飛猴ノ月

 泣いてしまった為に少しではあるが赤く腫れてしまった瞼を押さえながら、クロサイトは早朝の洗面所にのそのそと向かう。宿の主人が起き出す時刻なのか、廊下ですれ違い、お早いですね、と眠たそうな目を擦りながら朗らかに笑ってくれた。この街は商団も通過する街道が近いからか宿もそれなりにあり、野宿を避けられたのは有難かった。何せ新婚の夫婦が居るのだ、初夜は寝台の上で寝かせてやりたい。
 長年の胸の閊えの一つであった弟の結婚が決まり、クロサイトは本当に大きな一息を吐く事が出来た。幼少の頃に悪くし、長じて失った左目の代わりをずっとしてくれていたセラフィは、元からそこまで他人に好意を寄せる性格ではなかったとは言えこのまま一生を兄の影として生きるつもりであった様だったから、クロサイトとしても漠然とした不安を抱いていた。自分のせいで弟に兄以外の家族を持つ機会を奪っている気がして申し訳なく思っていたから、ペリドットの次期領主との望まぬ婚姻は渡りに船と言って良かった。
 あとは辺境伯殿との交換条件をどうクリアするかだな、と井戸水をポンプで汲み上げていたクロサイトは、背後に近付いてきている足音におやと思って振り向いた。姿を見せたのは思った通り、セラフィだった。クロサイトは目が良くない分、聴力は良い。取り分け弟の足音ならほぼ間違えない。その弟は、随分と眠たそうな目を擦りながら洗面所に入ってきた。
「……早いな、おはよう」
「ん……、……おはよう」
 欠伸を噛み殺しながら隣に並んだセラフィに汲み上げた水を譲ると、彼は手際よく髪を頭頂で結わえ、短い礼を言って顔を洗った。冷たい水が寝不足の頭を刺激してくれるのか、両手で顔を覆ったまま数秒停止してから大きな溜息と共に顔を上げた弟の目の下には、くっきりと隈が浮かんでいた。
「随分と眠たそうだが、そんなに頑張ったのか?」
「いや…… ……泣き疲れもあったらしくてすぐに熟睡されて俺は一睡も出来なかった……」
「ふっ、ふふふっ、い、いや、すまん、笑うのはかわいそ、ぶふっ……」
 一目惚れした相手を極悪非道の男から拐ってきたのだ、そんな隈を作るほど熱い初夜を過ごしたのかと思ったら、全く違ったらしい。不憫だが吹き出してしまい、しかし早朝であるから大声を上げる訳にもいかず、クロサイトは必死に笑いを堪えて口を手で押さえた。ペリドットは収穫を感謝し神に舞を奉納する為に数日前から潔斎に入り、当日早朝から起きて祭りを過ごし、舞を奉納してから結婚式に臨んだのだから、確かに寝不足ではあっただろう。
「男が同じ寝台に居るのにぐっすり寝たんだ、それだけ安心されてる証拠じゃないか」
「笑いながら言われてもな」
「良かったな、忘れられない初夜になったじゃないか」
「うるさい」
 眠ってしまったペリドットを起こすのはしのびないと思ったセラフィは手も出せず、しかし好いた女と初めて同じ寝台で横になっている訳で、結局眠れなかった様だ。可愛い奴め、と思いつつ、ばつが悪そうにしている弟が寄越した桶の水で顔を洗い、いつもの癖で顎を濡れた掌で撫でたクロサイトは齎された僅かなざらつきに違和感を覚えた。そう言えば鬚を剃ったのだった、と一人で頷いていると、先に顔を拭いたセラフィがタオルも寄越してくれた。
「……まあ、今回の事は本当に有難く思ってる」
「ん? ああ、お前の為でもあるし、ペリ子君の為でもあるしな。幸せにしてもらえ」
 ペリドットの「幸せにします」発言を受けてからかい混じりに言った兄を睨んだセラフィは、この話はもう終わりだと言わんばかりに片手を軽く挙げて反論しなかった。何を言っても冷やかされるだけだと思ったからだ。その意図を汲み取ったクロサイトは、顔を拭いたタオルを首に掛けてから尋ねる。
「お前、これから仕事はどうするんだ」
「どうするも何も……続けるつもりだが」
「ペリ子君に独り寝させるのか?」
「あいつが寝たら仕事に行く。俺はあれ以外の仕事は出来ん」
「そうか……」
 セラフィの就労時間は主に夜間であるから、ペリドットが寝ている間に仕事に行く事になる。新婚だというのにそれはあまりにも、とクロサイトは思ったが弟の人生であるし、夫婦の事に口を挟むべきではない。しかし眉を顰めた兄に対し、セラフィはふいと顔を背けて言った。
「……まあ、これからはそれなりに休みを入れる」
 夜の樹海で遺体を探し、それを埋めるという危険な仕事をしてきたセラフィに、結婚を機にその仕事を辞めて欲しいと密かに思っていたクロサイトは、辞める気は無いが樹海に出る頻度を減らすという譲歩を聞いて安堵する。正直なところ、養親の遺産は慎ましく暮らしていれば一生食べていけるだけの金額はあるので、そんな危険な仕事をする必要は無い。それでもセラフィはほぼ毎晩夜の風馳ノ草原へ出向いていった。冒険者が居る限り、彼の仕事は無くならないだろう。
「そうだな、お前も独り寝は寂しいだろうからな」
「うるさい」
 様々な目的で集まった冒険者の志には興味が無いが、故郷から遠く離れた地で死に、野ざらしで放置されるのはつらかろうと、特殊清掃を生業にした弟に、クロサイトは敬意を払いつつもやはりからかった。まだ朝も早い時間だ、もう暫く新妻の寝顔を眺めさせてやろうと、クロサイトは弟を部屋へ追い遣るのだった。