琥珀色の溜息

※「なにかんがえてるの」様の「黄金色の誘惑」前提、お子さんお借りしてます



 心身共にくたびれた時、人は様々なものに癒やしや安らぎ、助けを求める。それがウィンドーショッピングであったり、気の合う仲間との語らいであったり、一人での遠出であったり……人によって形を変える癒やしだが、ギベオンにとってほぼ毎日と言って良いほど繰り出す探索で負う大なり小なりの怪我や迷宮内をさ迷い歩き時には全力で走って逃げる為に溜まっていく肉体的な疲労、そんな必要などどこにも無いのだが妙な焦燥感からくる精神的な疲労、それらを癒すものと言えば日々の食事とたまの飲酒である。
 彼は、元から食べる事が好きだ。故郷に居た時は好きだから食べていたというよりも家庭の事情で溜まりに溜まったストレスが食欲となって無駄に食べていただけなので、タルシスに来てから食べる事の楽しさを知った。特に、診療所の隣にある宿の女将の料理は冒険者だけでなく辺境伯やギルド長も絶賛する程で、確かにギベオンは人生の中で一番美味いものを食べていると実感している期間を過ごしている。
 それと同時に、酒もきちんと味わえる様になった。故郷の水晶宮があるところはとにかく寒く、自室には暖房器具を用意してもらえなかったギベオンは体温を上げる為と言っても良い飲酒をしていたので、とにかくアルコールが入っていれば良かった。タルシスに来る切っ掛けを作った先輩城塞騎士のジャスパーが旅立ちの前夜に連れて行ってくれたパブで初めて飲んだジン・バックが美味くて、いつもウォトカをショットで飲んでは寝ていたギベオンにはアルコール度数が大変低い飲み物ではあったけれども彼は大層それが気に入り、タルシスに来てもそれを飲んでいる。
 ただ、故郷に居た頃の様に毎晩飲む訳ではない。主治医から飲酒を控えろと言われた訳ではないし、探索で極度に疲れていても気分が高揚している時は眠れないのでショットで飲みたいなと思う事はあるのだが、基本的にタルシスは故郷の様に寒くはないし酒の力を借りなくてもぐっすり眠れるので、本当にたまに孔雀亭に飲みに行っていた。毎日飲むよりたまのお酒が美味しいってタイプよね、と孔雀亭の女主人もギベオンを評した。
 岩窟の探索を進めていく中、先に進むのも大事だが周辺に存在する小さな洞窟の探索も必要だとしてここ数日は銀嵐ノ霊峰を飛行しているが、この酒場で引き受けた依頼の中に霊峰で聞こえる悪魔の声が冒険者達を怯えさせ開拓を阻んでいるので正体を突き止めて欲しい、というものがあり、その悪魔の声が聞こえる地点の近くの低地を吹き抜ける風の音が正体だと気が付いたギベオンがその報告をしに統治院へと足を運んだ。故郷の地域も時期によっては強い風が吹き、まるで巨大な魔物が唸り声を上げているかの様な音を立てる事がある。あの霊峰は故郷と少し似ていて氷の世界であるし、雪が降り積もる極寒の土地であるから、恐らく近くに谷があるならその様な音が鳴る筈だと思ったのだ。
 気が付いた手柄として報告がてら酒でも飲んでくると良いとクロサイトから言われ、ギベオンは上機嫌でジンジャー・エールが注がれステアされたジン・バックのタンブラーを傾けている。報酬を持ち帰るのを忘れずにな、と釘を刺されたが、酔っていたとしてもさすがにこんな大きなハンマーを忘れる事はないだろう。
 いつも思うが、孔雀亭の女主人が作るジンジャー・エールは辛さと甘さのバランスが程よく、アルコールは飲まないけれどもこれを飲みに来るという者も居る。ソフトドリンクメニューも豊富であるのは、タルシスに住まう者であれ冒険者であれ一定の年齢に達しないと酒は提供しないという姿勢を崩さない女主人の、飲めない者達への心遣いであるらしい。ギベオンと同期で診療所へ来たペリドットもアルコール類は一切飲めない体質だが、ここのオレンジジュースを好んでよく飲みに来ている。
「隣、良いか?」
「あ、はい、どうぞ」
 クエスト達成のご褒美ね、とウインクした女主人から供された、薄く塩がまぶされたアーモンドを一粒齧って冷たい汗をかいたタンブラーに手を伸ばそうとしたギベオンに、背後から声が掛けられる。承諾の返事を聞くと同時に隣に座った濃い茶髪とそれなりに白い肌の男の顔に、彼は見覚えがあった。
「あ……」
「よお。後ろ姿でお前じゃないかと思ったんだ」
 ギベオンが反応するより先に口を開いたその男は以前会った時についていた松葉杖を所持しておらず、怪我が順調に治った事を教えてくれている。ギルドの盾役を担うという立場はギベオンも男も同じで、大怪我を負うのは仕方ない事ではあるのだが、他人とは言え同じ城塞騎士として怪我の完治は喜ばしいので自然と笑みが零れた。
「ユベール君、お酒飲めるくらい治ったんだ。良かったね」
「暫く禁酒してたし、いい加減良いだろと思ってな」
「結局この間は……」
「……絞られた……」
「そっか……僕もこってり絞られたよ……」
 女主人に短くいつもの、と酒をオーダーした、ギベオンがユベールと呼んだ男とは、以前カレー屋で出くわした。初めて会ったのはまだギベオンがクロサイトの患者でしかなかった頃で、満席に近いカレー屋のカウンター席に座っていたユベールの隣に座った事が切っ掛けで知り合った。あの当時のギベオンは本当に太っており体積がでかかったものだから狭い思いをさせたに違いない。それを思うと今隣に自主的に座り、カクテルグラスを受け取ったユベールに申し訳なさが湧く。
 そして、二度目の遭遇はギベオンが既に患者ではなくなり、正式にギルドを結成して銀嵐ノ霊峰にある金剛獣ノ岩窟を探索している数日前の事だった。どうしてもカレーが食べたくて探索帰りに一人立ち寄ったカレー屋で、松葉杖をついて来店したユベールが相席してきたのだ。初めて会った時から結構な月日が経っていたものだからギベオンも最初は気が付けず、というか樹海や幽谷で何度も修羅場を潜ったのか初めて会った時よりも更に顔付きが凛々しくなっていたので別人かと思ったのだが、気付いた瞬間大声を上げてしまったものだからあれも失礼だったなとギベオンは反省する。
 自分のギルド同様、ユベールのギルドにもメディックが居る様で、その二度目の遭遇の時はギルド主でもあるメディックに外出許可は貰ったもののカレー屋に行くとは言っていなかったらしく、来店した事は黙っていてくれと頼まれた。何だかそれが友人間の内緒事の持ち掛けの様で友人らしい友人が未だに居ないから嬉しく、ギベオンもそれを快諾したのだが、カレーの匂いというのはよく分かるもので、ユベールもギベオンと同じで叱られた様だ。二人は、何とも言えない微妙な薄笑いを浮かべて同じタイミングで溜め息を吐いた。
「お前の主治医の先生の絞り方って、どんな感じなんだ? 痩せたんだろ、それで」
「どんな……いや、多分ユベール君にしてみたら物凄くかわいいものじゃないかと思うけど……」
 手元にあるアーモンドの皿をユベールに勧め、二人で齧りながらギベオンは空になったタンブラーを軽く掲げておかわりを所望する。ユベールは自分でオーダーしたクラッカーとチーズの盛り合わせを受け取るとお前も食ったら、とギベオンに勧めてくれながら素朴な疑問を口にした。その質問に対し、ギベオンは困った様なちょっと恥ずかしい様な気分になる。基本的に彼は自分は誰よりも劣っていると思っているので、自分が苦労してやり遂げた事は他人がやすやすとやってのけてしまう事と勘違いしているからだ。
「例えば?」
「えっと……まず碧照ノ樹海でビッグボール投げてくる狒狒に追い掛けられながら熊からも逃げる鬼ごっこでしょ、
 ボールアニマルで千本ノックでしょ、鎧着たまま熊が居る水辺でウォーキングでしょ、
 碧照ノ樹海地下三階全部使ってその先生の弟さん……気配消すのが得意な人なんだけど、
 その人が混ざっての鬼役でほぼ一日探し回る隠れ鬼でしょ、
 あ、風馳ノ草原でうろつく跳獣とボクシングもさせられたかな?
 それから」
「いや、悪かった、もう良い」
 指を折りながらギベオンが説明する、彼が以前クロサイトに施された減量プログラムを聞いたユベールは、げんなりした顔でカクテルグラスの中の酒を呷った。彼の心情など分からないギベオンはきょとんとして首を傾げる。
「ユベール君なら簡単にこなせるかと思うけど」
「お前、俺をどういう人間だって思ってるんだ?」
「え…… ……が、頑丈な城塞騎士……?」
「お前もだろ……」
 ブルーチーズをクラッカーの上に乗せて一口で食べ、親指の先に着いた塩味を小さな音を立てて吸ったユベールに、ギベオンはそうかなあ、と手を口にあてる。ユベールは同い年とは思えない程落ち着きがある様に見えたし、また黒いスウェットシャツに浮かぶ上腕筋や大胸筋は鎚を振るう者に相応しく逞しいものであり、どちらかと言うと筋肉がついているというよりも肉付きが良いと形容出来そうな自分の体とは全く違うので、格好良いなあと思うのだ。
「そういう意味か……なるほどな」
「え、何が?」
「うちの先生にお前のとこの先生の事知ってるか聞いたら奇行が目立つって噂があるって教えてもらったんだよ」
「ぶっ!!!」
 新しく供されたジン・バックに口をつけたギベオンは、しかしユベールの言葉に思い切り吹き出した。うおっ、というユベールの驚きの声より先にカウンターの向こうの女主人が片付けようとしていたシェイカーを落とした音が聞こえ、ギベオンは咳き込みながらも彼女が背を向け肩を震わせて必死に笑いを堪えている姿を見たし、いつも腰に着けている鞄の中からタオルを取り出して吹いてしまった酒を拭いた。診療所に世話になっている自分は当事者であるからそんな噂は聞いた事が無かったが、なるほどあの医者はそう評されているらしい。現にギベオンも素晴らしい医者である事には間違いはないが変な人だと今でも思っている。
「そう言えば、ユベール君が飲んでるそれ、なに?」
「ん? スレッジハンマーだよ」
「スレッジハンマー?」
「ウォトカとライムのカクテル。飲んでみるか?」
「良いの? 有難う」
 それから二人で他愛ない話をしながら飲んでいたのだが、三杯目のカクテルを受け取ったユベールが口にしたカクテルが何であるか分からなかったギベオンが尋ねると、ユベールは自分が口をつけていない縁をギベオンに向けてグラスを寄越してくれた。そこそこ酔っているギベオンはウォトカと聞いても何の警戒心も無く一口飲んでしまったのだが、タルシスに来てからジン・バックばかり飲んでいたので度数の高いカクテルには弱くなっており、思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。
「ひゃあぁっ! つ、強いねこれ」
「お、お前、その顔、あっは、はははは!」
「笑わなくても良いのに……」
「だってお前、今の顔! あははははは!」
 その顔がユベールにとって面白かったのだろう、彼が声を上げて笑い始めたので、ギベオンはばつの悪い表情になってグラスを返した。どうやらユベールは笑い上戸であるらしい。初対面時に睨まれたのでクロサイトとはまた別の怖いイメージは未だにあるし、自分より随分と大人の男に見えるのだが、笑っているところは歳相応の若者の様に思えた。
 ただ、笑っている内に気分が悪くなったのだろう、ユベールは段々と顔色を悪くして口を抑えながら便所へ駆け込み、暫くギベオンの隣に戻ってこなかった。あまりに戻ってこないので心配になったギベオンが腰を浮かそうとすると、あの子いつもああだから気にしなくても良いわよと女主人が言ったのでまた着席したのだが、流石に15分も経過すると他の客が便所に入れないのはまずいのではと回収しに行った。
 青い顔でカウンターに突っ伏してしまったユベールを孔雀亭に置いて帰る訳にもいかず、冒険者なのだからセフリムの宿を拠点にしている筈であろうからと、勘定を纏めて済ませたギベオンはユベールの腕を肩に担ぎ、彼を引きずる様にして店を出た。外はすっかり夜の帳が下りていて、昼間は活気ある街並みも就寝の時間を迎えようとしている。
 すっかり寝てしまっているらしいユベールの体格は良いので引きずり歩くのは困難を極めたが、本当に友達らしい友達が居ないギベオンにしてみれば初めて「君」付けで呼べた同い年の、しかも同業者であるし、何より人様のギルドの大事な盾役に飲ませすぎてしまった責任がある。なので飲酒によりかなり早い段階で息が上がってしまったが、これも良い鍛錬と思えば何とか音を上げずに済んだ。
「……次の望の頃にでも、また飲みに来れたら良いねえ」
 セフリムの宿まであと少しという所で立ったまま休憩したギベオンは、考えれば自分もユベールも冒険者という身であるからカレーを食いに行ったり酒を飲みに行ったりなどの約束など出来はしないんだなと思ったのだが、前回カレー屋から帰る際にそれまで死ぬなよと言ってくれた事が嬉しかったので、少々苦しそうな寝息を立てているユベールは聞こえていないだろうけれどもそう言った。見上げた空には、そろそろ望を迎えようとしている月が高い位置に昇っていた。



 余談ではあるが、無事にユベールを宿屋に送り届けギルド主を名乗った中年のメディックに飲ませすぎたのは僕なので叱らないであげてください、すみませんでしたと頭を下げてから辞して診療所に戻ったギベオンは、就寝前のクロサイトに報酬はどうしたね? と聞かれ、真っ青な顔で孔雀亭まで走って戻った。