怒猪ノ月

 向かい合って座る二人の間に流れる沈黙は、今まで経験したものの中でも特別に重苦しいものの様に思える。勿論二人にはそんな事は分かっておらず、ただ手元にあるカップの中の茶が美味いという事だけは確かだった。その事実が寂しさに拍車をかける。
「……明日からこれも飲めなくなるなぁ」
「……そうだな」
 辺境伯からの要請を受け、ウロビトの里との交渉は巫女を攫ったホロウクイーンを辛くも打ち破れた事によって成功したと言って良いだろう。だがクロサイトは最初に申し出ていた通りそれ以上の探索はしないと決めており、今回巫女を助けに行く中で通った道以外の深霧ノ幽谷の内部やそこから先の探索は、他の冒険者に任せたいと思っている。自分はあくまで医者であり、冒険者ではない。それは口酸っぱく辺境伯にも言っている事で、どんな者が冒険者への復帰を持ちかけてきても決して首を縦に振る事は無かった。いつも兄の意思に従うセラフィも、同様だった。
 ただ、セラフィはクロサイトには内密に、ギベオンから共に世界樹を目指してほしいと打診された。何を言っているんだと最初は面食らって即断ったが、尚も食い下がったギベオンから聞かされた理由に心が揺らいだ。彼は、クロサイトに世界樹は燃えてなどいない事を見せたいと言ったのだ。
 クロサイトが趣味で描く水彩画の中の世界樹は、何故かいつも赤や朱が基調となっていて、燃えている様に見える。見たままを描いていると言っていたから、クロサイトには世界樹が赤く染まって見えているらしい。セラフィですら背筋にうそ寒いものが走るその絵に、ギベオンが同じものを感じない筈はない。近くまで行けばきっと緑が綺麗だと分かると思うから、と言ったギベオンは、自身の世界樹への好奇心よりもクロサイトの事を優先していて、その事がセラフィに迷いを生じさせた。
 ギベオンはペリドットと相談を重ねて、まずはセラフィから説得する事を決めたらしい。そんな気配は一切無かったので、セラフィはペリドットに隠し事をされていた気がして少し面白くなかった。だがクロサイトを説得するにはまず自分から、という着眼点は遺憾ながら評価出来る。ペリドットもそうだが、ギベオンも随分と悪知恵が働く様になったものだ。そう言うと、ギベオンは朗らかに笑って言った。クロサイト先生に似たんです、と。
 この街に来た当時の頃に比べると、随分と肝が据わってきた様にセラフィは思う。ペリドットは元から活発な女で、ギベオンより年下であるのに彼の姉の様に見える事もしばしばあったのだが、最近はギベオンも尻込みする事が少なくなった。両親から受けた数々の仕打ちが彼の自己評価を低いものとし、この診療所に来た頃はクロサイトとセラフィに対して終始怯えていたというのに、先日ペリドットと並んでセラフィを説得した時はどもりながらではあるが目を逸らす事無く熱弁した、貴方達と共にでなければ嫌だ、共にでなければ谷の封印は解かないと、半ば脅迫じみた事を言ってきて、セラフィはあの石頭を説得出来たらな、と渋々承諾した。
 だが、セラフィが承諾した決定打は、ギベオンがウロビトの里に居るローズをタルシスへと連れてきたいと申し出てきた事だった。彼の目にも、そしてペリドットの目にも、ローズはクロサイトの娘であると映ったらしい。ガーネットが妊娠している事、そして彼女がウロビトの里で密かに出産した事を黙っていた負い目があるセラフィにはその申し出を拒絶する事は出来ず、クロサイトが冒険者に復帰する事を承諾したならローズも娘だと認めさせてみせると強い意思で言ったギベオンに、賭けてみる事にしたのだ。
「帰ってほしくないか?」
「……お前、ペリ子君の時の仕返しか?」
「お前があんなに気に入った患者は初めてだからな。お前の言を借りるなら、俺は嬉しいんだ」
「………」
 セラフィが漏らした質問に少し眉を顰めたクロサイトは、しかし微かに苦笑した弟の言葉に沈黙した。セラフィの生まれて初めての一目惚れをクロサイトが喜んだ様に、クロサイトに生まれて初めての良き理解者が出来そうである事をセラフィは喜んでいる。虚弱体質であった弟をとにかく守ろうと側に居たがったクロサイトは長じても一人として友人を作った事が無く、生まれた時から一番の理解者がずっと側に居たのだから友人を作る必要が無かったからなのだが、そんなクロサイトがこの男なら或いは、と思う様な者が現れてくれた事は僥倖と言って良い。
「彼は水晶宮の騎士だ。帰らざるを得ないだろうよ」
「俺はお前がどう思ってるか聞いている、帰ってほしくないか?」
「……さあな」
 はぐらかされた返答は、しかしセラフィには肯定にしか受け取れない。この調子であればギベオンがクロサイトを説き伏せられる可能性はゼロではないだろう。説得出来ようが出来まいがセラフィはクロサイトの決定に従うだけだけれども、ローズにクロサイトの事を父と呼ばせたいというギベオンとペリドットの願いはセラフィも叶ってほしいと思う。最後の一口を飲み干したクロサイトが名残惜しそうにカップを置いたのを見て、セラフィはそんな事を考えていた。