金羊ノ月

 難しい顔をしながら薄暗いダイニングに座っているクロサイトは、ギベオンが部屋に戻る前に淹れてくれた茶をポットから注ぎ、一口啜った。冷めても楽しめる様にと茶葉がポットに入っておらず、適度な渋味が口内に心地好い。その事が胸の内の靄を僅かに晴らしてくれたが、完全には晴らしてくれなかった。
「……何だ、渋い顔して。眠いのか?」
「ん……いや、ちょっと考え事をしていた」
「また何か面倒事でも引き受けたか」
「面倒ではあるが避けては通れんといった感じかな」
 仕事へ行く支度をしたセラフィがダイニングに顔を出し、兄の顰め面に眉間の皺を深くする。クロサイトは昔から面倒事と言うより面倒な仕事を受け持たされる事が多く、セラフィの懸念事案でもあった。過労で倒れるんじゃないかと危惧した頃もある。実際、一度寝不足で倒れた事があり、それ以来セラフィはクロサイトに寝る様に再々言う。
 ただ、今回の面倒事は決して避けては通れない。その面倒事は、辺境伯に手を貸してもらう見返りに深霧ノ幽谷の探索、もといウロビトとの接触を図るといったものだからだ。クロサイトとセラフィが唯一のウロビトとの接触を持った人間だというのに、二人は十年程前に突如冒険者を辞めた。誰が何を言って説得しても、未だに一度たりとて復帰の意思を示した事が無い。彼らには探索する理由が無いので、復帰しようと思った事が無いのだ。
 そんなクロサイトが協力を求めた辺境伯が、見返りに彼へ冒険者復帰を要請しない訳がない。背に腹は変えられないので、ウロビトへの接触を図り、里の門戸を開いてもらうまでは引き受けるが、それ以降の探索は他の冒険者に一任する事を条件にクロサイトは引き受けた。自分は単なる街医者であるし、妻を迎えたばかりの弟を危険な探索に連れ出したくはなかったからだ。
 セラフィは未婚であるがこれから妻を迎える予定で、それはセラフィ本人は全く知らない。クロサイトが弟に黙って、ペリドットを妻に迎えられる様にあれこれと画策している最中だ。先だってセラフィがペリドットの一時帰宅に付き添ったのだが、その際初めて彼女に許嫁が居ると判明した。クロサイトも知らなかったので、ペリドットは黙っていた事になる。タルシスに戻ってきたセラフィからその事を聞かされ、更にあまり乗り気ではない様に見えたと言うものだから、クロサイトはすぐにペリドットの母親に詳細を尋ねる手紙を書いた。すると返事はクロサイトも驚いた程度には早く届き、踊り子という身分の低さ故に悪い噂しかない次期領主からの求婚は断れず、断ったならば劇団員全てが路頭に迷う事態になる恐れが非常に高く、不本意な婚姻を結ばれる事になっていると書かれていた。
 どうやらペリドットもそれなりにセラフィを気に掛けてくれている様であるし、そんな男に嫁ぐくらいなら生まれて初めての一目惚れをした弟に嫁に来てほしいとクロサイトは思ったので、すぐに手立てを講じ始めた。まずはペリドットの許嫁であるらしい次期領主の身辺調査をする為にウィラフに協力を仰ぎ、現地での聞き取り調査を依頼した。すると、何とその男は彼女の家族が昔請け負った竜退治の依頼人であると言う。あいつそんなふざけた事やってんの、と呆れたウィラフは快く引き受けてくれて、準備をすると早々に現地に向かって出立した。それからペリドットの母であるインフィナの言う事が本当に全て正しいのであれば最悪の事態も視野に入れ、劇団員全員をタルシスに亡命させる事、武力を行使するならばこちらも武力行使を辞さないという事を辺境伯に表明してもらう書面を作成してもらったのだ。権力を振りかざすであろう者には権力を振りかざせば良い。辺境伯本人は激しい身分差別を嫌っており、また富がある者が正しくその富を回す事を是としている。間違っても己の立場を利用して他人を苦しめる事はしない領主だ。だから今回の権力の振りかざし方は彼の理念に反しない。
 一番大事なペリドットの意向はどうなのかと言うと、クロサイトはペリドットにも黙って根回しをしているので聞ける筈も無いのだが、先日セラフィが仕事で怪我をして帰ってきた時に随分と心配していて、夕方には宿の女将に頼まれたお遣いの帰り道、ベルンド工房に欠けた剣の修理を依頼して帰る途中だったらしいセラフィとたまたま合流して連れ立って帰っていた。診療所までの長い階段を二人並んで上っているところを見掛けたクロサイトは、その姿を微笑ましく思っていたものだ。夕食を一緒に食べましょう、とセラフィを誘ったのもペリドットだった。脈が無い訳でも無さそうだとクロサイトも思っている。
「……詳しくは聞かんが、あまり根を詰めるなよ。お前は真面目すぎる」
「お互い様だ、お前も無理はしないでくれ。この間みたいな怪我をして帰ってこられたら僕の心臓が保たない」
「悪かったと言っているだろう。俺だって好きで怪我をしてる訳じゃないんだ」
「そうだろうな。だから今日も無事に帰ってきてくれ」
「……ああ」
 ペリドットの意向の危惧は薄いが、いかんせんセラフィの仕事は危険を伴うものであるから、彼女を迎えに行く前に取り返しのつかない事にならない保障は無い。いつまで経ってもクロサイトの中でセラフィは守るべき弟なので、いつだって心配している。そんな兄の懇願する様な目に、セラフィは一度だけ頷いて合鍵を手にすると、仕事場へと向かっていった。クロサイトは勝手口の扉が閉まる音を聞き届けてから、すっかり冷たくなった茶を一気に飲んだ。飲み干した後、ギベオンにも協力を要請してみようと思い立ち、ポットとカップを洗う為にキッチンへと向かったのだった。