Shall we dance?

 それは事件と言えば事件であったし、重大な事と言えばそうであったのかも知れない。否、常人であるなら大した事ではないのかも知れないのだが、彼にとっては本当に、心の底から重大な事件と思ってしまう程の出来事であったのだ。
「こいつは本来交わることのない二つの業を同時に習得し、使いこなすための智慧を体系化した書物だ」
「と言いますと?」
「早い話がクロ坊、お前がセラ坊みたいに投刃が使える様になると言う事だ」
「ほう……、それは面白そうですね」
 金剛獣ノ岩窟でキバガミというイクサビトと戦った後、譲って貰った巻物はどうやら大層なものであったらしく、ギルド長から説明を受けたクロサイトは感嘆の声を上げまじまじとその巻物を見た。
「じゃあ僕がダブルストライクを使える様にもなれます?」
「なれるぞ」
「わたしがいんじゅつをつかえるようにも?」
「うむ、なる」
 例えを聞いたギベオンやローズが尋ねると、ギルド長は力強く頷いた。それを見て二人はぱっと顔を明るくする。どうやらソードマンやルーンマスターに憧れていたらしい二人は判断も早く悩む素振りなど一切見せずにその業を選ぼうと既に決めた様だ。しかしこれと言って思い浮かばなかったセラフィが弓でも使ってみるかなと考えていると、突如として何かを思い付いたらしいペリドットから外套を掴まれた。そして、期待に満ちてきらきらと光る紫水晶の瞳で見上げられ、言われた言葉に絶句した。

「セラフィさん、踊ってみませんか!」




 ……使う武器は一緒、とは言っても、なあ……。
 広場の噴水の縁に座って途方に暮れた様に座っている黒髪の男が一人。統治院に向かう者やベルンド工房に向かおうとしている者、出発するのか街門へ向かう者が多く往来するこの雑多な広場で、元気が無いのは確実に彼一人だけである。元々そこまで元気溌剌と言える男ではないので特に気にする必要など無いのだが、それにしても本当に途方に暮れた様な表情をしており、彼を知る者であれば心配して声を掛けていたかもしれない。幸か不幸かそんな者は居なかったし、また声を掛けられてもセラフィも困る。
 金剛獣ノ岩窟でキバガミと戦い、彼を倒して授かった巻物を携えギルド長を訪ねた後、統治院を訪れて諸々の報告をしてから仲間はそれぞれ別行動をとる事となった。メディックであり自分の診療所を持っているクロサイトは近所の住民の回診に行くと言っていたし、ギベオンはキバガミとの戦闘で破損した鎧や盾を修繕したいからと居候している診療所に戻ったし、ローズは最近仲良くなったらしいルーンマスターの少女に会いに行くと孔雀亭へ行ったし、ペリドットは診療所に隣接する宿屋の女将の夕食の支度を手伝うと言ってセフリムの宿へ行った。ギベオンに頭を下げられクロサイトと共に冒険者に復帰するまでは夜の樹海や石林で冒険者達の死体の掃除屋をしていたセラフィは体力温存の為この時間から碧照ノ樹海や深霧ノ幽谷へ行く訳にもいかず、明日の岩窟の探索出発まで特にこれと言ってする事は無かったので往来を見ながら広場でぼんやりしている。
 水晶宮の都から来たギベオンやタルシスから見て遥か南東に位置する街から来たペリドットと違い、元からタルシスの住民であるクロサイトやセラフィはギルド長とも昔からの顔馴染みであり、三十路も半ばを過ぎている双子を坊呼ばわりするギルド長から聞いた話によると、今後は他人が扱う武器や技が使える様になる、らしい。話を聞いただけで実際まだ使った訳ではないので全員実感は無いのだが、修練を重ねる内にどんどんと使える様になるそうだ。確かに後方支援のクロサイトが投刃を使える様になれば便利であろうし、盾役であるギベオンが武器を二度降り下ろせる様になれば心強いであろうし、元から弓を引く事を得意とするペリドットが狙撃手の様に敵を貫通する程の矢を射てる様になれば楽になるであろうし、地脈を操る事に長けているローズが大気の元素を操り印術を使える様になれば属性攻撃の手段を殆ど持たない現在のギルドにとってこれ程助かる事は無い。
 しかし、残念な事に他の業に手を出せる程の特技が取り立ててある訳ではないセラフィには、選択肢というものが殆ど無かった。何せ元から双剣使いであるし、身軽さや素早さが取り柄なのでギベオンの様に重い装備など着けられないし、頭は悪くはないが良くもないのでクロサイトの様に煩雑な手当ては出来ないだろうし、またローズの様に方陣を張る事も出来まい。力だけはあるので弓を射つのは良いかもしれないと、孔雀亭でたまに会う剣使いに話を聞こうかななどと楽しげに話すギベオン達を尻目にぼんやりと考えていたセラフィは、しかしペリドットの踊ってみませんかという誘いに目を丸くした。
 ペリドットは紆余曲折を経て故郷の彼女の許嫁の元からセラフィが攫ってきて、というよりも助け出して彼が妻にした女なのだが、踊り子であるので踊る事が大層好きであるし、暇があればよく舞っている。孔雀亭の小さな舞台で同じ踊り子のウィラフに誘われてたまに踊っている事もある様で、それがちょっとした小金稼ぎにもなっている様だ。さすが故郷の一帯では有名な劇団の踊り子の一人娘とあって仕込まれた舞は見事なものであるからそこそこファンも存在するらしい。
 それは良いのだ。否、セラフィとしてはあまり良い事とは思えないが、それは今抱えている事案とは別問題なのである。冒険者ギルドでペリドットの誘いに暫く動きを止め、返答を待つ彼女に困った様な居た堪れない様な、そんな顔をしたセラフィは、笑ってしまいそうなのを必死で堪えているギルド長やクロサイトを横目で睨んだ後にガリガリと頭を掻いて溜息を吐いた。

『……ペリドット、期待してるところすまんのだが』
『何ですか?』
『俺はリズム感が壊滅的に無い』

 そう。彼はリズム感皆無の男であったのだ。
 それを白状した時のペリドットは目を丸くして、一瞬何を言われたのか分からない様な表情をしていた。それもそうだろうとセラフィは思う。踊れる人間からしてみれば、何故踊れないのかは理解出来ないであろう。セラフィだってどうやったら投刃が標的に的確に当たる様になるのかなどと聞かれても上手く説明出来ない。何しろセラフィに投擲ナイフを教えてくれた師は習うより慣れろの精神の持ち主であったから、習ったというよりひたすら練習した覚えしか無い。
 子供の頃からダンスや演劇が苦手であったセラフィは、とにかくそれらに誘われぬ為に逃げる事を覚えた。その結果の俊足であり気配を消す技術の向上であったのだが、理由が何とも情けない。絵心があり、趣味で水彩画を嗜んでいる兄のクロサイトと違い、セラフィは昔からそういった芸術全般には全く明るくない。絵画の良さはあまり分からないし、音楽も煩いかそうでないかしか分からないし、演劇も煩雑過ぎると話の内容がちっとも頭に入らない。どちらかと言うと一人で静かに本を読む方が性に合っている。ただ、クロサイトの描く絵は好きだし茶が趣味のギベオンが淹れる茶は美味いと思うしペリドットの踊りは綺麗だとは思えるので、そこまで芸術音痴という訳でもないのだ。身内の贔屓目と言われれば、そうかもしれないが。
 セラフィ本人も無趣味ではなく、香をよく焚いている。ただこれは薫りを楽しんでいるというよりは仕事で損傷の激しい遺体を見てしまった日に夢見がひどくならない様にと焚いていたものであるから、風流さなど微塵も無い。樹海での虫除けにもなる薫りもジャケットに焚き染める事もあり、そういう時はペリドットが不思議な良い薫りがすると寄ってくる事がある。自分が少しでも眠れる様になる薫りや仕事に役立つ薫りを探している内に上質なものかそうでないかの区別はつく様になったので、本当に必要に迫られて、といったところだ。それが果たして趣味と言えるかどうかは甚だ怪しいが、他人から見れば趣味に見えるらしいのでそう言っても良いだろう。
 だが香など嗅覚があれば良いだけのものであり、ダンスは全く別物のリズム感というものが必要だ。ペリドットの言う踊りませんか、は恐らく一緒に踊ってほしい、の意であり、セラフィのその憶測は正しい。故郷から遠く離れたこのタルシスに身一つで、しかも彼女の年の倍生きている自分に嫁いできてくれたペリドットが望むのであれば可能な限り何でもやってやりたいとはセラフィだって思うのだが、しかしこればかりはさすがに叶えてやる事は難しい。何せ本当に壊滅的にリズムに乗れない男であるので。
 ここで悩んでいても仕方ないか、と立ち上がったセラフィは、普段よりも若干重い足取りで自宅でもある丘の上の診療所に漸く向かい始めた。帰路の途中の、孔雀亭とはまた別のバルの軒先で旅の吟遊詩人がリュートを手に何がしかの歌を歌っていたが、やはり彼には何を歌っているのか分からなかった。



「そう言えばリズム感が壊滅的に無いって仰ってましたけど……そんなに無いんですか?」
 診療所のダイニングでの夕食の後、食後の茶を淹れていたギベオンがはたと思い出した様に尋ねてきた質問に、セラフィは白姫リンゴを齧りながら僅かに眉を顰めた。糖蜜が詰まったリンゴの甘さが口いっぱいに広がっている顔とは思えないその表情に、ギベオンは聞いてはいけない事を聞いてしまった……と思ったものの、発言は撤回出来ない。
「無い。あと音感も無い」
「……ラ〜♪」
「……ラー」
「それファです」
「だから音感も無いと言っているだろう……」
 リンゴを咀嚼して嚥下したセラフィの回答を聞いてペリドットがやおら歌う様に発声したのだが、それに続けた彼の声の音階は少しずれていた。ペリドットだけではなくギベオンもローズも妙な顔になってしまったが、クロサイトだけは全く表情を変えずに出された茶を啜っている。セラフィにリズム感も音感も無いと彼は知っているので、今の遣り取りに対して特に不思議に思う事も無いからだ。
「でも、リズム感が無いならそんな喋り方にならないですよ。リズムが取れてるから流暢に喋る事が出来るんです」
「……そ、そうなのか?」
「そうですよ。セラフィさん、あんまりお喋りじゃないからちょっと分かりにくいかもしれないですけど……」
 これで諦めてくれれば良いのだが、と思っていたセラフィは、それでも小首を傾げたペリドットの発言を意外に思ってしまった。諦めるというより呆れてくれた方がまだ良かったが、真剣に何かを考えている彼女は何とかして一緒に踊りたいというよりは純粋にセラフィにリズム感が全く無い訳ではないと判断してくれているらしく、皿に盛られていたリンゴが全て無くなった事を確認してから彼の手を取った。
「少し、裏庭でステップだけでも踏んでみませんか。ステップだけで構いませんから」
「いや、だから」
「リズム感が全く無いって思い込んでるのも一因だと思うんです。私、セラフィさんがそんなにリズム感無いとは思えないので……」
 自分の分野ではない、と決めつけているのは確かであるし、ペリドットの言い分ももっともである様な気がしてセラフィは押し黙る。無理に外に連れ出そうとはせず、行きませんか、と窺う彼女は無理強いもせずに飽くまでこちらの意思を尊重しているからセラフィも無碍にする事は出来ず、空いた手で頭をガリガリと掻いてから渋々とではあるが立ち上がった。それを見て、ペリドットも嬉しそうに顔を輝かせる。プロのダンサーに習うなど普通の生活を送っていればまず経験出来ない事ではあるし、子供の頃からのコンプレックスを克服するには良い機会かもしれないと思った彼は、それでも興味深げに顎鬚を擦りながら自分を見た兄を横目で睨んだ。絶対に見物するに違いないと思ったからだ。
「じゃあ、ワルツのステップをやってみましょう。サンバやタンゴは難しいかも知れませんけど、ワルツは三拍子ですから」
 日も暮れた裏庭は薄暗いが、それでも月は明るいしランタンの明かりもある。気を遣ってくれたらしいクロサイトが背の高いギベオンに木の枝の安定した場所にランタンを置かせたので足元が覚束ない事もない。有難い気遣いではあるが、当然であるかの様に見学するのはやめて欲しいとセラフィは思ったけれども、それ以上に三拍子という単語に体が固まってしまった。
「さ 三拍子」
「三拍子です。私の足の動きを真似してみて下さいね。はい、一、二、三……」
「い、一……?」
 隣に並んだペリドットが三拍を数えながらゆっくりとステップを踏み始め、戸惑いながらもセラフィもそれに倣う。しかしどうしても拍のリズムと足が一致せず、途中で止まったりテンポがずれる。そんなセラフィの動きを見ても、ペリドットは呆れる事も怒る事も無く根気強くゆっくりとステップを踏んだ。だが、さすがに三十分近くやっても一向に改善されないと分かると困った様に首を捻った。
「うーん、どう教えたら良いかなあ」
「いっそ殺してくれ」
「殺すなんてそんな物騒な……あっ、分かった! 投刃です!」
「は?」
 ここまでされても全くリズムが取れない自分が情けないやら恥ずかしいやらで頭を抱えてしまったセラフィは、それでも何とか分かりやすい様にと思案してくれているペリドットが突如出した提案に間抜けな声を出した。投刃が何だと言うのだ。
「ナイフを取ります、一」
「い、一」
「構えます、二」
「二」
「投げます、三」
「三」
「それです! そのリズムです!」
「本当か?! なあ本当か?!」
「立派なアンドゥトロワです!」
 例えはともかくとして確かにそれはセラフィが辛うじて理解出来るリズムであり、ステップにするにはかなり速いがワルツを踊るには勢いも必要なので何とかクリア出来る程度のリズムの取り方ではあるだろう。しかしその二人の遣り取りを見ていたクロサイトとギベオンとローズは物騒なアンドゥトロワだなあとしみじみ思っていた。



 金剛獣ノ岩窟は各地に点在するホムラミズチの鱗のお陰で、極寒の銀嵐ノ霊峰の中にあっても温かいというより暑い。その鱗の側を通るだけで火傷をしてしまうし、体力の消耗は激しい。地脈を操作する事が出来るローズの力によりその消耗も抑える事が出来ているとは言え、暑さというのは思考を鈍くさせるものでもあるので地図を描くクロサイトは随分と苦労していた。深霧ノ幽谷では羊皮紙の空いたスペースにジャイアントモアのスケッチをする余裕すらあったというのに、やはり気温も湿度も高い場所ではそんな余裕は無いらしい。代わりに、暑い地域出身であるから多少暑い方が元気なペリドットがクロサイトから羊皮紙を受け取って地図を描いた。
 イクサビトの里があった一階には岩窟の中央に大きな鱗があり、破壊すればその階全体が冷却され、池も凍ったので通れなかった所も通れる様になった。ただ、体脂肪が低い故に水に沈んでしまうセラフィはたとえ凍ったとしても水場が嫌いで、凍った池に中々足を踏み出す事が出来ず、情けない事にペリドットに手を繋いでもらわねば渡る事が出来なかった。加えて、凍った池には岩窟の天井が反射して映り、高い建物のガラス床の上に立っている様な錯覚を引き起こす為に、高所恐怖症のクロサイトも足が竦んでいた様だ。
 大きな鱗を破壊する前と後とでは、採取出来る植物も変化すれば遭遇する魔物も変化した。破壊する前はヨウガンジュウが、破壊した後はヒョウガジュウが襲ってきていたが、この魔物達の炎撃や氷撃には大層苦しめられた。しかしローズがルーンマスターの印術や聖印が使える様になってからは格段と楽になり、凶鳥烈火やセラフィが元から使える氷斬撃に頼りすぎる面も無くなった。ギベオンも顔見知りのソードマンから剣の扱いを学んで炎や氷の斬撃が繰り出せる様にもなり、ペリドットも魔物が前後に並んでいれば矢を貫通させる事が出来る程の腕前を披露出来る様になった。クロサイトも投刃は楽しいらしく、よく後ろから投げている。
 そんな中で、セラフィだけは一向に踊る事が出来なかった。ステップの練習は暇を見付けてはペリドットに教えてもらいながらやっているのだが、いかんせん銀嵐ノ霊峰と金剛獣ノ岩窟内部は大きな鱗を破壊していない限り温度差が激しいため、ペリドットだけではなく全員の体調は必ずしも良くはなく、練習しようにも体力が無かったのだ。岩窟だけではなく霊峰にはどこにどういう動物が生息し、どんな魔物がどの辺りを縄張りとしているのかの探索も必要で、そちらに時間を割けば鱗が復活したりもしていたので尚更気温差は彼らの体力を消耗させた。元気なのは水晶宮の都出身で寒さに強く体力もあるギベオンだけであり、元からそこまで体力に自信がある訳ではないセラフィもいつもなら避けられる攻撃を回避する事が出来ず、ギベオンに庇ってもらう事が目立ち始めていた。
 そんな状態であったからステップの練習に時間を割く事が出来る筈もなく、また岩窟内の強力な魔物相手にセラフィは本職の投刃や暗殺剣を振るうのに忙しかったのでダンスの練習などする暇が無かった。ワルツの三拍子が投刃と同じリズムだと言われても投擲ナイフを投げる時にそんな事を意識していられないので、彼は未だに三拍子のリズムで上手くステップを踏む事が出来ずにいる。ペリドットはそれを急かす訳でもなく、また踊る事が好きな彼女であるから、短時間の練習にも嫌な顔ひとつせず付き合ってくれてはいたけれども、セラフィは随分と胃が痛い思いをした。
 そして何とかペリドットの足を踏まずに済む様になった頃、何の報せも無く突然ペリドットの母親であるインフィナがタルシスを尋ねてきた。何でもペリドットが許嫁であった故郷の次期領主と無理矢理結婚させられそうになった際に手を尽くしてくれた辺境伯に礼を奏上したいのだそうだ。だが一介の踊り子風情が名のある領主に直接目通りを希望するのは恐れ多いからと、ペリドット救出の際に密に連絡をとっていたクロサイトに仲立ちをして欲しいと言った。辺境伯はどんな身分の者でも気さくに面会するのでそんなに畏まらなくても、とクロサイトは言ったのだが、頑としてインフィナは仲立ちを頼んだ。少しの粗相もしたくないらしい。そんなインフィナはペリドットの姉と言っても通用する程で、とても十八歳の娘が居るとは思えぬ程の若さがあった。
「クロ先生とセラフィ君と同い年とは聞いてたけど、本当にお若いのねぇ」
 クロサイトが取り次いで辺境伯と面会をしたインフィナは彼に請われて舞を披露する事となり、あまり目立ってもこの街の踊り子の方々に迷惑がかかるのでというインフィナの意向により孔雀亭の小さな舞台を借りて舞う彼女を見て、女主人のガーネットは感心するかの様に、またからかうかの様にセラフィに言った。音楽は六弦を趣味とするペリドットが演奏しており、彼の傍らには居ない。セラフィはインフィナが自分と同い年である事、しかも生まれ月は自分より後であるという事を気にしているし、ガーネットもそれを知っていてからかっているので始末に終えず、彼は苦い顔のまま沈黙してしまった。
 インフィナの舞は、さすが彼女の故郷一帯では名を馳せている踊り子なだけはあって見事なものだった。芸術に疎いセラフィであってもペリドットの舞とはまた違った美しさがあるのも分かったし、何より全身から滲み出るオーラの様なものが全く違うというのは見て取れた。経験の差なのか、それはセラフィには分からないが、少なくともペリドットがいつも手放しで母を尊敬し褒めている理由は分かった。
「いや、素晴らしかった。どうも有難うございます、眼福でした」
「お褒め頂きまして光栄です。少しでもお楽しみ頂けた様でよろしゅうございました」
「少しなど、とんでもない。見てしまうとますますタルシスにお呼び出来なかった事が惜しくなりました」
「ふふ、娘にご期待くださいませ」
 舞台上から優雅にお辞儀をしてから早々に降りたインフィナに声を掛けた辺境伯の言葉にはお世辞の色など全く無く、それと分かってインフィナは心からの礼として微笑んだ。ペリドットはタルシスに移住したが、インフィナはペリドットの父が眠っているのはこの地だからと故郷を離れる気は無いらしい。今回は飽くまでペリドットが望まぬ結婚をしなくても良い様にと手を貸してくれた辺境伯へ礼を言いに来ただけだ。
「うちのお店の舞台はそんな立派なものではなくて、ごめんなさいね」
「そんな事なかったわよ。それに、懐かしいわ。昔はこの子の父親と一緒にこういう舞台で踊っていたから」
「あら、そうなんですか」
 一頻り辺境伯と話した後、カウンター席へと引き上げてきたインフィナへジンジャー・エールを出したガーネットはインフィナの返答に興味を示した。六弦を置いてセラフィの隣に座ったペリドットはその話を子供の頃からよく聞いており、にこにこしながらオレンジジュースを飲んでいる。酒場とは言え酒を飲めぬ者も居るのだからとソフトドリンクの種類も豊富な孔雀亭は、今日の様にいつも客が多い。セラフィはどちらかと言えば酒豪だがペリドットが酒の匂いをあまり好まない為に飲む機会が減った。今日も手元に置いているのはインフィナと同じくジンジャー・エールだ。彼はそのグラスに手を伸ばそうとしたのだが、インフィナが何気なく言った言葉に危うくタンブラーを倒しそうになった。
「ペリドットはセラフィ君と踊ったりしないの? 折角舞台があるのに」
「え、えっと……」
 間一髪で立て直したが中身を少し零してしまった挙句に左の袖を濡らす羽目になったセラフィは、言葉に詰まったペリドットに何となく申し訳無さが湧く。診療所の裏庭でワルツのリズムを教えてもらったあの日から、探索でくたびれて戻る日も多い為に毎日は練習出来ていないが、それでも合間を縫ってステップは教えてもらっているものの一向にセラフィが踊れる様にはなっていない。何であんなステップを踏みながら進めるんだと未だに彼は思う。
「インフィナさん、大変申し上げにくいのですが弟は踊れません」
「え? そうなの?」
「……リズム感が無くて……ワルツのステップの練習は……しているが一向に……」
 インフィナの質問にペリドットもセラフィも答えられずにいると、フォローするかの様にクロサイトが伝えてくれたのでセラフィもぼそぼそと白状する。領主の息子という地位を利用して悪行の限りを尽くしていた女癖の悪い男との結婚を阻止して妻に迎えたとは言え、ダンスのパートナーを務める事も出来ないと白状するのはセラフィにとって中々つらかった。
「……すまん、折角娘を嫁に寄越してくれたのに、相手を務められんで」
「人それぞれだから良いんじゃないかしら。踊り子の夫だから踊れなければいけないなんて誰も思わないでしょうし。
 私はペリドットを大事にしてくれたら何も文句は無いもの」
「………」
 気まずい思いで素直に謝罪すると、インフィナは問題など全く無いと言うかの様にペリドットを眺めて微笑んだ。その笑みにも声音にも偽りなど少しも滲み出ておらず、彼女が本心でそう言っている事を教えてくれていた。そんなインフィナを見て、ガーネットが笑った。
「それはもう、私達がよぉく知ってるわよね。ね、ギベオン君」
「へっ? あ、は、はい、それはもう」
「あら、例えば?」
 ガーネットに突然話を振られたギベオンは間抜けな声を上げてしまったが、かろうじて頷いた。しかし先を促したインフィナの質問に答えようにもセラフィが無言で睨んできたので竦み上がってしまい、それ以上は何も言えなかった。図体はでかいギベオンは見た目に反して小心者であるし、クロサイトやセラフィを少々怖がっている面があるので、セラフィが今この場でこうやって口を封じるのは容易い。
 問題は、ガーネットなのだ。彼女にはセラフィの牽制など効かないし、そもそも彼の言うなという視線など丸きり無視している。
「ペリドットちゃんがこっちにお嫁さんに来て暫くの時だったと思うんだけど、
 猫を木の上まで追い掛けて登っちゃって降りられなくなってたんですよ。
 それをベルンド工房の子が知らせてセラフィ君が下ろしたんですけど、こう、宝物みたいに抱えてて」
「あらあら、まあまあ、羨ましいこと。本当に大事にしてもらっているのね」
「あと、そうねえ、」
「ガーネット君、すまない、フィーが死にそうだから止めてやってくれ」
 ガーネットがその時のセラフィの抱え方を真似し、宝物みたいになどと表現したものだから、そんな風に見えたのか……、と撃沈した彼に追い討ちがかけられそうになったのを見かねたクロサイトがガーネットを牽制した。高い所から下ろすのだから確かに大事には抱えたが、他人の目から見ればそう見えたというのは恥ずかしい。ペリドットも自分の失態を暴露され、インフィナからまだそんな事やってるの、いい加減その癖治しなさい、と窘められて赤面しながら頷いた。何よぅ、とからかう様に笑ったガーネットも、あまり言うと後からセラフィに恨まれると思ったのか、それ以上は言わなかった。
「そうだ、大事にしてくれていると言えば、アンバーから言付けを頼まれていたのだったわ。
 忘れて怒られちゃうところだった」
 アンバーというのは、インフィナの劇団に所属する若いダンサーの男性だ。ペリドットの故郷を訪れた時にセラフィも話した事があるが、彼がペリドットを迎えに来たという事を知るとまるで彼女の兄であるかの様に涙ぐみながら助けてやってください、よろしくお願いします、と頭を下げられた覚えがセラフィにはある。見た目は派手だし口調も軽い男ではあったが、共にダンスを練習したというペリドットの事は気に揉んでいたらしい。そんな彼からの言付けと言われ、泣かせたら承知しないとでも言われるのだろうかと思ったセラフィは、しかし言付けではなく手紙でも書けば良いだろうに、それだったらペリドットも読むのだし、と思ったのだが、インフィナから告げられた内容に言葉を失った。
「あんなに愛されて、あんなに皆に大事にされてお嫁に貰われていくんだなあって思うとすごく嬉しかったんですって。
 有難う御座います、くれぐれもペリドットをよろしくお願いします、って」
「………」
「私達は身分が低いから、こんな風に嫁いで大事にして頂けるのは稀なのよ。
 物みたいによその領主や貴族に献上される事もあるしね。
 勿論、商品価値があればあるほど私みたいに読み書きの教育を施して頂けるなんて特別扱いもしてもらえたりもするのだけど。
 でも、そうでないのが大半よ。アンバーも字が書けないから言付けになってしまってすみません、って言ってたわ」
 アンバーからの言付けとインフィナが話した彼女達の実情は、セラフィだけではなくてその話を聞いていた全員を沈黙させた。踊り子は低く見られがちであると彼女達の故郷で知ったが、それにしてもそこまでであったとは思いもしなかったからだ。カウンターから少し離れた席で他の者達と談笑していた辺境伯も思わず動きを止めインフィナの方をちらと振り返り、どこか困惑した様な表情を見せていた。本当なのかとセラフィがペリドットを見遣ると、彼女は憂いの表情で俯いており、その表情は本当の事なのだと全員に知らしめた。
「だからね、そんなに大事にしてくれているんだから、別に私はセラフィ君が踊れなくても全然気にしないのよ。
 でももしこの子と一緒に踊ってくれたなら、それはとても素敵な事だとは思うけど」
「……はあ」
 暗い空気にしてしまったと思ったのか、インフィナが努めて明るく言ったが、その話題もセラフィには苦い思いをさせる。話が元に戻っただけで、ちっとも変える事など出来ていなかった。引き攣った顔になってしまったセラフィに、インフィナは鈴を転がす様にころころと笑って慰めた。
「大丈夫よ、急ぐ必要なんてないから。アンバーも全然踊れなかったのよ?
 まずステップの名称を完全に覚えるのに三ヶ月かかったし、ステップを完全にマスターするまで一年かかったし。
 それでも今あんなに踊れる様になったの。何故か分かるかしら?」
「………」
「それが分かったら貴方も踊れる様になるわ。きっとね」
 アンバーが踊っているところは一度しか見た事が無いが、それでもごく自然体に綺麗なステップを踏みながら情熱的なタンゴを踊っていた。あれだけ踊れていた男も最初はそうであったと知ってセラフィは驚いたが、しかし謎掛けをされてまた黙ってしまった。寝食を忘れて散々練習をしたからだろうかとも思ったけれどもインフィナの表情を見るにそれは違う気がするし、しかし答えは自分で見付けろと言わんばかりの彼女に内心弱り果て、結局尋ねた。
「……ヒントを貰っても良いだろうか」
「ヒント? そうねえ、ペリドットが踊ってるところを見ていたら分かると思うわよ」
 それはヒントなのか、と思わず喉まで出掛かった言葉をすんでのところで飲み下したセラフィは、隣に座るペリドットを再度見る。彼女も頭の上に疑問符を浮かべる様な顔をしており、母の真意は分からない様だ。彼は自力で答えを探すしかないか、と諦め、努力する、と言うと、インフィナはがんばってね、と再度笑った。



 インフィナの短い滞在の間も、金剛獣ノ岩窟ではなく銀嵐ノ霊峰の探索は行っていた。私の事は気にせずあなた達はやるべき事をやってちょうだいね、と言われていたので、気遣いを無碍にする事もあるまいと全員で話し合った結果の事だ。迷宮ではなく大地であったから滋軸を拠点にすれば比較的探索を切り上げやすく、また吹雪くところも多い大地であるので慣れない内の夜間の飛行は危険と雪国出身のギベオンが判断し、インフィナが戻るまでの数日は毎晩彼女と食事を共にする事が出来た。母と娘の時間を邪魔する事もあるまいとセラフィが久々に夜の仕事に出ようとしたが、インフィナの「踊っているペリドットを見ていれば分かる」という言葉をヒントに貰った以上はペリドットが踊っているところを見ていなければならない気がしたし、自分も少しは練習した方が良い様な気がしてペリドットにステップの練習に付き合って貰った。その光景をインフィナに見られるのは恥ずかしい事この上無かったけれども、彼女もペリドットと同じ様に呆れる事無く黙って微笑みながら見学していた。
 インフィナは、故郷に戻る前日に参考までにとペリドットをパートナーにしてワルツを一曲披露してくれた。ペリドットの父親であった男とよく踊ったワルツであったらしい。二人に言わせてみると本当に初歩的なステップのみの一曲であるからそのうち踊れる様になる、との事であったが、彼女達の「そのうち」と自分の「そのうち」は恐らくかなりの時間の開きがあるだろうとセラフィは遠い目をした。ただ、ペリドットが地道に根気強く教えてくれたお陰なのか、まだ踊れているとは言い難いしターンも出来ないが何とかワルツのステップになってきているのではないか、という程度にはなってきている。そんなセラフィにいつか良い報せが届く事を期待してるわねとインフィナは言い、帰路に就く義母の背を見送った彼は良い報せなど送る事が出来るだろうか……、と不安に駆られた。
「お前が踊っているところを見ていれば分かると言われたが」
「はい?」
「分からない俺は頭が悪いのか鈍いだけなのか、どうなんだろうな……」
 お世辞にも要領が良いとは言えないギベオンが、それでも知り合いのソードマンの男に教えてもらいながら魔物の一撃を受け流してセラフィ達への被弾を軽減する事に慣れてきた夜、相変わらずまだろくに一曲踊れないセラフィは休憩を挟み、踊る体力が十分に残っているペリドットが軽やかに踊っている姿を見ながらぼんやりと呟いた。未だに答えが見出だせない彼は自分が頭が良い訳ではないと分かってはいたのだが、それにしてもヒントを貰っていながらこのザマかと思うと溜息も吐きたくなる。否、何となく答えは掴みかけている様な、最初から知っている様な気もするけれども、中々明確な答えに辿り着く事が出来ないのだ。
「焦る必要は無いですよ、ちゃんと踊れる様になってきてるじゃないですか。私の足も踏まなくなったし。
 それより、もうお休みになられた方が良いかもしれないですね。明日は霊峰の北東に行くみたいですから」
「ああ……、あそこか」
 慰める様に苦笑してセラフィの側に来たペリドットは空に浮かぶ月の位置を見ておおよその時間を確認し、そろそろ練習を切り上げようと提案した。銀嵐ノ霊峰の北東の、遠目からでも分かる程の途切れる事が無い降雪は気球艇の操作に慣れてきたギベオンにも眉根を寄せさせたし、その近辺を縄張りにしているらしい大きな鎌を持つカマキリの様な魔物が飛び回っているものだから、まだ詳しい探索が出来ていない。ただ双眼鏡を通して見る限りでは洞窟が存在している様で、地図に空白地帯を作る訳にもいかないだろうとクロサイトがギベオンと話し合ったらしい。セラフィは基本的にクロサイトの決定には従うので何も文句は無かった。
「じゃあ、最後におさらいに付き合ってくれ」
「はい」
 慣れない寒さと雪の中を探索するのだから下手に体力を消耗させるのも良くないが、あともう少しステップを踏んで体に染み込ませておきたかったセラフィがペリドットに手を差し出すと、彼女は嬉しそうに小さな手をそっと乗せてきた。その笑みに何か分かりかけた様な気がしたのだが、ゆっくりとペリドットがステップをリードし始めてくれたので思考がそこで完全に切り替わってしまい、その夜も結局セラフィはインフィナの謎掛けを解く事が出来なかった。



 寝返りを打とうとして走ったひどい痛みに意識が覚醒し、セラフィは咄嗟に目を開けた。視界に飛び込んできたのはランタンに柔らかく照らされる自室の天井で、冷たい氷の大地ではないと彼に教えてくれている。その事に安堵したものやら眉を顰めたものやらで、複雑な思いが彼の胸を去来した。
 銀嵐ノ霊峰の北東の、雪が降り止まない地域の探索を行う為に気球艇を飛ばしていたギベオン達は、周辺を飛行している魔物、アイスシザーズの目を逸らすために捕獲したウサギを囮に使ったのだが、降りしきる雪で思うように気球艇を操作する事が出来ずウサギを食べ終えたアイスシザーズに追いつかれてしまい、結局戦う羽目になった。ただでさえ鋭い氷の鎌を持つアイスシザーズが繰り出す攻撃は冷えきった体では中々避ける事が難しく、ローズが方陣を張って腕を封じてくれていたもののその封じが解けた瞬間に振り下ろされた鎌を冷えた足では完全に避けられなかったセラフィは大怪我を負った。臓器は辛うじて無事であったし四肢は繋がったままであったが深手を負った脇腹は最早痛いというより熱く、クロサイトが咄嗟に投げた痺れ薬を塗った投擲ナイフで麻痺したアイスシザーズの急所であろう箇所を狙って渾身の力で斬り付けたところでセラフィの意識は途絶えた。
 その後に目を覚ましたのが、この自室だった。心配そうに覗き込む四人の顔が一気に視野に収まり、驚いたセラフィが体を起こそうとした瞬間に走った激痛は彼にまだ生きている事を文字通り痛感させてくれたし、何が起こったのかをまざまざと思い出させてくれた。そして自分に縋り付いてわあわあと泣いたペリドットと、もう三十六歳にもなっているというのに未だに過保護なクロサイトから寝台に押さえ付けられて暫くは自分一人で立ち上がる事を許してもらえなかった。さすがに便所に一人で行けないのはつらいと言うと渋々許してもらえたが、それもクロサイトから頼まれたギべオンの肩を借りなければ行かせてもらえなかった程の徹底ぶりであった。それに加え、探索に出るのは怪我が癒えるまで叶わないのは仕方ないにしても、寝ているばかりでは筋力が弱るから少し散歩がしたいと言えば、地脈を操り大地の気を分けて貰える能力を持つローズが付き添わなければ外に出してもらえず、セラフィが多少げんなりした顔で居るとギべオンから大変ですね……と気の毒がられた。兄が拗らせた過保護ぶりはとうの昔に諦めたとは言え、今回ばかりはペリドットにまで同様にされてしまったので微妙な面持ちで頷くしかなかった。
 そんな数日を過ごした彼の夜中の目覚めは、普段は隣や腕の中にある柔らかな温もりが無くて感じた僅かな肌寒さが原因だった。同じ部屋で休んでいるが怪我を負った日からは寝台を別にしている為に、ここ数日は夜中に一度目が覚めてしまう。そして、側に設置した簡易の寝台で眠るペリドットの姿を見ながらまた眠りに就くのだ。その度に何とも甘ったれたもんだと苦い心境になるセラフィは、しかし今日はその寝台に誰も居なかったので思わず眉を顰めた。
 先に休んでくださいとは言われたが怪我をした自分に気を遣わせてしまったかと起き上がったセラフィは、寝台の側のカーテンを開けて月明かりで壁時計を見て一層眉間に皺を寄せる。もう深夜一時を過ぎているというのに就寝していないとなれば日中に眠気を催すものであるし、いくら探索を中止しているとは言えタルシスに居る時はいつも寝ている時間に起きていれば体調を崩してしまうだろう。別の部屋で休むという話も聞かなかったしどこに居るのやら、と、セラフィはまだ痛む体を寝台から下ろして上着を羽織り、そっと自室を出た。
 時間が時間なだけに、診療所の中はひっそりとして静かだった。インフィナの滞在中も連日探索に出ていたし、短い休息しかとっていなかったので、セラフィの負傷は全員がゆっくりと体を休める良い機会となっていた。証拠に、熟睡しているのであろうクロサイトやギベオンの部屋は明かりが点いていない。誰よりも体力があるギベオンでさえ最近は疲労が溜まっている様であったし、またローズも慣れない印術に四苦八苦しながら鱗の熱さを和らげる為に地脈を操作していたものだから集中力の限界もあっただろう。クロサイトに至っては疲労が溜まれば一時的とは言え片方だけ残されている目が見えなくなってしまうのだが、休んでいたつもりでも蓄積した疲労は誤魔化せずここ暫くはその頻度が増していた。いくら先を急ぐ探索でも自分達の体を潰してしまっては意味が無いので、これを機にセラフィの怪我が治るまで探索に出ない事にしたのだ。
 そんな折角の休暇期間なのに、夜に眠らないのはよろしくない。ペリドットは元から弓が得意であったから狙撃手の技を操る事は然程苦にならない様ではあったけれども、鱗を破壊した後の急激な寒さは暑い地域出身の彼女には堪えただろう。銀嵐ノ霊峰の地図を作成する為の飛行の時も随分と寒そうにしていたから、熱を出さないか心配ではあった。先に自分が怪我でダウンしては世話はない。
 風呂でもなさそうだし共有の場であるダイニングでもなさそうだし、どこに行ったんだ、とランタンを片手に持ったセラフィは、最後に裏庭へ足を向けた。彼女は世界樹がよく見える裏庭で踊る事が多く、今日もそうだろうかと思ったからだ。果たしてその予想は当たっており、裏庭が見える窓をそっと覗くとペリドットが月明かりの下で踊っていた。
 音楽がある訳でもない、観衆が居る訳でもない、それでもペリドットは実に嬉しそうに楽しそうに踊り、全身で悦びを表現する。セラフィは彼女のそういうところが、一番好きだった。翻る長い黒髪、しなやかに伸びる四肢、指先ひとつまで気を巡らせている事が芸術に疎い彼でさえ分かる程だ。その表現力は、血の滲むような努力とそれ以上の何か――残念ながらセラフィにはその何かが分からなかった――を彼女が積み重ねてきた結果得たものだ。一朝一夕で取得出来るものではない。
 ペリドットはまだクロサイトの患者でしかなかった頃から、この裏庭でよく舞の練習をしていた。その姿を幾度と無く見たセラフィはその度よくあんなに踊れるなと感心したものだ。踊れない彼にとって、それは本当に感心する事であった。
 しかし、踊るのは良いのだがこんな夜中に無闇に体力を減らす様な真似はあまり褒められたものではない。見ていたいのは山々であるが、それでまた疲労を蓄積させては本末転倒だ。切りの良いところで終わらせなければと思ったセラフィがゆっくりと裏庭に続く勝手口を開けると、漸く彼に気が付いたペリドットが体を止め、代わりに慌てた様な顔をした。
「どうしたんですか、まだ傷痕痛まれるでしょう、お休みになられた方が」
「……この時間になってもお前が戻ってなかったから探しに来たんだ」
「あ……ごめんなさい、ご心配かけちゃって……」
 たた、と駆け寄ってきたペリドットの頬は、踊っていたからか褐色肌でも分かる程上気していた。叱ったつもりではなかったが咎められたと感じたらしいペリドットがしゅんとしたものだから言い過ぎたか、とセラフィは思ったが、しかし何と言って良いのか分からず、代わりに踊って汗をかいているだろう肩に羽織っていた上着を掛けてやると、彼女ははにかみながら礼を言った。今でも香を焚く事がある彼の上着はうっすらとではあるが不思議な薫りがするので、好きなのだそうだ。
「……お前、疲れてないのか。随分長い事踊ってたんじゃないか」
「え? あ……、あんまり疲れてないです」
「本当か?」
「はい。私、踊るだけだとそんなに疲れないんです」
「そ、そうか……。お前は本当に踊るのが好きなんだな」
 いつからペリドットがここで踊っていたのかセラフィには分からないが、少なくとも消灯されていたダイニングの肌寒さを思えば彼女がそれなりに長い時間屋外に居た事は想像に難くない。ペリドットは宿屋の食堂の片付けの手伝いをする事も多いので遅くまで手伝っていたのかもしれないけれども、かと言って風呂好きな彼女が入浴後にわざわざ汗をかく様な真似をするとも思えない。疲れなかったからこそ時間を忘れて踊っていたのだろうから、その言葉には偽りが全く混ざっていないとセラフィは判断した。そんな彼に、ペリドットは少しだけ困った様に微笑んだ。
「私は踊るしか能が無いので。踊り子から踊る事を取ったら、何も残りませんから」
「……おい」
「気を悪くしないでください、ここの方々はそんな事全く思ってないって分かってます。
 ……でも、私の生まれた所はそうではなかったので……」
 突然、ペリドットが自身を見下した様な発言をしたので思わず顔を険しくしてしまったセラフィは、しかし彼女が続けた言葉に何も言えなくなってしまった。領主の息子と無理矢理結婚させられそうになっていたペリドットを助け出す為に訪れた彼女の故郷ではインフィナが率いる劇団は確かに人気があり名物ではあったけれども、領主達貴族の間では所詮踊り子と蔑まれていた。数日しか滞在しなかったセラフィにですら分かったし、またインフィナがタルシスに来て語った彼女達の境遇はセラフィ達が見聞きしたより遥かに凄まじいと思わせた。
 インフィナに言付けを頼んだというアンバー同様、タルシスに来た当時のペリドットは読み書きがろくに出来ず、それは彼女が教育を殆ど受けさせてもらえなかった事を物語っている。読み書きの教育が施されたインフィナの娘であるから教えてもらえる機会はあったそうだが、踊りの練習が忙しかったので、とペリドットは言っていたが、それは半分本当で半分嘘であっただろう。空いた時間にクロサイトから読み書きを教えてもらっている彼女が学ぶ事は楽しいと言っていたと、セラフィはクロサイトから聞いている。
「お母さんは確かにとても名の知れた踊り子ですけど、セラフィさんもご存知ですよね、
 娘の私が望まない婚姻を申し込まれても拒否権は無かったんです。身分が低いから」
「………」
「踊って身を売るくらいしか、私達の存在価値はありません。あの土地では」
「……そこに、むざむざと帰ったのか? お前の母親は」
「だってお父さんが居ますから。どれだけ心ない事を言われても、お母さんを支えてくれる人達も居てくれますから……」
 少し悲しそうに、しかし淡々と故郷での自分達の扱われ方を話すペリドットは、セラフィのすぐ側に立とうとはしなかった。いつもであれば嬉しそうに距離を縮めて自分を見上げてくる彼女が、近いとは言え距離を置いて話している事にどことなく引っ掛かったセラフィは、それでも自分から距離を詰めて良いものかどうか悩んでしまった。
「タルシスに嫁いで来て皆さんが……、セラフィさんが優しいのですっかりそんな事忘れちゃってました。
 でも、駄目ですね。我儘も言いません、欲張りもしませんから、もう練習は止めましょうね」
「なに……」
「少し、足が縺れたんですよね? 本当に少しでしたけど、それで避けるタイミングがずれてお怪我なさったんでしょう?
 寒くて足が動かなかったっていうより、ステップの練習をし過ぎたせいですよね。……ごめんなさい」
「……いや、それは」
「もう一緒に踊ってくださいなんて我儘言いませんから……
 ごめんなさい、そんなお怪我させてしまって、も、もう欲張ったりしませんから、我儘言いませんから、
 お側に置いてください、お願いします」
 言いながらペリドットが顔を曇らせたかと思うと、段々と声を震わせてとうとう泣き出してしまい、泣かれるとは思っていなかったセラフィは内心動揺してしまった。まさかそんな事を思っていたとは知らなかったし、ペリドットが踊り子の身分の低さを気にしているのは知っていたがいつも明るく笑っていたものだから、こんな風に不安にさせているとは全く思ってもいなかった。自分のせいで怪我をさせてしまったから捨てられてしまうと思ったらしい。
 タルシスは基本的にどんな国の者であろうとどんな身分の者であろうと、秩序を乱しさえしなければ拒む事は無い。それは統治院の主であり領主である辺境伯が如実に態度に表しているし、それに意を唱える街の者もあまり居ない。勿論一人として居ない訳ではないが、共存というのはそういうものだ。双方が分かり合うのではなく、一定の距離を保ちつつ過度の干渉を避け、お互いの生活を営んでいく。そこに蔑みや嘲笑を挟むから摩擦が起こるのであって、それをタルシスの住民として間近で見てきたセラフィは共存は簡単な事であるが故に難しいという事を知っていた。
 ペリドットは身分格差が激しい土地で生まれ育った故に、初めて統治院に入る時も外で待つと言った。彼女の故郷では領主が住まう屋敷にはそれなりの身分の者しか足を踏み入れる事は出来ず、タルシスも同様であると思ったらしい。それを言うならセラフィやクロサイトだって平民ではあるけれども非常勤の職員であるし、辺境伯は身分ごときで人を拒絶しない領主であるのでその旨を教えてセラフィが手を引いて連れ入った。彼女の母のインフィナも、自分が辺境伯に直接便りを出すのは恐れ多いと言ってクロサイトに仲立ちを頼んだのだ。それくらいペリドット達の姿勢は徹底しており、いかに彼女達が故郷で身分によって虐げられているのかを知ったというのに、セラフィは今の今までペリドットが自分に嫁いできた事さえ気後れしていたという事に気が付けなかった。自分が腹立たしい、と苦い顔をしたセラフィは俯いて涙を溢しているペリドットとの間合いを詰めると有無を言わさず抱き寄せ、驚き身動ぐ彼女の動きを封じた。
「お前、踊るしか能が無いと言ったな」
「……はい」
「俺は殺すしか能が無い」
 ペリドットが踊る事しか能が無いのであれば、セラフィには殺す事しか能が無い。それを望んだのは自分であるし、後悔はしていないけれども、ペリドットの故郷で彼女を見下す者が居るのと同様に彼も今までに様々な人間から見下され蔑まれた。樹海で力尽きた冒険者の死体を埋める事も、もう手の施しようが無い傷病人を楽にしてやる事も、普通の人間にしてみればやりたくはない仕事だ。それを自ら申し出てこなしていた彼は、所謂「異常者」として見られる事も少なくなかった。
 勿論、理解を示す者もそれなりに居た。今ではセラフィが冒険者に復帰して風馳ノ大地や丹紅ノ石林を巡回する事が出来ていないので放置される冒険者の遺体はそれなりに発見されるらしく、殆どが魔物に食い荒らされているそうだ。その事実に、彼は長い事タルシスで冒険者として滞在している一部の者から労いの言葉を掛けられた事さえあった。
 そして、存在意義はそれしか無いと言ったペリドットには、それでも彼女を娘として心から愛してくれる母親が居る。同じ様に、セラフィには弟として手放しに愛してくれる兄が居る。それは彼らにとって確かに心の支えとなっていた。たとえ踊れなくなったとしても一人の女として愛していると伝える事が出来れば一番良いのだが、生憎とその時のセラフィにはその言葉にまで考えが至らなかった。
「クロみたいに人を助ける事も出来ん、ベオみたいに人を庇う事も出来ん、
 ローズみたいに地脈を探る事も出来ん、お前みたいに踊る事も出来ん。
 絵画も分からんし演劇も分からん、歌なぞ喧しいかそうでないかの感想しか持てん。本当につまらん男だ」
「そんな事、」
「お前は踊る事で他人を笑顔に出来るし元気付ける事も出来る。俺にはそんな真似は到底出来ん」
「それでも私をあの男から助けてくれました、ここまで連れてきてくれたじゃないですか。それじゃ駄目なんですか」
「殺す以外に能が無いつまらん男にそこまでさせた、それじゃ駄目なのか」
 セラフィは、自分がつまらない男だと本気で思っている。ペリドットが身分が低いから遊ばれ捨てられる事が当たり前だと本気で思っている様に、何度違うと他人から言われても中々考えを改める事が出来ない。それでもペリドットは本心で側に置いてほしいと言えたし、捨てないでほしいと泣いた。諦める事を止めたのだ。ならばこちらも腹を括るしかあるまい、と口元を引き締めたセラフィは、彼女の目尻に溜まった涙を親指で拭った。
「怪我は自分の体を過信した俺の責任だ。お前の責任はどこにも無い。
 だからいくらでも我儘を言え。いくらでも欲張れば良い。くれてやる」
「………」
「俺の全部をくれてやる。だから側に居てくれ」
 飾り気の無いセラフィの言葉は、しかし彼の誠実な性格を端的に表している。頭がそこまで良い訳ではない、芸術には疎い、殺す事くらいしか能は無いし妻がずっと気後れしていた事にも全く気付いてやれなかったが、それでも彼女に全てを差し出す事くらいなら出来る。この男の側に居られる女は自分だけなのだと自覚してくれる様になるまで、何度でも伝えてやると本気で思っていた。
 返事は、と聞く代わりに小首を傾げて見せたセラフィに対し、ペリドットは一度だけではあるがしっかりと頷いてくれた。そんなペリドットの涙を再度指で拭った後、逡巡した後にセラフィはそっと彼女から体を離し、不思議そうに自分を見上げた彼女にゆっくりと、そして緊張した面持ちで手を差し伸べた。

「一曲、踊ってくれないか」

 微かに震える声はセラフィ自身にしてみればかなり滑稽なものに聞こえたが、それでもペリドットの涙を止める事は出来たらしく、彼女は心の底から嬉しそうに、また大輪の花を咲かせるかの様に満面の笑みで彼のその手を取り、幸せを噛みしめながら喜んで、と言った。
 踊ってくれないか、と言ったとしても、いきなりセラフィが飛躍的に踊れる様になった訳ではない。怪我をする前と大して変わらず、ステップもまだ辿々しい。それでも嬉しそうに幸せそうに自分の手を握って急かしもせず怪我を労りながらゆったりと踊ってくれるペリドットは体中から悦びを滲ませており、また楽しげであった。そんな彼女を見て、セラフィはインフィナが謎掛けした時の言葉と先程自分が言った言葉をはっと思い出した。

―――ペリドットが踊ってるところを見ていたら分かると思うわよ。
―――お前は本当に踊るのが好きなんだな。

 ペリドットは踊る時、いつでも楽しそうであった。彼女にとって踊る事が何より楽しく好きな事であると全身で表現して教えてくれていたのだ。また、彼女の故郷で一度だけアンバーが踊っているところを見たが、彼も同じ様に楽しそうに踊っていた。つらい思いも苦しい思いもしただろうけれども、心の底から踊る事が好きで仕方ないから踊れなくても諦めなかった結果、踊れる様になったのだろう。そして、ペリドットもインフィナもアンバーも踊りが好きだという想いがあったからこそ疎い自分でも分かる程の表現力を獲得出来たのだろうとセラフィは思う。
 なるほど、やはり俺は最初から答えを知っていたらしい、と漸く回答に辿り着けたセラフィは心なしかステップを踏む足が軽くなった様な気がして、初めてペリドットの為という義務感ではなく純粋に踊る事が楽しいと思えた。それに気が付き自然と苦笑が零れた彼は、嬉しそうに自分を見上げるペリドットに礼を言うかの様に今まで一度も成功した試しが無かったターンで体を翻し、彼女を驚かせた。まるで自分の事の様に喜び褒めたペリドットの笑顔がどうしようもなく愛しく、セラフィは彼女の小さくて柔らかな体を抱き締めた。塞がったとは言えまだ痛みが残る脇腹の傷痕は、その時の彼を全く苛む事は無かった。