カレーにまつわるエトセトラ

 この世に神が居るのかどうかは知らないが、もし居るのであればきっとこれはその神とやらが作り給うたものなのであろうと彼は真剣に思っているし、恐らく同様の事を考えている者も世の中にはきっと居るであろう。これを食す為に毎日の探索と称した走り込みや主治医からの厳しい指導、慣れない温暖な気候の中での集団生活や街の賑わいを耐えに耐え抜いていると言っても過言ではない。
 このタルシスには様々な国から大勢の者が集い、世界樹を目指す冒険をしている。人が集まるという事はつまり交易が盛んであり、よそから来た者が見れば珍しいものが多く店頭に並ぶ。暑い地域でしか採れない果物、寒い地域でしか採れない野菜、運び込まれた種から育てられた花……枚挙に暇が無い程に目を楽しませてくれるものが多いこの街で、ギベオンが最も頬を緩ませてしまったのは料理だ。
 水晶宮の都から来た彼は、両親から受け続けた極度のストレスを発散する為にとにかく食べた。腹が空いていたから、とか、食べる事が止められない、とかではなく、とにかく食べて腹を満たす事だけが現実の苦痛から逃れられる唯一の手段だった。その結果一度会えば絶対に忘れないと見知らぬ者が口々に言う程の巨体となり、見かねた先輩城塞騎士の男からこのタルシスに診療所を構える医者を勧められた。何でも彼もこの医者の指導の元で体を絞ったらしいので、あの先生めちゃくちゃおっかないけど絶対お前の人生良くなるから行ってこい、と言ってくれたのだ。気に入らない事があるとすぐに鞭を打つ両親が居る実家で彼らに怯え続けながら生きるのは苦しいけれども、だからと言ってよそに出るのも怖いと尻込みしたギベオンであるが、その先輩、ジャスパーという名であるが、彼の一言で陥落した。
 曰く、飯が豊富で美味い。
 それは大変魅力的な一言であり、ギベオンの心はぐっと動いた。親元から離れる事が出来て美味い飯が食えて痩せられるならこれ程良い事は無いんじゃないか、というジャスパーの意見はもっともであったし、両親を説き伏せ実家から無理矢理にでも連れ出してくれた彼の厚意を無碍にも出来ず、ギベオンは長い船旅を経てタルシスへとやってきたのだ。
 今思えばジャスパーが背を押してくれた事は本当に有難く、感謝の念は絶えない。特に、この一皿を日常的に食べられる様にしてくれた事は心の底から感謝したいとギベオンは食堂の喧騒の中、肉付きの良い手でスプーンをしみじみと握り締め、目の前に鎮座する白い皿の上の褐色の大地を掬い上げた。

数多くの冒険者を魅了するその料理は、カレーと言った。



一皿目・王道スタンダードカレー

「――では本日はこれでプログラムを終える。ご苦労様」
「うぅ……今日も有難うございました……」
「お疲れ様でした……有難うございました……」
 主治医のクロサイトが鎚で肩を軽く叩きながら顎鬚を撫でて終了の挨拶をし、彼の前に並んだギベオンとペリドットは礼を言いながら頭を下げる。のどかな樹海の木漏れ日の中、平然としているクロサイトとは対照的に二人の表情はぐったりとしており、かなりの運動をした事を物語っていた。タルシスに来たばかりの冒険者は碧照ノ樹海はおろか森の廃坑でさえ苦戦しぼろぼろの風体になるのだから、タルシスの街医者であるクロサイトの元に来てまだ半月であるギベオンとペリドットが大怪我をしていないとは言えくたびれた表情になるのは当然の事と言える。
 しかし、二人が疲れているのは探索をしたからではない。探索をするにしては体積が大きすぎるギベオンとペリドットは世界樹を目指す冒険をしているのではなく体を絞る為にこの樹海で様々な運動をさせられており、通常の冒険者であればここまでくたびれないであろう運動量なのであるが太りすぎている二人にとってはかなりの疲労が溜まる内容となっていた。
 ペリドットはギベオンと同じ日にタルシスに来て、彼と同様クロサイトの患者になった褐色肌の踊り子だ。黒い髪を腰まで伸ばした彼女は、肉が削げ落ちれば紫水晶の瞳が印象的な可愛らしい面立ちの女性になるだろうと容易に想像出来る面立ちをしている。否、元は綺麗なボディラインの踊り子であり、数年前に原因不明の病に罹患して服用していた薬の副作用により身長149センチに対し71キロまで体重が増えたという経緯があるので、ギベオンの様に昔から太っていた訳ではない。日常生活に支障を来す事と、踊れなくなってしまった事に困っていたところ、同じく踊り子である母親のファンである女性からこの医者を教えて貰い、タルシスに来たという訳だ。
 ではギベオンとペリドットが具体的に何をしているか、なのだが、碧照ノ樹海で魔物相手に戦うのは勿論、武器防具を身に着けたままひたすら樹海を歩き、時には走り、最近ではクロサイトが鎚で打ったボールアニマルから逃げるという事もやっている。そのうちその辺りを徘徊している熊との楽しい追いかけっこもやるからな、と既に宣言されている二人は、恐怖しか感じられなかった。
 タルシスに戻ると、時間帯のせいか、街のあちこちに空腹を刺激する良い香りが漂っていた。住民よりも冒険者の方が多いであろうこの街は周辺の郷土料理も多く作られるが、様々な国の料理を提供する飲食店も多い。ギベオンの出身地である水晶宮の地方の料理を提供する店も存在した。だが今、彼の腹の虫を鳴らしたのはそれらの匂いではない。数多くのスパイスが混ざり合った複雑で刺激的、且つ芳醇な香りだ。その香りに、ギベオンだけではなくてペリドットも一気にその料理が食べたくなってしまった。
「……あの、クロサイト先生」
「今日の夕飯のメニューは決まっている」
「うぅっ……はい……」
 どうしてもこの匂いの元を食べたくておずおずと申し出ようとしたギベオンの言葉を、前を歩くクロサイトは無慈悲にも遮った。鎚を肩に担ぐ癖がある彼の背は妙な威圧感があり、自分よりも小さなクロサイトが怖くてギベオンは途端に体を縮こまらせる。顔を見合わせてからしょんぼりとしたギベオンとペリドットは、今日の疲労が蓄積した体を何とか奮い立たせて診療所に続く長い階段を時間をかけて上り、クロサイトはそんな二人を急かす事も無く合間に休憩を挟みつつ待っていてくれた。
「……あれ?」
 常人、例えばクロサイトであれば五分もかけずに上れるこの階段をたっぷり十五分はかけて上った二人は、街門に戻った時に洗った顔が階段を上る間にまた汗びっしょりになったので診療所の裏庭にある井戸で洗っている時に、隣のセフリムの宿から良い匂いが漂ってくる事に気が付いた。先程のものとは少し違うが、それでも空腹を強烈に刺激するその匂いは、正しく二人が欲しているものに他ならなかった。子供の様に目を輝かせながら宿屋の方を見た二人に、クロサイトはぼさぼさの頭を掻きながら仕方なさそうに眉根を下げた。
「言っただろう、今日の夕飯のメニューは決まっている」
「え、で、でも、」
「オカミさんの独自調合スパイスのカレーだ」
「……やっ……たあ〜!!」
 本当にしょうがないな、と言いたげなクロサイトの表情とは対照的に、ギベオンもペリドットも握り拳を作って破顔した。飛んできたボールアニマルが避けられなくてこしらえてしまった青痣も、森ネズミから噛まれて作った傷も、既にふくらはぎを襲ってきている筋肉痛も、全てが吹き飛んだかの様に喜んだ二人を見て、クロサイトはカレーだけでここまで喜ぶ患者は初めてだな……と再度頭を掻いた。
 セフリムの宿に隣接するクロサイトの診療所に入院という名目で居候をしているギベオンとペリドットは、十日に一日設けられている休日以外の食事は宿から買って診療所に持ち帰り、ダイニングで食べると決められている。診療所には台所もあるが、患者を受け入れている時は茶を沸かしたりするだけに留まり、食料を極力置かない事によって食べ過ぎを防ぐ事にしているらしい。ペリドットはそうでもないがギベオンはとにかく食べてこの体型になってしまったのでその対策はかなり効果的とも言えた。
 ただ、カレーは冷めてしまったらあまり美味くないので、この日初めて二人は宿で食事をする事になった。食堂に集まる冒険者達に混ざると、ペリドットはそうでもないがギベオンは背の高さも手伝ってかなり目立つ。そして受け取りに行くにはまだ体格が大き過ぎて他の者達の邪魔になるからとクロサイトが取りに行ってくれたカレーは濃い茶色のルーの中に大きめに切られた具材がごろごろと入っており、ライスが皿の半分を閉めている。本当にこれで経営が成り立っているのだろうか……とギベオンが要らぬ心配をする程度には豪華なものだった。
「私、タルシスに来てこのタイプのカレー初めて見ました」
「ふむ? ペリ子君の故郷ではどういうカレーなのだね?」
 半月程前に初めてこの食堂に足を踏み入れた時に比べると他の客も見慣れたのか集まる視線も疎らになり、気にする事無くスプーンを取って幸せを噛みしめながら食べ始めたペリドットが皿の上に広がるルーを繁々と見ながら言った言葉に、ギベオンの一口の半分程の量を口に運んだクロサイトが首を傾げた。名を略す癖がある彼はペリドットをペリ子君、ギベオンをベオ君と呼んでおり、最初こそ抵抗した二人であったが、すっかり慣れて気にならなくなっている。人間、順応というものは大事だ。
「もうちょっとスープっぽい感じで、ここまでもったりしてないんです。それに、もっと辛いんですよ」
「ほう……? 君の出身地はタルシスより暑いらしいが、辛いもので発汗させて涼むという事かね?」
「そ、そこまで考えた事無かったですけど……多分そうじゃないかと思います」
 故郷でよく食べていたカレーを思い出しながら言ったペリドットは、全然思いもしなかった質問が飛び出してきたので首を傾げながらも曖昧に頷いた。この医者の元に患者として来てまだ間もないが、変な人だと思った回数はそれなりに増えており、自分だけがそう感じるのかとペリドットは思っていたけれども、ギベオンも同じ認識らしくてほっとした記憶がある。
「だから、みんな食べるのが早くて。カレーは飲み物、なんて言ってました」
「カレーは飲み物……それはそれですごいな……」
 人参が苦手なペリドットはルーから顔を出している人参をスプーンの先で転がし、ルーにたっぷりと絡めてからスプーンで掬って口に運ぶ。風馳ノ草原で採れる人参は甘味が強いので食べられなくはないのだが、やはり人参の風味が口に残るのでこういう味が濃いものと同時に口に入れないと食べられないのだ。そんなペリドットの言葉に珍妙な表情を見せたクロサイトは、彼女の隣で無心になっているギベオンに目を向けた。
「ベオ君の様に食う様を言うのだろうな、カレーは飲み物とは」
「はぇ?! あいたっ!」
 本当に無心に食べていたギベオンはいきなり自分に話を振られて驚いてしまい、変な声を出したと同時に頬の肉を噛んでしまってまた変な声を上げた。彼の皿の上は既に三分の一程度しか残っておらず、半分も食べていないクロサイトやペリドットの早さの比ではない。よく咀嚼して食事を摂れという指導を初日からされているギベオンは一旦カトラリーを置きたまえ、の意味のクロサイトの無言の指差しに素直にスプーンを置いた。カレーは咀嚼が難しいので一口ごとにスプーンを置かせる事で早食いを防がせようと思っていたのだが、今日は診療所ではなく宿の食堂での食事であるから周りが賑やかである事とペリドットとの会話に気が傾いていたものだから、クロサイトはギベオンのペースが早すぎる事に気が付くのが遅れてしまったのだ。
「君はカレーが好きなのかね?」
「あ、は、はい。香辛料が滅多に手に入らない地域なので本当にたまにしか食べられなかったんですけど……」
「なるほど、それで初めてカレー屋を見た時に随分とそわそわしていたのだな」
「えっ……そ、そんなに挙動不審でしたか?」
「かなりな」
「うう……」
 二人がタルシスに来てクロサイトに街を案内された時、ギベオンはカレー屋を見掛けて思わず立ち止まったのだ。勿論ペリドットもその匂いについ足を止めたがギベオンはこの街には店を開ける程に香辛料が手に入るのかと心が踊り、叶う事ならば一度でも良いから食べたかったので、本当に今日は嬉しかった。
「それにしても、カレーは飲み物か……いや、中々その言葉は言い得て妙だな。気に入った」
「そうですか?」
「うむ。周りを見たまえ、皆飲む様に食っている」
「ほんとだ……」
 クロサイトが感心しながら再度スプーンを口に運びながら言うので、まさか自分の言葉がそこまで気に入られるとは思わなかったペリドットは意外に思いつつも、言われた通り食堂に並ぶ机に着席している冒険者達を見たのだが、確かに次から次へと口に運び入れており、中には皿を抱えて食べている者も居る。ペリドット達は配慮されて通常の量ではあるけれども男性冒険者はほぼ全員と言って良い程大盛りで食べていた。樹海に出ると腹が減るもんなあ、と、既に皿を空にしたギベオンはクロサイト達が食べ終わるまで待っていたが、待っている時間もカレーの香りにそわそわして落ち着かず、やはり食べるペースは同席している人物と同じ様にしなくてはいけない、と学んだのだった。



二皿目・酸味絶妙チキンカレー

 母親の劇団に所属するペリドットが十八歳になったら舞台に立つという決まり事があるからと一時帰郷をしたのだが、その故郷でよく使われているという香辛料の数々を土産にタルシスに戻ってきた。交易が盛んで様々なものが揃うこの街でも手に入らない香辛料をペリドットが宿の女将に渡すと大層喜ばれ、女将はこの香辛料を使ってまたレパートリーを増やしますねと言った。
 折角なのでこの香辛料を使ってペリドットの故郷でよく食べられているというカレーを作ろうという事になり、その日は昼でプログラムを切り上げてタルシスへ戻り、近所の回診へ出掛けたクロサイトを見送った後にギベオンはペリドットと共に宿の厨房へと赴いた。昼食の時間が終わり、夕食を作るにはまだ早い時間であるので、女将も手が空いているからだ。知らないよその国の料理を知る事が何より楽しいと言う女将は、ペリドットの故郷のカレーに興味があるらしい。
「今日はよろしくお願いしますねー。楽しみです」
「スパイスさえ揃ったら簡単ですよ。タルシスはヨーグルトも簡単に手に入りますし」
 三角巾を頭に被った女将がいつもの柔和な笑顔でペリドットに頭を下げ、ペリドットは恐縮しながらも同じくにっこりと微笑む。背の小さい彼女は大柄のギベオンは勿論、標準体型の女将と並んでも子供の様に見えるが、ギベオンよりもしっかりしているので時折ペリドットの方が姉の様に見える、とはクロサイトの意見だ。
「僕、ヨーグルトを使うカレーって初めてだなあ」
「私の地元は暑いから、ちょっと酸味があるものの方が好まれるんだ。どうせだから後でラッシーも作ろうか」
「ラッシー?」
「ヨーグルトと牛乳で作るドリンクなの。オカミさん、牛乳ありますか?」
「ありますよー」
 ヨーグルトの酸味が果たしてスパイスとどう絡むのかいまいち想像出来なかったギベオンは、初めて聞く名前にも首を傾げる。不思議な響きの名称の料理だな、と思ったのは何もギベオンだけではなく女将も首を傾げたのだが、簡素に説明して牛乳の有無を聞かれると、すぐに味の想像がついたのかにこやかに頷いた。
「お肉は鶏肉なんですねー」
「ヨーグルトの酸味に一番合うんですよ。ごちそうにする時は手羽元を入れたりしますね」
「へぇー、ボリュームあるね」
「うん、お祭りの時とかに入れるかな」
 朝、樹海に出る前にペリドットが女将に申し付け、女将が言われた通りに近所の肉屋に頼んで捌きたての鶏のもも肉をやや大ぶりの一口大に切り、タルシス水牛のヨーグルトに漬け込んでおいたものを作業台の上に置く。ボウルの中でヨーグルトの海から顔を出すもも肉は、女将が脂や皮を丁寧に処理していた。カレーは香辛料で味がある程度誤魔化せるとはいえ、やはりそこは料理人の女将であるから、仕事が丁寧であった。
 今日はもも肉だけを使うが手羽元を使う事もあると聞き、ペリドットに言われて生姜を摩り下ろしていたギベオンが今度それも作ってみたいなあ、などと思っていると、唐辛子は何本にしようかなと手に取ったペリドットを玉葱を大きめのみじん切りにしていた女将がちらと横目で見てそう言えば、と思い出したかの様に言った。
「辛いカレーと言えばセラフィ君を思い出しますねー」
「……え、何でですか?」
「私がセラフィ君と知り合ったのは激辛カレーの大食いチャレンジに参加してくれたからなんですよ」
「げ、激辛カレーの大食いチャレンジ?」
 セラフィというのはクロサイトの双子の弟で、診療所に住んではいるが仕事の時間が不規則らしく、ギベオンもペリドットも滅多に彼に会う事が無い。双子の弟とは言えクロサイトとは容姿が全く似ていないセラフィはその大食いという単語におよそ結びつかないような体格をしており、細身と言うよりかなり痩せ型だ。頬も心なしこけているからなのか長い黒髪で顔を少し隠している彼が夜賊と呼ばれる職に就いているとは今の時点では知らない二人であるが、しかしペリドットはセラフィがかなり食べるという事は知っている。一度だけ夜中に一人で食事をしているところに遭遇した事があるし、一時帰郷した際に同伴してくれたのも彼だったので、どれだけ食べるのかを目の前で見ているからだ。
 しかしそれにしても単なるカレーではなく激辛カレーの大食いともなると、と、ペリドットはトマトを湯剥きするべく鍋に湯を沸かしながら用意した唐辛子を見遣る。彼女は今日使う鍋の大きさの分量であるなら唐辛子は五本程度が好きだが、大鍋であるから五本入れてもマイルドな辛さとなる。辛いものがお好きなのかな……と思っていた彼女に、ボウルに水を入れた女将がちょっと失礼しますね、とトマトを片手に横に立った。
「今はここは宿屋になっていますけど、昔は食堂だったんです。
 それで、その日は私がカレーを作ったんですが、唐辛子の量を間違えてしまったんですよー。
 しかもその日は運が悪い事に青唐辛子を使ってしまって」
「ひええ……オカミさんでもそんな失敗するんですね」
「はいー。当時のオカミさんにこっぴどく叱られました」
 香辛料が滅多に手に入らない地域の出身であるギベオンにさえ青唐辛子は赤唐辛子に比べて辛いという事は知っている。女将がどれだけの量を入れてしまったのかは知らないが、激辛と言うからには本当に辛かったのだろう。それにしても今ではタルシスで右に出る者は居ないとも言われている料理上手な女将でも若い頃にそんな失敗をしたと聞き、誰にでも未熟な頃はあるのだと妙な安堵をしたのはペリドットだけではなくギベオンも同様だった。
「でも、随分多く作ってしまったので困ってしまって。
 捨てるのも勿体ないという事で、激辛カレーの大食いチャレンジという催しをしたんです」
「あ、なるほど、苦肉の策だったんですね」
「はいー。大食いじゃなくても良いんじゃないかと思いましたけど、当時のオカミさんが早いとこ全部処分したいと言ったので」
 鍋に湯が沸いた事を確認した女将は、トマトに切り込みも入れずヘタも取らずにぼちゃぼちゃと鍋に入れた。彼女の話に興味はあるがトマトの湯剥きの方法に気を取られてしまったペリドットは先代の女将のそれなりに酷い理由を軽く流してしまったが、ニンニクを摩り下ろしながらしっかりと聞いていたギベオンは少しだけ頬を引き攣らせた。湯の中に入れたトマトを十秒程転がした後にすぐボウルの水の中に入れ、別のボウルにザルを重ねた女将はトマトをしっかりと冷やす為に待つ間、話を進めた。
「結構挑戦者は居たんですけど、やっぱり完食出来る人は居なかったんですよー。
 あ、残した分は持って帰って貰うという約束を予めしていたので廃棄は無かったんですけど」
「用意周到ですね……」
「当時のオカミさんは抜かりがなくて。それで、誰も完食出来ないですねーって言ってた時に、ふらっと来たのがセラフィ君でした」
 話の先が気になるが、トマトは女将に任せてペリドットは鍋に火をかけ、溶けやすい様に大きめのダイス状に切ったバターを入れた。焦げない様に木べらで混ぜると、こっくりとした香りが鼻腔をくすぐる。ギベオンに唐辛子を取って貰い、溶けたバターの中に入れて炒めながら、彼女は女将の話に耳を傾けた。
「今よりももっと痩せてて、お洋服もあんまり綺麗じゃなかったんですけど食べてみたいと言うので、私がお出ししたんです」
「ちなみにそれって通常で言うと何人前くらいの量ですか?」
「四人前くらいですー。絶対一人前も食べられないだろうって皆で見てたら、まあ気持ちの良い食べっぷりで……」
「へ、へえ……? え、わっ、わっ」
 当時の事を思い出しているのか、くすくす笑う女将は冷えたトマトをまな板の上に置き、包丁の先でヘタをぐるりと繰り抜いた。すると不思議な事に繰り抜いた所から空気が入り、皮が身から離れたのだ。まるで手品の様で、話に集中すべきなのかトマトを凝視すべきなのか忙しいギベオンは、女将の手元に感心していたペリドットが鍋にニンニクと生姜を加えた事で既に腹を刺激する匂いが漂ってきた事にますます忙しくなった。皮を剥いたトマトを刻み、ザルに入れて余分な果汁と分ける女将は、ペリドットに玉葱を渡す様にギベオンに申し付けた。
「ペースも落とさず黙々と食べるものですから、あんな細い体のどこに入っていくんだろうと思いましたー。
 あんまりにも良い食べっぷりに皆釘付けになってまして、うっかりお水を注ぎ足すのも忘れてしまって水くださいって言われました」
「やっぱり完食されたんですか?」
「ええ、勿論。十五分もしない内に全部食べちゃいました」
「じゅ、十五分?!」
 タルシス郊外にある畑は、風馳ノ草原を流れる川から引いた豊かな水のお陰で様々な作物が育つ。その中にこの玉葱の畑もあり、辛味と甘味が絶妙なバランスでサラダにしても美味い。そんな玉葱のみじん切りを鍋に投下したペリドットは、四人前の激辛カレーを十五分も必要とせずに完食したと聞いて驚きのあまり鍋の中に玉葱が入っていたボウルを落としてしまった。幸いにも鍋がひっくり返る事もなく、怪我も火傷もしなかったが、それにしても驚きは大きい。
「完食出来た人にはお代金はタダで、賞金を出すって約束でしたから賞金をお渡しして帰したら、
 一時間後くらいにクロサイト先生がセラフィ君連れていらっしゃったんですよー。
 弟がお金持って帰ってきたんですけど本当に大丈夫ですかって」
「律儀だなあ……」
「私が事情を説明して納得して貰ったんですけど、その時に当時の診療所にお住まいの方がたまたまいらっしゃって。
 セラフィ君は今より痩せてましたし、クロサイト先生は当時ご病気のせいで結構太ってましてね。
 話を聞くとタルシス郊外の路地裏で路上生活をしているとの事だったので、診療所の先生が引き取ってお二人を養子にされたんです」
「じゃあ、クロサイト先生とセラフィさんがあの診療所に居るのは、オカミさんがカレーを失敗したお陰なんですね」
「まあ、そういう事になるんでしょうかねー」
 玉葱が炒められる音と香りは、夕食にはまだ早い時間だというのに随分とギベオンの腹を刺激する。腹の虫が鳴りません様に、と会話で誤魔化しながら聞く彼は、世の中には奇妙な縁というのもがあると思った。その時に女将がカレーを失敗していなければ、自分もペリドットも今タルシスに来ていないのかと思うと、何となく感慨深い。
 程よい飴色になった玉葱に調合されたスパイスを入れてしっかりと炒め、水気をきったトマトを入れると、水分が蒸発する耳に心地よい音が響いた。カレーにトマトを入れるというのも初めて聞いた、というよりカレーを作っているところを初めて見たギベオンは全てが未知の光景で、巨体をそわそわさせながらペリドットがトマトを炒めるところを見ていた。
「良い香りがするな。ペリ子君のレシピのカレーを作っているのかね」
「あっ、クロサイト先生、噂をすれば」
 鶏肉をヨーグルトと共に入れて炒めてから水を加えて煮込んでいる間、ペリドットの地元では米ではなくチャパティという全粒粉を使ったパンを付け合わせにするというので、教えてもらって生地を練っていたその時、厨房の入り口から知った声が聞こえ、ギベオンとペリドットは同時に振り返った。いつも持っている鞄はもう診療所に置いてきたのか肩にはかけていなかったが、手には麻の袋をぶら下げていた。回診で診察した先の住民から何か貰ったのだろう。噂という単語を聞いたクロサイトは、僅かに眉を顰めた。
「噂? 私の悪口でも言っていたのかね?」
「違いますよ! クロサイト先生とセラフィさんが診療所に来た経緯をオカミさんから聞いていたんです」
 あらぬ疑いをかけられたギベオンはぶんぶんと首を振って説明し、それなら良いが、と言ったクロサイトはペリドットがチャパティの生地を伸ばしている作業台の隅に麻の袋から何かの小瓶を取り出して置いた。碧照ノ樹海で養蜂を営む家の者から回診の礼に貰ったらしい。それを見たペリドットはラッシーに入れても良いか尋ね、ラッシーが何であるかの説明を受けたクロサイトも承諾した。
「それにしても、君達は本当にカレーが好きだな。特にベオ君は並々ならぬ執着心がある様だが、何故そんなに好きなのかね」
 カレーを煮込んでいる鍋の横で、慣れない内は直火は危ないからとフライパンを熱し、その上で膨らむ生地に女将と二人で感動の声を上げているギベオンにクロサイトが何気なく尋ねると、ギベオンは拳を作って力説してきた。
「米と! 米と一緒に食えるんですよ! まあ今日は米じゃないんですけど! 米と一緒にかきこめるんですよ!」
「近い近い近い分かったから迫らないでくれ」
 タルシスに来た当時に比べて随分体重が落ちたとは言え、まだ巨体である事には変わりないギベオンがずずいと迫ってくるとかなりの迫力と圧迫感がある。その妙な威圧感に珍しくクロサイトが焦るかの様に後ずさり、はたと我に返ったギベオンがすみませんと体を縮こまらせた。そして、ギベオンがあまり咀嚼せずに飲み込む様な食べ方をしている事を把握しているクロサイトは今日も飲んでいたら注意せねばな、と気を取り直してシャツの襟を正した。そんな二人の遣り取りをよそに、女将は楽しげにチャパティを焼いていた。
 香辛料と共にペリドットが持ち帰った、野菜や果物をベースにしたソースを隠し味に入れ、完成したカレーは、食堂ではなく厨房で皆で食べた。どうせなら日を改めて大量に作り、宿の皆さんに提供したいという女将の言により、今日作ったカレーの残りは明日もギベオン達が食べる事になった。ペリドットによると時間が経つと水分が少なくなり、もったりとしたカレーになるらしい。
「うまーい! 美味いよペリドット」
「ふむ、あんなにトマトが入っているのに酸味がまろやかだ」
「本当ですねえ。今度からこれもメニューに入れましょうね」
「えへ……良かったぁ」
 程良い酸味と辛味が絶妙に混ざり合い、口の中いっぱいに広がったスパイスの香りと鶏肉の肉汁がたまらず、ギベオンは至福の表情で飲み下す。さっぱりしたラッシーと素朴な味のチャパティが余計に食を進めてくれたが、クロサイトからもう少しゆっくり食べたまえ、と言われてギベオンもペリドットも一旦スプーンを置いてからチャパティを噛み締めた。
 ただ、普段はそれなりに小食であり、一口がギベオンの半分程しか無いクロサイトでもこのカレーは気に入った様で、いつもよりは食べるペースが早かった。その事に気が付いたペリドットは良かった、と再度胸を撫で下ろし、今は出掛けているらしいセラフィにも食べて貰えたら良いとも思った。



三皿目・禁断カツカレー

 ここ最近、ずっと銀嵐ノ霊峰を気球艇で探索していたので、風馳ノ草原に比べると冷えるが銀嵐ノ霊峰よりは遥かに暖かいと感じる丹紅ノ石林で、ギベオンはセラフィに手伝って貰ってプラチナ黒豚を捕まえていた。彼の体はもうタルシスに来た当時の体型を留めておらず、随分と引き締まって一端の城塞騎士のそれとなっている。ギベオンは既にクロサイトの患者ではなくなり、紆余曲折を経てギルドを結成し現在は銀嵐ノ霊峰を探索していた。それなのに何故丹紅ノ石林でプラチナ黒豚を捕まえているのかと言うと、とあるものを作る為だ。
 銀嵐ノ霊峰を探索していたある日、孔雀亭に丹紅ノ石林で行方不明となった弟を探して欲しいという依頼が舞い込んできており、他人事とは思えなかったらしいクロサイトが引き受けたので探していたのだが、痕跡が残っていた騒がしい沼地で別のギルドの者達と遭遇した。探索をしていればよそのギルドと擦れ違う事などよくあるので気にする必要は無いと思われるかも知れないけれどもそのギルドは変わっていて、何とオオイノシシを追い掛けていたのだ。正確に言えば追い掛けていたのは二人の男で、そっちに回り込めだのこっちに追い込めだのと言い合い、赤毛の狙撃手の男がオオイノシシを仕留めようとしたその流れ矢が危うくギベオンに当たりそうになり、咄嗟に盾で防御した。慌てたのは相手のギルドの城塞騎士の男で、お前らよそのギルドの奴らに怪我させたらどうすんだと怒鳴った後でギベオンに頭を下げた。
 スフールと名乗った茶髪の城塞騎士は、アラベールという赤毛の狙撃手とパチカという赤茶色の髪の医術師の頭を両手で持ってぐんと押し、自分も再度頭を下げて謝った。その向こうでは眼帯を着けた金髪の夜賊の女、ペルーラと言うらしいが、黙々とオオイノシシを捌いていた。
「怪我も無かったので気にしないでください、それよりオオイノシシの肉が欲しかったんですか?」
「オオイノシシでカツ作ったら美味いかなーって思ったんだ。
 本当は豚が良いんだけど、幽谷を探索してたならオオイノシシが居るからちょうど良いし」
 不思議な人達だなあ、と思いながらギベオンが尋ねると、スフールより先にパチカが答えた。どうやらアラベールとパチカは迷宮に生息している魔物で食事を作る際のレパートリーを増やしたかったらしい。確かにオオイノシシは可食部が多そうであるし、実際食べているギルドも見掛けた事があるが、カツというものをギベオンは生憎と知らなかった。
「カツってなんですか?」
「カツ知らない? 肉に小麦粉と溶き卵とパン粉つけて油で揚げた食い物だよー」
 そのカツとやらを知らないのはギベオンだけでなく、つい先頃までウロビトの里で暮らしていたクロサイトの娘のローズも同様で、彼女がその疑問を代弁して尋ねてくれた事により得られた回答で想像してしまったギベオンは一気に腹が空いてしまった。そして、スフールが言った言葉がとどめとなった。

「カレーに乗せたら美味いんだよなあ、カツ……」



 ギベオンはスフールのこの言を聞いてからというもの、ずっとそのカツカレーとやらを食べたかったのだが、勿論そんな組み合わせをクロサイトが許してくれる筈もない。患者を卒業したとは言え油断するとすぐ太ってしまうギベオンは、今でも食事はある程度クロサイトの監視下に置かれていた。同じく患者でありギベオンより半年近く先に卒業したペリドットは、踊る事が大好きであるからリバウンドも無く、セラフィに嫁いだので食事はクロサイト達と共にとるけれども口出しはされなかった。彼女の食べ方は、特にこれといって指導するものでもなかったからだ。
 しかしどうしても食べてみたかったが一人で食べる勇気も無かったギベオンは探索休みのその日、体力があまり無い為に連日の探索で溜まっていた疲労を回復するかの様に十時頃まで眠り、のそのそと起きてきたセラフィに共犯者になって欲しいと申し出た。クロサイトは諸事情あってずっと父と名乗り出られなかったローズとの距離を縮める為、今日は二人で出掛けている。ペリドットもウィラフに誘われて出掛けて行った。つまり、今の時点では咎める者は誰も居ないのだ。
「どうしても……どうしてもこの間聞いたカツカレーが食べてみたいんです」
「オオイノシシを狩りに行くのか?」
「いえ、オオイノシシは肉がちょっと硬いので……豚肉が良いかなと」
「だったら石林の豚だな、やるとするならな」
 クロサイトとは似てない双子であるが髪質は似たのか、起き抜けのぼさぼさの頭を掻きながらセラフィは言った。かなりの細身であるけれども、今ではギベオンもこの男が自分より大食いであると重々承知している。それこそカレーなら大盛りを三度はおかわりするという程なのだ。それなのにこんなに細い体なのはずるい、とギベオンは思うのだが、何もそれはギベオンだけではなくペリドットも思うらしい。
「どうしても食いたいんですけど僕一人で食う勇気が出なくてですね」
「樹海の地下三階を俺とクロと熊に追い掛けられて走り回る覚悟はあるか?」
「あ、あ、あります!」
「なら良い、ついて来い」
「はい……!」
 そんな彼に切々と訴え、太ると分かっていても尚それを食べたいと言うギベオンにセラフィは念を押す様に尋ね、吃りながらではあるが元気の良い返事を聞いたので、そこまで覚悟しているのなら何も言う事は無いと愛用のジャケットを肩に引っ掛け診療所を出た。他人から見れば滑稽な遣り取りに見えるかも知れないが、当人達は至って真面目だ。
 そういう経緯を経て二人は丹紅ノ石林で豚を捕まえる事にしたのだが、どうせならとセラフィが言い張ったので食材が豊かなタルシスでも比較的高値で取り引きされるプラチナ黒豚でカツは勿論カレーも作る事にした。彼はギベオンに頭を下げられて冒険者に復帰するまでは基本的に一日一食だったので、食べるものは美味いものでなければ嫌な男だ。自分が何か作る時は食材に拘っているそうで、そういうところは女将に教わったらしい。
 兄のクロサイトは体の構造を熟知した上で魔物を失神させる程の一撃を振り落とす事が出来るが、セラフィはどちらかと言うと半ば本能で一撃で仕留められる箇所を見付ける様で、普段の探索で動物を捕まえ食材とする時はウサギなどが苦しまない様に一刺しで済ませる。先日騒がしい沼地で知り合ったアラベールもオオイノシシを極力傷付けずに仕留めようとしていた。もっとも、彼の場合は元猟師であり、いたずらに傷付けたり出血させたりすると肉が不味くなる、という理由であるらしいのだが。
 捕まえた豚はタルシスに戻って肉屋に持ち込み、不要な部位と捕まえたもう一頭を献上するという条件で解体して貰った。セラフィも解体出来るのだが豚は捨てる所が無いと言われる程の動物であり、血も肉と混ぜてブルストにしたりも出来るので、無駄にするよりプロに任せた方が良かろうと持ち込んだのだ。
「さすがは口の肥えた兄ちゃんだ、良い個体捕まえてきたなあ。これでカレーとか贅沢すぎやしねえかい?
 そっちのでかい兄ちゃんも、今日はご馳走にありつけるな!」
 生まれも育ちもタルシスであるセラフィは商店の者達と顔見知りで、所望した部位を渡しながら豪快に笑った肉屋の親父はセラフィの無愛想さも特に気にしていなかった。話を振られたギベオンは辛うじてはいと頷き、捌いて貰った肉が入った包みを受け取る。どっしりと重たいそれを手に入れた時点で既に午後四時を回っており、クロサイト達ももう帰ってきているであろうが材料は全て揃えてしまったのだから作るなとは言われないだろう、とはギベオンではなくセラフィの言であるので、ギベオンは幾分か心が軽かった。
 丹紅ノ石林に出掛ける前に女将に頼み込んで夕方に厨房の一角を使わせて貰う許可を得ていた二人は、診療所ではなく宿に足を運んだ。皆が出払う時に伝言がある場合、診療所の居住スペースにあるダイニングに置かれてあるコルクボードにメモをピン留めするという決まり事があり、ギベオンが「カレーを作る材料を集める為に石林に行ってきます」と簡素に書いて置いていったので、もしクロサイト達が先に帰っていたとしても心配はされてないだろう。呆れられているかも知れないが。
「セラフィ君達がカレーを作るというので、私もカレーにする事にしたんですー。皆さん、カレーお好きですからね」
「あっ、そうなんですね。ちょうど良かった、じゃあ皮剥き手伝います」
「あら、有難う御座います。助かりますー」
 厨房に積まれた大量の玉葱や人参、ジャガイモに驚いたが、女将もカレーを作るというのなら納得がいく。しかも仕事が早い女将は、既に玉葱と人参は皮剥きして切っていた。
 ギベオンがジャガイモの皮剥きをしている間、セラフィは黙々とカレーを作っていた。隣の大鍋で同じくカレーを作っている女将はカレーにカツを乗せるというアイデアに興味津々で、そんな豪華なカレーは初めて聞きますねと言った。
「最近、銀嵐ノ霊峰の探索で体が冷えるのか、風邪を引かれる方が多いんですよー。
 今日も熱を出して寝込んでいる方が何人かいらっしゃって」
「霊峰は寒いですけど、金剛獣ノ岩窟は暑いですからね。気温差でやられちゃう人多いでしょうね……」
 ギベオンは寒い地域出身なので銀嵐ノ霊峰の探索は苦にならないのだが、裏を返せば暑い所が苦手であり、金剛獣ノ岩窟の暑さがかなり堪える。逆に、暑い地域出身のペリドットは銀嵐ノ霊峰よりも金剛獣ノ岩窟の探索の方が動きが良くなる。体脂肪率が極端に低いセラフィに至っては暑いのも寒いのも堪える様だ。まだ八歳のローズは我慢強く、弱音を吐いているところを見た事が無いが、探索を終えてタルシスに帰り診療所に戻る階段を上れずギベオンがおぶった事もある。
 幸いにも、ギベオンを含めたギルドの全員は未だに風邪を引いていない。ひとえにクロサイトが皆の体調管理を徹底してくれている賜物であろうし、寒いからと丹紅ノ石林で沈黙の夢食いから採取した羊毛を紡いで貰ったり水晶宮の都に居るジャスパーに送って貰ったりした毛糸で、編み物が出来るギベオンが全員に急いで手袋や帽子、ニットセーターを作ったからであろう。
 それに何より、皆よく食べた。少食であったクロサイトも探索に出る様になってからというもの食事の量が増えたし、ローズもおかわりする様になった。特にローズは地脈を操り、岩窟の至る所に刺さっているホムラミズチの鱗から発せられる熱を和らげてくれているので、体力の摩耗も大きかったのだ。タルシスで供される食事を興味深そうに食べてはおかわりくださいと言う彼女に和んだのはクロサイトだけではないだろう。
 先に炒めた玉葱から良い香りが立ち、調合された香辛料を投下して炒め合わせる。その後に入れた肉と人参にざっと油が回る様に軽く炒めた後、間引いた人参やその葉、剥いた玉葱の皮などの端切れ野菜を煮込んで作られた野菜ブイヨンと赤ワイン、隠し味の牛乳を入れて煮込んでいる間にギベオンは皮を剥いたジャガイモを切って茹でる準備をする。一緒に煮込んでも構わないのだが、煮崩れ溶けてしまう事を防ぐ為に女将はいつもジャガイモを茹でてから仕上げに入れているらしく、今日もその手順で作られた。
「うぅっ……もうその時点で物凄くそわそわします……」
「まだ早いぞ、これから揚げるんだ」
「そうですけど……」
 一方のセラフィは煮込んでいる鍋を女将に頼み、筋切りをしたロース肉に衣をつけていた。さくっと揚がりますよという女将の助言を受け、衣を二度付けしたその肉は、揚がったところを想像するだけでギベオンの腹の虫が鳴る。既にカレーの匂いが充満して早く米にかけて食べたいというのに、焦らされている様な気すらしてくる。
 そして熱した油に投下された瞬間に耳に響いた揚がる音に、女将も嘆息を漏らした。霜降りが美味いプラチナ黒豚であるが、ロース部分はそこまで脂はなく、それでいて柔らかく濃厚な味なので、これをカツにするなど本当に贅沢な話なのだ。
「いいにおいがします〜」
「ほんとだ揚げ物の匂いもする〜」
 カツはセラフィに任せてギベオンが沸いた湯の中にジャガイモを入れて茹でていると、厨房の入り口から可愛らしい声が聞こえ、振り返ると、ローズとペリドットが立っていた。診療所に中々戻ってこないギベオンとセラフィの様子を見に来たのか、はたまた夕飯が待てなかったのかは分からないが、カレーの匂いに誘われる様に姿を見せた二人にギベオンも思わず顔を綻ばせる。
「あのね、この間スフールさんがカツをカレーに乗せたら美味いって言ってたから、
 どうしても食べたくて丹紅ノ石林まで行ってプラチナ黒豚捕まえてきたんだ」
「あ、それ絶対セラフィさんが拘ったでしょ」
「当たりー」
 鍋の火元とは離れた所にあるフライヤーで淡々とカツを揚げているセラフィは、ペリドットとローズに危ないから寄るなよ、と言っただけでそれ以上の反応は見せなかった。代わりに、揚がった一枚を切り分けて女将に差し出して一切れ食べた彼女に合格を貰って満足そうにした後に竹串に刺してペリドットとローズに一切れずつ寄越し、ギベオンにはお前は後のお楽しみにしておけと言った。空腹がそろそろ限界を迎えそうなギベオンは、それでもはい、と言うしか無かった。
 そして出来上がったカレーを鍋ごと診療所に持って帰り、ギベオンの書き置きで今夜はカレーと知ったペリドットが用意してくれていたベビーキャロットや陽明リンゴを入れたサラダも取り分け、全員分の配膳を済ませて皆で食卓を囲んだ。立派なカツがカレーの海に半分沈み、衣にカレーが染みているのが見て取れる。逸る気持ちを抑えつつカレーと共にカツを口に入れたギベオンは、肉汁とスパイスの香りから口内を一気に攻撃され、思わず口元を抑えて奇妙な声を上げた。
「やばいなこれ……禁断の味がする……」
「危険ですね……」
 同じくカツをカレーと共に食べたセラフィはスプーン片手に机に肘をついた手で額を抑えて唸っている。クロサイトもこれは危険だと言いたげな神妙な面持ちであるし、ペリドットとローズもこの取り合わせの美味さと危険性を改めて悟った。
 その後、普段なら楽しく会話をしながら食事をするところを無言で食べたのだが、今日ばかりはクロサイトもギベオンがおかわりする事を咎めなかったし、カツをカレーに乗せると美味いと呟いたスフールには礼を言いたい気分であった。ただ、美味すぎておかわりしすぎてしまったギベオンは案の定翌日クロサイトとセラフィに碧照ノ樹海で追い掛け回される羽目になったので、危険なものを教えてくれて有難う御座いますという礼を後日宿で見掛けたスフールに言ったのだった。



四皿目・遙かなるマトンカレー

 絶界雲上域の上空は、当たり前だが他の大地に比べて世界樹がよく見える、筈であったけれども、バルドゥールの計画が実行された事によりその姿は無い。タルシスからでも臨めたあの巨木は、見る間に枯れて根本から倒れてしまったのだ。
 その世界樹の根本に存在した入り口から侵入出来る煌天破ノ都を探索するにあたり、ギベオンのギルドは帝国兵を招き入れていた。ペリドットが妊娠した事により木偶ノ文庫からは四人での探索となっていたので、貴重な戦力となる。灰銀の長い髪、ワインレッドの大きな瞳、気の強そうな面立ちの女性帝国兵は名をモリオンと言い、巨人を復活させようとしているバルドゥールを止める為、揺藍の守護者との戦いにより負傷してしまったローゲルの代わりに加入してくれた彼の姪だった。
 このモリオン、気位が高い訳では決して無いのだが、中々に気難しい。皇帝アルフォズルと共に出国した父と叔父が戻らぬ中、彼らが戻ると信じ続けた皇子バルドゥールに同調していたただ一人の者であったので、帝国内でも孤立しがちであったそうだ。そういう境遇に居たせいで、あまり他人とのコミュニケーションがとれないから距離を置いて欲しいとの事だった。
 事情は分かるしギベオンもどちらかと言えば人付き合いが苦手な方なので聞き届けたいのは山々だけれども、しかしそうなると戦闘中の連携が難しくなる。勿論よく話すからといって一朝一夕で連携が取れる様になる訳ではないが、ドライブを放った後に出来る大きな隙を狙う魔物から庇う為にも多少の交流をした方が良いとギベオンは思っていたし、彼だけではなくクロサイト達も思っていた。
 そんな中、煌天破ノ都から長い通路で繋がっていた木偶ノ文庫の深部を探索していたある日、絶界雲上域で狩った雲上野ヤギの肉を探索前に焼いて食べていると、ローズがモリオンに尋ねた。
「あの、ていこくのかたがたは、ヤギさんをどうやってたべているのですか?」
「どうやって……とは、どういう意味だ?」
「おにくがちょっとかたいので、ほかのたべかたがあるのかなあっておもって……」
「ああ……、こういう場所では手っ取り早く焼くしか無いが、煮込み料理が主だな」
 マトンは硬いので薄くスライスし、持ってきたエリンギと共に焼いて水気を切ったザワークラウトも一緒にパンに挟んで食べる、というのが最近の彼らの食べ方であったのだが、帝国の一般家庭では煮込むらしい。子羊は柔らかいけれども食料が乏しい帝国では子羊を捌く事は滅多に無いそうだ。
「臭みがあるから、香草と一緒に煮込んだりするな。香辛料を入れてカレーとか」
「カレー?!」
 臭み消しに黒胡椒を使用していたが、あまり使いすぎるとローズが食べられないのでケチャップで仕上げたマトンのサンドイッチを食べていたギベオンが、モリオンのその言葉に真っ先に反応した。カレーという単語にいきなり食いついてきた彼に、モリオンは思わずぎょっとしてたじろぐ。
「あの、その、帝国でもカレー作ったりするの?」
「大鍋料理だからな。羊一頭潰して大勢が食べられるから」
「モリオン、あの……もし良かったらなんだけど……僕そのカレー食べてみたい……」
「はあ……?」
 どことなく切実な表情で頼んできたギベオンに、モリオンは思わず眉を顰める。一刻も早く煌天破ノ都の封印された石扉を開かねばならないという切羽詰まった状況下で呑気にカレーなど作っている場合ではないと言いたげな彼女に、ケチャップをつけているローズの口の周りを拭いてやりながらクロサイトが言った。
「ここ数日でタルシスに拠点を移した帝国兵もそこそこ居るし、彼らに振る舞うのも良いかも知れんな。
 慣れぬタルシスで故郷の味を口にすれば安心するだろうし」
「………」
「栄養も豊富だからペリ子君の腹の子にも良い。作って貰えないか」
「……仕方ないな、分かった、良いだろう」
「やったあ〜!」
 普段なら了承しないところだが、あまり他人と接触しようとしないモリオンに少しでも皆と打ち解けて貰おうとクロサイトが頼むと、渋々といった面持ちではあったがモリオンが頷いた。その遣り取りに喜んだのはギベオンだけでなく、ローズも嬉しそうにしている。セラフィなど二つ目のサンドイッチの最後の一口を飲み下しながら絶界雲上域の地図を広げて見ていた。いつぞやのプラチナ黒豚の件と同様、恐らく高級マトンとなる極毛ゴートを捕まえるつもりだ。カレー一つでここまで盛り上がるなど、こいつらは本当に変な奴らだな……と、モリオンはギベオン達と知り合ってもう何度目になるのか分からない事をまた思った。
 探索を終えてタルシスに戻る前にしっかりと極毛ゴートを捕まえ、いつもの肉屋で捌いて貰っている間に野菜を買う。香辛料は宿で静養している筈のローゲルに借りる事にした。何でも食料が乏しい帝国では、どんなものでも美味く食べられる様にと軍人達は独自の調合をした香辛料を持っているのだそうだ。ローゲルはその調合が上手かったらしい。
 モリオンの要望通りに骨付きのままにしてもらったマトンと、買い込んだ野菜を持って宿の厨房を訪れる。帝国風のカレーを作りたいんですが良いですかと尋ねると、女将はちょうど今日は帝国料理を作ろうと思っていたんですよと快諾してくれた。モリオンがローゲルに香辛料を貰いに行っている間にてきぱきと道具や材料を取り揃えたのはギベオンで、彼はタルシスに来てからというもの、料理を作る段取りがとても良くなっていた。
「マトンカレーだってね。俺も手伝うよ」
「おや、君か。足は大丈夫かね?」
「何とかね。大人数分作るんだろう? だったら手持ちだけじゃ足らないから、ここで調合し直さないといけないし」
 足を骨折してしまったローゲルが仕込み杖をつきながら厨房に入ってきたので、ローズに包丁の持ち方を教えていたクロサイトが足の具合を尋ねる。幸いにも経過は順調であるらしいローゲルは、モリオンが持ってきてくれた小さな椅子に腰掛けて用意する香辛料の種類をメモ紙に書いた。
 ローゲルが香辛料を調合し、ギベオンがにんにくと生姜をすりおろす。それらをマトンに揉み込み、漬け込んでいる間に全員で野菜を切った。玉葱は炒めれば炒める程好まれる味になると言ったモリオンが先に玉葱を炒め始め、長い髪をポニーテールにした彼女を見たローゲルはお前の子供の時を思い出すなと笑った。
「帝国は、俺が小さい頃から本当に食料不足に悩んでいてね。
 雲上野ヤギのシチューとか煮頃銀ブナの煮付けとかペポカボチャのサラダとか、とにかく採れるものを延々と食ってたよ。
 米なんて栽培出来なかったからタルシスで初めて食ったな」
「あ、そうだったんですか。じゃあモリオンも?」
「私もここで初めて食べた」
「へえー……」
 カレーをモリオンに一任したローゲルはそば粉で平たいパンを作ると言って生地を捏ねていた。痩せた大地でも育つそばは帝国で重宝され、小麦粉と混ぜてパンやケーキを焼いたりする。
 汚染された大地では作物も家畜も思うように育たない帝国で、ローゲルもモリオンも食うに困った事は数えきれない。先にタルシスに来たローゲルは、随分離れているとは言え世界樹が見える距離であるのにここまで食が豊かなのかと愕然とした程だ。透き通った美しい水が流れる川、豊かな緑に覆われた大地、乾いてはいるが心地よい風が吹く風馳ノ草原は、ローゲルの目にひどく眩く映る。今でもそうだ。
「お肉は焦がさない様に、ですか?」
「いや、多少焦げ目がついた方が美味くなる。これくらいかな」
「もうそのお肉だけでも美味そうだね……」
「何故お前はいつもそう腹を空かせているんだ?」
 ローゲルが調合した香辛料の配合をメモした女将が玉葱を炒めている鍋にマトンを入れて焼いているモリオンに尋ねると、彼女は傍らに置いていたトングでマトンを持ち上げ実際に見せた。そのマトンを見たギベオンが思わず嘆息を漏らし、モリオンはそんな彼を呆れた様に見る。低い椅子に座って自分の手元を見せながらローズと一緒にゆっくりとジャガイモの皮を剥いているクロサイトは、呆れた訳ではないがいつも腹を空かせている、のくだりに大いに同意してうんうんと頷いた。
 肉が隠れる程度の水を入れて蓋をして暫く煮込み、ローズ達が切ってくれた人参やジャガイモを入れて更に煮込む。水分が少ないのでジャガイモが煮崩れるという事があまり無いらしい。火元に近い所で発酵させていた為にパン生地も程よく膨らみ、切り分け丸めてベンチタイムを挟んだ生地はモリオンがローズに伸ばし方を教えながらフライパンで焼いていた。
「これでカボチャコロッケを作ってカレーに乗せても美味いだろうな」
「やめてくださいカツカレーの時みたいな惨事になります」
 ローゲルがペポカボチャのサラダ、と言ったのでふらりと厨房を抜けて買い求めてきたセラフィが蒸しあがったペポカボチャを潰しながら言った言葉に、ギベオンは顔を引き攣らせた。揚げ物とカレーの組み合わせはカツカレー以来、ギベオンの中で禁断だ。それを聞き、言い出しっぺなんだから君が今度作ってくれよとローゲルはおかしそうにセラフィに言った。
 そうして完成したマトンカレーとそば粉の平パン、ペポカボチャのサラダは、宿の食堂に集まった帝国兵を筆頭に、探索帰りでくたびれている冒険者達に多いに喜ばれた。食が豊富でカレーの種類も多くあるタルシスなのだから帝国のこんな素朴なものが果たして喜ばれるのか、と懸念していたモリオンであったが、杞憂に終わった様だ。
「うまーい! 有難うモリオン、美味いよ」
「そうか」
 診療所で留守を預かるペリドットが宿の食堂まで出向き、皆と一緒にカレーを食べる。モリオンがギルドに馴染めていない事を一番心配していたのはペリドットであり、気にかけてくれていたと知っている分、モリオンもほっとした表情になった。切迫した状況である事に変わりはないのだが、こうやって帝国の者達をごく自然に受け入れてくれているのは有難い。そんな事を思いながら半分に切った平パンにカボチャサラダを乗せ、サンドイッチにして食べているモリオンに、ギベオンは首を傾げた。
「ねえモリオン、何でカレー食べないの?」
「私はカレーが嫌いだ」
「?!」
 そして得られた衝撃の回答にギベオンは勿論、周囲に居たローゲル以外の全員が驚愕したのだった。



五皿目・憧れの赤竜カレー

「貴公らか。語るには及ばず、貴公らの狙いも偉大なる赤竜であろう」
 気球艇の向こうには、巨大な赤い竜が鎮座している。風馳ノ草原を支配しているとも言われている、偉大なる赤竜だ。帝国からの移民の受け入れの為、かの竜を退治すべく辺境伯は重い腰を上げて討伐の依頼を出し、それを引き受けたのは巨人を倒したギベオン達だった。彼らは移住してくる帝国の者達の妨げとなるならと、この危険な依頼を承諾したのだ。
 そして、現場には帝国製のものと思しき気球艇が停泊していた。孔雀亭の女主人やタルシスの街門で話した帝国兵が憂いていた様に、バルドゥールが一人で挑もうとしていたのだ。
「あの、バルドゥールさん、良かったら僕達にもお手伝いさせてくれませんか。足手まといにはならないと思いますので」
「承知した。轡を並べ、共にあの竜に戦いを挑もう」
「それと、勝ったら一緒にカレー食いましょう」
「な、なに?」
 砲剣を携え気球艇から降り、ギベオン達と肩を並べたバルドゥールは、しかし言われた言葉に拍子抜けした。こんな時にカレーとは一体何だと思ったのだ。
「間近で見れば見る程立派だな。食い出がありそうだ」
「捌くのが大変そうだがな」
「皆でやれば大丈夫ですよ。楽しみだなあ」
「モリオンはカレーが嫌いだから、しっぽをステーキにしたら良いかもね」
 こちらが敵と認識したのか唸っている赤竜を見上げながらセラフィとクロサイト、ギベオン、ペリドットが得物を構えながらもやや緊張感に欠ける事を言い、バルドゥールは更に面妖な顔になる。モリオンは巨人との戦いで右腕を失くした為に出産したペリドットが戦線に復帰したのだが、ブランクを感じさせない剣さばきを見せ暗国ノ殿と呼ばれる迷宮探索にも参加しており、ギベオン達の活躍はバルドゥールも聞き及んでいる。だが、本人達はカレーの材料を集める探索をしていたら結果的に活躍していたという認識だ。
 タルシスの街医者であるクロサイトは、統治院の外交官という肩書を不承不承ながらも所持している。その為、バルドゥールが入院していた時には目覚めた彼の元へ行き帝国民の移住についての詳しい説明をし、承諾を貰っていた。そんなクロサイトでさえ顎鬚を撫でながら、これまでにも帝国の気球艇だけではなく数々の冒険者達の気球艇を墜落させ、時には命を奪ってきた赤竜を見上げながら食材の認識をしているといった発言をしたのだから、バルドゥールはますます奇妙な心持ちになった。
 おかしな者達だ、と思いつつも砲剣を構えようとしたバルドゥールの側に、少女が寄ってくる。ローズだ。えへへ、とはにかみながら見上げて笑う彼女にバルドゥールが僅かに首を傾げると、ローズはぎゅっと錫杖を握り締め、地面に突き立てた。その瞬間に、赤竜の足元の大地に不思議な光る紋様が現れた。以前熱砂竜とも戦った事があるローズは、恐らく同じ様に赤竜も炎を吐いてくるだろうと判断し、頭封の方陣を張ったのだ。
「おうじさまとごいっしょできてうれしいです。わたし、がんばりますね」
 バルドゥールにとって、ローズは巨人の力を発現させる為には犠牲もやむなしと判断したウロビトだ。憎まれ罵られても仕方ないというのに、ローズはそうしなかった。それどころか共に戦えて嬉しいとさえ言った。バルドゥールは自分を助けようと多くの者が奔走してくれた事を素直に有難く思い、ギベオン達だけではなく自分の救出に関わってくれた者達と食事をするのも一興か、と苦笑した。
「……ああ、余も同じ思いだ。我が砲剣、帝国の栄光と貴公らの勝利、そして皆で囲む食卓の為に……!」
 方陣が張られたのを受けてバルドゥールが砲剣を起動させ、赤竜をきっと睨み付ける。その音を合図に全員が戦闘体勢に入り、かくして赤竜カレーを作る為の戦いの火蓋は切って落とされたのだった。



 タルシスの広場には、普段とは違う賑わいがある。否、いつも活気に溢れていて賑わっているのだが、今日はまた特別賑わっていた。それもその筈で、綺麗に晴れた夕暮れの空の下、数軒の食事処が自店の中で一番大きな鍋を持ち出し、カレーを作っているのだ。各店の様々な味付けが施されたカレーに、冒険者もタルシスの住民も、勿論ウロビトやイクサビト、帝国民も舌鼓を打っている。
 偉大なる赤竜と対峙したギベオン達は、苦戦はしたもののバルドゥールの強力なドライブも加わった事により勝利を収める事が出来た。くたびれた体で赤竜の巨体を解体するのは骨が折れたが、アリアドネの糸で一足先にタルシスに戻ったペリドットとローズが協力を要請し、いくつかのギルドの者達に捌くのを手伝ってもらったのだ。そして持ち帰られた赤竜の肉は、その大量さ故に宿の女将を筆頭にしてタルシスに存在する食事処に持ち運ばれる事に相成った。
 僕達これでカレーを作ろうと思ってるんですよ、と辺境伯に何気なくギベオンが言うと、どうせなら広場で大勢で食べてはどうだねと言われ、賛同してくれた食事処の者達が材料を持ち寄り、本当に広場でちょっとした祭の様な催しが開催されてしまった。帝国からの移民がこれでスムーズになるのだ、祝い事には変わりない。
「赤竜カレー、思ったよりクセが無いですね。うまーい!」
「叫ぶな、行儀よく食べろ」
「あぅ、ご、ごめん……」
 セラフィが風馳ノ草原の上空を飛行する赤竜を見上げながらいつかあいつを食ってみたいと大真面目な顔で言ったのを聞いた時からカレーにしたいと思っていたギベオンは、念願が叶ってご機嫌だった。思わず感動の声を上げた彼を、隣でデミグラスソースを絡めた赤竜の尻尾のソテーをトマトやレタスと共にバンズに挟んで食べているモリオンが咎め、ギベオンは体を縮こまらせて謝る。巨人を倒した後、彼は一世一代の告白をしてモリオンを妻にしていた。尻に敷かれている、と思ったのはクロサイトだけではないし、見ていたバルドゥールとその隣に座っているローゲルもそう思った。
「こうやって大勢で食べるのも良いものだな。帝国ではこんな事も出来なかった」
「これから出来ますよ。またいつか、僕達の世代では叶わないかも知れませんけど、
 何代も後の人達がきっと絶界雲上域でこういう事をやれる日が来る筈です」
「……そう、だな」
 バルドゥールが敢えてタルシスの味付けのカレーを選び、口に運びながら呟いた言葉に、ギベオンは人懐こい顔で笑って見せた。楽観的だとも思える彼の言は、しかしバルドゥールにはそうあって欲しいと思えるものであったし、クロサイト達も黙って微笑を浮かべながら同意する様に頷いた。近い将来になるのか、遠い未来になるのか、それはまだ分からないが、皆がこうやって笑って過ごせる様になれば良い。そんな事を思いながら、バルドゥールはスプーンで白い皿の上の褐色の大地を掬い上げた。
「僕おかわりしようかなあ」
「樹海を走り回る覚悟があるならして良いぞ」
「ええぇーっ、赤竜倒すくらい運動したんだから今日は許してくださいよぉ!」
「冗談だ。だが、三度も四度もしたら本当に走り込みに行かせるからな」
「うぅ……はい……」
 既に皿を空にしたギベオンは腰を浮かしかけたが、クロサイトの牽制の言葉に抗議した。しかし顔は笑っていても目を笑わせていない、相変わらずな主治医の言葉に、再度体を縮こまらせて頷いたものの、しっかりと皿を持って二杯目を所望しに行った。その後姿を、テーブルに就いている皆は苦笑しながら見送ったのだった。