夢のような日々

 小気味好い足音が廊下を奏で、間借りしている部屋の前で止まる。蒼は組んでいる足の上に置いた本から目線を上げ、扉の方を見遣ると、数秒経ってから小さな金属が鳴る音がして、程なく扉が解錠された。
「お師さんっ、ただいまぁ」
「ああ、おかえり。今日は随分と遅かったね」
「途中でお昼寝したんです。あっ、ちゃんと交代で見張りしましたよ」
「そうか。今日も大きな怪我はしてない様で何よりだ」
 多少くたびれた声で、それでもへにゃりと笑顔を見せた大智は、持っていた杖を壁に立て掛けて着ているジャケットを脱いだ。深い藍色のそのジャケットは大智同様にくたびれていて、後で繕ってやろうと思いつつ、蒼はくるりと振り向き期待に満ちた眼差しでいる大智に微笑んだ。
「Come and kneel、今日の報告をしておくれ」
「はい、お師さん」
 組んでいた足を戻し、側に置いていたクッションを足元に置くと、大智が自分の前に来たと同時にちょこんと膝を抱えてクッションに座る。そんな大智に出来るだけ目線を合わせる為に蒼は腰を曲げて大智の顔を覗き込み、多少荒れてしまった大智の頬を両手で包んで撫でた。
「私の言い付けを守って無理はしていない様だね。Good boy」
「アルストロさんが無理をしてしまうから、私が無理したらマギニアに戻れないです。今日も低い壁に登って、こう……大きな骸骨の亀みたいな魔物が居るんですけど、けしかけようとしてて」
「怖いもの知らずな年頃なんだね」
「私達まで壁から突き落とされちゃいました。痛かったぁ」
「皆を巻き込んでしまうのは良くないな。叱ったかい?」
「はい、奏多さんと一緒に」
「よろしい」
 小国の王子であるアルストロは若年という事もあり、何が恐ろしいのかまだよく分かっておらず、退き際を見極められない。奏多は経験の浅い夜賊であるが、養育者でもあり師でもある姉から逃走の仕方だけはみっちり仕込まれたらしく、大智が退く事を判断したらすぐさまアルストロの腕を掴んで逃走を試みてくれる。しかし今日は低壁を移動する際に魔物に遭遇し、その低壁の上から見える程大きな魔物――恐らくその聖堂の主であろう――から何らかの攻撃を受けてしまうと察知した大智が逃げようと言うより先にアルストロが大声を上げて注意を引きつけてしまったものだから、三人諸共聖堂の主の腕で薙ぎ払われて壁から落ち、大智は強かに背中を打った。大智も奏多も叱るより先に呆れていると、レオが現れ忠告してくれたのだ。ばつが悪そうに上目遣いで自分達を見たアルストロに、大智は挑戦と無謀は違うよ、と諌めた。
 マギニアに来てからひと月は優に過ぎ、共に放浪していた時よりも大智の判断力は確実に上がってきている。それは蒼が側に居ない、つまりは癒し手が自分一人で、三人しか居ないギルドの最年長という事もあり、責任感が蒼と二人で旅をしていた時よりも格段に強くなった事実に起因している。大智のDomとは言え22歳も年齢差がある蒼は自分が大智を残してこの世から消えてしまうと確信しており、自分が居なくなった後も大智が何とか一人で生きていけるsubに育て上げなければならなかった。大智はsubなのに蒼以外のDomの命令は一切受け付けないので、Domの庇護が無くても生きていける様にしなければならない。
「そうだ、今日は別のギルドの人にも会ったんですよ。タルシスからいらっしゃった聖騎士さんで、ハマオをくださったんですけど、随分体が大きな方だったなあ」
「タルシスというと、辺境伯君の街だね。確か奏多君もタルシスから来たのではなかったかい?」
「ええ、だから、どこかで会った様な、なんて奏多さんが言うから、思わず奏多さんがナンパしてる、なんて言っちゃいました。そしたら、アルストロさんが遙風さんに言い付けなきゃ! なんて言い出して」
「おやおや、お前達、奏多君をいじめてはいけないよ」
 遙風というのは前述した奏多の姉だ。奏多はこの遙風を尊敬してはいるが随分恐れているそうで、マギニアに来たのも遙風の言い付けであるらしい。少しは腕を上げて来いと遙風に言われて探索をしている奏多は、遊んでいると勘違いされたどこからともなく投刃が飛んでくるのではないかと冗談抜きで思っているみたいだと蒼は聞いた。同じ宿を拠点としている者同士、話した事も何度かあるが、何故夜賊になろうと思ったのかと首を捻る程に暗殺に向いてなさそうな青年だが、遙風に養育された様であるし、つまり彼女は弟がそうなる様に育てたという事だろう。大智を十代の頃からパートナーとしている蒼には、そう感じられた。
「もう一人の方は、私と同じ医術師でした。お二人で探索されているんですって」
「二人で? お前達三人のギルドでもかなりギリギリなのに、随分と苦しい探索をしているのだね」
「でも楽しそうでした。ちょっと年の差があるみたいでしたけど……」
「私達くらい?」
「そんなに無いかなあ……医術師の方は二十代後半くらいで、聖騎士の方は……うーん、三十代後半くらいに見えました」
「どういう経緯があるのだろうね。何にせよ、探索の無事を祈りたいものだ」
「はい」
 迷宮では、当たり前だがよそのギルドも探索をしていて、時折交流をする事もある。以前は碧照ノ樹海で出会ったギルドからはメディカを分けてもらったり、また垂水ノ樹海で出会ったギルドには実っている果実をお裾分けしてもらったらしい。アルストロが果汁でべとべとになった手で握手を求めてしまい、先方が困った様な顔をしていて慌てて手を拭かせたと大智が苦笑していたのを蒼は記憶している。
 今日遭遇したギルドは二人組で、かなり厳しい道中であろうに、ハマオを分け与えてくれたのだという。もし会う機会があれば礼を言いたいと思案していた蒼は、足元に座っている大智が靴を履いたままの足先をもじもじさせながら少しだけ上体を左右に揺らしていた。大智が眠たい時に見せる仕草だった。
「疲れているのに長話をさせてしまったか。もう寝なさい」
「嫌だぁ、お師さんともっとお話する……」
「うん? 命令に逆らった上に私の膝の上で寝てしまったお前をベッドに運ばせるつもりかい? 悪い子だ」
「むー……良い子なのでベッドに行きます……」
「Good boy!」
 寝台に行くように促してもぐずって自分の膝に突っ伏して顔を擦り付けてきた大智に、蒼は優しく咎めながらも自らの意思で立ち上がらせる。五十路の蒼にとって足元に座った大智と目線を合わせる為に腰を屈めるのは若い頃に比べて負担が大きく、そろそろ伸ばしたいというのもあった。不承不承、目をこすりながら立った大智は蒼の肩に手を掛け、就寝の挨拶を待ち受ける。その愛らしい唇に軽く口付けると、大智は満足したかの様にとろんとした目付きでまたへにゃりと笑った。
「おやすみ、旦那さま」
「ああ、ゆっくりおやすみ、ユポ」



 バタバタと忙しない足音が聞こえて、彼は辺境伯から借り受けたタルシスの古文書の文字列を追っていたモノクルを持つ手を止めて顔を上げる。荷物でも抱えているのか、もどかしそうな声を上げながらドアノブが捻られたかと思うと、扉の向こうから元気の良い声と共に背の高い男が現れた。
「じーちゃんっ、ただいまぁ!」
「ああ、おかえり。今日は随分と早かったね」
「じーちゃんがタルシスに来てるんだから探索切り上げて帰ってきた! あっちゃんと交代で風呂にも入ってきたけど!」
「そうか、大きな怪我が無くて何よりだ……パチカ、stayだ、私が命じるまで待ちなさい」
 所々汚れたカーキ色のジャケットを脱ぎ、鞄と鎚を所定の場所に置いたパチカが自分の元へ歩き出そうとしているのを見て、彼は片手で制して立ち止まらせる。switchとは言えパチカは歴とした彼のsubなので、言い付けを守らせねばならない。彼のその命令に従ったパチカは、しかし早く彼の側に行きたくてうずうずしている。心の中で十秒数えた彼は、漸くそれを許した。
「Come and kneel、今日の報告をしておくれ」
「はぁい、じーちゃん」
 やっと彼の足元に座れる事が嬉しかったのだろう、パチカは小走りで駆け寄ると彼が置いてくれたクッションの上に膝を抱えて座ると期待に満ちた眼差しで彼を見上げた。彼に褒められる事が一番の喜びとしているパチカは、座ると彼が撫でてくれると本気で信じている。
「Good boy、よく言い付けを守れたね。怪我もそんなに無いみたいだが、スフール君が頑張ってくれているのかな?」
「今日はねぇ、金剛獣ノ岩窟の奥の方に行ったんだ。亀のでっかい魔物も相変わらず居たけど、今までの亀より絶対強いと思うからとっとと逃げようって坊やが」
「お前達の盾にならないといけないからね。良い判断だ、褒めてあげたかい?」
「褒め忘れた!」
「それはいけないな。私が後で代わりに褒めても良いが、お前がスフール君の正式なDomなんだからお前が褒めないといけないよ」
「はぁい」
「よろしい」
 僅かに反省の色を見せたので頭を撫でると、パチカは彼の膝に顔を乗せて凭れ掛かってきた。スフールのDomであるパチカは、それでも彼が側に居ると彼のsubでありたがる。しかし彼はパチカの仮のDomであって、正式な契約は結んでいない。彼は、もう誰もパートナーにするつもりは無かったからだ。
 彼のパートナーであったひとは、マギニアでの世界樹の探索中に負った怪我が遠因となり、彼よりうんと年下であったのに先立ってしまった。一人で生きていける様にと提案した世界樹探索が命を縮める事になってしまい、彼はひどく後悔したが、残して逝く事に哀しみを見せたもののマギニアへ連れて行ってくれた事への感謝とsubに選んでもらえた幸福の言葉を紡いで旅立ったパートナーの最期の地で出会ったのがこのパチカだった。外見は全く似ていないけれども、時折、本当に稀にだが、仕草が似ている時がある。今がそうだ。足先をもじもじさせながら、上体を左右に揺らしている。
「早めに帰ってきたのは、眠たいのもあるんじゃないのか? 目が潰れかけている、もう寝なさい」
「嫌だぁ、じーちゃんともっとお話する……」
「………」

『嫌だぁ、お師さんともっとお話する』

 自分より先に逝くと知っていれば、共に生きる時間がどれだけ残されているのかを知っていれば、あの時あのひとの我儘を聞いて話をしていただろうか。添い寝をしながら、あのひとが眠るまで他愛もない話をしていたかもしれない。――いや、それでも、やはり。
「私の膝の上で寝てしまったお前を私に運ばせるつもりかい? 老人は大事にしてくれると嬉しいよ」
「うー……」
 片目を擦りながら渋々立ち上がったパチカは、皺が目立つ彼の手の先を壊れ物に触るかの様に柔らかに握る。触れた手は普段より温かく、パチカが本当に眠たい事を教えてくれていた。彼はパチカのその手に軽く口付け、優しく撫でてから言った。
「ゆっくりおやすみ、パチカ。起きたら一緒にスフール君の所へ行こう」
「はぁい……おやすみ、じーちゃん……」
 気温の変化が急激である金剛獣ノ岩窟を探索したパチカは見た目以上に疲れていた様で、おとなしく寝台へと向かうと倒れこむ様に眠ってしまった。彼と少しだけでも話したくて耐えていたのだろう。毛布も被らず数秒で寝息を立て始めたパチカに苦笑した彼は、遠いマギニアの不思議な日々を思い出しながらパチカに毛布を掛けてやった。残された時間が短いと分かっていたとしても、きっとこんな風に安らかな表情を浮かべてしまう程の眠りを味わってほしくて自分との会話を優先させたりはしなかっただろうとぼんやり思いながら。