悪魔の取り分

 その日の深夜、ギベオンは散歩でもしようと診療所の自分の合鍵と財布をポケットに入れて外出していた。彼はこのタルシスに患者として訪れた時分から夜間の散歩に出る事が時折あり、特に寝付きの悪い夜は気晴らしの為に外の空気を吸おうと、こっそり診療所を抜け出すのだ。
 ギベオンが主を務めたギルドが巨神を倒してから二ヶ月程経つ。その際の戦いの中でクロサイトは心肺停止になる程の重傷を負ったし、モリオンも片腕となってしまった様な激戦で、三日程度で退院したギベオンは五体満足だったとは言え暫く二人が大怪我を負った時の夢に悩まされて深夜の散歩が日課になってしまった時期もある。二人が退院した今では随分と落ち着いてきたので、今日は単に外の空気を吸う為の散歩だ。
 巨神を倒したと言っても、冒険者がタルシスから居なくなる訳ではない。未だに大勢の冒険者が各々の得物を携えたり、迷宮で手に入れた素材を運んだりして往来を行き交う。その賑やかな空気を感じる事がギベオンは好きだ。彼の故郷の水晶宮の都では夜になってからもこんなに賑やかはあまり無かったので、わくわくするというのもある。それ以外にも、ギベオンには夜の散歩で楽しみがあった。
 それは、すれ違う人の中に見知った顔を見付ける事だ。名を知らなくても顔は知っているという冒険者は多く、一言二言交わす事もある。人見知りをするギベオンであるが交流は好きなので、知った者と挨拶を交わすのを密かな楽しみにしている。
 広場に出れば、夜更けだというのに結構な人数がたむろしていて、昼夜を問わない冒険者の街らしい光景が広がっていた。数人で談笑していたり、一人でぼんやりしていたり、人それぞれ自由な時間を過ごしている。その中で、ギベオンは顔も名前も知っている男を見掛けた。広場のベンチで寛いでいるらしい男に声を掛けて良いものかどうか迷っていると、ギベオンの視線に気が付いたらしい男が先に声を掛けてくれた。
「よお、何だよぼーっと突っ立って。体もう大丈夫か?」
「あ、はい、おかげさまで。スフールさんも元気そうで」
 ベンチに座って手の中のカップを掲げてみせたのは同業者のスフールで、傍らに置いたランタンが照らす彼の頬は僅かに赤みがかかっている。いつからここで飲んでいるのかは知らないが、孔雀亭ではなくて外でわざわざ飲んでいる辺り、故郷から送られた酒を飲んでいるのかもしれない。
 手招きをされたのでランタンや酒瓶を間に挟んで座ったギベオンは、スフールが持参していた麻袋の中から出したカップを手渡された。そして、何か尋ねる前に傍らに置かれた瓶からドボドボと濃い琥珀色の液体が注がれた。
「あっ、悪ぃ、入れすぎた」
「どれだけ飲んだんですか、手元狂いすぎですよ……」
「良いじゃん、巨神倒した祝いだと思って飲めよ」
 割水もしていないストレートの蒸留酒となるとかなり多い量になってしまうカップの中身を困った様に見たギベオンは、それでも上機嫌なスフールの興を削ぐ事もあるまいと、カップを軽く掲げて礼を言った。怪我も手伝って最近飲酒していなかったので、久しぶりの酒は魅力的に映る。以前この広場で飲ませてもらったスフールの実家から送られてきたというウイスキーは美味かったから、余計にそう映るのかもしれない。
「これ、中々不思議な味がしますね? 味と言うか……木樽の香りが強いような……?」
「お、よく分かったな。熟成させる時に樽に染み込んだウイスキーを抽出して混ぜてんだ」
「そんな事出来るんですか?! へぇー……」
 以前飲ませてもらったものより苦味が強く、且つ木の香りが強く感じ、尋ねたギベオンは、スフールの返答に驚いてまじまじとカップの中身を見た。普段飲むウイスキーより苦味が強いのは、木の風味が強いせいもあるだろう。葡萄酒が染み込み、赤くなっている樽を見た事はあるが、染み込んだものまで飲めるとは思いもしなかった。何か特別な抽出方法で取り出して混ぜているに違いない。それにしても、よくそんな事を思い付いたものだと感心してしまう。
「貯蔵してたらどうしても蒸発するのは知ってますけど、そうか、樽が飲んじゃう分もあるんですね……」
「蒸発した分は天使の分け前って言うけど、樽が飲んじまった分はデビルズカットって言うんだ。天使が飲んだ分は取り返せなくても悪魔が飲んだ分は返してもらわねえとなぁ」
 小さな籠に入れあるクラッカーを齧ったスフールの言に、なるほど天使だろうが悪魔だろうが酒は好きなんだなと思ったギベオンは、勧められるまま自分もクラッカーをつまんだ。スフールが居ると知っていたならパンでも持ってきていたというのに、ご馳走になってばかりでは申し訳ない。そんなギベオンの引け目など気にせず、スフールは水筒から別のカップに注いだ水を呷って言った。
「お前のとこの皆、調子はどうだ? 先生とか、全身酷かったけど」
「あ、はい、おかげさまで。ローズちゃんが一緒に散歩してるから、経過も良好みたいです。モリオンも、パチカさんの処置が早かったし……助手してましたよね?」
「すげー怒られたけどな……」
 ギベオンにも別のカップに水を注いで渡したスフールは、病院に担ぎ込まれたギベオン達の容態を気遣った。ギベオンは元から体が頑丈である上に、そこまで酷い怪我をしていなかったので短期間の入院で済んだものの、全身爛れた状態だったクロサイトや片腕を失ったモリオンは緊急オペを余儀なくされたし、暫く入院生活を送っていた。程度が酷かったクロサイトの執刀をパチカがやろうとしていると、クロサイト本人がモリオンのオペを担当する様に要請したので彼はモリオンの腕の処置をしたが、その助手をスフールがやったのだ。オペ中の様子をギベオンは知らないが、どうやら慣れない助手業で随分叱られたらしい。
 医学に興味を持つ様になったスフールは現在病院でパチカに師事しており、ギベオンはクロサイトとモリオンを見舞う際に度々スフールの姿を見掛けた。パチカの壊滅的に汚い字で書かれたカルテを書き直す事が専らの仕事らしく、それを見たギベオンは顰めっ面で立ったまま書き直しているスフールの姿に何とも言えない表情になってしまった。
「この酒、姉貴が病院に就職した祝いに送ってくれたんだ。そしたらあいつが飲ませろってうるさくてさ、それこそ悪魔の取り分になるから別の酒渡した」
「あげない選択肢は無いんですね」
「一応指導してもらってるからなあ……」
 カップを傾け、ウイスキーの苦さによるものではない渋い顔をしたスフールは、しかしギベオンの目にはどこかしら楽しそうな、満足している様な表情に見える。所属していたギルドの者達を守れず、死なせてしまった事は、今でも彼を苛んでいるに違いないけれども、その記憶を一時だけでも薄れさせてくれるパチカの助手業が性に合っているのだろう。クロサイトの見舞いに行った時、経過観察されたクロサイトがパチカとスフールが退室した後に交わした会話をギベオンはちゃんと覚えている。

『……しかし彼も、よくチカ君の助手を務められているな。余程辛抱強いと見える』
『そんなに感心する事なんですか?』
『チカ君は医者としての腕前は私より上だが、性格に難がありすぎるのだ。今まで辞めた助手は両手でも数えられん』
『そんなにですか?!』
『チカ君が彼を気に入っているというのもあるのだろうがね。何せチカ君は、三度の飯より独り占めの広い風呂より立派な臓物が好きだ。
 彼は腹をチカ君に縫合されたと聞くし、つまりそういう事だろう』
『ひ、ひえぇ~……』

 スフールがホロウクイーンに腹を斬られ、瀕死の重傷を負った事はギベオンも知っている。その際の執刀をパチカが担当し、それが縁でスフールが医術に関心を持つ様になり、病院に就職したというのも知っている。いつも悪態を吐きながら、どんなに怒られてもめげずにパチカの助手を務めているスフールは、口も悪ければ態度も素っ気ないので分かりづらいが面倒見が良く優しい男なのだ。と言うか、そういう気質の男でなければ一風変わった医術師の側には居られないのではないか。そう思い、ギベオンはクロサイトの弟を思い出して妙な納得した。
「スフールさんは、パチカさんの事が本当にお好きなんですね」
「なっ………?!」
 ほろ苦い味のウイスキーをちみりと一口飲んで、ごく自然に口を出たギベオンのその一言は、スフールを仰天させるには十分な威力を持っていた。何故今の会話からそんな着地点に到達するのか、という混乱も手伝ったというのもあるし、何より否定出来なかったので、赤くなるやら呻くやらで結局撃沈した。
「くそ……、お前にやった分も悪魔の取り分じゃねえか……」
「じゃあ、今度は僕がご馳走しますね。水晶宮にも結構美味い酒あるんですよ」
「言ったな? 遠慮しないからな」
「はい」
 耳まで赤くして横目で睨んできたスフールに、ギベオンは漸く回ってきた軽い酔いによる微笑を浮かべて頷いて見せる。遅くなってしまったが、こちらもスフールの就職祝いと称して飲ませるのも良いだろう。診療所に戻ったら故郷に居る先輩城塞騎士に水晶宮のウォトカを送ってもらえるよう、手紙を書こうと思っていた。ついでに、クヴァスのレシピも教えてもらおうと思いつつ。