乾杯

 澄んだ青空が広がり、小高い丘の上の診療所からは空を飛ぶ気球艇が気持ち良さ気に飛んでいる光景が見えるその日、ギベオンはセラフィに伴われて買い物に出掛けていた。ペリドットがクロサイトの患者を卒業し、このタルシスに嫁いできたとは言え、ギベオンはまだ卒業出来ていない。それでも初めてタルシスに来た当時に比べると別人の様に痩せており、あと一ヶ月絞りに絞ってやろうなと主治医に言われた彼は引き攣らせた顔を青くしながらもご指導ご鞭撻よろしくお願いしますと優等生の返答をした。
 そんな中での久々の休息日、伴われて街を歩いていた彼は、冒険者ではなくタルシスの住民であろう者が着飾って闊歩しているのを見て首を傾げた。何かの祝い事だろうか、それにしては纏まった人数が広場の方に行っているけど、と思っていると、同じくその集団の背を眺めていたセラフィから尋ねられた。
「お前の国では、何歳から成人扱いだ?」
「あ……、十八歳からです」
「ペリドットも十八歳からと言っていたな。タルシスは二十歳なんだ」
「……あ、ひょっとして今の人達、成人のお祝いですか?」
「ああ。毎月一日に、その月に二十歳になる奴らが辺境伯に報告に行くんだ」
「へえー……」
 なるほど、どうやら改まった格好をしていた先程の若者数名は、これから辺境伯に成人の報告に行くらしい。大人の仲間入りを果たす彼らの背中をにこにこしながら見送ったギベオンは、クロサイトから頼まれて受け取りに行った新しいワイシャツが入った紙袋を抱え直しながら、逆にセラフィに尋ねた。
「セラフィさんは、成人のお祝いって何かしましたか?」
「成人の祝いか……、養親に金を持たされて花街に行かされたな」
「ぶっ!!」
 何気なく尋ねた質問であったのだが、予想外の返答に思わず吹き出したギベオンは、一瞬の内に顔を首まで赤くした。褐色肌の彼であっても赤面すればすぐに分かる。まさかそんな大人の話になるとは思ってなかったので、それ以上何と言ったものやら分からず、ただ赤面しながら困った表情でセラフィを見遣った。
「多分あの二人にしてみればクロと俺がべったりしすぎている様に見えたんだろうな……。
 兄弟の仲が良いのは喜ばしい事だが女にも目を向けろと言われてしまった」
「で、でも、だからって花街は……」
「クロも俺も女に手を出す余裕がそれまで無かったんだ。何せ拒食症と過食症の治療が続いていたからな。
 それと、女の扱い方ならプロの女に教われと言われた」
「そ、そうですか……」
 聞くんじゃなかった……、と後悔しても遅く、答えづらいであろう事を淡々と教えてくれるセラフィに申し訳なく思いながらも、ギベオンは先を歩くセラフィの後ろについて行く。進行方向が花街とは逆方向である事がせめてもの救いであろうか。未だ女の経験が無いギベオンには刺激の強すぎる話となってしまった。
「お前は?」
「へ?」
「へ? じゃない。お前は何か祝いをしたのか」
「あ……いえ、特に。祝ってくれる人も居なかったので」
「………」
 ギベオンの返答に、今度はセラフィが沈黙する。彼の境遇はクロサイトから聞かされて知っていたのに、不用意な事を聞いてしまったと思っても後の祭りだ。賑わう広場を横切りながら後ろをついて来ているギベオンをちらと振り向いたが、彼はこれと言って負の感情を乗せた表情はしていなかった。……耳の先は、まだ赤いままだったが。
「だけど、嬉しかったなあ。あの家で大人になれるまで生きられるか分からなかったので」
「………」
「でも僕、出生の記録も破棄されちゃってるから、誕生日分からないんですよね。
 生まれた年が分かるくらいで……
 だから、生まれて十八年目の鬼乎ノ日に自分で勝手に成人したって決めました」
「……そうか」
 えへへ、とはにかみながら答えるギベオンは、今まで一度も自らの意思で自分の素肌を見せようとした事は無い。彼の体に傷跡が無数に走っているからであり、それらを見られる事はギベオンにとって恥であるからだ。冒険者が住民と大差ない程滞在しているタルシスにとって、傷跡のある者など全く珍しくもなんともないというのに、彼は頑なに腕捲りをしない。凄まじいと思える程の仕打ちを受けてきたその体は、それでも逞しく頼もしいものと変化していっていた。
「……あれ? セラフィさん、診療所は向こうですよ」
「良いから来い、寄るところが出来た」
「はあ……?」
 セラフィが向かおうとしている方向に診療所は無く、ギベオンは再度小首を傾げる。何か忘れ物でもしたのかな、と思いながら黒い背中について向かう道筋は、そこそこ馴染みがあった。そう、昼でも夜でも変わらぬ賑わいがある、踊る孔雀亭が面する道だ。しかしセラフィがこんな昼日中から飲酒する人間とも思えないし、ペリドットが酒が苦手で酒のにおいですら辟易する女であるからセラフィも極力酒を飲まぬ様にしていると聞いており、また違う店にでも行くのかとギベオンは思っていたのだが、セラフィが扉を迷わず開けたのはやはり孔雀亭のものだった。
「いらっしゃい。あら、珍しいのね。依頼でも引き受けに来てくれたの?」
「いや、酒を飲みに来た」
「えー、ほんと珍しい! 何にするの?」
「ウォトカをショットで二杯。水晶宮の都のやつがあっただろう」
「あるわよ。ちょっと待ってね、すぐお出しするから」
 タルシスでは冒険者であれば十八歳から酒が供して貰えるが、タルシスの住民であれば二十歳からしか飲酒は認められない。だから酒場でも、地元民よりも冒険者の姿の方が多かったりする。そんな店内を何の躊躇いも無く横切り、カウンター席に腰を下ろしたセラフィは、指でギベオンに隣に座る様に指示をしながらガーネットに注文を出した。彼が飲むのは専らジン・ライムだと知っているギベオンは何故突然ウォトカを、しかもわざわざ水晶宮の都のものを注文したのか分からなかったし、そもそも何故いきなり孔雀亭に連れて来られたのかも分からなかった。
「あ、あの、セラフィさん、」
「飲め」
「え……」
「お前、祝ってくれる奴も居なかったと言ったな。五年遅れですまんが、成人の祝いだ」
「………」
「クロには俺から話しておく、飲め。成人おめでとう」
「……ご、ちそうに、なりま、す」
 底が王冠のデザインで装飾されているショットグラスに波々と注がれたウォトカは、ギベオンが以前故郷で寒さをしのぐ為に飲んでいたものと同じものだ。あまり良い思い出は無いそれであるが、懐かしい味のものであろうからとわざわざセラフィが指名したに違いない。お世辞にも愛想が良いとは言えず、ぶっきらぼうな面ばかりが目立つセラフィであるが、クロサイトとはまた違った優しさを見せてくれる。
 そんなセラフィの心遣いと祝辞に思わず両手でショットグラスを掲げたギベオンは、言葉を詰まらせながらも辛うじて返礼を述べ、頭を下げるふりをして涙を隠した。その掲げられたショットグラスに、自分に供されたショットグラスを軽く当てたセラフィは、ギベオンが一息に飲み干したのを見届けてから同じ様に一息で呷った。度数高いんだから無茶な飲み方しちゃダメよ、と苦笑したガーネットは、しかしセラフィがギベオンに言った言葉で全てを理解したのか、それ以上の小言は一言も言わなかった。