木偶ノ文庫と世界樹の根本にある遺跡、煌天破ノ都という名であるとスピネル達の調査で分かったのだが、繋がっていると分かっても木偶ノ文庫のその深部を知っている者は帝国の者の中にも居なかった様だった。ローゲルだけは揺藍の守護者と戦った大広間に存在した祭壇の奥は世界樹へ続く道があると知っていたけれども、彼も詳細は知らず、同じ様に迷宮になっているとは思っていなかったそうだ。
 そんな中、巫女が連れ去られ世界樹が枯れたとあって、ウロビト達は混乱を極めていた。ウーファンはまだ少女と言っても良い巫女がこれ程までのウロビト達を纏めていたという事を改めて噛み締めたし、その大変さもまた身に沁みて理解した。ウロビトは里とタルシスを行き来する様になっており、ローゲルの呼び掛けによって若干数ではあるがタルシスに行き来する様になった帝国兵との衝突がウーファンの頭を一番悩ませた。帝国兵をタルシスに受け入れる、との宣言が辺境伯から出された時からの懸念は見事に的中し、タルシス内で帝国兵を詰るウロビトが出た。ただ、幸いな事にその場に居合わせたイクサビトが命令に背いてでも主人の道を正そうとする者達を責めるべきではない、と諌めてくれたらしい。それまでも様々な者が集い、独特な集合体となっていたタルシスは更に多くの者が集まるようになり、その中で諍いも増えてきたとウーファンは酒場で漏れ聞いた。辺境伯の心労がこれ以上溜まらぬ様になれば良いが、と、彼女はウロビトの里から持ってきたペリドットへの差し入れを診療所に置いた帰路で広場の喧騒を見ながら考えていた。
 ウーファンは巫女が連れ去られたので情報収集の為に、という名目もあるのだが、ここ最近はペリドットに差し入れを持って来がてら時折家事の手伝いをする為によくタルシスを訪れる。病人じゃないから大丈夫、とペリドットが言っても、義理堅く訪れて来てくれた。診療所の主の身内であるからそうそう不埒な事をする輩も居ないであろうが、女一人で留守を守っているから時折様子を見に来てやって欲しいとセラフィに頼まれたからだ。それに、確かに妊婦は病人ではないが体内に子供を抱えている訳なのだし、負担はかけ過ぎないに越した事は無いとウーファンも承諾した。
 加えて、ペリドットはとても小柄な女ではあるが、何と双子を身籠っていた。これにはさすがに定期的に検診しているクロサイトも驚いたしペリドットの小さな体ではたして双子を産めるのかどうか、と双子だと分かったその時思ったのだが、彼女の言葉でその不安は小さなものとなった。
「双子?! 本当ですか?! セラフィさんとクロサイト先生みたいに双子なんですね?!
 嬉しいです、お二人みたいに仲の良い子達になると良いな」
 心底嬉しそうに、そして慈しむ様に大きくなってきた腹を撫でながらそう言ったペリドットは、少しずつ母親の顔になりつつあった。出産に対しての漠然とした不安も無かった訳では無いけれども、必ず健康な体で産んであげようという意思が見受けられた。だからこそクロサイトも無事の出産を迎えられるのではないかというおぼろげな安心を得る事が出来た。彼女の体は健康で頑丈で、自覚無しであったとは言え妊娠した身でホムラミズチと戦っても流れる事が無かった程の強い子達であるから、油断は一切出来ないが出産には耐えられるだろうとクロサイトは自分に言い聞かせた。主治医が弱気になってしまってはいけない。
 そんなペリドットは、地図の書き直しをするクロサイトの手伝いも進んでしてくれた。探索に参加出来ない分こういったところでサポートしたいと申し出た彼女に、クロサイトも有難く手伝ってもらった。何せ四つ分の迷宮の地図の書き直しだ、時間がかかる。早急に必要な木偶ノ文庫の地図をまず二人で書き直し、クロサイトがギベオン達と探索に出ている間にペリドットがその他の迷宮の地図を書き直す。そして探索から戻ってきたギベオンに縮尺に間違いは無いかなどのチェックをしてもらってから渡すのだ。全ての地図が書き直された頃、日数にしてみれば二、三日で済んだが、ローゲルに案内してもらった木偶ノ文庫の地下三階の最南の広間と同程度南下出来ており、完成した地図をクロサイトに渡しながらお役に立てて良かったです、とペリドットは笑った。
 一方、書き直した事により使用されなくなったそれまでの地図は、ギベオンがクロサイトに頼んでモリオンに譲ってもらった。絶界雲上域から出た事が無く、タルシスもまだ狭い範囲しか行動した事が無い彼女は煌天破ノ都で広げて見た大地の地図にクロサイトが描いた様々な自然の情景に興味深げであったからだ。それに木偶ノ文庫はほぼ探索出来ていないとは言え主にペリドットが書いた深霧ノ幽谷や金剛獣ノ岩窟の迷宮の地図には余白に実に豊かな種類の動植物――時には魔物のスケッチがクロサイトによって描かれており、彼がまだ若かった頃にセラフィと共に探索し描いた碧照ノ樹海の地図など水彩絵の具で着色されてあったものだから欲しがる者も居た程で、破棄するにはしのびないとクロサイトも思っていたから快く譲り、モリオンもあまり顔には出さなかったが喜んでいた。
 モリオンは最初に宣言した通り、必要以上にギベオン達と肩を並べたりする事はしなかった。探索中に歩いている時も一人だけ少し離れ、周囲の様子を窺いながらついてくる。人と接するのが苦手なんだろうと解釈し、敢えて彼女に歩み寄って欲しいとは言わなかったが、時折ローズが話をしたそうにしていても意図的に遠ざかって会話を交わそうとしなかったので、話し相手くらいはしてやって欲しいのだが、とクロサイトも思った。それでもモリオンが育った環境を思えば人間不信になっているのも頷けるし、また納得いく事でもあるので、ローズにはゆっくりと打ち解けていけば良いとだけ言っておいた。ローズは残念そうにしゅんとした顔をしたが、モリオンにはモリオンの事情があるので我慢してもらうしか無いだろう。
 それでも武具の事を話すのは好きなのか、深部で祭壇へ行くまでの道程を地図で確認したギベオンがこの回廊の内側に部屋か道がある気がすると探索した時、ローズが見付けた抜け穴を潜った先の行き止まりの壁にひっそりと立て掛けてあった盾を見て、ヒルデブラントだな、とモリオンは言った。何でも帝国では主君を守る誓いを立てた騎士が持つ事を許される盾であるらしい。古びているが傷みが少なく、昔の帝国兵、恐らく皇帝の側近とも言える人物が、煌天破ノ都に急ぐ皇帝の背を守る為にこの場に置いていたのだろう。カイトシールドがそろそろ限界を迎えようとしているのでその盾が欲しかったギベオンは、しかし勝手にそんな名誉あるものを持ち去っても良いものなのかと躊躇ったのだが、迷う彼を尻目にモリオンはヒルデブラントを何の疑問も無く拾い上げてギベオンに寄越しながら、いい加減こいつも使われたいだろう、お前が使えと言った。
 主君ではないがクロサイト達を守る誓いを立てた事がギベオンにはあるけれども、モリオンはそれを知らぬ筈だ。それでも彼女は、ヒルデブラントはギベオンに相応しいと判断してくれたのだろう。何となく照れ臭くてはにかみながら礼を言って受け取ると、モリオンはそっぽを向いて先を急ぐぞと言い、さっさと抜け道の方へと歩き出してしまった。クロサイト達にも、勿論ギベオンにも彼女のその行動は照れ隠しなのだという事は分かっていたので、特に不快になる事も無く――寧ろギベオンは照れが強くなった様な気がして、ちょっとだけ耳を赤くしてしまった。



 木偶ノ文庫から案の定金剛獣ノ岩窟に続く通路を発見したものの、鱗が復活したのか岩窟の中は水場がそこかしこにあり、この上なく嫌そうなセラフィを宥めながらその日は探索した。鎧の追跡者よりも堅そうな亀の追尾を何とか振り切って氷銀の棒杭を採り、ギベオンが感じ取る岩窟の構造を頼りに進み、ホムラミズチと戦ったあの大広間で大きな鱗を破壊したところで皆くたくただったので一旦タルシスへと戻ってきたのだ。既に夜も更けていたからセラフィはモリオンとローズを連れ先に診療所へ帰り、クロサイトは統治院へと報告に行き、ギベオンは余裕があれば寄って欲しいとアルビレオに言われていた為にカーゴ交易場へ足を運んだ。
「よお、お疲れさん。今日も無事で何よりだ」
 夜の交易場は昼間に比べると比較的静かだが、夕方に届いたらしい荷物の仕分けをするアルビレオは片腕である事も手伝って難儀そうにしており、ギベオンが来た時に仕分けの音が響いていた。手伝おうかとも思ったギベオンは、しかし自分が余計な手出しをして手順を混乱させても悪いので、大きくて重たいものだけ指示通りに運ぶ。一段落すると、悪ぃなお前も疲れてるのに、と申し訳無さそうな顔でアルビレオが礼を言った。
「色んな事が一気に起こってついて行くのに精一杯ですけど、何とか倒れずに済んでますよ」
「お前、あんまり環境の変化に強くないもんな……
 ま、でも、今はお前達が頼りなんだし、俺達も可能な限りはサポートするから、死なない程度に頑張れよ。
 死ぬ事以外はかすり傷だから」
「はい……」
 ギベオンがぽろっと出してしまった本音、弱音とも言うが、それを聞いたアルビレオは少しだけ寂しそうな色を乗せた苦笑を見せた。ホムラミズチの一件で退かなければならなかったとは言え、元は探索の前線に居た冒険者なのだから、本当なら自分も武器を携え探索に出たいのだろう。すぐに港長の役に立てた程の技術の持ち主であるが、やはり冒険者だった事は彼の中で特別な経験であるらしく、ここに居る事は歯痒いのかも知れなかった。
 それでも持ち前の明るさと、面倒見の良い港長のお陰で腐る事無く交易場で生き生きと働く事が出来ているアルビレオは、ギベオンの目には眩しく見えた。自分がアルビレオの立場であったとしたら、はたして彼の様に振る舞えるだろうか。そんな事をぼんやり思ったが、たらればは無い。僕は僕のやれる事をやろう、とギベオンはいつも緩んで半開きになっている口元をぎゅっと引き締めた。
「それで、何かあったんですか?」
「ああ、こないだから帝国の兵士達がこっちに来てるだろ。その中の技師と話す機会があってさ」
「へえ? 港長も帝国との会談の時に話を聞いたって言ってましたけど、やっぱりあちらの技術とか気になるものなんですか?」
「俺は気になるからってあの人みたいに敵陣地を堂々と歩いて技師捕まえて話聞こうとは思わねーよ……」
「そ、そうですよね……すみません……」
 どうやらアルビレオは少しずつタルシスに移動してきている帝国兵と話した様で、港長も以前ギベオン達が南の聖堂で辺境伯の護衛をした時に一緒についてきたかと思えばふらりと居なくなり外に停泊していた艇の技師と話をしてきたと言っていたから、気球艇の開発をする人はやっぱり好奇心旺盛なんだなあなどとギベオンは思ったのだが、どうやら港長が特殊であるだけらしい。アルビレオのほとほと困り果てた様な顔を見て、恐らくあの後もギベオン達が知らないだけで港長は絶界雲上域の上空を勝手に飛んだのだろうという予測はついた。
「それでな、その技師に聞いたんだが、世界樹が枯れちまったのは地底深くにある何かが起動して力を吸収したから、らしいんだ」
「力を全て根の方に集中させたって事です?」
「だろうな、状況は厳しい。でも、巫女はまだその何かに取り込まれてないと思う。
 取り込まれてたら、多分枯れただけで終わらない筈だからな」
「……まだ、間に合うんですよね」
「ああそうだ、間に合う。だから焦るんじゃねえぞ」
 アルビレオはその帝国技師に、気球艇の事ではなく世界樹についての事を尋ねたらしい。すっかり港長に毒され、もとい感化されたのか、最近は機械弄りも楽しいと以前木偶ノ文庫に無事侵入出来た後に倍速巡航推進器を作ってくれた礼を述べに交易場を訪れた際に言っていたので、てっきり帝国の艇についての話をしたのかとギベオンは思っていたのだが、知り合いの――否、友人の不安を少しでも和らげる為の話題を聞いてくれた様だ。ギベオンは確かに体格がとても良い部類だがその実とても小心者だから、いくら仲間が支えてやっていたとしても絶えず不安は付き纏っているだろうと考えてのアルビレオの言葉は、ひどく有難かった。
「それと、お前んとこに帝国の女が来たろ。えーっと……」
「モリオンですか?」
「そうそう、そのモリオンだけど、帝国のお偉方から皇子に取り入る為に散々利用されたのに、
 いざ皇子の側女になったらすげえ陰湿な嫌味ばっか言われてたんだと」
「え……」
「だから、もしそんなクソ野郎共の言う事鵜呑みにして詰る様な兵が居たら守ってやって欲しいんだってさ」
 そして不意に出されたモリオンの話題に、ギベオンは思わず絶句した。木偶ノ文庫の地下三階でローゲルと話していた帝国兵が、モリオンは他家の文官達に随分と酷い仕打ちを受けたがバルドゥールの側女になった後は無くなったと言っていたのに、実際はそうではなかったらしい。父親も叔父も皇帝と共に出立したまま戻らない、母親は入水自殺という、名家ではあるが後ろ盾を全て失くしたモリオンは、ギベオンの想像もつかない様な日々を過ごしてきた様だ。それがどれだけ彼女の心をすり減らしたか、つらくて悲しい思いをしたか、ギベオンは考えるだけでぞっとしてしまう。
 しかしそれを言えばクロサイト達から君も大変な日々を過ごしてきたのだぞと窘められてしまうかも知れないのだが、彼は既に故郷に居た時の事はおぼろげなものになってきている。タルシスに来てから自分はみなしごだと言い続けてきた為に、彼は自分でも気が付かない内に少しずつ記憶を改竄しつつあるのだ。セラフィがペリドットを故郷から攫った日の夜、酒場でギベオンはクロサイトに自分の故郷では嘘も百回言えば真実になると言ったが、彼は自分自身がみなしごであるという嘘を真実にしようとしていた。だからギベオンはもう両親の顔を思い出せないし、城塞騎士見習いとして入っていた部隊で散々苛めてきた同僚の顔も忘れてしまったし、何より自分に両親が居て生まれた家がある事、同僚に苛められていた事を忘れてしまった。だからなのか、モリオンが置かれていた境遇に対し自分と同じ様なつらさを味わったのだろうかなどとは微塵も思えず、彼女があれ程までに人と距離を置きたがる理由も察したし胸が痛んだ。
「彼女、木偶ノ文庫で病に罹った兵士達の世話をずっとしてて、重篤な病人にも嫌な顔一つしなかったらしい。
 その技師のおふくろさんがもう助からないって状態になってて、自分達家族は感染が怖くて近寄れなかったのに、
 何の躊躇いも無く最期は側で手を握って看取ってくれたそうだ」
「………」
「なあギベオン、側に居るお前の方が分かってると思うけど、
 俺はそんな女が保身の為に色仕掛けで権力者に取り入ろうとするとは思えないよ。
 幸いお前はフォートレスだからさ、守ってやんな」
「はい」
 アルビレオは、今ギベオンが感じた憤りと同じ思いを技師から聞いた時に抱いたのか、守ってやれという言葉に力を籠めていた。技師から聞いた、モリオンが上層部から言われ続けた陰湿な嫌味とやらの一部を思い出して不快感を催したのだろう。ギベオンも彼女が浴びせられたのであろうその言葉に素直に腹が立ったので、しっかりと頷いた。そもそも危険を冒してまでクロサイトとセラフィを助けてくれた女性がそんな下心を持ってバルドゥールに接近するとも思えないし、何より彼女はギベオンが今まで見てきたどんな騎士より気高い。ギベオンにとって、モリオンは尊敬に値する騎士だった。
 以前の様な頼りない表情を全く見せず、凛々しい顔立ちで頷いたギベオンに、アルビレオはどこか安堵したかの様に小さく笑った。それはまるで、弟の成長を喜ぶ兄の様でもあった。



 金剛獣ノ岩窟の深部では以前探索した時の様に魔物にも苦しめられたが、水場を毛嫌いしているセラフィと、ホムラミズチと戦った大空洞に復活していた大きな鱗を破壊した後は高所恐怖症なクロサイトが凍った水場の上を歩く事を極度に嫌がったので、二人を宥める事にも苦労した。以前金剛獣ノ岩窟を探索した時はペリドットが居てくれたのでセラフィの宥め役を任せられたが、今回はギベオン一人で宥めたのでそれはもう大変な思いをした。さっさと先に進もうとするモリオンを引き止めてくれたのはローズで、最終的にはギベオンがクロサイトとセラフィの首根っこを掴んで彼女達を追い掛けた。いつもならセラフィがギベオンの首根っこを掴むというのに、今回ばかりは逆となった。
 ヨウガンジュウとヒョウガジュウに苦しめられた記憶もそれなりに新しいけれども、あれよりも更に強力で、大変安易に超を付けただけの魔物には随分手を焼いた。ただ、モリオンのドライブとローズの印術がかなり役に立ってくれたし、モリオンは炎のドライブが、ローズは氷の印術が得意であったから役割分担が出来てローズは嬉しそうにしていた。ペリドットに対してもそうなのだが、ローズは姉が出来た様に思えたらしく、モリオンによく懐いた。それでも前述した通りモリオンは基本的に誰にも近寄ろうとはしなかったし、特にローズには砲剣が危ないから不用意に寄るなと言っており、中々溝は埋まらなかった。
「あら、暫くぶりね。依頼でも受けに来てくれたの?」
「そんな余裕あるか。本当ならクロが来る予定だったんだが目が霞んできてるみたいだったから先に帰した」
 その日の探索を終え、喧騒の間を縫って孔雀亭まで足を運んだセラフィを見て、ガーネットはおどける様に依頼書が所狭しと貼られたコルクボードを見る。世界樹が枯れた今でも迷宮探索に関連する依頼は多く、あの巨大な樹が枯れてもどこか遠くの国の出来事と思われているのではないかとセラフィはクロサイトに言付けられて持ってきた兄お手製のビターズが入った小瓶をカウンターに置きながら僅かに眉を顰めた。
 クロサイトが作るビターズは他のどの業者が作るものよりも苦味のバランスが良くカクテルを作るには適しており、何よりガーネットの口に合わせて作られているものなので、彼女はこのビターズしか使わない。元はウロビトの里からタルシスに移住し、慣れぬ人間の街での生活に胃を痛めていたガーネットに、クロサイトが胃薬代わりにと贈ってくれたものだ。自分用に作っていたものを、ガーネットが少しでも飲みやすい様にと漬け込む薬草の配合を変えてくれたらしい。それを、今でも定期的に作っては無償で贈ってくれている。
 そういう心配りが出来る男であるし、お互い憎からず思っているのであるが、今のままの距離、関係が心地よいのもまた事実で、クロサイトがローズに父であると名乗り出た今でも二人は特に関係を密なものにしようと言った事は無い。それで良いとガーネットも思っている。二人の関係は甘いものではなく、このビターズの様に苦いものでも良いと思っているのだ。彼女はありがと、と言いながらその小瓶を受け取り、肩を竦めて言った。
「相変わらず体を酷使する人ねえ……めっ、てしといて」
「それ俺にさせる気か?」
「クロ先生だって私よりセラフィ君にやってもらった方が嬉しいんじゃない?」
「やめろ、気持ち悪い」
 世界樹が枯れたと知った時はかなり気落ちしていたガーネットだが、今はもう随分と元気になった。皆が沈んでるこんな時こそ酒場が頑張らなきゃいけないわよね、と気を取り直して以前と同じ様に切り盛りしており、今の様に冗談を言える程にはなった。しかしそれにもセラフィはますます眉間の皺を深くして苦い顔を見せた。兄が度の過ぎたブラコンであるのはもうとうの昔に諦めたが、かと言って他人に、しかもよりによって兄との間に子を成した女にそう言われるのは大変不本意だ。
「……この間の妙な依頼が無くなっているな」
「妙な依頼? ……ああ、二重螺旋が描かれてる本を探してきてくれっていうやつ?
 木偶ノ文庫の地図を作ってるギルドが引き受けてくれて、昨日持って帰ってくれたからね」
 以前訪れた時、貼られてあった「木偶ノ文庫で二重螺旋の図が描かれた本を探してきて欲しい」という内容の依頼が無くなっており、あんな依頼を引き受けた上に見付けてくるギルドがあったのかとセラフィは妙な感心をした。古代生物の研究をしている男の依頼で、その前は凍てついた地底湖にある氷漬けになった古代生物の死骸を取ってきて欲しいなどという、やはり一風変わった依頼を出していたらしい。セラフィ達は巫女を助けに行く事が目的であって地図の作成もそこそこにしており、深霧ノ幽谷の時もそうだったので、全容を明らかにする為に他のギルドの者達は探索を続けていたりする。引き受けたのはそんなギルドの内の一つだった様だ。
 まあ冒険者など変わった奴しか居ないから不思議な事ではないな、などと自分の事を棚に上げてコルクボードを眺めているセラフィに、ガーネットはそうそう、と話題を変えた。
「ワールウィンドのお兄さんが帰ってきたじゃない? 結構な騒ぎになったけど」
「らしいな。辺境伯の客人扱いになってるから危害は加えられんだろう」
「そうなんだけど。ギルド長のおじさまが一発殴らないと気が済まないって以前言ってたのよね」
「………」
 ローゲルは帝国の人間であるのでタルシスに「帰ってきた」のではなく「戻ってきた」と言う方が正しいのだが、ガーネットにしてみればクロサイトにタルシスへ連れて来られた時には既に街に居た冒険者であったし、依頼を受けてくれる度にお早いお帰りを、と言った相手であるので、帰ってきたと言いたかった。しかも、クロサイトから聞いた事だが自分とはいとこの関係にあたるという。本当に奇妙な縁もあるものよね、と思いつつも、ガーネットは気の毒そうな表情を浮かべたセラフィをちらと見つつ、オーダーが入ったカクテルの準備の為に棚からウォトカを取り出した。
「でも、セラフィ君が力一杯殴ったみたいですよって言ったらそれに免じて許してやろうって言ってたわよ」
「あいつ、命拾いしたな……」
「ほんとよね。ギルド長のおじさまだったら鼻の骨折れちゃうかも知れないもの」
 くすくすと笑いながらウォトカと搾ったライムジュースをシェイカーに入れ、リズム良くシェイクするガーネットの言葉に、セラフィもあの時殴っておいて良かった、と何となく思う。モリオンとの再会の際にまだ青痣が残っていたローゲルであるが、逆に残っていたからガーネットも彼がセラフィに殴られたと信じたのであろうし、ひいてはそれがギルド長から殴られずに済んだ事に繋がるなら逆にローゲルには良かった事になる。ギルド長の拳は重たいからだ。
「急がなきゃいけないのは分かるけど、セラフィ君も無理しない様にね。
 貴方に何かあったらただでさえクロ先生が卒倒するのに、ペリドットちゃんまで泣かせちゃ駄目よ」
「……もう泣かれて懲りた」
「そうよね、子供ちゃん達にもきちんと謝ったんでしょ?」
「余計なお世話だ」
 ギベオンとローズを先にタルシスに帰し、モリオンに手助けしてもらって生還を果たしたあの日、セラフィはガーネットが尋ねた通りペリドットだけではなく腹の子にも母さんを泣かせてすまなかった、と謝った。泣かせるなはあれきりにしたいものだとセラフィも思うが、これから先の事など誰も分からず保障は出来ない。それでも兄の影として生涯独り身を貫くつもりであったしその覚悟もしていたというのに、何の因果か自分の年齢の半分しか生きていない女を娶り、あまつさえ子まで作ってしまった。勿論幸福であるけれども、時折本当に現実なのかと漠然とした不安を抱いてしまう。その度に胸の中に渦巻く暗くて冷たいものを眩い光で全て消し去ってくれるのが、誰でもないペリドットなのだ。太陽の石とはよく言ったものだ、とセラフィはガーネットの手元のシェイカーをぼんやりと見ながら思った。
 カクテルグラスに注がれた酒は、見た目からはその度数が分からない。だがシェイカーに入れられたウォトカとライムジュースの比率を鑑みれば、それなりに強い酒である事はセラフィにも容易に想像出来た。クロサイトやギベオンの鎚の様に重たく強い、スレッジハンマー、だろう。鎚を得物とする冒険者が好んで飲んでいるそのカクテルは、ソファに座って仲間と談笑していた金髪の女性が礼儀正しくガーネットから受け取って行った。格好からしてギベオンの同業者と思われた。
「まあ、私にはここで待つくらいしか出来ないから、皆に時々顔を見せに来てって言っておいて。
 モリオンさんって言うのだったっけ? 彼女にもよろしくね、ローズが随分懐いてるみたいだから」
「ん……、あいつは喧しい所が苦手だから、今度お前がうちに来ると良い」
「そうしようかな。何にせよ、明日も頑張ってね」
「ああ」
 あまり商売の邪魔をしても悪いので辞そうとしたセラフィの黒い背を、ガーネットは軽く手をひらりと振ってカウンター越しに見送った。以前クロサイトとセラフィをタルシスに連れ帰ってくれたモリオンを磁軸まで送った事があるので、娘も懐いている事だしまた彼女と話が出来たら良いんだけど、とも思ったし、もう死んだ従兄の娘でもあるので遠いとは言え親戚のよしみでタルシスでの生活の支えに僅かでもなれたら、と考えていた。



 木偶ノ文庫で起動させた奇妙な紋章がある祭壇は、金剛獣ノ岩窟ではそれなりに奥まった場所にあった。辿り着くまでが難儀であったし、途中の水場が凍った所はやはりギベオンがクロサイトとセラフィの首根っこを掴んで強引に進み、君も中々図太くなったとクロサイトから妙な感心をされた。確かにタルシスに来た約一年前はおどおどとした態度で人の顔色ばかりを窺っていたギベオンだが、今はそうも言っていられない状況であるから図太くならざるを得ない。二人が凍った水場を前に足を止めてもモリオンはさっさと先に行ってしまうし、彼女を追い掛けてローズも行こうとするので、そうなるとギベオンがクロサイトとセラフィを掴んで追い掛けるしか無い。ただ、ひょっとするとモリオンは高所恐怖症のクロサイトと水恐怖症のセラフィが早くこの岩窟に来なくても良くなる様にとわざと急いでくれたのかも知れなかった。
 そして迷宮を繋ぐ通路を発見し、深霧ノ幽谷に辿り着いた時、ギベオン達の安堵とクロサイトやセラフィの安堵はまた種類が別のものであっただろうが、とにかく全員胸を撫で下ろした。それと同時に、ペリドットが書き直してくれた地図を広げたクロサイトよりも早くギベオンがこっちの扉はホロウクイーンと戦った広間に続いてる筈ですねと言った。本当にギベオンはこういった位置を把握する能力に長けているので、ループする道が多いこの幽谷ではその能力が大いに役に立つ。金剛獣ノ岩窟を潜って深霧ノ幽谷の深部に来るのは時間も手間も掛かる為に今回も扉を開けられる様にし、辺境伯に要請を出し実力をつけてきた他の冒険者達に頼んで予め倒して貰っておいたからか、ホロウクイーンの姿が見当たらない大広間から深部へ進める下準備を済ませた。巫女の居ない混乱したウロビトの里を通らなければならないのは仕方ないが、ウロビトの中にモリオンを糾弾する者が居なければ良いのだがと彼女以外の全員が思った。
 相変わらずループする通路と現在位置の把握が困難な幽谷を探索する中で、ちょっとした事件が起こった。幽谷の中でも随分と奥まった行き止まりで、単独で探索をしていたのか、ウロビトの姿を見掛けたのだ。しかしこの深部がホロウクイーンの大広間と繋がったのはつい先頃の事であるので明らかにそのウロビトは不審で、声を掛けるべきかどうかクロサイトは迷った。だが彼のその迷いをよそに、純真なローズはうっかり近寄って声を掛けてしまい、悲鳴を上げた。そのウロビトは、既に死んでいたからだ。その上ウロビトの死体の後ろから緋色のドレスを着たホロウが襲い掛かってきたので、咄嗟にローズの腕を引いたモリオンはすぐさまクロサイトにローズを寄越し、ギベオンは二人を守りながらセラフィとモリオンの加勢をした。里の同志が襲われその死体を囮に使われた事にショックを受けたローズは、しかし泣きながらでも何とか方陣を張ってホロウの脚を縛り、ギベオン達の鎚や剣がかわされる事が無い様にした。
「……ローズちゃん、大丈夫? 怪我、無かった?」
「は、い、……だいじょうぶ、です……」
 何とか三体のホロウを倒したギベオンは、クロサイトの白衣の裾を掴んで涙を堪えるローズに声を掛けた。埋める時間が無いからと、殺されたウロビトはセラフィの手によって草むらに葬られ、身元を証明出来るであろう持ち物を後で里に届ける為に背嚢に入れられたのを見て、ローズはぎゅっと目を瞑って涙を押し出し洟を啜った。そんなローズに目を細めたモリオンが、小さく息を吐いて言った。
「……前々から言おうと思っていたが、私はローズを連れて行くのは反対だ。
 いくら父親が側に居るとは言え、今回の様な事態が二度と起きないとは言い切れんからな」
「それは……そうだけど」
「勿論邪魔だと言っている訳じゃない。
 ローズのウロビトとしての能力はとても高いし、抜けられるとこれから先の道中はつらかろう。
 だが、守るにも限界がある」
「………」
 モリオンは、ローズはタルシスに置いておくべきだとはっきり言った。子供に同志が死んだ所を見せるべきではないし、またギベオンやクロサイトが守れるとも言い切れないから、これ以上の探索にはついて来させるべきではないと考えていた。何も邪険にしているのではなく、ローズの事を思っての発言は、本心としてはローズにタルシスに居て欲しいと思っているクロサイトやセラフィの反論を封じてしまったし、ローズも自分の幼さ故に父達の足手まといになっているのではないかという不安が大きくなってしまい、スカイブルーの大きな瞳にまた涙がじわりと浮かんだ。
 全員が沈黙してしまった事を受け、困った様に頭を掻いたギベオンは、自分の判断を待つモリオンに考えをどう言おうか少し悩んだ後に口を開いた。
「……あの、ね。僕の身長ってこの中で一番高いけど、
 クロサイト先生もセラフィさんも、モリオンも大体目線の高さって同じでしょ?」
「……それがどうした」
「でも、ローズちゃんの目線って、僕達よりぐっと低い。
 ローズちゃんは僕達が見えるものが見えない事も多いけど、
 僕達が見えないものとか、気が付かなかったものを見付ける事が出来るんだよ。
 ペリドットもそうだったんだけどね」
「………」
「抜け道とか、隠し通路とか、今一番見付けてくれるのってローズちゃんなんだ。
 確かに、危ないからタルシスに居て欲しいけど……」
 何を言い出すんだ、と言いたげであったモリオンは、しかしギベオンが中腰になってローズの目線の高さと同じ位置まで自分の目線を低くして説明する姿に、今度は自分の反論を封じられた。彼の言う通りローズはモリオンが探索に加わってから、歩く速度は大人と比較にならない程遅くとも、気になる所で立ち止まっては壁の隙間を通れないかとクロサイト達に聞いてきた。それが結果的に近道となって探索が楽になったり、また時間の短縮になったのも事実だ。急がなければならない今の状況では、歩きながら皆の傷を少しずつではあるが癒やす事が出来、抜け道を知らせてくれるローズは、貴重な人材と言えた。
「モリオンは、ローズちゃんに悲しい思いして欲しくないし怪我して欲しくないんだよね。
 砲剣の熱で出来た火傷、腕に残ってるから、ローズちゃんは無傷で居て欲しいんでしょ?」
「……私は前線で戦う騎士だ、戦場に出て一生残る傷を負っても何ら不思議じゃない。
 だが、ローズは違うだろう。安全な場所に居て欲しいと思って何が悪い」
「悪くないよ。君は正しい。だから、連れて来てる僕達が本当は間違ってるんだ。
 でも……僕が守ってみせるから、僕に免じて連れて来て良いかな」
「………」
「ね。この通り」
 鎚と盾を自分の体に立て掛けて、両手を合わせて自分を拝んで頼んできたギベオンに、モリオンは眉間の皺を一層深くする。モリオンの言い分も正しければ自分の非を認めた上でそれでも連れて行きたいと言うギベオンの主張も退けられるものではなく、クロサイトもセラフィも口を挟まずただじっと経過を見届ける事しか出来なかった。ローズはおろおろしながらも、クロサイトが抱いた肩を撫でてくれていたので落ち込みつつも二人の遣り取りを見ていた。
 ギベオンが言った通り、モリオンは両腕に砲剣のオーバーヒートによる火傷の痕が広範囲に残っている。知らぬ者が見ればぎょっとする程の痕だ。両親から鞭打たれた痕が多く残るギベオンと同様、人前では決して腕捲りをしたがらない彼女は、まだ大きな怪我を負った事が無いローズに傷痕が無い体のままで居て欲しかったし誰かが殺された所に遭遇して悲しい思いをして欲しくなかった。気難しそうに見えるモリオンは、しかしその実とても心根が優しい女性であるから、ローズには安全な場所で待っていて欲しかったのだ。
「……私の事は捨て置いて構わないから、必ず守れ。良いな」
「どっちも守ってみせるよ。僕、体だけは大きいから」
「……勝手にしろ」
「うん、勝手にする」
 そして、暫しの沈黙の後にモリオンが諦めにも似た溜息を吐き、最終的には折れた。全員を守ろうとするギベオンに新たな不安を抱える羽目になってしまったが、こいつはこういう奴なのだなと無理矢理自分に言い聞かせた後、ローズに絶対に前に出過ぎるなよ、と釘を差してから先に歩き始めた。そんな彼女の背を苦笑しながら見遣ったギベオンはクロサイトとセラフィに行きましょうと言い、二人も黙って頷いてからその場を後にした。



 複雑に入り組み、ループする深霧ノ幽谷では、ウロビトの死骸を囮にしたホロウプリテスや、以前巫女がホロウクイーンに攫われた際に探索した時に見掛けた巨大な鳥の魔物よりも更に強そうな魔物に困らされたが、ループするが故に撒く事も出来たので、無駄な戦闘はなるべく避けた。そして祭壇を何とか見付け、例の迷宮を繋ぐ通路も発見し、これで煌天破ノ都から碧照ノ樹海までが繋がる事が予測から確定へと変わった。まさか幼い頃から見てきたが存在は遠いものであった世界樹から、生まれ育った風馳ノ草原までがこんな風に続いているとは考えた事が無かったクロサイトとセラフィはただ呆然としたし、タルシスに戻って報告に訪れた辺境伯も戸惑いの表情を浮かべていた。
「世界樹と主だった迷宮は元は一つの迷宮で、幾つもの理由から地下道が閉ざされ今に至ったという訳か。
 それぞれの地域を閉ざす事で世界樹の力を内に封印しようとしていたのかも知れぬな」
「木偶ノ文庫で見た本にも、似た様な事が書いてありました。
 地形を利用し、世界樹に物理的な三重の封印を施し、世界樹の暴走による被害を内だけに留める……だったかな」
「ふういんのかいじょは、がいぶからのみかのう、です」
「ああ、そうそう。恐らくこれは各大地を繋ぐ谷の封印の事でしょう」
「なるほど……地上だけではなく地下でも封鎖しようとしたのか。
 そこまで徹底して封じなければならない程、世界樹は強大な力を持っている……という事であるな」
 クロサイトが暗誦した内容を受け、ローズが補足する。それを聞いた辺境伯はううむ、と唸り、そのまま考えこむ様に腕の中のマルゲリータを撫でて黙ってしまった。
 バルドゥールが言った様に、帝国が抱える問題はタルシスにとっても遠い国の話ではない。もしバルドゥールの立場にあり、領民が苦しむ姿を見て、果たして何の手立てが出来るだろうか。絶界雲上域はタルシスと違って他の国との交流も持てない、封印によって閉ざされた国だ。後継者も居ない、後に残されるのは領民のみ、という身の上は同じであるが、辺境伯には国や地域との交わりがある為に救援を要請する事は可能であり、バルドゥールは不可能だった。それ程までに追い詰められたか、若さ故に古い家臣達に軽んじられた事も多かったろう、と思うと、遣る瀬無くなる。
「まだこの様な状況の内から言うのは気が早いとは思うのだが……、
 私は世界樹の向こうで暮らす帝国の民を、タルシスに移住させる事を検討している」
「移住、ですか」
「うむ。以前ギベオン君が、具体的な解決策が見付かるまでタルシスに避難出来ないかと言っただろう?
 他国の民とは言え昔は一続きであり、そして同じ国の民であった筈の者達だ。ならば私にも守る義務がある……そう思っている」
「………」
 沈黙を破り、告白した辺境伯のその言葉に真っ先に反応したのは、モリオンだった。辺境伯とはまだ片手で数える程度しか対面、会話をした事が無い為に人となりが分からないので、彼の言葉をどう受け止めたものか彼女には判断出来なかった。そんなモリオンの手の強張りに気が付いたギベオンは、辺境伯に今少しの説明をして貰おうと彼を見た。
「勿論、世界樹の一件が無事に終わったらの話だ。
 バルドゥール皇子との戦いは避けられぬだろうが、無事な姿でまたよく話し合う席がきっと設けられると私は信じているよ。
 双方にとって最善の案が出せる様、私も力を尽くそう」
 帝国民の移住ともなると、帝国皇子であるバルドゥールの同意を得ると共に彼の命が下って初めて行われるのが道理であるし、辺境伯もそのつもりであるとはっきり言い切ったので、モリオンも一先ずほっとする。辺境伯の提案に乗る事は望ましいし、寧ろ移住を受け入れて欲しいと、絶界雲上域の現状を見ている彼女としては切に思うのだが、一兵卒にしか過ぎない自分が口出しすべきではないと弁えている。だから、辺境伯の今の言葉は素直に有難いものだった。
 多少、モリオンの表情が柔らかになった事を受け、辺境伯はついとクロサイトに視線を移してから言った。
「その為の準備と用意は今の内からしておこう。その際はクロサイト君、頼まれてくれるね?」
「私は単なる街医者だと何度言わせるのですか」
「タルシスの外交官の肩書きを与えているではないか」
「平職員にそんな大仕事を任せないで頂きたい」
「外務長官にしても良いのなら任命するが」
「心の底から慎んでご辞退申し上げます」
 辺境伯の要請に露骨に嫌な顔をしたクロサイトは、外務長官という単語に語気を強めて拒絶した。彼は医者である事を誇りに思っているし、ただでさえ冒険者に復帰して住民達のかかりつけ医としての職務が片手間となっているのに、そんな役職まで任されては医者そのもので居られなくなってしまう。クロサイトが飽くまで医者でありたいと思っている事を重々承知している辺境伯は、冗談だよと愉快そうに笑った。彼は、クロサイトやセラフィをこんな風に弄るのが好きなのだ。
 辺境伯とクロサイトの遣り取りを見ながら、モリオンは煌天破ノ都に居るであろうバルドゥールに思いを馳せる。ここまで砕けた統治者でなくても良いが、殿下がもう少しだけ肩の力を抜いて部下や領民に接する事が出来る様な環境にしていければ良い、その為には自分の命を投げる事も厭わない、そんな事を考えながら、彼女は無意識の内に右腕を押さえつける様に握っていた。



 天気の良い空の下の碧照ノ樹海は気持ちの良いものだが、どこからともなく湧いて出てくる魔物には相変わらず苦労するし、ギベオンにとって碧照ノ樹海と言えばクロサイトの患者であった頃に重装備で散々走らされた所であるので、あまり良い思い出が無い。それでもローズは生まれ育った深霧ノ幽谷に比べて乾いた風が吹き、鬱蒼と木々が生い茂っているとは言え濃霧は立ち込めていないし、見た事が無い植物を多く見られて嬉しそうにしていた。だがクロサイト達が見慣れている熊ではなく、紫に近い青い毛に覆われた熊が縄張りを主張するかの様にうろついており、熊の恐ろしさを知っているギベオンは極力その熊に見付からない様に歩みを進めた。倒木で塞がれている道はわざと熊に見付かり追い掛けさせ、どさくさに紛れて破壊してもらったが、ある意味命懸けであったと言っても良いだろう。ローズはクロサイトに抱えてもらい、この時ばかりはギベオンが殿を務め、やっとの思いで熊を撒いた。
 ギベオンの意見を聞きながら現在地と碧照ノ樹海の地下三階の照らし合わせをし、クロサイトが昔セラフィと二人で倒したベルゼルケルの背後にあったらしい祭壇の位置を確認して、煌天破ノ都の石扉を開ける為のスイッチになっていると思われる祭壇を探すよりも先に近道になる扉の開放を急いだのは、深霧ノ幽谷から長い道を辿って碧照ノ樹海に来なければならないという時間の無駄を省く為だ。その扉の開閉が出来る様にした頃にはもう日はとっぷりと暮れてローズが眠たそうにしており、アリアドネの糸でタルシスに戻って皆くたくたの体を何とか奮い立たせて診療所までの階段を上ったが、ローズはまるで赤子の様に夕食を食べながら眠ってしまったし、夕食よりも睡眠を欲していたギベオンに至っては自室に戻る廊下で力尽きて眠りこけてしまった。体格の良いギベオンを部屋まで運べる者などセラフィしか居らず、彼も疲れていたので担ぐのではなく引きずった為に、翌朝ギベオンは謎の頭痛や打ち身に首を捻るばかりだった。
 ゆっくりしている暇など無いが体が休みを欲しているのだから、と、その日の探索は午後から行くという事になっており、二度寝をしたギベオンとセラフィが起きた頃には午前十時を回ろうとしていた。身支度を整えたギベオンがダイニングへ出ると、そこには珍しい客が居た。
「あら、おはようギベオン君。随分疲れてたのね、まだ半分寝てる顔してるけど」
「ガーネットさん……どうしたんですか?」
 ローズを隣に座らせて興味深げに碧照ノ樹海の地図を覗き込んでいたのは、ガーネットだった。店は従業員に任せて娘に会う為に来たのだろうかとも思われたが、それにしては表情があまり明るくなく、ギベオンは聞いて良いものなのか分からない。困っていると、彼女の向かいに座っているクロサイトが代わりに説明してくれた。
「実はな、ベオ君。統治院お抱えの研究者が殺された」
「え……えっ?」
「彼が以前、酒場に出した依頼があってな。
 納品された魔物の死骸と、木偶ノ文庫にあった書物を使って古代生物を蘇らせたそうだ。
 そこまでは良かった……いや、命の操作などあまり褒められた事ではないのだが……
 今はその話は置いておいて、とにかくその蘇った魔物に襲われて殺された挙句、どうも魔物は碧照ノ樹海に逃げたらしい」
「……今日行くじゃないですか碧照ノ樹海」
「それなのだ。こちらとしても体力の温存はしたいところだが、碧照ノ樹海は新米の冒険者達も多く立ち入るから何とかした方が良い。
 何より、多分私達の探索の妨げになる」
「そうですね……」
 ガーネットから聞かされた情報を簡素に伝えてくれたクロサイトの言葉に、ギベオンも考えこむ。どんな魔物かは知らないが、自然の摂理を捻じ曲げて蘇らされたその魔物がタルシスに近い碧照ノ樹海に逃げ込んだとなれば、冒険者だけではなく時折散策に向かう住民達にも被害が及びかねない。そして、クロサイトが言った様に煌天破ノ都の石扉を開ける為の仕掛けを探している自分達の探索にも影響が出てくる。ガーネットもこの一件は自分達にしか頼めないと、わざわざ出向いてきたのだろうとギベオンにも分かり、既にダイニングに揃っている全員を見回して言った。
「分かりました、今日はその魔物を探しに行きましょう。時間は惜しいですが、放っておけませんから」
「そうしてもらえると助かるわ。お早いお帰りを待っているわね」
 ギルド主であるギベオンの決定には基本的に従う事になっているクロサイト達は、彼の言葉を了承して頷く。ペリドットにまた心労を掛けてしまうのは申し訳ないのだが、毎日探索している以上は誰かが死ぬかも知れないという危惧は付き纏うものであるから、複雑そうな顔をしている彼女の事はセラフィに任せてギベオンはクロサイトに何を準備するかの相談を始めた。



 久しぶりに訪れた碧照ノ樹海の出入り口は、ひどくのどかなものだった。ギベオンがこの出入り口をクロサイトに連れられて何度も潜ったのもまだ約一年前の事なのに、随分昔の事の様にも思える。そう感じたのは何もギベオンだけではなくクロサイトも同様であったのか、出入り口の近辺で七香銀アユの開きを焼いて食べながらまじまじと樹海の中を覗き見ていた。
 ガーネットによれば蘇らせた魔物に襲われた研究者の遺体は食い荒らされた挙句に焼け焦げていたらしく、魔物が炎を操る事を知らしめていた。その為ホムラミズチと戦った時と同様に、食べると炎への耐性が上がるらしい七香銀アユを摂取しておいた方が良いだろうという事になり、釣りに行っている暇も無いので干物を買い求めたという訳だ。クロサイトはよく「私は汚い大人なので金で解決する」と冗談を言うのだが、今回も時間を金で買った事になる。モリオンは食べた事が無いアユに訝しげな顔をしつつも興味があるのか、焼き立ての開きに息を吹きかけ冷ましながら食べていた。
 逃げ込んだのは碧照ノ樹海、との事だったが、この樹海も中々どうして広い。闇雲に探しても時間を食うだけであるから、居る筈のタルシス兵士達に手掛かりが無いかを聞こうという運びとなった。
「懐かしいなあー。ここ随分走らされましたよね」
「そうだな、私も随分ボールアニマルを熊にぶつけたな」
「ほんとあれ怖かったんでもう二度としないでくださいよ……」
「君が太らない限りはな」
 遭遇する魔物はギベオン達が動くまでもなく先を歩くセラフィが黙々と倒していく為に、彼以外の全員はその後姿を見ながら束の間ののどかな散歩時間を満喫している。ローズも途中で見付けた小さな花を指輪にして嵌めており、まるでピクニックに来たかの様だ。そんな中モリオンだけはむっつりした顔を崩さぬまま、首を傾げた。
「走らされたとは何だ。ここはタルシスの訓練地なのか?」
「あ、いや、僕本当はクロサイト先生の所に痩せに来たからここで走り込みとかしてたんだ。
 食べ過ぎで体重143キロあったから」
「ひゃく……」
 ギベオンがタルシスに居る経緯を知らないモリオンは、彼がさらりと言ってのけた元の体重に絶句した。今でもどちらかと言えば肉付きの良い体であるし、抜け道は体格の良さ故に通り難そうにしてはいるが、まさかそこまでの巨体の持ち主だったとは思いもしなかったのだ。目を丸くしたままのモリオンに、ギベオンはへへ、と鼻の頭を掻きながら照れ臭そうに笑った。
「去年の素兎ノ月にタルシスに来て、怒猪ノ月に卒業したんだ。
 でも、どうしても世界樹の近くまで行ってみたくなっちゃったから、
 クロサイト先生とセラフィさん拝み倒してついて来て貰ったんだよ。
 そしたらいつの間にかこんな事になっちゃったんだけどね」
「本当はもう少し絞り上げたかったのだが諸事情により時間切れとなったのだ。
 金剛獣ノ岩窟とかを探索する様になったから痩せるかと思ったのだがな……」
「えっ?! まだ絞った方が良いですか?!」
「潜り難そうな抜け道が無かったとは言わせんぞ」
「うぅっ……すみません……」
 クロサイトのギベオンの現状の体型は不承不承認めていると言いたそうな声音の言葉は、モリオンだけでなく前を歩くセラフィも何となく頷いてしまいそうになり、ギベオンは居た堪れずにその大きな体を縮こまらせる。ギベオンは元から骨組みもしっかりした肉付きの良い体の持ち主であるので体重が落ち難く、痩せてもそこまで引き締まった様には見えないであろうという事は予測がついた。それでもクロサイトとしては、もう少し絞め上げたいところなのである。否、今の体型も悪くはないし、自分の元に来た時の姿を思い出せば本当にギベオンは引き締まった体になっているのだが、もう一声、と思うのも事実なのだ。
 モリオンはギベオンの元の姿を知らないので、訝しげな顔で彼を見る。体格の良い男だな、とは思っていたものの人生の中でギベオンより大柄な男を殆ど見た事が無いので想像もつかず、今のこの体型に持っていくまで一年も必要としなかったというクロサイトの手腕の凄さにも勿論驚いたが、どういう事をやっていたのかはあまり想像したくはない。先程見掛けた、ボールアニマルとか言うらしい球状の魔物をぶつけて怒らせた熊に追い掛けさせる、などというのは中々に乱暴な、と思いつつ、とうさまそんなことしていたのですかと尋ねたローズに危ないから真似してはいけないよ、などと言っているクロサイトを改めて変な医者だと思った。そしてその荒治療を諾々と受けていたらしい、少々締まりの無い顔をしたままセラフィにいくら好きだからってボールアニマルを持って行こうとしないでくださいと言っているギベオンも変だと思ったし、いつの間にか小脇に抱えていたボールアニマルを渋々手放したセラフィもまた変だと思った。まともなのはローズだけなんじゃないのか、いやペリドットもか、と妙な納得をして一人頷いたモリオンに、ギベオンは首を傾げるばかりであった。
「……おかしいな、誰も居ない」
「交代するにしても要員が来てからの筈だが……」
 碧照ノ樹海では決められた位置にタルシスの兵士が配置されており、階段の付近には必ず一人は居る決まりであるが、ギベオン達が地下二階に降りようとする所でも、また下った所にも兵士は誰一人として見当たらなかった。タルシスに来て間もない冒険者も多いこの碧照ノ樹海に魔物が逃げ込んだのは一大事であるから探索していたギルドの者達は避難する様にという指示が下されている様で、それは入り口に配属されている兵士から聞いているのだが、かと言って樹海の中に居る兵士まで退避させたとは聞き及んでいない。セラフィはギベオンと彼の後ろに居る兄にどうするかの指示を目線で促し、先にギベオンが口を開いた。
「地下三階に降りてみましょう。そこにも兵士さんが居なければ一旦祭壇へ向かいます」
「そうだな。そうしよう」
 ギベオン達が探索を進めたいのは、地下三階の祭壇の奥だ。そこに行くまでに遭遇出来るのならば一番良いし、手間も省ける。前日に深部から開放した、ベルゼルケルが居たという大広間は、他のギルドの者達なのかそれともタルシスの兵士達なのかは分からないが既に討伐された後であったのか、新たに獣王となっていた個体は居なかったので無駄な体力を消耗せずに済むだろう。そう踏んで最短距離を通り地下三階へ続く階段へと急いだが、やはりそこにも警備の兵士の姿は無かった。そして、階段を下りながらセラフィが僅かに進める足を鈍らせたので何事かを感じ取ったのか、とギベオンが思うや否や、セラフィは一目散に階段を駆け下りて行ってしまった。一体何だと思いながらギベオンも大急ぎで階段を下りると、セラフィが明らかに錯乱した様子のタルシス兵士の腕を掴んで事情を聞こうとしていた。
「は、離せ、離してくれっ! 頼む、離してくれ!」
「危害は加えん、何があったと聞いている!」
 割れたヘルムの下から覗く兵士の顔は恐怖で歪み、涙と鼻水でぐしゃぐしゃに濡れている。鎧で隠れていない膝の辺りには、失禁の跡が見られた。随分と恐ろしい思いをした様だ。かなりの腕力を持つセラフィでさえ暴れてもがく兵士を取り押さえるには苦労しており、ギベオンも加勢に入りたかったのだが、クロサイトが彼の肩を掴んで止めた。複数人で取り押さえると突然死してしまう危険性があるからだ。
「な、仲間はみんな喰われちまった、ありゃ化物だ!!」
「その化物を探している、どこに居る!!」
「さ、祭壇だ、ここから東の……!!」
「そうか、分かった、お前はここで暫く休んでろ」
「?!」
 あまりにも取り乱し正常な判断が出来そうにないその兵士の項に手刀を食らわせ、鮮やかに一撃で気を失わせたセラフィは、ずるりと地面に膝をついた兵士を苦々しく見る。離して逃がしてやっても良かったのだが、あのままであれば恐らく熊の塒の前を一目散に駆けて行きかねず、折角命からがら魔物から逃げられる事が出来たというのにタルシスにも戻れず樹海の肥やしになる可能性が高かった為に、敢えて気絶させたのだ。
「このフロアで間違い無い様だな。東の祭壇と言ったら、昨日開通させたあの扉か」
「そうなりますね。……その兵士さん、草むらに隠しておきますか?」
「その方が良いだろうな。書き置きも残しておいてやろう」
 東の方を見遣るセラフィの足元に崩れ落ちた兵士を指差したギベオンが意見を尋ねると、クロサイトも頷きながら同意する。正気に戻って少し冷静な頭にした方が安全に樹海から抜け出る事が出来るからだ。恐らく、碧照ノ樹海に配属された兵士達は逃げ込んできた魔物を追い掛け、そして餌食になったのだろう。今ギベオンが草むらにそっと横たえた、気絶した兵士だけが運良く生き延びたという事になる。それはそれで地獄の様な気がする、と、ギベオンは背筋にぞっとするものを覚えた。だが、今から自分達が挑むのはその魔物だ。弱気になっていては倒せない。ギベオンはクロサイトが書いたメモ用紙を兵士の胸元にそっと置いてやると、しっかりと地に足を踏ん張らせて立ち上がった。
「行きましょう。
 これから先は僕が先頭を歩きますから、クロサイト先生はローズちゃんをよろしくお願いします」
「うむ。見付けるまではとにかく体力温存だ、良いな」
「はい」
 先程までの頼りない表情はどこへ行ったのか、ギベオンの顔付きは精悍で凛々しいものとなっている。この場に居る全員、自分が守るべき者達なのだという意思がはっきりと宿った翠の瞳は強く、また頼もしい。そのギャップにモリオンは目を瞬かせたが、そんな彼女の目線に気が付く事無くギベオンは歩き始めた。
 クロサイトが若い頃にセラフィとこの樹海を探索した時、そしてギベオンが患者であった頃にペリドットとこの樹海を歩かされた時に作成した地図は、どこにどんな抜け道があるか、また隠し通路があるのかを網羅しており、ベルゼルケルが守っていた祭壇までは一時間も経たない内に辿り着く事が出来た。だが、狭い通路を抜けた先に広がっていた光景は思わずギベオンの足を止めてしまったし、咄嗟にセラフィやモリオンが自分の体を使ってローズがはっきりと見えない様に立ち塞がってしまったのは仕方ない事であっただろう。祭壇の前の地面には夥しい量の血痕が広がり、いくつもの鎧や人間の一部であったのだろう肉塊が散乱している。セラフィにとっては見慣れたもので、ギベオンにとっては金剛獣ノ岩窟で見た以来のものは、彼らだけでなくモリオンやクロサイトの喉をも胃酸で焼いた。クロサイトの少し筋張った手はローズの目元を覆っており、彼女だけは見ずに済んだが、今からここを通らねばならないので、嫌でも見る羽目になってしまうだろう。
「……血、十二時の方角に続いてますね」
「巣でも作るつもりだろうな……ゆっくり食べる為に」
「でしょうね……野放しにすると危険ですし、やっぱり討伐した方が良さそうですね。
 ……モリオン、大丈夫? 顔色悪いけど……」
「言ってられるか、さっさと行くぞ」
「うん……そうだね」
 血痕は祭壇の奥、昨日ギベオン達が通ってきた深部の方へと続いており、魔物はまだ人間が殆ど行き来していない場所へ姿を隠した様だった。そこはギベオン達も調査せねばならない場所であるから、やはり探索の妨げとなる。ギベオンは青褪めた顔をしているモリオンを心配そうに気遣ったけれども、彼女は砲剣を握り締めると喉まで込み上げてきたものを気丈にも無理矢理飲み下して先へ行く事を促した。
 氷の中で静かに眠りに就いていただけなのに、自然の摂理を歪めてまで蘇らされたが、人間を襲ったのは恐らく腹が減っていたからであろうし、そう考えると人間の勝手で蘇らされて倒されるというのは魔物にとっては理不尽この上無いだろう。本当に人間というのは勝手だ、とクロサイトは苦々しく思い、ローズを抱き上げると私が良いと言うまで目を開けてはいけないよ、と言った。エレクトラ達の無残な姿が未だトラウマとなっているローズに、これ以上の悲惨な光景を見せたくなかったからだ。モリオンが言った、守るにも限界がある、というのは本当にその通りで、逆を言えばこんな光景をローズに殆ど見せずに済んでいるというのは僥倖に近い。錫杖とロッドはモリオンが持ってくれたので、ローズはクロサイトに抱き上げられた状態で父の言い付け通りぎゅっと目を閉じ小さな両手で顔を隠したまま扉を潜った。
 扉の向こうには、昨日通った時には無かった血痕が北の扉に向かって点々と続いていた。緑の草花が疎らに覆い、ここを生息地とする多くの動物達が踏み慣らし小さな憩いの場となったのであろう少し開けたその小広間に落ちている血はどことなく不釣り合いにも見える。だが、奥の扉の向こうに居るのであろう蘇った魔物の異様な気配を察知したのか、小鳥の囀りさえも聞こえない不気味なまでの静けさは、全員の背筋に嫌なものを走らせた。ローズを下ろし、モリオンから娘の持ち物を返してもらったクロサイトは、じっと立ったままその扉を見詰めるギベオンが動くのを待った。
「――ローズちゃん、僕より前に絶対に出ない様にね。ホムラミズチの時みたいに、後衛に徹するって約束して」
「はい」
「モリオンも無理だけは絶対にしないで。危険だと思ったら僕の後ろに隠れて欲しい」
「死ぬつもりか?」
「まさか。耐えてみせるよ」
「……ふん」
 扉を開ける直前、振り返ってローズとモリオンに釘を差したギベオンは、覚悟を決めたかの様に口元を引き締めてからセラフィに目配せをした。開けます、というその視線にセラフィも応じ、二人でその重厚な扉を開け放った。
「………!!」
 ごう、という音と共に、熱や砂塵を孕んだ突風が吹き付け、ギベオンは思わず眉を顰めながら無意識の内に盾を構えた。ホムラミズチのそれよりかはまだ可愛いものだが、しかし熱い風である事は変わりなく、セラフィが忌々しげに舌打ちしたのが聞こえた。彼はあまり熱さが得意ではないからだ。しかしこれだけの熱を発生させられるという事は、ホムラミズチと同様に間違いなく氷属性の印術が通用する事を確信させてくれたので、ローズは自分を守る様に立ってくれているギベオンやセラフィ達の体の間からその魔物の姿を見た。
 魔物は竜の様な巨大な体躯を持ち、ぎょろりとした目を光らせながら首元にある瘤から煙を放ち、緋色と水色の毒々しい翼をはためかせて口に何か赤いもの咥えていた。それが喰い殺された兵士の体の一部であると理解するまでに然程時間は掛からず、一瞬にして血の気が引いたのだが、強張った細い肩をクロサイトが抱き寄せてくれたので遠のく気を何とか留める事が出来た。自分のまず最初の仕事はきっと使用するであろう炎の攻撃を少しでも和らげる為、炎の聖印を結ぶ事だった。
「く……っ!」
 さてどう仕掛ける、出方を窺っていても仕方ないなとセラフィが懐から投擲ナイフを取り出したと同時に、凄まじい咆哮が広間に響いた。どう表現したものか、おぞましい声音のその咆哮はどこかキバガミが上げていた咆哮に似ており、巨体から発せられる凄まじい声量に威圧感さえ覚え、体が強張った。だがそんな咆哮を浴びても尚、ギベオンは武者震いによって痺れた足を踏み出し盾を構え、全身を駆け巡った電流をガントレットに集約させ先頃新調したばかりのウォーピックに流し込んでからセラフィと彼の向こうに居るモリオンを見、しっかりと頷いた。
 セラフィが投擲ナイフを放つと同時に、ギベオンが地面を蹴って竜の左方へと駆け出す。そして彼とは逆に右方に走り出したモリオンは腰に巻きつけているカートリッジの一つを慣れた手付きで瞬時に砲剣に装填すると、思い切りグリップを捻って起動させた。彼女が得意とする炎のドライブは今回ばかりは使えそうになく、代わりに氷の力が封じ込められたカートリッジを多く持ってきている。巨体という事は威圧感もあればこちらへの攻撃もでかいという事だが、裏を返せば標的がでかいという事であり、避けられる心配をしなくて良い的だ、と、モリオンは口角を上げた。
「おおおおおっ!」
 まずは一発、ギベオンが電気を帯びた鎚を竜の胴体へ叩き込み、ぐらついた体にモリオンが爆音を鳴らしながらドライブをお見舞いする。やはり氷の攻撃に弱いのか、ギベオンのボルトストライク――とクロサイトが勝手に名付けた――よりもモリオンのフリーズドライブの方が効いた様で、モリオンの攻撃を食らった時の方が竜の悲鳴が大きかった。こういう敵だとやりやすいんだが、とクロサイトも剣を新調したセラフィから譲り受けたマカブインの刀身で空を切り裂きながら大気中に存在する水をその速さで冷却し、氷の刃で竜を斬った。
 だが竜とて一方的にやられている訳でもなく、口ではなく首周りの煙を出している瘤から火球を発射し、受け止めたギベオンの盾が少し焦げたりぎりぎりでかわしたモリオンの長い髪の先が焼け切れたり、クロサイトの鎚を弾いたりなどしたし、細長い舌を時折見せるその口の鋭い牙で噛み付いてきたりと、中々容易に近寄らせようとはしなかった。何とか隙を見て懐に潜り込む、という事が出来るのは身軽で素早いセラフィのみが出来た芸当で、どうしても重装備のギベオンやモリオンには真似が出来ない。ただ、そのセラフィでさえ巨大な翼の羽ばたきで巻き上げられた砂で目を潰され、後退を余儀なくされた。目が見えずとも五感が研ぎ澄まされている彼には大体の位置は分かっても、気配を読み間違えてギベオン達に刃を向けてしまう事も考えられた為、素直にすぐ後ろに跳んだ。
「モリオン! 僕の声の方に走って!!」
そして同じ様に目を潰されたモリオンに狙いを定め、口を大きく開けた竜が彼女に襲いかかろうとしており、ギベオンは走っても間に合わないと判断して咄嗟に声を上げた。彼の意図が分かったモリオンは迷うよりも速く駆け出し、標的の移動の速さに追い付けなかった竜は空を噛んだしその胴体にはローズが放った氷槍の印術が突き刺さった。
「良かった、間に合って。クロサイト先生、モリオンにも目の洗浄お願いします!」
「了解した、君は注意を引き付けておいてくれ」
「はいっ」
 後ろに跳んだセラフィの腕を掴み、彼の目を洗浄液で洗っているクロサイトに託すと、ギベオンはウォーピックでヒルデブラントを威勢よく叩いた。どんな魔物であっても耳が開いている限り、音が鳴っている方に意識が飛ぶもので、この竜もご多分に漏れずその蒼い目をぎょろつかせてギベオンへと向けた。クロサイトがセラフィやモリオンの治療をしている以上はギベオン一人でこの竜を相手しなければならないし、後衛で氷槍の印術を発動させているローズを守らなければならない。それはそれで守り甲斐があると、不謹慎ながらもギベオンは少しだけ高揚しながら盾を構えて鋭い牙に耐えた。
「昔、父上の書斎に置いてあった古い本で読んだ事がある。多分あれは熱砂竜だ」
「熱砂竜?」
「ああ。濁った翼で砂塵を巻き上げ、熱風の中で火球を吐く。
 その巨体で暴れられると手がつけられず、人の手により封じられた……と書いてあったと思う。
 人を喰うとは書いていなかったがな」
 テリアカβは目の洗浄も出来るからと、ギベオンが放って寄越していた背嚢から取り出しクロサイトに持たされたセラフィがすぐさま駆け出して行った後、砂によって開かない目を洗浄してもらいながら本の内容を口にしたモリオンに、クロサイトが首を傾げる。銀嵐ノ霊峰に眠っていた魔物が帝国の古書に載っていたというのも不思議だが、タルシスより距離としては近いし、もしかすると古の帝国の民が銀嵐ノ霊峰に追い遣り、凍える大地で弱体化させて倒したのかもしれない。それはクロサイトには分からないし、モリオンが読んだその本にも詳細は載っていなかった為にどういう経緯を経てあの魔物、熱砂竜と呼ばれるらしいが、銀嵐ノ霊峰に封じられたのかは今となっては知る由も無い。そして、タルシスの研究者が何故蘇らせようとしたのかもまた、分からなかった。
「……せかいじゅさまのちからがはつどうされたら、あのりゅうをつかうつもりだったのでしょうか?」
「ん……?」
「せかいじゅさまのおちからはとってもつよい、ってウロビトのさとではいわれています。
 だったら、まもののちからをつかおうとおもったのかもしれないです」
「……なるほど」
 その時、熱砂竜が繰り出す強烈な攻撃はほぼ頭部からのみと気が付いたローズが頭封の方陣を張りながら言った予想に、クロサイトもそういう考えもあったのかも知れないと何となく納得した。あの熱砂竜を蘇らせた統治院お抱えの研究者は、クロサイトの記憶に相違が無ければ数多く居る研究者の中でもあまりうだつの上がらない、取り立てて目立つ存在ではなかった男だった様に思う。同僚の中には彼を蔑んだり、軽んじたりする者も居たと聞く。そんな男が周囲の者達を見返してやろうとしたのか、はたまた本当に世界樹の力の暴走に対抗し得る生物兵器をと思ったのか、彼が死んだ今となっては誰も真意は分からない。だが、もしローズが言った様に後者の思いを胸に蘇らせたとするならば、善意が仇となった訳だ。
「どんな理由があったにせよ、自然の摂理を捻じ曲げる事などあってはならんだろう。その男は方法を間違えた、それだけだ」
「……そう、ですね」
「勝手に蘇らされて、災厄を振り撒くと分かったらまた殺される。熱砂竜にしてみたら良い迷惑だろうよ。
 だから、私達が同情してしまう前に倒すのが一番だ」
「そうだな、君の言う通りだ」
 何とも言えない気持ちが胸に湧いたクロサイトから離れ、砲剣を杖にしながら立ち上がったモリオンは、ローズからテリアカβを受け取りながらある種非情な事を言った。だがそれは彼女なりの情けであり、また自分含めたこの場の全員の心を痛めてしまわぬ様に早急にけりを付けるという意思表示でもある。もしあの牙がローズに向いたらと思うと彼女だってぞっとする。そして、自分の発言に対しクロサイトがしっかりと頷き鎚を片手にローズを自分の背に隠す様に立ち上がったのを見て満足した様に口角を上げた。モリオンは、医者としてのクロサイトよりも父親としてのクロサイトの姿を見た事に満足したのだ。
 魔物に人間の情など、基本的に存在しないと考えて良い。老若男女、貴賤問わず、本能のままに襲う。一番恐ろしいのはそこで、少しでも情が存在するのであれば、例えば幼いローズを襲ったりはしないだろう。だが熱砂竜の様な魔物は一切そんな事は無い。ローズに対し容赦無く火球を飛ばし、また踏み付けようと巨体を彼女目掛けて走らせてくる。人間にもそういう者は居り、だからセラフィはウーファンに時々診療所に来てやって欲しいと言ったのだ。
 情など無いから、熱砂竜は己を蘇らせた研究者を喰った。そしてタルシスの兵士達を喰い殺し、樹海にその身を潜めたから、今こうやって自分達が再び倒す為に対峙している。何とも皮肉なもんだ、と口の中で呟いたモリオンは、未だ熱が引かない砲剣に冷却用カートリッジを装填しながらギベオンとセラフィが何とか一撃を加え続けている熱砂竜の巨体に刃を翻した。
 ローズの方陣によって頭を封じる事に成功したと言っても上から振り落とされる巨大な尻尾や羽ばたいて巻き上げられる砂塵、鋭い牙にはかなり苦しめられ、素早いセラフィはそうでも無かったがモリオンが随分と傷を負った。いくらギベオンが盾役だといっても庇える範囲には限界があり、あまりローズから離れる事も出来ない為に彼女の硬い鎧が嫌な音を立てる度に肝が冷えた。ただ、腕前を上げたローズの方陣から発せられる大地の気が各々の傷を少しずつ癒してくれているのは有難く、クロサイトの負担も減らして彼も鎚を振るう事が出来ていた。
「随分しぶといな、本当に倒れるのか?!」
「最初よりは弱ってるみたいですし、確実に追い詰める事は出来てると思うんですけど……」
 この広間に足を踏み入れてからどれくらいの時間が経ったのか、かなりの体力を蓄えていたらしい熱砂竜は中々倒れず、忌々しげにセラフィが口の中の血と共に疑問を吐き捨てる。熱に弱い彼やギベオンはかなり汗をかき、目に入る汗は顔に付着した砂と混ざってかなり滲みた。モリオンも何も言わないが肩で息をしながら細い腕で額の汗を拭い、熱砂竜の血が付いた砲剣の刀身を空で振って払う。その動作は何ら不思議なものでは無かったが、横目で見たセラフィには少し動きが鈍く感じられた。
「……くそっ、ベオ、構えて踏ん張れ! 間に合わん!!」
「はいっ!!」
 その事を指摘しようかとした瞬間、疲労の色が見られる熱砂竜も眼前の敵を仕留める為に力を振り絞ったのかそれとも耐性がついたのか、頭の封じを解いて火球を飛ばす直前のモーションを見せた為にセラフィが叫んだ。避けようにも間に合わないと思ったからだ。咄嗟に反応したローズが炎の聖印を結び直したので威力が幾分か和らいだとは言え、ギベオンの盾に激しくぶつかる火球は彼の腕を軋ませたし、防ぎきれなかった火球がローズへ飛んだのでクロサイトが何とか抱き寄せ守れたものの、髪先が数センチ焼き切れた。
「クロサイト殿、無事か?!」
「ああ、二人共無事だ!」
 モリオンが叫んで安否を確認してきたのでクロサイトが答えると、彼女は少しだけほっとした様な表情を見せた。だがその体は砂塵にまみれ、所々破損した鎧がいかに熱砂竜の牙が鋭いかを物語っており、そろそろ終わらせた方が良いと鎚を握り締めた彼はローズに帰ったら髪を切り揃えてやろうな、と飽くまで優しい声音で言った。こんな時でもクロサイトはローズに対して父親であろうとし、ローズはそんな父の気遣いにこっくりと頷いた。
 お世辞にも体力があると言い切れないセラフィが一番疲労の色が濃く、珍しくも取り出そうとした投擲ナイフをうっかり落とす。それを拾おうと手を伸ばした時、破れた裾から何かの小瓶も落ち、ギベオンが熱砂竜の牙を盾で受け止めた音と同時に目を見開いた。
「これを調合してたんだったな……もっと早く思い出せれば良かったが」
「……それは何だ?」
「毒草の根や葉を調合した猛毒だ」
 小瓶に入れていたのはセラフィの師が彼に遺してくれていた毒薬のレシピの内、魔物に対してもかなりの効果が期待出来るものだった。取り扱う者にとっても勿論猛毒である為、作成するにも危険が伴う毒薬であるから今まで作っていなかったのだが、今はそんな事を言っていられない状況であるから用意していた。しかし万が一にも手元が狂ってギベオン達に投げてしまったらと思うとどうにも踏ん切りがつかず、今まで使っていなかったのだ。言ってる場合じゃないな、と覚悟を決めたセラフィは小瓶の栓を開けるとナイフを入れペースト状のそれをべったり付け、小瓶の中身の正体を尋ねたモリオンを見た。
「効いたら一気に畳み掛ける。ドライブは使えるんだな?」
「もう十分に冷却出来た、いつでも出せる」
「ベオ、俺が合図したらリオと一緒に突っ込め! その盾思いっ切りぶつけてやれ、良いな!!」
「は……はいっ!!」
 自分の指示に対しギベオンの元気の良い返事を聞いたセラフィは、次の瞬間に毒薬が塗られた投擲ナイフを熱砂竜の二本の角の間を目掛けて力いっぱい投げつけた。コントロール良く一直線に飛んだナイフが命中した熱砂竜は悲鳴を上げ、もがいて翼を何度も羽ばたかせた為にかなりの砂が舞い上がり、ギベオン達は目を守ろうと腕や手で目を覆い、クロサイトはローズを抱き寄せ目を守った。
「……効いた様だな! 良いぞ、行けっ!!」
「任せろ!!」
「うお、おおあぁぁぁっ!!」
 その砂塵の向こうに見えた熱砂竜は力無く頭をだらりと下げており、毒が効いた事を知らしめていて、セラフィはギベオンとモリオンに攻撃を仕掛ける様に叫んだ。自分はもう体力の限界が近付いており走れそうになかった事、また少し離れたクロサイトも同時の攻撃には間に合わないだろうと予測しての事であったが、ローズは印術を完成させていたのかロッドを握って氷槍の印術を発動させた。火球や牙を何度も受け止め全身に溜まった電流を発散させる様にぶつけたギベオンの盾と渾身の力を込めて一気に叩き込んだモリオンの砲剣、そしてローズの氷槍の印術は熱砂竜に大きく天を仰がせて断末魔を引き出し、その巨体を地に伏せさせた。まるで地震の様な揺れが彼らを襲ったが、ギベオンは揺籃の守護者の時の様に尻もちをつかずに済んだ。
「……やったか?」
「……みたい、だね」
 モリオンが誰にともなく呟いた言葉に、ギベオンは肩で大きく息をしながら頷く。熱砂竜は目を開いたままで絶命した様で、深い蒼の目は見る間に濁って光が失われていった。口からはみ出ていた舌もだらしなく伸び、ぴくりとも動かない。本当に何を思って蘇らせたのか、とモリオンは眉を顰めながら、地に広がる翼を見遣った。先程まで緋色と水色の二色であったその翼は毒に汚染されたのか紫がかっており、まさに濁翼と言っても差し支えない。気味の悪い翼だな、と眉を顰めて見ているモリオンの隣に、ひょこりとローズが歩み寄って言った。
「つばさ、おおきいですね」
「……そうだな」
「おおきくてりっぱだけど、リオねえさまのかみかざりのほうがかわいいです」
「……はあ?」
「だって、このりゅうのつばさ、なんだかきもちわるいです……
 おなじりゅうのつばさでも、リオねえさまのかみかざりのほうがかわいいです」
「そ、そうか……? 初めて聞く感想だな……」
 確かに竜の翼の形をした髪飾りは着けているが、可愛いなどと言われた事が無かったモリオンは、ローズの言葉に妙な顔をしてしまった。だがそれ以上にローズの髪先が焼け焦げ、短くなってしまっている事に内心苦々しく思う。大きな怪我は無さそうだが折角の綺麗な髪が台無しだ、と彼女は思ったけれども、同様の事をギベオンが自分に対し思い、あまつさえそれを多少悲しんでいたなどとは知る由も無く、何かに使えないかなと言いながら熱砂竜の角や翼を切り取ろうとしているクロサイトやセラフィの手伝う為に少々短くなった銀糸の髪を翻した。タルシスに戻ったら不揃いになり焼け焦げたモリオンの髪をペリドットに切り揃えてもらおうとギベオンは思っていた。