皇帝ノ月

 タルシスは数年前から世界樹を目指す冒険者が集う街となっている。腕に自信がある者が挑んでは夢破れて去っていくが、活気が無くなるという事はなく、賑わう街になっている。
 その冒険者達も験を担ぐ事はするもので、年が明けた皇帝ノ月1日に結成を冒険者ギルドに申請するギルドが大半だった。その日以外で結成する者達も居るけれども、大抵は既に結成されたギルドに加入して、年が明ければ改めて自分のギルドを結成する、といった者も多い。日付が変わった時分に遠くから聞こえてくる喧騒をぼんやり耳に入れながら、クロサイトは自分が淹れたあまり美味くない茶を啜っていた。
「年が明けたな」
「……みたいだな」
「抱負でも言い合うか?」
「「死なない」以外何かあるか?」
「無いな」
 テーブルの向かいに座り、同じく茶を啜っている弟のセラフィに何とは無しに尋ねてみたが、これと言って特に何かが変わる訳でもなく、強いて言えば新米冒険者が増える今日から暫くの間は冒険者御用達のセフリムの宿に隣接する診療所の医者である自分と樹海の特殊清掃を生業としているセラフィの仕事が増える事くらいだ。慣れない探索と始めて遭遇する魔物相手に大怪我を負い、ギルドの医術師の手に負えない者はクロサイトの元に担ぎこまれるし、力尽きてタルシスに戻れなかった者はセラフィによって埋葬される。数年前から変わらない彼らの日常は、年明けの期間にぐっと忙しくなる。
「そう言えば、ジャック君から手紙が届いていてな。気になる後輩が居るのでこちらに送り込む算段をしていると」
「ジャック……ああ、水晶宮の都から来ていた奴か。そんな面倒見の良い奴だったか?」
「それだけ酷いという事ではないかな」
美味く淹れられない茶は進まず、それ故にカップに残る量は多くて自然と熱は失われていく。すると茶は冷める訳で、美味くない茶は不味い茶に変化してしまう。否、冷めても美味い茶は世の中にあるけれども、クロサイトが淹れられないだけだ。
 そんなカップの水面を見ながらの報告に、セラフィは三年程前にこの診療所で兄の患者であった男の事を思い出していた。タルシスから遠く離れた水晶宮の都はとにかく寒いところで、その寒さ故に皮下脂肪がつきやすく、それは土地柄仕方ないけれども、ジャック――正確にはジャスパーという名の男はウエイトが乗りすぎて腰や膝の負担が著しく、城塞騎士であるというのに鎧を纏う事が困難となってしまった為にこのタルシスまで送り込まれたらしかった。何でも、水晶宮の王が命じて派遣されたキルヨネンという騎士がクロサイトの評判を聞いて伝えてくれたらしい。クロサイトは普通の医者――と自分では思っている――ではあるが、一方で肥満患者を適切に、且つ独自の手法で指導して痩せさせる事が出来るので、ちょうど良いと思われたらしい。
「受け入れは反対せんが、新米連中が落ち着いてからにしてくれ。俺の手が回らんかもしれん」
「うん、僕も多分それまでは忙しいからな。受け入れるとしたら素兎ノ月と考えているんだが」
「良いんじゃないか、それで。その頃までにはいくらか樹海も落ち着くだろう」
「落ち着いてほしいものだな」
「全くだ」
 連日ではないとは言え死体を埋める仕事を担っているセラフィは、兄の希望に苦々しい顔で同意する。自ら進んでその仕事を始めた彼は腕力に自信はあっても体力には無いので、それなりの人数が死んでしまうであろう年明けからの数ヶ月にクロサイトが受け入れた患者の治療のサポートが不十分になる。それを心得ているクロサイトは、ジャスパーへの返答には彼の後輩を受け入れる事と、時期は素兎ノ月が望ましい事を書こうと決めた。
「じゃあ、取り敢えず、今年もお互い体には気を付けよう。それからお前に頼みがあるんだが」
「……何だ」
「今年こそ怪我をしたら仕事の途中でも必ず帰れ。生きている人間が先だ」
「……じゃあお前も今年こそ夜はちゃんと寝ろ」
「お前を含めた傷病人が夜中に来ない限りはな」
 仕事場が危険な場所であるだけにセラフィが怪我を負って帰ってくる夜も多く、負傷しても埋葬し終えてから戻ってくる事が大抵で、クロサイトはその度この上なく渋い顔をして手当てをする。その事に釘を刺した兄に、セラフィはばつの悪そうな表情を浮かべてせめてもの反撃をした。クロサイトは医者として常に最新の知識を持っておきたいからと、論文や医学書を夜遅くまで読む傾向がある。セラフィが仕事から帰ってきた明け方に、まだ起きていたという事もよくあった。お互いを牽制した二人は暫く黙って、半ば睨み合う様に見つめ合っていたのだが、どちらともなく苦笑いを浮かべた。それがお互い、了承した、の合図だった。
「そろそろ寝るか。今日から忙しくなる事だし、寝られるうちに寝ておこう」
「……ああ」
 ダイニングの壁に掛けられた時計を見ながら言ったクロサイトに、セラフィも短く同意して頷いてから腰を浮かせる。二人の前に置かれていた茶は、全て飲まれる事無くカップの中に残されていた。