父親という生き物

 背後でコーヒーを啜りながら所在無げにしている男の気配を感じつつ、彼は寸胴鍋で湯を沸かしている。豆を挽いたものを淹れてやれたら良かったのだが生憎とインスタントの粉コーヒーしか無く、彼はいつも薄いものしか飲まないので客人の口に合うのかは甚だ疑問だ。一口飲んだ時に僅かに眉を顰めていたから案の定薄かったかも知れない。
 そもそも、客人は彼の客ではない。住まいにしているアパートの隣の部屋の住民を訪ねてきたが、まだ帰宅していないから上がらせただけだ。数ヶ月前に引っ越してきた息子を訪ねてきたとの事で、隣人を知っている彼が自分の家で待てば良いと言うと、客人は申し訳なさそうに眉根を下げたものの人懐こい笑みを浮かべて礼を言った。その笑みを見て、さすが親子なだけあって似ていると思った。
 キャベツの芯の周りにぐるりと包丁を入れ、一枚ずつ剥がしていく。シンクを流れる水の音と鍋の中で沸いてきた湯の音、換気の為に開けた窓の外から聞こえてくる近所の公園と言うには狭すぎる場所で遊ぶ子供達の笑い声の中に、彼ら二人の声は混ざらない。お互い、何を話して良いのか分からないという事もある。パン粉が無かったから買ってくる、とスーパーに買い物に行った娘の帰宅が待ち遠しかったのは、彼だけではなくて客人もだろう。
「……つかぬ事を聞くけど、ユーリは食事を作ったりするのかな?」
「あー、引っ越してきた時は全然でしたけど、外食ばっかじゃ体壊すからって娘が教えてますよ」
「そうなんだ、面目無い」
「寮住まいだったんだし、仕方ないんじゃないすかね。
 変態医者に飯食わさにゃならんからって最近はちゃんと飯作ってるみたいだし」
 沈黙に耐えられなかったのか、はたまた本当に単に疑問に思ったのか、客人は息子が自炊をしているのかを彼に尋ねた。客人の息子、ユーリは、彼の隣人である医者と同棲する為に数ヶ月前に引っ越してきたのだが、最初の頃は食事を作るどころか洗濯すら出来なかった。それまで寮に住んでいたものだから家事というものが全く出来ず、彼の娘が教えてやって漸くアイロンまでかけられる様になった。
 そして、食事の作り方も彼の娘に尋ねながら覚えている最中だ。最初は目玉焼きから始まり、徐々にレパートリーを増やし、昨日はハンバーグを作ったらしい。ただ、肝心の同棲相手の医者は肉の塊が苦手なものだから、最大の譲歩として肉の半分を豆腐にしたハンバーグとなってしまった様なのだが。
「今日はあいつら定時上がりの筈だし、イーラが一緒に飯食いたがってるからここで食うと思いますよ。
 イリヤーさんも食ってってください」
「うう……本当に何から何まで申し訳ない……」
「思い立ったから来てみた、って、中々天然……じゃなかった、自由な感じすね」
「二人に来させてばかりじゃ、ね。俺も、どんな所で生活してるのか見たかったし」
 どうやら客人は本当に思い付きでここまで来たらしく、自宅はどこにあるのかを聞けば車で二時間弱かかるのだと言う。そんな所から帰宅時間も聞かずに来るなど、無謀も良いところだ。だが彼がそれを指摘しながら自宅に上がって貰うと、客人は困った様に笑って言ったのだ。思い立った時に会いに行かなきゃ、人間いつどうなるか分からないからね、と。
「電話とかメールも便利だけど、俺は大事な時にいつも居てやれなかったから」
「……そういう仕事なら、仕方ないんじゃないすか」
「仕事だからって、不安な顔した家族を家に置いて出勤するのはやっぱりつらいものがあるよ」
「………」
 客人の憂いに満ちた声に、顔こそ見ていないがどんな表情をしているのか容易に想像出来た彼は、沸いた湯の中にキャベツの葉を入れつつ口を真一文字にする。幼い頃に母親が死んだ娘が台風がきても休む事が許されず仕事に行く彼に何度も早く帰ってきてねと泣いた事があるので、それを思い出してしまった。確かにあんな不安そうな顔をした家族を置いて出勤するのはつらいだろう。
「同棲を反対しなかったのは、その時の負い目があるからすか」
「……そうだね。それが大きいかな」
「ま、よりによって相手があれですもんね」
 さっと茹でたキャベツの葉をボウルの水に浸し、火が通り過ぎない様にする。どうせ煮込むのだからそこまで気にしなくて良いのだが、彼はくたくたになりすぎたキャベツでタネを包むのはあまり好きではないというか嫌いだ。妙なこだわりがありますね、とは義弟の言だが、知った事ではない。嫌いなものは嫌いなのだ。
「ヴィクトール君は、先生と付き合いが長いのかな?」
「長いっつーか……俺があそこに配属された時からの知り合いなんで。あと、本当偶然家が隣ってだけで」
「そうなんだ。しっかりしてる人が隣に居てくれて俺も安心したよ」
「ボーズは良いんすよ、あの変態医者が問題なだけす」
「はは……、歯に衣を着せない辺り、本当に良い隣人に恵まれたね、ユーリも」
 先に玉ねぎを刻んでおこうと、皮を剥いて縦半分に切った彼は隣人を思い出して苦い顔をする。あんなに性格に問題がある男が医者として働いているのだから、世も末だ。ただ、腕も良ければ顔面偏差値も高いので余計腹立たしい。何も知らぬ職員などお近付きになりたいなどと言うので、目を覚ませとも思う。
 そんな医者の性癖を知っていてもなお、この人と共に歩んでいきたいと言った息子に同棲を許し、孫を抱く事が望めなくなった客人は、彼の遠慮ない言葉に苦笑いをこぼした。ろくでもない父親しか知らぬ彼にとって、客人は「良い父親」に映って見える。大雑把に見えて案外細かい作業が得意な彼は、玉ねぎを微塵切りにしながら世間話をするかの様に言った。
「昔、親父を殺したんすよ」
「……え?」
「すげー酒乱でぼっこぼこ殴ってくる親父で、殴られた後遺症で右耳の聞こえが悪いんすよね。
 あんまり酷かったんで、中学ん時に酒飲んで寝てる隙に煙草の不始末に見せ掛けて火ぃ点けました」
「………」
「めっちゃくちゃ汚ぇ部屋だったからすぐ燃えましたよ。でもすぐ逃げたら俺が疑われるし、ギリギリまで待って逃げたんす。
 お陰で未だに火傷のケロイド残ってますけど」
 本当に世間話をする口調で話す彼は、玉ねぎに由来する目の痛みに少しだけ洟を啜った。それが客人にとってどう聞こえたかは分からない。だが、彼はどう捉えられても構わなかった。
 初対面の人間に話すには不適切な内容だが、彼はそれこそ思い付きで客人に話してしまった。自分の父親とは全く違う、良い父親に映る客人だからかも知れない。
「世も末すよ、そんな奴が監獄勤めで死刑囚相手に説教してんすから」
「……それ、誰かに話した事は」
「無いす。死んだ嫁にも話した事ねぇんで、正真正銘他人に初めて話しました」
「何で俺に?」
「さあ。強いて言うなら、良い親父さんだと思ったんで」
「………」
「ボーズは幸せモンすよ、イリヤーさんみたいな親父さんが居てくれて」
 刻んだ玉ねぎをボウルに入れてラップをかけ、揮発と乾燥を防ぐ。そろそろ娘も帰ってくるだろう。死んだ妻がよく作ってくれたロールキャベツは、すっかり娘の得意料理となった。それだけの月日が、経ったのだ。彼は遠い記憶となった父親のあちこちが焦げた遺体と対面させられた為に未だに肉が苦手なのだが、妻は肉を少なめにタネを作ってくれていたから、娘も同じ様に作ってくれる。
「ただーいまー。おとーさん、ユーリお兄ちゃん達も帰ってきたよ」
「すみません、父さんが来てるそうで」
 玄関の鍵が開けられ、扉が開く音と同時に元気な声が聞こえてくる。もうそんな時間か、と壁時計を見ると、やや早く帰ってきたのだろうと思える時間だった。
「もう、メールくらいくれたら有給取ったのに」
「ぶらっと来たかっただけだからな。それより、ただいまが無いぞ」
「あ、ごめん、ただいま」
「はい、おかえり」
 慌てた様にリビングに顔を見せた息子を窘めた客人は、先程の戸惑いの色などどこへ行ったのか、至って穏やかな顔をしていた。そして、息子の後ろから現れた医者にも軽く会釈した。
「ただいま帰りました。お元気そうで何よりです」
「おかえりなさい。先生もお変わりなく」
 冷蔵庫から合挽き肉を取り出し、手を洗った娘に渡しながらその光景を見ていた彼は、さてこれだけで量は足りるのか、と独りごちる。経理屋の義弟は月末だから遅くなると言っていたし、自分で晩飯を買ってきて貰う事にして、取り敢えずは客人をもてなそうとする娘の手伝いをする為にボウルのラップを外した。
「申し訳ない、お待たせして。あれと何か話す事はありましたか?」
「うん? ああ、父親業についてちょっとね」
「へぇー」
 普段は嫌味合戦となってしまう医者は、それでも彼の娘の前では極力そういった事を言わないので、差し障りのない事を尋ねた。それに対する客人の返答はごく自然なもので、動揺など微塵も感じられない。彼の方が意外に思って振り返れば、客人はすっかり冷めてしまったコーヒーをぐいと一息で飲んで、やはり眉を顰めた。
「すんません、次からはもう少し濃く淹れますんで」
「そうしてくれると、有難いなあ」
 大きめのマグカップに淹れられた薄いコーヒーは、客人にとっては単なる「コーヒーの匂いがするちょっと苦い湯」であった事だろう。挙句、初対面の男のどうでも良い少年時代の罪状を打ち明けられたのだから、ついてない日になったに違いない。それでも客人は彼の謝罪に眉根を下げて、人懐こい表情を苦笑に変えた。こういう男が父であれば良かったと、彼は挽肉と玉ねぎを混ぜながら思った。