グッバイ・ボーイ

 窓の外に世界樹の見える風景は、少年にとって当たり前のものであった。自宅の窓から、小高い広場から、郊外の草原から見える、生命力が溢れている様に見えるその巨木はタルシスで生まれ育った少年の目には馴染み深いものであり、特に学び舎の窓からぼうっと眺めるのが好きだった。
 医者になりたいという将来の夢を叶える為ならば勉強をやらねばならないと分かっていたが、残念な事に少年は勉学はあまり得意ではなかった。全く出来なかった訳ではなかったけれども、要領も大して良くはなく、授業についていくだけで精一杯だった。ただ、タルシスは昔から最も近くで世界樹を臨める街という事もあって観光客はそれなりに多く、故に外貨の獲得は然程苦労しない街であったから教育機関への投資も惜しまれず、教育水準は高かったので、少年の頭脳レベルが極端に低かったという事ではない。様々な理由で学び舎に通えぬ子供も少なからず居るタルシスにおいて、恵まれた環境に居るとも言えた。
 勉学はそこまで得意ではなかった少年は、しかし絵画の才能はあり、この事については教師も褒めた。幼少期の高熱のせいで左目の視力が極端に悪かったが、その事が却って独創的な色彩感覚を生み出し、風馳ノ草原を描いた風景画は統治院に飾られた事もある。病弱な双子の弟が外に出られないので、忙しい父が構えない代わりにと買い与えてくれたクレヨンで外の景色を描いて見せてやっていたから、上達したのだ。体が弱くて学び舎に通えない弟は、少年が話す授業の内容はさっぱり分からなかった様だが、少年が描いてくる絵は興味津々で見入っていた。
 絵を描く時、水彩絵の具を使うので、少年に限らず学友達は制服のワイシャツをよく汚していた。エプロンを着用すれば良いというのに、男子という生き物は面倒くさがりで、母親に叱られたと皆が口々に言った。しかし少年の家は母親が弟に付き切りで看病する日も多かったから、汚れたワイシャツは自分で踏み洗いする事が多かったしアイロンがけも自分でやった。そうする事で母親が褒めてくれるのは確かに嬉しかったけれども、少年にとって一番嬉しかったのは学校に行く前に制服のリボンを弟に結んでもらう事で、綺麗に洗濯出来てアイロンがしっかりかけられているとリボンを結んでくれた弟がはにかむ様に笑って似合うねと言ってくれるのだ。他の誰の、どんな褒め言葉よりも嬉しい一言が毎日聞きたくて、制服の手入れは怠った事が無かった。
 少年の学友の中にはいつかあの世界樹の近くへ行ってみたいという、子供らしい壮大な夢を持つ者も居た。タルシスと川を挟んで生息する、大型の跳獣の魔物や、大空を飛行する大きな翼を持った鳥の魔物、そして同じく大空を時折我が物顔で飛ぶ巨大な赤い竜は、多くの者の冒険心を擽った。だが風馳ノ草原へ狩猟に出掛けた男達が命に関わる程の重傷を負ったり無言の帰還をしたり、果ては戻ってこなかった者も後を絶たなかったので、世界樹の麓に行く事は即ち夢物語として語られる事が多かった。少年にとって世界樹は飽くまで「そこに見えるもの」であったから近くへ行く事に興味は無く、だから元気が有り余っている男児の多くが世界樹の元へ行きたいと夢を語るのに対し、医者になりたいという姿勢を崩した事は無かった。
 勿論、成績の低さで揶揄される事はしょっちゅうであったし、少年も自分の頭脳ではなれないだろうと重々承知の上だった。教師からは画家の方が向いているのではとも言われ、自分でもそう思わなくはなかったが、それでも弟の体を治したかったので一貫して将来の夢は医者と言い続けた。馬鹿にされても、見下されても、得意ではない勉学を修める為、毎日制服のワイシャツに袖を通し、半ズボンをサスペンダーで留め、弟に紺色のリボンを結んで貰ってから学び舎へ通った。ある意味、制服が少年の戦闘服だった。



 白いワイシャツと紺色のリボン、ベージュの半ズボンをサスペンダーで留めた子供達が、元気に学び舎に向かって広場を駆けていく。冒険者で賑わう様になったタルシスの、昔から変わらない朝の光景だ。発着場へ向かっていた彼は、目を細めて子供達の後ろ姿を見遣る。
 あの制服を着ていた当時、世界樹へ向かう事など本当に夢物語であった。船と馬車しか無かった移動手段は気球艇という選択肢が増え、世界樹への距離をぐっと縮めてくれた。冒険者の存在はおとぎ話の中だけのものではなくなり、今ではタルシスで生活する者の半数は冒険者と言っても過言ではない。そのうちの一人が自分であるのだから、人生何がどうなるかなど分からないと彼は何となく不思議に思う。
 家庭の事情で制服が着られなくなった後、幸運にも弟と共に医者に拾われ師事した彼は、念願叶って医者となった。これには少年期の学友も驚いていたし、自分より成績が下だったのにと訝しむ者も多かったが、師から徹底的に仕込まれた外科処置の腕は冒険者となった同級生の一人が大怪我を負った時に図らずも披露出来、一命を取り留めた事によって評価が上がった。見下していた者達を見返してやったとも思えず、随分と感謝された事に対して医者として当然の事をしただけだと言うと、子供の頃に揶揄していた事を深々と謝罪された。
 医者として生きる、ただそれだけを全うするつもりであったのに、武器を片手に迷宮へ向かうなど、馬鹿にされていた頃の自分に言ったならどういう顔をするだろうかと、彼は顎鬚を指で擦りながらふと思う。医者になった事は信じてもらえても、冒険者になった事は絶対に信じてもらえないに違いない。何しろあの当時の自分にとって、世界樹は「そこに見えるもの」であったのだから。だが、それと同時にこうも思うのだ。憧れていたからこそ、何度も世界樹を描いたのではないのかと。
 絵を描く事が好きであった少年は、様々な場所から世界樹を描いた。自宅の窓から、小高い広場から、郊外の草原から、そして学び舎の窓から見える世界樹を。今でも絵筆を取る事はあるが、その絵筆を鎚に替え、世界樹の麓を目指す為の探索に、ギルド唯一の医術師として今日も出掛けて行く。すっかり病弱ではなくなった弟や、自分が治療を受け持った者達と共に。白いワイシャツとベージュの半ズボンが戦闘服であった少年は、白衣を戦闘服に変えたのだ。

「クロサイト先生? どうされました?」
「ああ、うん、何でもない、今行く」

 学び舎へ走っていく制服姿の子供達の中に子供の頃の自分の背中の幻を見た彼は、多少幼さが残る男の声に振り向き、少年時代の自分と別れを告げる様に歩き始めた。そんな彼の背を、前髪で左目を隠した制服姿の少年が見送っていた。



背景画像:瀬尾ヒロスミ様