anniversary

 風馳ノ草原の空を跋扈する偉大なる赤竜を無事討伐し終え、帝国からタルシスへの民の移住がスムーズになる事に胸を撫で下ろしたバルドゥールは、赤竜との戦いの中で受けた傷の手当てを済ませた後に辺境伯を訪ねに統治院を訪れた。彼が巫女を攫い、世界樹を巨神として目覚めさせた事は未だ記憶に新しく、タルシスには警戒の目を向ける者も少なからず居るが、当の辺境伯はまだ若いこの宗主を気に入っており、訪問があればすぐに通す様にと職員に伝えてある。不用心なのでは、との声もある中、全ての冒険者に門戸を開いているし人を見る目には自信があると辺境伯は言い切った。実際そうなので、誰も何も言えなかったらしい。
 統治院に入ったバルドゥールは、巨神が倒された後に救助され、タルシスの病院を退院してから真っ先に訪れた執務室とは別の場所に通された。辺境伯は執務室には居らずに裏庭に居るらしい。そちらに通す様に指示があったと職員に告げられ、趣向を凝らした磨りガラスから陽光が漏れる美しい白い扉が開かれた向こうの景色に、思わず足を止めて嘆息を漏らした。そこには赤や黄色、白など色とりどりの、そして形も様々な花――主に薔薇が咲き乱れていた。
「おお、よくいらっしゃったな。怪我の具合はいかがかね?」
「……大事無い。お気遣い痛み入る」
「そうか、それは結構。よければこちらにお座りにならないか」
 その薔薇園の中央にテーブルセットを広げ、いつも腕に抱いている犬を足元に寛がせ、辺境伯はワイングラスを傾けていた。昼から飲酒する御仁にも見えぬが、とバルドゥールが訝しみながらもその言に従うと、職員はワイングラスが置かれていない、新たに設けたのだろう席の椅子を引いて彼に着席を促した。
「バルドゥール殿はワインと紅茶、どちらを飲まれるかね?」
「……出来れば紅茶をいただきたい」
「そうか。ではティーセットを用意してきてくれるかね」
 飲み物の希望を聞かれ、日の高い内からの飲酒を控えたかったバルドゥールが紅茶を所望し、辺境伯に命を受けた職員はかしこまりました、と頭を下げて裏庭から出て行った。裏庭に残されたのは辺境伯とバルドゥールのみで、護衛も付けぬとは、と奇妙な顔をしたバルドゥールに辺境伯はいつも通りの柔和な笑みを浮かべた。
「すまぬな、来客の前で飲酒などして」
「いや、こちらも事前に連絡も入れずに来て申し訳ない」
 辺境伯とバルドゥールの席とは別の、ワインが注がれたグラスが置かれた席と辺境伯の席の間には、指輪が二つリングスタンドに嵌められている。何か意味があるのだろうかとバルドゥールがその指輪を思わず見ていると、辺境伯は膝に飛び乗ってきた犬を撫でながら言った。
「今日は私の結婚記念日でな。妻はもう居らぬが、妻が手入れを欠かさなかったこの薔薇園で、毎年こうやってささやかなひと時を過ごすのだよ」
「……それは、お邪魔をして失礼した」
「気にしないでくれたまえ。本来なら夜にすべきなのだが、どうしても明るい内に薔薇を眺めながらやりたくてな」
 なるほど、結婚記念日であるならテーブルに飾られた指輪も納得がいくものであるし、亡き夫人が手入れをしていたのならその姿を日の下に偲びたいのだろうとバルドゥールは解釈する。辺境伯が南の聖堂での会談時に着けていたカフスボタンは入院していたバルドゥールを見舞った際には着けていなかったが今日は着けている辺り、それも思い出の品なのだろう。
「しかし見事な薔薇園だ。帝国ではここまで花が咲けぬ」
「私の代では無理かもしれない。ひょっとするとバルドゥール殿の代でも難しいかも知れぬ。だが、諦めずに様々な方法を試してゆこうではないかね」
「………」
「木偶ノ文庫では愛らしい釣鐘草と美しい睡蓮が咲くと聞き及んでいる。君はまだ若い、私以上に何かに挑戦出来る時間も力も、沢山ある筈だ」
「……そうだな」
 柔らかい日の光を浴びて咲き乱れる薔薇園はバルドゥールの目には眩しくとも、辺境伯が言う通り、汚染された大地の帝国においても健気に、そして可憐に咲く花はある。それらは巨人の呪いで体を蝕まれていたバルドゥールをひと時の間だけでも和ませてくれた。辺境伯の言葉には帝国はもう孤独ではないという含みがある様な気がして、彼はこの裏庭に来て初めて顔を柔和なものへと変化させた。
「何せ君には、異郷に十年という長い間潜伏してまで任務を遂行しようとしてくれた者も居るではないか。同じ統治者としては羨ましい限りであるな」
「……辺境伯殿には多大な恩があるが、あればかりは礼として差し上げる訳にはゆかぬ。その代わり、貴公の結婚記念日を共に祝わせていただこう」
「それは光栄だ、妻も喜ぼう」
 しかしこのタルシスで長らく潜伏し、巨人の冠や巨人の心臓、そして巫女を帝国まで連れ帰ってきた――あまり褒められたものではない方法だったが今ではあれは致し方なかったと辺境伯も思う――者の話題を述べられると、バルドゥールはやんわりと譲渡する意思は無い事を告げ、職員が運んできた芳しい薫りを纏う紅茶が注がれたエメラルドグリーンの装飾が施されているティーカップを掲げた。傍らにはこの薔薇園のもので作られたのかどうかは分からないが、薔薇のジャムとスコーンが添えられている。きっと亡き夫人とのティータイムにも添えられていたのだろう。亡き両親の結婚記念日はいつであったか、父が居なくなってしまってから慌ただしい日々を過ごしていて気に掛ける事すら無かったと気が付いたバルドゥールは、帝国にある母の墓とイクサビトの里にある父の墓へローゲルを伴って花を持って行こうと思っていた。