戌神ノ月

 眠るペリドットの横を起こさない様にとそっと抜け出したセラフィは、彼女の温かな柔らかさと布団の中の温もりに後ろ髪を引かれる思いで冷たい仕事着に着替えてジャケットを羽織った。いつも羽織っているものであるから気にならないが、他人――ペリドットに言わせると重たいのだそうだ。普段は当たり前となっているその重さが今日はやけに感じられて、セラフィはゆっくりとした足取りで自室を後にした。
 勝手口へと続く廊下はダイニングを経由する。そのダイニングは普段のこの時間であるなら真っ暗である筈だが、今夜は小さな明かりが点いている。設えられたテーブルセットに誰が座っているのか、セラフィには分かっているので歩みの速さを緩めず、そのままダイニングに顔を出した。
「――ああ、来たか。相変わらずペリ子君は寝付きが良いのだな」
「布団に潜って十分も経たないうちに寝る」
「健康な証拠だ、結構な事じゃないか。お前も早く仕事に出掛けられるし、その分早く帰れる事もあるだろう?」
「……まあな」
 促されるまま着席したセラフィの前に、微かな湯気が上がるカップが差し出される。黙って受け取った彼はそれを一口啜った。兄が淹れたものではないと、口に入れる前から香りで分かる茶だった。ギベオンが自室に戻る前に淹れてもらった茶だろう。
 そのギベオンはクロサイトが珍しく、本当に珍しく妥協した体重でのプログラム終了と相成った。何もそれはクロサイトが面倒臭がった訳でも、ギベオンが嫌がったり根をあげた訳でもない。単に、統治院の職員達からの風当たりが強くなりすぎてきているからだ。ウロビトの里への働きかけを、辺境伯は待ってくれても職員は待ってくれない。正確に言えば待ってくれないのではなく、嫌味を言う格好の機会なので一部の者達がやたらと攻撃的な口調で申し立ててきて、それがいい加減クロサイトの鬱陶しさの限界を迎えそうというのが本当のところだ。私の本業は医者、というクロサイトの言を、彼らは鼻で笑う。それは別に構わないのだが、患者にまで讒言が飛ぶのは許し難い。この調子であれば、患者が居るせいで辺境伯の依頼も断り続けるから帰郷しろとギベオンに圧力をかける者が出てくる可能性が無いとは言い切れなくて、止むに止まれずクロサイトはギベオンの体重が83キロになった時点でプログラムの終了を言い渡した。
 だが、そこからが大変だった。何とギベオンは、自分もウロビトの里へと行ってみたいと言い出したのだ。確かにギベオンは、ペリドットもそうなのだが、クロサイトや樹海に鍛えられたのでそれなりの実力というものを身に付けている。しかし丹紅ノ石林の魔物は風馳ノ草原の魔物よりも手強いし、冒険者を惑わせ相討ちをさせたりする魔物も居る。そんな所に連れて行きたくはないし連れて行く訳にはいかないと再三言ったのだが、この診療所に来てから初めて見せたギベオンの粘り強さにクロサイトが根負けした。
「今日は石林に行ってくる」
「………」
「嫌そうな顔をするな、今夜は様子見だから幽谷には入らん」
「絶対に無理だけはしないでくれ」
「しないから睨むな」
 ギベオンが行くと言い出したらペリドットまで同行を申し出てきてしまい、セラフィが説得したけれども、男ばかりがぞろぞろと訪れてはウロビトも警戒するのではないかと至極真っ当な事を言われてしまい、こちらも最終的にはセラフィが根負けしてしまった。ただ、絶対に無理をしない事、自分より前には行かない事を条件として飲ませた。
 セラフィの専らの職場は風馳ノ草原だが、時折丹紅ノ石林にも行く。一人での行動は危険度が増すが、それでも帰らなかったタルシスの兵士や冒険者の話を冒険者ギルドから聞くと、誰に言う訳でもなく現地に赴いて探し当て、遺体を埋めて遺品を持ち帰り縁者に渡す。今回はギベオンとペリドットも近々連れて行く事になるので様子見だ。それでも心配を隠さない兄に、セラフィも自然と眉間に皺が寄る。
 ウロビト、否、ウーファンとの交渉は、かなり難航するだろうという予測が二人にはついている。その難航が、ひょっとするとギベオンがタルシスに留まる理由になるかもしれない。それを願うべきなのかどうか、本来ならスムーズに事が運ぶ事を願うべきだとは分かっているのに、クロサイトには判断が出来ない。そんな兄の、隠そうとしている悩みが透けて見えるセラフィは掛ける言葉が見つからない。たった半年と少し居ただけの男が、こうも自分達双子に影響を及ぼす事になるとは思ってもいなかった。
 いつだったか、郵便配達に来たワールウィンドが硬い考えを改めてくれる様な患者が来てくれたら、とぼやいた事があったが、なれるとしたらギベオンではないかとセラフィは思う。彼はクロサイトが決定した事は従うので、兄が行かないと言えば行かないし、行くと言えばついていく。だから、もし、万が一、ギベオンがクロサイトに世界樹へ到達するまでの探索がしたいと言い、説得する事が出来たなら、二人して冒険者に復帰するだろう。ただ、クロサイトが妻を娶ったばかりの弟にそれを承諾する可能性は低い。そうなると、ギベオンは水晶宮の都に帰ってしまうのだ。こればかりは、クロサイトにもセラフィにもどうにも出来ない。
「……五日後に行く」
「……分かった」
 クロサイトが短く告げた日取りに、セラフィも短く了承を告げる。複雑な心中を掻き消す様に二人とも茶を飲み下したが、いつもは美味いと思えるその茶がこの時ばかりは苦いだけのものに思えた。