀身がオーバーヒートを起こした為にローゲルがドライブを再度発動させるには暫く掛かりそうだ。つまり、それまでの時間をギベオン達は稼がなければならなかった。
 ローズが方陣を張り続けていてくれたお陰で全員の細かい怪我はすぐに塞がるとは言え、揺籃の守護者の攻撃は一つ一つの破壊力が大きかった。セラフィの投刃は頭部が灰色の面の時でなければ通用しなかった為に注意を自分に引きつけ身軽さを活かしてかわしたり、ギベオンがいつも通り鎚で盾を叩いて挑発したりと、なるべくローズが傷つかずに済む様に気を配った。腕封の方陣を張り続けていてはいくら石像相手とは言え耐性がついてしまうのでこちらを麻痺させてくる電磁波を飛ばさせない様にと頭封の方陣も張ると、封じが成功している間は中々モードチェンジをしなかった。代わりにローゲルがミキサーと言っていた攻撃を仕掛けてきた為、その度ギベオンは後方のクロサイトとローズを庇っては手当てが追い付かない程の怪我をした。
「ワール君、君のその腕、そろそろ限界が近いのではないかね」
「言ってられるか、あいつを倒さない限りは殿下をお止め出来ない。それに、さっき言ったな、この砲剣の扱いは癖があるって」
 強制排熱を試みたり、オーバーヒートの時間を短縮させる攻撃を繰り出していたローゲルの腕は、ドライブによって随分とひどい火傷を負っていた。熱によって焼けた手甲の下も用意に想像出来たが、それでもローゲルは砲剣を離そうとはしなかった。疲労の色も濃くなり、錫杖で体を支えているローズが破陣して皆の体力を回復してくれたので少しは頭がすっきりしたクロサイトが怪訝な顔でローゲルの砲剣を見る。
「もう十分だな。砲剣は何度かオーバーヒートするとドライブが連続で出せる様になる」
「でもワールウィンドさん、もう体がぼろぼろじゃないですか」
「イクサビトが陛下と兄さんを手厚く葬ってくれた事は勿論感謝してるし、叔父さんがウロビトと一緒になって子供を残せた事は確かに嬉しい。
 だがそんな事抜きに、俺はイクサビトやウロビトを犠牲にしたくはないんだ。それが陛下と兄さん達の願いだったし、何より俺も彼らと共存したい」
「………」
「……イグニッションで連続して出せるドライブは四回。君達も一気に畳み掛けてくれ」
 口の中に堪った血を石畳に吐いたローゲルは、自分を見上げるローズに微かに笑った。まだ彼女がクロサイトの娘であると知らず、ホロウクイーンに襲われたウロビトの里を見舞った時、他の子供達とは違ってなるべく人目に触れない様に、それでも自分が焼いたケーキやクッキーを欲しそうに物陰から見ていたものだから、ウロビトにも何か事情があるのだろうと思ったローゲルは小皿に分けてローズに与えた事がある。そして嬉しそうに礼を言って食べるローズを見ながら幼い頃の姪を思い出したし、この者達といつか共存出来る様になれば良いと思ったのだ。
 仕えるべき者、血を分けた者、そして同じ志を持った者達と運命を共に出来なかった。自分一人だけが生き延びた。だがそれは恐らく、彼らに生かされたのだとローゲルは思う。それに、まだ仕えるべきもう一人が残されている。彼を正す事が自分の最後の務めだと、ローゲルは本気で考えていた。だからまだ死ぬ訳にはいかないが、今ここで腕一本失くしても後悔は無い。砲剣のグリップを握り締めて捻ったローゲルは、その場の誰よりも先に地面を蹴った。
「今はどのモードでもない! とにかく攻撃しろ!」
「了解した!」
 爆音を上げるローゲルの砲剣はギベオンの鎚と同じく電気による火花が散り、揺籃の守護者に強力な一撃となって襲い掛かる。ただ、ワンサイドの攻撃になる筈もなく大きな反撃も食らったが、その度に軋む体に鞭打って立ち上がり各々の得物を叩き込み、ローズは彼らの攻撃の威力が少しでも増す様にきっと揺籃の守護者を睨み付けた。ウーファンに教えてもらった、衰身の邪眼だった。
「う、お、おおおおおっっ!!」
 そして四度目のドライブを繰り出そうとした自分目掛けて振り落とされた揺籃の守護者の拳を避ける事無く、ローゲルは最後の渾身の一撃を相討ち覚悟で叩き込んだ。かなりの衝撃が全身を駆け、砲剣と共に体が宙を舞う。それと同時に、揺籃の守護者がゆっくりと地に崩れ落ちる。一瞬の出来事であったものだからギベオンも反応出来ず、ローゲルは石畳に叩き付けられたと同時に足に嫌な音が響いたのを感じた。見れば左足があらぬ方向に曲がっており、受け身に失敗して骨が折れてしまった様だ。
「大丈夫ですかワールウィンドさん!」
「俺は良い、それより君達は早く避難しろ! あいつはボディ部分が動かなくなると自爆する!」
「なっ……」
 セラフィがクロサイトやギベオンの腕を掴んで素早くローズが居る所まで退いたので倒れた揺籃の守護者の下敷きにはならずに済み、叫んだギベオンよりも先にクロサイトがローゲルに駆け寄る。足が折れた事が分かったからだ。だが、ローゲルの言葉通り動かなくなった守護者の体から自動的に解離した頭部がごろりと転がったのを見て、ローゲル以外の全員が絶句した。カチ、カチ、と時計の様な音が聞こえ、その音がどうやら自爆までのカウントダウンを刻んでいるらしい。どれくらいの規模の爆風が襲うのかギベオン達には見当もつかないが、ローゲルがこれ程までに切迫した顔をしているなら推して知るべし、といったところだろう。足を骨折している以上は走れないであろうし、かと言って重たい鎧を着込んでいるローゲルを抱えて逃げるにも限界がある。ならば、とギベオンはローゲル達を背にさっと前に躍り出た。
「ばっ、いくら君でも防ぎきれないぞ! 逃げろ!」
「モリオンを本当に一人にするつもりですか!」
「っ……」
 誰より先に叫んだのはローゲルであったが、ギベオンの言にそれ以上の反論は封じられた。確かにまだバルドゥールを正さねばならないという使命があるローゲルにはバルドゥールを長らく一人にしていた負い目と共に、一人にしていたモリオンを責めてしまった負い目があるのでまだ死ぬ訳にはいかない。再び顔を合わせた時はギベオンが言った様に労いたいと思っているだけに、彼からの叱責は堪えた。誰よりも殿下をお止めしなければならない立場である俺が、足手まといになるのか。そう思うと居た堪れず、歯噛みしてしまった。
「ローズ! 今からでも遅くない、麻痺の方陣を張れ!」
「は……はいっ!」
 ぐ、とギベオンが盾をしっかり構えたその時、既にジャケットがぼろぼろになってしまったセラフィが叫ぶ様にローズに方陣を張る様に命じる。クロサイトが来るであろう爆風から守ろうと胸に抱いていたローズは、言われた通り錫杖を石畳に突き立て方陣を張ったものの、嫌な予感がして叔父の背を見た。
「今度は一発で効いたか。小さくてもすっかり一人前の方陣師だな」
「フィー、お前まさか」
「ベオ、しっかり踏ん張ってろよ!」
 ローズの嫌な予感は的中し、セラフィは両手に携えた剣を再度構え、方陣で麻痺をしたらしく先程までとは違い鈍い揺れ方をしている揺籃の守護者の頭部目掛けてクロサイトが止める間も無く走り出した。ギベオンは言われた通りにするしか無く、背後のローゲルやクロサイト、ローズが自分の盾と体の影に隠れている事を確認して祈る様な気持ちで前を見る。そんな全員の視線を振り切り、セラフィは守護者の石頭に向かって剣を走らせた。
「往生際が悪いぞ、潔くくたばれ!!」
 セラフィの腕前の良さを乗せた工房の主人の鍛えた剣から襲われ、石頭は彼が駆け抜けた後に揺れを止める。爆発するか、どうだ、と身構えたギベオンであったが、数秒の間を置いて石頭は真っ二つに割れた。しんとした静寂に包まれたままの空間は、揺籃の守護者が自爆出来ず破壊された事を知らしめていた。
「殿下……、殿下はどちらへ行かれた?」
「待ちたまえ、動くんじゃない」
 死を覚悟で石頭を真っ二つに斬りに駆けたセラフィにクロサイトが思わず怒鳴りそうになったのだが、その前にローゲルがバルドゥールの姿を追い掛けようとしたのですぐに彼を制した。足を骨折しているのだから無理に立ち上がろうとすると危険だ。瞬時に医者の表情へと変えたクロサイトの手を振り払おうとしたローゲルは、碧照ノ樹海や深霧ノ幽谷、金剛獣ノ岩窟にもあった祭壇を視界に認め、バルドゥールや巫女の姿が見えない事に拳を握り締めた。揺籃の守護者と戦っている最中にバルドゥールがギベオン達の背後の扉から出て行ったとは到底思えないし、またそんな姿は誰も見ていない。祭壇の奥へと進んだ事は明白で、ローゲルは苦々しい表情で祭壇を睨み付けながら言った。
「あの閃光により、巫女の最後の調整が終わったと思って良い。……恐らく今、彼女に意識はないだろうな。
 後は、巫女と巨人の心臓を世界樹に返せば世界樹の力が蘇、る……っ?!」
「わっ、わあぁっ?!」
 彼のその言葉と同時に激しい揺れに襲われ、ギベオンは間抜けな声を上げながら尻もちをついた。元から膝をついていたクロサイトやローズは無事であったし平衡感覚が常人より優れているセラフィも転倒しなかったので、自分だけ転んでしまった事が恥ずかしく、尻を強かに打ってしまった事も受けてギベオンはうう、と呻く。だがそんなギベオンをよそに、ローゲルは顔を青くした。
「今のは……まさか、始まったのか?!」
 再度立ち上がろうとしたローゲルを、今度は立ったままのセラフィが制す。だが嫌な予感は全員の胸に渦巻き、とにかく世界樹の様子を見る為にこの木偶ノ文庫から出ようとギベオンは放り投げてあった背嚢の中から銀色の魔笛を取り出して使用した。アリアドネの糸に比べて使用する頻度はうんと低いが、例えばローズが一人ではぐれてしまった時に使用させる為に彼女には必ず持たせている。今回は背嚢の中のものを使い、気球艇へと戻ると、空がざわめいている様な錯覚を全員を襲った。そして、誰よりも先に声を上げたのはローズだった。
「とうさま、せかいじゅさまが」
「………!」
 木偶ノ文庫周辺を徘徊している太古の門番に襲われてしまわない様にとすぐに上空へとフライトさせた気球艇の中で、ローズが世界樹の方を指差す。彼女の指す方角にある世界樹の、生命力溢れる緑の葉が徐々に色が失われていき樹の表面も色褪せていくその様は、全員の目を丸くさせたし呆然とさせた。それまで季節問わず常に緑の葉を纏い、そこに立ち続けていた巨木は、呆然と見上げているギベオン達など構う事なく葉を枯らし、幹自体も生命力を喪ったのか自身の重みに耐えきれずに中程から上が崩れ落ちた。その亀裂音は凄まじく、まるで世界樹が悲鳴を上げている様で、気球艇に乗っている全員に世界樹の断末魔だと思わせた。ローゲルの言った「始まった」というのはこの事を指していたのか、彼だけは呆然というより唇を噛みながら辛うじて残された世界樹の根本をじっと睨み付けている。そして、世界樹の異変に慌てたのは何も彼らだけではなく、上空を飛んでいた帝国の軍艦も世界樹の上へ集まり旋回すると、更に北の空へと消えていった。騒々しかった空が、本来の静けさを取り戻した。
「……今後の方針をどうするのか、辺境伯にお伺いを立てなければな。ワール君の手当てもしたいし、一旦タルシスへ戻ろう」
「しかし、俺は……」
「怪我人に手出しなど絶対にさせん。君は辺境伯の名の元に保護する」
「………」
 先程まで世界樹がそこに聳え立っていた場所を睨みつけながら言ったクロサイトに、ギベオンに肩を貸してもらいながら折れた足を庇いつつ立つローゲルが戸惑いの色を見せる。巫女を攫った張本人であり、世界樹を枯らせたバルドゥールに仕える騎士であるのに、タルシスに行けば混乱させる事は目に見えているし今度こそ命の保証は無い。だがいかなる国の傷病人は医者として守ると言ったクロサイトには少しも迷いは無かった。彼は、そういう男だった。
「あの……ワールおじさま」
「……あ、ああ、俺の事かい?」
「はい。タルシスで、リオねえさまがきっとおまちです。……おあいしてあげてください。おねがいします」
 ローズからその名で呼ばれた事に咄嗟に反応出来なかったローゲルは、しかし自分より一回りも二回りも小さなローズから深々と頭を下げられて一瞬言葉に詰まってしまった。モリオンの事を出されると、彼は何も反論出来なくなってしまう。ちらと横目で見たギベオンも困った様な、同じ事を言いたい様な、そんな表情をしていたので、ローゲルは弱々しく笑いながら言った。
「……そうだな。俺こそ、君の父さんに頼まなければならないな。すまないがクロサイト、連れて行ってくれ」
「うむ、頼まれよう」
 今のローゲルにはクロサイト達を信頼するしかなく、自分の言にしっかりと頷いたクロサイトに小さな声で礼を述べると、クロサイトはギベオンに気球艇を磁軸へ向かわせる様に要請した。世界樹が存在する事が当たり前であったその場所には遠くの空が見えるだけで、あの樹を間近で見る事が目的であったギベオンは複雑な心境のまま舵をとった。



「ああ、諸君らか。君も、無事で何よりだ」
「………」
 タルシスに戻ったギベオン達は、まず真っ先に統治院へと赴いた。クロサイトとしては先にローゲルの手当てをしたかったところであるが、手持ちの手当て道具と気球艇に積んでいた道具で何とか骨折の処置は出来た事と、ローゲルが統治院へ行く事が先決だと言って聞かなかったので、嫌がる彼をセラフィが無理矢理担架に乗せてギベオンと二人でここまで連れてきた。世界樹が枯れた事によって街門の冒険者達や兵士達は混乱していたが、ギベオン達が戻ってきた事は更に拍車をかけた。何せ彼らは渦中のギルドであるし、ローゲルの姿もあったので、説明を求める声は大きくローゲルを責める者も当然の様に居た。
 そんな中、クロサイトはいつもと変わらず怪我人を運ぶことが先だと言って医者としての姿勢を崩さなかった。それでもなお問い詰めようとする者達を止めたのは気の弱そうな青年で、必ず説明がある筈ですからまずは通してあげませんかと、おどおどしながらもその場の者達に言ったのだ。何でも彼は以前ローゲルに命を助けてもらった事があるらしく、姿を消したローゲルを心配していたそうだ。十年という長い間、冒険者としてタルシスに滞在していたローゲルは、打算も何も無く幾人かの冒険者を助けた事がある。その場に居た者の中にも青年以外にそういった冒険者が居り、彼らに免じて通してもらった。
 ギベオン達を迎え入れた辺境伯は、少し顔色が悪かった。それでもローゲルを見ても一言も責めず、無傷ではないとは言え彼が無事であった事に安堵したらしかった。
「顔色が優れないご様子ですが」
「うむ……まさか、世界樹があの様な事になるとは想像もしていなかったのでな……少々、動転しているようだ」
 ローゲルを先に座らせたクロサイトが様子を窺う様に尋ねると、辺境伯は腕に抱いているマルゲリータの首を撫で付けて何とか自身を落ち着けようとしていた。そんな彼に、クロサイトは木偶ノ文庫で起こった詳細を極力自分の感情を織り交ぜない様に説明した。外交官でもある彼は状況説明に自身の主観を混ぜてはいけないと考えており、それは辺境伯の求める姿勢と重なっている。バルドゥールがローゲルの説得に応じなかった事、巫女と共に姿を消した後に世界樹が枯れてしまった事、その後に帝国の艦隊も去った事を説明すると、辺境伯はマルゲリータを抱いたまま空いた手を口元にやり、ふむ、と考える素振りを見せた。
「なるほど……状況的に、皇子は世界樹に向かったと考えて良いだろうな」
「すみません、止める事が出来なくて……」
「いや、この件で諸君らを責めるつもりはない。諸君が無理だったのなら、他の誰でも皇子を止めることは出来なかった」
 いつの間にか最前線に居るギルドの主になってしまったギベオンにはその荷が重く、心底申し訳ない思いで謝罪をしたのだが、辺境伯は首を横に振ってやはり誰も責めなかった。確かに、ギベオン達でなくてもバルドゥールを止める事は出来なかっただろう。彼の騎士であるローゲルでさえ無理だったのだ、タルシスのどの冒険者でも、勿論辺境伯でも無理だった筈だ。
 かと言って、このままおめおめと世界樹の力を発動させる訳にもいかない。その為には何をすれば良いのかは、ギベオン達ではなくローゲルが知っていた。
「諦めるのはまだ早い。世界樹は、完全には起動していない。あの迷宮で出来るのは、巨人の心……つまり巫女の、最後の調整だけ。
 それらを世界樹に組み込む作業がまだ残っている。世界樹が枯れたのは、心臓を組み込んだからだろう。
 心臓の働きで、世界樹の膨大な力が根に集まり始めたんだ。巫女が組み込まれなければ、まだ望みはある」
「依然として一刻の猶予も無い、という訳か……。
 ワールウィンド君、君には言いたい事や聞きたい事が多くあるが、
 今は長話が許される状況ではあるまい。その知識、頼らせて貰っても良いのだな?」
「ああ。俺も殿下はどうしてもお止めしなければならないと思っている。
 陛下や兄、これまでに死んでいった帝国騎士達の為にも」
 辺境伯の問いに淀みない声で答えたローゲルは、クロサイトと同じく辺境伯が自分をワールウィンドと呼んだ事に若干の戸惑いを見せたもののしっかりと頷いて見せる。元からウロビトやイクサビトを犠牲にしない為の世界樹の力の発動を模索していたアルフォズルに仕えていたし、今もその思いは変わる事が無い。クリスもそんなアルフォズルを敬愛し、最期を共にした。志半ばの死はさぞ無念であった事だろう。そう思うと、ローゲルは命を賭してでもバルドゥールを止めたいと思う。
 ただ、骨折した足では歩く事すらままならず、それが歯痒い。ローゲルはギブスで固定された足に苦々しく視線を落としたのだが、そんな彼にギベオンが声を掛けた。
「ワールウィンドさん、貴方の考え……いえ、アルフォズル皇帝の考えに賛同する帝国騎士は、
 モリオンやあの騎士さんの他にもいらっしゃいますか?」
「……数は少ないだろうけどね。居る筈だよ」
「そうですか。だったら、その方達をタルシスに連れて来ても構いませんか? 辺境伯さん」
「う、うむ?」
「帝国では巨人の呪いによる奇病で多くの方が亡くなっているそうです。
 具体的な解決策が見付かるまで、タルシスに避難出来ないかなあって……」
「ふむ……」
 ローゲルに尋ねていたギベオンが突如として自分に話を振ってきたので辺境伯は目を丸くしたものの、続けられた言葉に納得する。タルシスはこれまでに数多くの冒険者達を受け入れてきた。ここ数ヶ月で行き交うウロビトやモノノフの数も増えている。謂わば、よそ者を受け入れる事に慣れている街なのだ。帝国の民とて例外ではないだろうというギベオンの考えは甘いかも知れないが、かと言って厳しい生活を強いられている帝国民をそのままにして良い筈もない。極寒の地で育ったギベオンから見て豊かな街と思わせるタルシスは恐らく帝国の者達にとっても同様であろうし、また受け入れても十分に賄える資源も土地もある。やろうと思えば帝国民を移住させる事も出来るだろう。
「……君の言う様に、まずは少人数から受け入れて我々の街に馴染んで貰った方が良いであろうな。
 よし分かった。ワールウィンド君、君に賛同する騎士を召集して貰えるかね」
「ああ。この足じゃ探索の手伝いなんて出来ないし、それくらいはさせて貰うよ」
「うむ。では世界樹の方は、これからタルシスの兵士達を調査に向かわせよう。
 木偶ノ文庫の方はワールウィンド君に任せるが、今日のところは全員体を休めたまえ」
「そう仰って頂けると有難いです」
「冒険者に昼夜は無くとも、体は確実に疲れておろうからな。
 診療所で諸君らを待つ者も居るだろう。まずは帰って無事を知らせると良い」
「はい、有難う御座います」
 それまでの顔色を僅かではあるが明るいものへ変え、辺境伯がローゲルに賛同者を集める様に要請し、ギベオン達に休息を促す。揺籃の守護者と戦ったとあって彼らには疲労の色が滲み出ており、特にローズはクロサイトの隣で目を頻りに擦っていた。方陣を張り続け、聖印を結び、邪眼を発動させた彼女は、子供であるが故の体力の無さも手伝って疲労困憊しており、眠たかったのだ。クロサイトがそんなローズを抱き上げ、ではまた明日参りますと言うと、辺境伯は空いた手を上げ返事の代わりとした。ギベオン達が辞した後、辺境伯はその足で兵士達へ指示を飛ばしに行くのだった。



 排除者から傷付けられた足もほぼ治り、診療所に続く階段を使って筋力の低下を防いでいたモリオンは、その日もなるべく人目に付かない様な格好で階段の上り下りをしていた。体力には自信があるとは言えここはタルシスであって自国ではないので自由に出歩けないし、かと言って体を動かしていなければどうしても衰えてしまう為、診療所への階段はリハビリにはうってつけだった。ペリドットは妊婦であるから付き合わなくても良いとは言っているが、何があるか分からないし心配だからと、階段を下った所で待っている。
 モリオンはウロビトやモノノフと違って人間であるからそこまで目立ちはしないし、旅人や冒険者の比率が住民より大きいタルシスでは見知らぬ者が居ても物珍しいものを見るかの様な目は向けられない。だから彼女がこうやって出歩いても階段を下った往来の人々は気にする事が無く、木を隠すには森の中とはよく言ったものだと妙な感心をしていた。
 そんなモリオンがこの日四度目の降下を試みている時、途中の踊り場の様な開けた所にギベオン達の姿を見付けた。クロサイトに抱かれ眠ってしまいそうであったローズは階段の下に居たペリドットの姿を見て少しだけ眠気が飛んだので自分で上ってきていたし、ペリドットも共に上ってきている。全員の姿を見て無事に戻ってきたか、と思った次の瞬間、彼女はびくりと体を強張らせて立ち止まってしまった。ギベオンに支えてもらって階段を上ってきていたのが、ローゲルであったからだ。
「………」
 殿下に何をした、と声を荒げられた日以来、失望させてしまったと思っている彼女は木偶ノ文庫ではローゲルに顔を見せずに済む様に彼を避けて過ごしていた為、目が合ってもどういう顔をして良いか分からなかった。ローゲルが左足にギブスを嵌め松葉杖をついているので思わず駆け寄りそうになったもののそれすら躊躇う有り様で、震える足で踊り場まで降りてくるだけが精一杯だった。そんなモリオンに、ローゲルは静かに口を開く。
「……ギベオンから話は聞いたよ。無事で良かった。ここで怪我の療養をしているそうだな」
「………」
「監視者と排除者に苦戦していたクロサイト達を助けたんだって?」
「……申し訳……ありません……」
「何故謝るんだ?」
「……私は帝国騎士です。殿下のお心のままに動く、それが義務で……」
「それでも危機に瀕したクロサイト達を見捨てられなかったんだな?」
「………」
 ギベオン達に見せる気丈さを消したモリオンは、ローゲルの言葉に答える事が出来ないまま沈黙している。叱られ見放される事に怯える子供の様な彼女の顔に、ギベオンだけでなくローズ達の胸も痛んだ。それはローゲルも例外ではなく、僅かに目を細めギベオンから離れると、骨折していない足で一歩だけモリオンの方へ歩み寄った。
「優しい心を持つ女性に育ったな。嬉しいぞ」
「え……」
「俺も兄さんも居ない中、殿下によく仕えてくれた。兄さんもきっと鼻が高いだろう」
「………」
「……たった一人でよく頑張った。よく耐えてくれたな。お前は立派だよ。俺の自慢の姪だ」
「……ぁ……ぅ、………うぁ、うわああぁぁぁっ!!」
 労ってやって欲しい、とギベオンが言った通り、ローゲルが謝罪でも礼でもなく真っ先に労えば、モリオンはそれまでの怯えた様な表情を見る間に歪めて口元を戦慄かせたかと思うと、大粒の涙を溢してその場に泣き崩れた。タルシスに来てからも気丈な振る舞いを見せ続けていた彼女は強い女性だとギベオン達に思わせていたのだが、やはり少女の時分から一人となり様々な思惑の中で育ってきたとあって、弱さを見せられなかっただけなのだろう。顔を覆うのではなく頭を抱え込む様に座り込み、叫ぶ様な泣き声を上げたモリオンは、それまで溜めこんでいた多くのものを吐き出すかの様に全身を震わせて泣いた。まるで、ローズがクロサイトを初めて父と呼んだ時の様な泣き方だった。
 本当はローゲルも帝国へと戻ってきた時、モリオンと再会する事はひどく楽しみであったし、クリスではなく自分だけが戻ってきてしまった事を詫びたかった。だが任務を果たし、バルドゥールに謁見報告、そして南の聖堂での会見までが慌ただしくモリオンと会えなかった事、バルドゥールの考えがアルフォズルと全く違う事が重なり、再会を喜ぶのではなく感情に任せて怒鳴り付けてしまった。モリオンはローゲルを一目見た時にひどく安堵した様な、嬉しそうな表情を見せたというのに、それを一瞬にして凍らせて他人行儀になってしまった。ギベオン達にも最初はローゲルの事を叔父とは言わずにローゲル卿と言っていたのは、姪と名乗れないと思ったからに他ならない。それ程までに、彼女は追い詰められていた。
 バルドゥールの側女となっていたと聞いた時、どれだけのつらい日々を過ごさせてしまったのか、またバルドゥールが側女としなければならなかった程の境遇であったのかと思うだけで胸が張り裂けそうで、子供の頃でさえ見せた事も無かった泣き方をするモリオンの側に、ローゲルは痛む足と心を引き摺りながら歩み寄って腰を曲げ彼女の肩に武骨な手を置く。ギブスが嵌められた足では座れなかったから、立ったままだとしてもせめて顔を近付けたかった。流れる様な銀糸の髪が踊る肩は細く、小刻みに震えている。こんな小さな肩に、本来なら自分が負わなければならなかったものを十年という長い間負わせてしまったと思うと、彼もつらかった。
「すまない、すまなかった、お前だって俺より兄さんに戻ってきて貰いたかっただろうに。
 一人で耐え続けてきたのに、ずっとつらい思いをさせ続けたのに、言うに事欠いてお前を責めてしまった、本当にすまない」
「ご、ごめんなさい、殿下をお止め出来なくて、な、何も出来なかった、ごめんなさい、叔父上、ごめんなさい」
「良いんだ、謝るのは俺の方だ、お前は何も悪くない」
「うぅ、ひぐ、うあぁ、うわああぁん」
 子供の様に泣きじゃくるモリオンは、それでもローゲルにしがみつく事はしなかった。ただ震える体に悲しみや申し訳なさを満たし、座り込んだまま大声で泣き続けた。そんなモリオンを宥め続けるローゲルをクロサイト達は黙って見ている事しか出来なかったのだが、ギベオンは感じ取れた彼女の悲しみとはまた別のものに胸が痛んだ気がしたものの、それが何であるのかは分からなかった。