蒼いストール

 ひどく嫌な夢を見て、モリオンは浅い夢から覚醒し、慌てて飛び起きた。無意識の内に辺りを見回し、身を守る様に体を縮こまらせたが、自分以外の気配はどこにも無い。上擦った細い声と共に吐き出される荒い息はどこか冷静な頭が滑稽なものと判断して、この程度で魘されるなど、と彼女は苦い顔をした。
 カーテンを開けて僅かに差し込む月の明かりで現在の時間を確かめる。深夜と言えばそうだが日付が変わってまだ一時間経つかどうかで、そんな時間に魘され起きたというのもまた歯痒い。だがこのまま入眠出来るとも思えず、水でも飲んで落ち着こうと彼女は寝台から降りた。
 深夜の診療所の廊下は先程まで布団にくるまっていたせいか肌寒く感じる。しかし人の気配がしない訳でもないので無機質な寒さは無く、孤独に過ごしていた帝国の寒さとは雲泥の差がある。故国に居た頃は一人で行動する事を選んでいたモリオンは、少しの間だけでも誰かと共に過ごせるのも悪くないと考える様になりつつあった。
 そして汲み置きの水が置かれている簡易キッチンに向かう途中に通るダイニングに明かりがついており、モリオンは少しだけ眉を顰めた。誰かが起きているなら声を掛けられてしまうだろうし、またこちらも声を掛けねばならないのかと思うと気が重たい。人との関わりを極力避ける傾向がある彼女にはハードルが高いのだが、しかし渇いた喉は潤したくて、渋々ダイニングに足を踏み入れた。
「あっ、わっ、モリオン、ど、どうしたの?」
「……お前こそどうした」
「あ、えっと……」
 ダイニングのソファに座り、傍らの小さなテーブルに茶器を乗せて、編み物をしていたのだろうギベオンが慌てたのか驚いたのか、焦った様な声音で何事かと尋ねてきたのだが、モリオンにしてみれば何故自室ではなくここで編み物をしているのかという疑問がある。ギベオンはしどろもどろになりながら手元の毛糸玉を編み棒で指し、ごにょごにょ口篭らせて答えた。
「えっと……あ、編み物、してたんだけど、部屋だとポット冷めたらその、温めに行くの面倒だから……」
「……まだ茶は入っているか? 水を飲もうと思って起きたんだ」
「あ、う、うん、えっと、カップ……」
「それくらい自分で持ってくる。お前は構わず続けると良い」
「う……うん」
 茶を淹れる事が得意であるらしいギベオンは、編み物も出来るらしい。モリオンはそれを知らなかったので、言葉は悪いがこの朴訥な男がそんなに手先が器用だとは思っていなかったから素直に驚いた。また、予測していなかった事に遭遇すると多少パニックになってどもったり落ち着きが無くなったりするとクロサイトから聞いてはいたがここまで動揺するとは思っておらず、変な奴だと思いながらキッチンからカップを持ってきた。
 これもギベオンの手製なのか、毛糸のポットカバーを取ってカップに淹れると良い香りがした。帝国にも紅茶はあるけれども上等なものではなく、モリオンは専ら野草茶を飲んでいたから、こんなに香り豊かな茶はタルシスに来て初めて飲んだ。帝国とこのタルシスは随分離れているとは言え世界樹が見える距離であるのに、この地はここまで豊かなのかとモリオンは幾度となく驚いた。
 気まずそうなギベオンが、それでも黙々と編み物をしているのを邪魔するのは悪いと思ったが、自室に持っていったところでカップを返しに来るのは面倒なのでテーブルの方の椅子に腰掛けゆっくり飲みながらちらとギベオンの手元を見る。深い蒼の毛糸がどんどんと編み込まれ、一枚の布の様な形状になっていく様は不思議なもので、編み物をした事が無いモリオンには興味深く映る。ストールでも編んでいるのだろうか、それにしてもその蒼は失礼ながらこの男にあまり似合わない様な気もするが、大きさから言って診療所の誰かにでも編んでいるのだろうか、などと取り留めなくぼんやり考えていると、おもむろにギベオンが立ち上がった。広げてサイズを確かめた後、おずおずと自分を見てからまた着席した彼に、モリオンは眉間の皺を深くする。闖入者は自分の方なので責める気は無いが、こうもそわそわされるとこちらが悪い事をしている様だ。
「邪魔してすまなかったな。私は寝る」
 他人が居ては気が散るのだろうと判断した彼女が茶を飲み干し、席を立とうとすると、先にギベオンが慌てた様にまた立った。
「あっ、あのっ、モリオン、あの」
「何だ」
「えと……あ、あの、ね、これ、その……」
 慌てて立った弾みで側の机に足を当ててしまい、ガタンとポットが音を立てたが溢れなかった事に、しかしギベオンは気が付かず必死に何かを伝えようとしている。人見知りとまではいかないがあまり他人との会話に慣れていないギベオンはどもる事が多いと聞いてはいたが、しかしここまで緊張しているのはまた別の理由があるのではと思い、続く言葉を待つ為に浮かしかけた腰を再度椅子に下ろしたモリオンは彼に目線で先を促した。
「こ、これ、あの、……き、君に、と思って……」
「……は?」
「その……い、今、木偶ノ文庫の奥の探索、してるでしょ。
 それで、多分次は金剛獣ノ岩窟の奥になる、と思うから……
 あの岩窟、ホムラミズチって魔物の鱗を壊したら、フロア全体が物凄く寒くなるんだ。
 クロサイト先生やセラフィさんとか、ローズちゃんには前にセーターとかマフラーとか編んだから大丈夫だとは思うんだけど、
 その……モリオンが寒いかなあ、って……」
「………」
 なるほど、どうやらそのストールは自分に編んでくれていたらしいと理解したモリオンは、言葉尻を小さくしていくギベオンが何だか小動物の様に見えてしまい、呆気に取られるやらおかしいやらで内心忙しかったのだが、一番大きかったのは恥ずかしさで、むっつりと黙ってしまった。
 この診療所に迎え入れられてからまだそこまで日は経っていないのに、住民は随分と気遣ってくれるし必要以上の干渉を避けてくれる。探索中も例外ではなく、重装備故に動きが速くはないモリオンは既に何度もギベオンに庇ってもらったし、かと思えば少し離れて歩く自分に決して文句を言う事は無い。ギベオン達にとって普通の事でもモリオンにとっては気遣ってもらっている様に思えて、そこまでしてもらえる程の女ではないと言いたかったけれども何も言えなかった。
「動きにくいといけないからあんまり大きくしてないけど……も、もう編み上がる、から、その……
 も、貰ってくれると、嬉しいなあ、って」
「………」
「あっ、あの、この色、嫌い?」
「……いや……使わせてもらう」
「そ、そう、良かった……出来たら渡すね、明日にでも終わるから」
 何と言ったものか分からず黙ったままでいると、色の好みが合わないのかと勘違いしたギベオンが再度慌てた顔で尋ねたものだから、モリオンは緩やかに首を横に振る。そうすると彼はやっとほっとした表情になり、はにかんでストールを掲げて見せた。美しい蒼の毛糸がしっかりと編み込まれたそのストールは、肩に掛けるときっと温かいだろう。そう思うとまた肌寒さを背中に覚え、モリオンは無言で頷いた。待っている、とはやはり恥ずかしくて言えなかった。