僕には血の繋がりの無い兄が居ます

 すっかり暗くなったタルシスの街並みを、ギベオンはあてもなくぶらぶらと歩いている。空の星の瞬きははっきりと見え、明日も晴れる事を彼に教えてくれている。しかし、彼の心の中は全く晴れやかではなかった。
 夕方頃の事になるが、探索を終えて診療所に戻り、皆で夕食の用意をしていた時の事だ。セフリムの宿の食堂で購入した食事を配膳していた時、ギベオンは近所の住民の回診から戻ってきたクロサイトに、あろうことか「兄さん」と言ってしまった。勿論血の繋がりなど一切無いし、クロサイトには弟などセラフィ一人しか居ない。ただ、両親から全く愛されなかったギベオンにとって双子の師は年の離れた兄の様な存在に思えていたから、勝手に心の中で二人を兄と呼んでいた。それが本当につい、うっかりと口に出てしまった。
 クロサイトは何を言われたのか分からない様な表情できょとんとしていたし、配膳していたペリドット達も思わず手を止めて自分を見た。それがギベオンの顔を真っ青にさせ、すみませんでしたと咄嗟に叫んで診療所を飛び出してしまった。誰も何も言っていないのに、誰も不快な顔をしていなかったというのに、ギベオンには責められている様に感じられ、居た堪れなかったからだ。
 だが飛び出したは良いものの、財布も何も持たずに出てしまったものだから、空腹は未だ満たされてない。腹の虫がやかましく鳴くのを通り越して街中を漂う家庭の夕食の匂いに気持ち悪ささえ催したが、それを越せば空腹すら感じなくなるという経験則から我慢していた。その努力が報われたのか、街の灯りが一つ、また一つと消えていく頃にはもう吐き気さえ無くなっていた。
 最後にはタルシスが一望出来る丘の上まで上ってぼんやりしながら星を眺めたり、灯りが消えていく様子を見ながらおおよその時間を推測し、そろそろ皆自室に戻る時間かな、と判断したギベオンは、ゆっくりとした足取りで診療所まで戻った。途中で顔見知りの冒険者や、店の片付けをしているベルンド工房の娘、店じまいをしている飲食店の店員達に散歩か、また食べ過ぎて叱られたのかなどとからかわれ、曖昧に笑って誤魔化した。診療所の階段を上る足の重さに辟易したけれども、休まなければ翌日の探索に支障が出てしまうから、我慢して上った。改善されていた、音を無闇に立ててしまう踏み締め方をしてしまったのは、気が重たいと思っている証拠だったろう。
 玄関ではなく、勝手口の扉をそっと開ける。しんと静まり返った廊下の先にあるのは、普段皆で食事をしたり会話をしたりするダイニングだ。深夜に戻る事が多かったセラフィの部屋にある入り口を除き、この診療所兼住宅はどの入り口からも必ずダイニングを通らなければ自室に行けない様な構造になっている。故に、ギベオンは何故かまだ灯りがついているダイニングを通らなければ当てがわれている自室に戻れない。誰がまだ起きてるんだろう、気まずいな、などと思いつつなるべく足音を立てない様にそろそろとダイニングを伺うと、肩にカーディガンを引っ掛けたクロサイトが足を組んで本を読んでいた。
「――ん、戻ったかね。おかえり」
「……た、ただいま帰りました」
「財布も持たずに飛び出して、腹を空かせて泣いてないかとペリ子君が心配していたぞ」
「な、泣いてませんよさすがに」
 ダイニングの壁に掛かっている時計は、そろそろ日付が変わる時間を指している。いつもならこの時間にはクロサイトは自室に引き上げている筈なのだが、何故わざわざここで本を読んでいたのかはギベオンには分からなかった。
「もうこの時間だからな、明日の朝少し多めに食べると良い。まさかこの時間まで戻らないとは思わなかったが」
「す……すみません……」
「何を謝る必要があるのだ。私は別に怒ってない」
「いえあの……はい……」
 本を閉じてテーブルに置いたクロサイトは、もう寝るだけにして夕食はこのまま抜けと言った。そちらの方がギベオンの体にも負担がかからないからだ。寝ている時まで消化器官を働かせない方が良い、と、ギベオンはこの診療所に来た当時に指導されていて、探索でよほどくたびれて戻った時以外は食べてすぐ寝るという事はしていない。言った通り、怒った様な色も含まれていないクロサイトの声は、それでもギベオンの気まずさは拭ってくれなかった。
「……あ、あの、」
「何だね」
「……な、何されてたんですか……? もう夜遅いですけど……」
「……おかしな事を聞くのだな、君も。帰ってくるのを待っていたのだ」
「え……」
「曲がりなりにも君は私が預かっているのだぞ。日付が変わっても戻らなかったら探しに行こうと思っていた」
「………」
「あのなあベオ君、私は君に兄と呼ばれた程度で怒る程心が狭い人間ではない」
「す……すみません……」
 どうやらクロサイトはセラフィ達を先に休ませて、一人でここで待っていてくれたらしい。パニックになるとクールダウンの為に一人になりたがるギベオンの性質をよく理解している主治医である彼は、何故ギベオンが飛び出して行ったのかも分かっていた。恐れ多い、と思ったのではなく、恥ずかしい、と思ったのでもなく、両親を父さん母さんと呼ぼうものなら激しく折檻されていたギベオンが、怯えて飛び出して行ってしまったとちゃんと分かっていた。すぐに捕まえようものならそれこそ過呼吸を起こしかねない程に怯えると判断し、敢えて放っておいてくれたのだ。その上で、帰ってくるのを待っていてくれた。
「そういう時は何と言うんだったかね?」
「あ……えと……あ、有難う御座います」
「よろしい」
 ギベオンは、すぐに謝ってしまう癖がある。それも両親からの仕打ちに由来する。その癖を矯正する為、クロサイトは繰り返し礼を言わせる様に指導してきた。血の繋がった者よりも親身になり、それこそ誰よりきちんとギベオンの癖のある性質に向き合ってくれたのは、何の繋がりも無い異国の地のこの医者だった。
「あの……お、お茶くらいは飲んで良いですか? 喉渇いちゃって……」
「茶か。なら、私の分まで淹れてもらっても良いかね」
「はい、もちろん」
 夕方以降、何も口にしていないギベオンは、急激に感じた喉の渇きに茶の承諾を得ようと尋ね、クロサイトはそれを了承してくれた。タルシスに来てからいくつか揃えた茶葉の中で、クロサイトが好んで飲んでくれるのはアールグレイだ。就寝前に飲むには香りが強い気もするが、この時間まで待ってくれていた彼が好きな茶を飲んで欲しかったので、ギベオンは戸棚の中に陳列してあるアールグレイの茶葉の缶を取り出した。
「ああそうだ、ベオ君」
「はい? 何ですか?」
「兄と呼んでくれても良いぞ」
「いえ、あの、恥ずかしいからクロサイト先生で勘弁してください」
「そうか、それは残念だ」
 湯を沸かし、茶葉を蒸らしている最中に思いついた様に言われた言葉にギベオンはついぶんぶんと首を横に振ったが、クロサイトはどこかおかしそうに喉の奥で笑いながらまたうっかり呼んでくれたらそれで良い、と言った。ギベオンはそれに対しただ顔を赤くして、早く茶が蒸れてくれたら良い、と思っていた。