恋人の日

 いつも活気のあるタルシスの街が普段に比べてより華やかさが増してきた気がして、ペリドットは不思議に思っていた。例えば花屋の店頭に並ぶアレンジメントがいつにも増して赤やピンクの彩りで構成されていたり、パン屋は菓子パンの種類が増えていたり、文具屋もいつもは店舗の奥に置かれているだろう高そうな万年筆が恭しく箱に入れられて陳列されていたり、とにかく普段とはちょっと違った雰囲気となっていた。
「そっか、ペリドットちゃんはタルシスに来て初めてよね、恋人の日」
「恋人の日?」
 酒が飲めないので専らお遣いをする為に訪れる孔雀亭でガーネットに言われた聞いた事もない日に、ペリドットは首を傾げる。少なくとも故郷には存在しなかったその日の詳細を彼女が聞こうとする前にガーネットはそう、と頷いた。
「辺境伯のお祖父さんにあたる方がご当主だった頃、よその土地から逃げてきた恋人達が助けを求めたそうなの。
 故郷では身分違いで結婚出来ないから、どうかこの街に匿ってほしいって言ってね。
 それを聞いたご当主の奥様がご当主を説得されて、二人は晴れてこの街で結ばれたんですって。
 その挙式の日が笛鼠ノ月17日で、恋人の日って言われる様になったらしいの」
「へぇー……素敵ですね」
 そんなエピソードがあったとは知らなかったのか、周りに居た他の冒険者数名もペリドットと同じく嘆息を漏らした。だがそんなペリドットに、ガーネットは意地悪そうに笑う。
「ペリドットちゃんも素敵な結婚したじゃない。結婚式の最中に拐われたんでしょ?」
「あ、は、はい……」
 踊り子という身分の低さ故に故郷の次期領主との縁談を断れず許嫁にされていたペリドットは、クロサイトの元を卒業して故郷に戻り望まぬ結婚をさせられそうになった。だがその式の最中、タルシスから周到な根回しをしていたクロサイトに背を押されセラフィが拐いに来てくれた。物語みたいだった、とは同行していたギベオンの言で、実際ペリドットの故郷では未だに語り草になっている。
 思い出すと恥ずかしい、と赤面したペリドットは、両手で頬を押さえながら話題を変えようとガーネットに疑問を尋ねた。
「そのお話と、お店で売られてるものと何か関係あるんですか?」
「恋人の日には自分の大事な人に日頃の想いを込めた贈り物をするのよ。
 ペリドットちゃん達は恋人飛び越えていきなり夫婦になっちゃったから、一日恋人同士みたいに過ごしても良いんじゃない?」
「私達の事はもう良いですからっ」
「え〜、言わせてよぉ」
 話題を変えたつもりであったのに全然変わっておらず、再度顔を赤くして抗議したペリドットにガーネットはころころと鈴を転がす様に笑った。そんな彼女を恨みがましく見たペリドットは、それでもガーネットが言った提案はちょっと良いな、などと思っていた。



 その日の探索は初めて遭遇した狒狒の魔物から受けた豪腕の攻撃でギベオンが激しい裂傷を負い、命に別状は無いがこれ以上の探索は無理だとクロサイトが判断して昼過ぎにはタルシスに戻ってきた。縫合が得意であるクロサイトが金剛獣ノ岩窟ですぐに処置をし、直後にタルシスに戻って経過観察をしており、幸いにも神経にまで達する様な怪我ではないが動けば血流が良くなり痛む為にローズと散歩して傷の回復を早くするのは明日以降にしようという事になった。
 数日前にガーネットに恋人の様に過ごすのも良いのではないかと言われた事は覚えているし、それは良いなと思ったのも事実なのだが、自分を庇って大怪我を負い痛みに顔を顰めているギベオンを置いて浮かれて出掛けるのも気が引けるので、何も声を掛けられなかった。そもそもペリドットはセラフィがどういうものを好みどんな所に行くのか、何をして過ごすのが好きなのか、未だに知らない。水辺が嫌いで近寄らない事は知っているが。
 加えて、早めに街に戻ってきたから宿の厨房を手伝ってくるとセラフィが出て行ってしまったので、完全に手持ち無沙汰になったペリドットはローズを連れてクロサイトに頼まれた買い物に出掛けた。医薬品の名称が書かれたメモを片手に指定された薬局へ行き、委任状を渡して窓口の少年の様にも見える白衣を着た店員から諸々を受け取り、その帰途で父から渡された小遣いで綺麗な包みのキャンディーをいくつか買ったローズが孔雀亭に行きたいと言うので立ち寄ると、ガーネットは二人を笑顔で迎えた。
「あら、いらっしゃい。どうしたの?」
「かあさまがきょうはだいじなひとにおくりものをあげるひっておっしゃってたから、おくりものをもってきました!」
「あらまあ……うふふ、これなあに?」
「キャンディーです!」
「綺麗ねぇ。有難う、ローズ」
「えへ……」
 ローズから渡された虹色のフィルムに包まれたキャンディーを手に顔を綻ばせたガーネットは、娘の目線まで体を屈めて頭を撫でた。恋人の日と聞いていたのでローズの様に親しい人に何かを贈るという発想を失念していたペリドットは、ローズが振り向いて自分にもその包みを手渡してきたので驚きつつも受け取った。
「私にもくれるの?」
「はい! さきにかあさまにおわたししたかったから、あとになっちゃいましたけど……」
「順番は良いよ、有難う。私も皆に何か買えば良かったなあー」
「ペリドットねえさまは、セラフィおじさまになにかさしあげるんですか?」
「あげたいけど、何を喜ぶか分からないんだよね……」
「ごはん作ってあげたらどう? それならクロ先生達も食べるじゃない」
「もうセラフィさんが女将さんのお手伝いで厨房に入っちゃってるから、今晩のごはんは多分それなんです」
 ローズから貰った包みを大事に手に収め、ローズの問いに困った顔で答えたペリドットは、ガーネットの提案に途方に暮れながら返答する。ウロビトのローズ程ではないがかなりの細身であるセラフィはその外見にそぐわず大食らいで、ペリドットがまだクロサイトの患者であった頃は自分で食べる分は自分で作っていたし、よそ者が多いタルシスであっても人気の食堂を切り盛りしている宿の女将の手伝いが出来る程の腕前であるので自分が作ったものを喜んでくれるのか謎だとペリドットは思う。しかも、もう本人が厨房に入っているのならペリドットが作る必要は無い。
 しゅんとしてしまったペリドットとは対照的に、顔を見合わせたローズとガーネットは何か思い至る事があったのか、似た笑みを浮かべて意味深に頷き合った。ペリドットはそんな二人に首を傾げる事しか出来なかった。



「ただいま戻りましたー」
「ああ、お帰り二人とも」
「あっ、ミートスパゲティだ!」
 結局皆で食べられる様なドーナツでも作ろうと、診療所に戻る前に粉糖やクリームを買ってローズと共に帰宅したペリドットは、ダイニングで配膳していたクロサイトに頼まれた遣い物を渡すより先に歓声を上げた。パスタが好物である彼女は特にミートソースのパスタが好きで、時折食卓に上がるとどれだけ疲れていても表情が明るくなる。
「あ、お帰りペリドットにローズちゃん。セラフィさんが作ったミートソースだよ」
「え、あ、そっか、お手伝いに行くって……あっ」
 簡易台所から茶器を乗せたワゴンを押してきたギベオンの言葉にきょとんとしたペリドットは、しかし理解した瞬間目を見開いた。そんな彼女を見て首を傾げたのはギベオンで、顔を見合わせて似た表情で笑ったのはクロサイトとローズだ。
 ペリドットがクロサイトの患者であった頃に初めて食事にミートスパゲティが出てきた夜、卒業後に嫁がなければならないろくでなしの許嫁の事を考えるとつらくて泣きながら寝た彼女が深夜に喉の渇きを覚えて台所に行くと、その当時は話すどころか顔を合わせる事すら稀であったセラフィが一人で食事の支度をしていた。そのミートソースは彼が作ったものだとクロサイトから聞いていたペリドットは礼を言ったし、あの夜初めてまともに彼と会話した。目付きが凶悪で怖く、初対面であろう事かボールアニマルみたいだと言われたペリドットはセラフィに対して苦手意識しか無かったのだが、話してみると無愛想な見た目とは裏腹に優しく、その後も会話をする中で言葉が足らない事はあっても誠実な人柄であると知った。しかも、蓋を開けてみれば幼い頃から小さくて丸くてころころしているものを可愛いと思うし好きなのだというではないか。その条件が揃ったボールアニマルに似ていると評した事は、つまり初対面でペリドットの事を可愛いと思ったという事だ。
 そんなセラフィは生まれも育ちもタルシスで、今日が恋人の日と呼ばれる日である事を知っている筈であるし、ペリドットがミートソースのパスタが好物であるという事も、勿論知っている。つまり早めに戻ってきたからというのは単なる口実で、彼は身一つで嫁いできてくれたペリドットの好物を今日この日の贈り物として作ったのだろう。幼いながらも聡いローズはその事に気が付いていたから、ガーネットやクロサイトと顔を見合わせて笑みを零したのだ。
「……帰ってきてたのか」
「あ……はい、今帰りました」
「こっちも今仕上げたから良いタイミングだな、好物の匂いを嗅ぎ取ったか?」
 赤くなるやら呆然とするやらで忙しないペリドットは、ローズからキャンディーの包みを受け取り感動しているクロサイトの向こうにある台所から山盛りのパスタを乗せた皿を持って現れたセラフィが自分の席に配膳しながらそんな事を言ったので、咄嗟に素直な気持ちが口から出た。
「あ、あの、ミートスパゲティも好きですけど、セラフィさんの事はもっと好きです!」
「………… ……お、おう」
 そのペリドットの言葉で食事を作る時は髪を結うセラフィは頭頂付近でポニーテールにしていた紐を解こうとしていた手が止まり、目を丸くして一瞬何を言われたのか分からない様な顔を見せた後に間抜けな声で辛うじて返答した。ローズからキャンディーを受け取ったもののクロサイトの視線に怯えていたギベオンは二人の遣り取りににわかに赤面し、クロサイトは口元を手で隠して笑いを堪えている。それなりに恥ずかしい事を人前で言ったのだと気が付いたペリドットは、粉糖とクリームが入った紙袋で顔を隠しながら不明瞭な声を上げて撃沈した。
「お熱い二人と違って料理は冷めてしまうものだし、そろそろ食べようか?」
「一言余計だ」
「良かったな、大好物のミートスパゲティより好きらしいぞ」
「パスタに負けたらさすがに俺も落ち込む」
 しゃがみこんでしまったペリドットを見て震える声で食事をしようと言ったクロサイトを睨んだセラフィは何とか悪態を吐いたものの、解いた髪で隠した耳を赤くしていた。そんな大人たちを、ローズは擽ったい気分で見ていた。