恋人の日inマギニア

 日が暮れかけた酒場は冒険者達で賑わい始める。彼らは時間など関係なく探索をしているので朝から酒を飲む者も居るけれども、酒場の主人が言うにはやはり夜の方がアルコールの消費が多くなるらしい。闇の中では不安も恐怖も増大するから、それを和らげる為に酒を望むのだろうと蒼は手の中で琥珀色の液体が満たされたグラスを温めながら店内を見回せる席でぼんやり考えていた。
 彼は違うがパートナーである大智が冒険者であるから、もし大智が探索中に悲惨な姿になってしまったらと思うとひどく恐ろしくなるけれども、その恐怖は大智が居ない夜中にピークに達する。そういった時に頼るものがどうしてもアルコールになるので、宿に間借りしている蒼の部屋には酒瓶が鎮座していた。
 しかし、今日はその瓶に手を伸ばす訳でもなく、蒼は酒場に来ている。睡眠導入剤を作る為の材料を集めてきてほしいという依頼を受け、原始ノ大密林にギルドの二人と出掛けた大智と酒場で待ち合わせをする約束を交わしており、報告の帰投を待っているのだ。手強い魔物との戦いによって負傷した者の中にはその時の記憶に苛まれ眠れず寝不足になる者も多いと聞いているので、冒険者達にとっても良い薬が出来るであろうし、自分にとってもまた同様だろうと蒼は期待している。
 そこまで心配するのであれば自分も行動を共にすれば良いと思われるかもしれないし、実際にそう言われた事もある。しかし老若男女問わず多くの冒険者が探索に挑んでいるとは言え、蒼はもう若くはない。足手まといになる可能性の方が大きかった。だから、マギニアで帰りを待つという役目を引き受けている。
 自分の体温で温められた酒を一口含む。安物の酒の様な強烈なアルコール臭はせず、蜂蜜を思わせる様な香りが口から鼻に広がり、舌の上からまろやかな甘みが落ちてくる。蒼がこの店の中で一番気に入っている酒だ。上物であるが故に値段も高く、酔えれば良い冒険者はまず指名しない。そのお陰で、蒼が長く楽しめているというのもある。酒は嗜む程度である蒼は、それでも主人にとっては上客である様で、長居をしても文句は言われなかった。依頼を請け負ったギルドの関係者というのが一番の理由であるだろうけれども。
 普段なら賑わっている場所で待つのではなく、宿の静かな部屋で大智の帰投を待つ事を好む蒼であるが、今日は何故この酒場に来ているのかと言えば、旧友が住む街の風習を思い出したからだ。大智のギルドに居る奏多という青年はタルシスの出身で、その街は旧友が統治している。タルシスでは笛鼠ノ月17日は恋人の日と言って、大切な人に日頃の感謝や愛を伝えたり贈り物を交換する日であるらしく、先日奏多と会話を交わした際にふとその事を思い出したのだった。いつも伝えているつもりであっても、「つもり」であるかもしれないし、何よりたまには大智を宿ではなくこういう場で出迎えたい。年甲斐もない、と蒼は思わず苦笑いを浮かべてしまった。
「お客さん、売上になるから僕は嬉しいけど、ずっとここで待ってるのは疲れない?」
「宿で待つのもここで待つのも大して変わらないよ。喧騒の中で待ちぼうけもたまには良いさ。
 それより、マスターが職務放棄してはいけないんじゃないかい?」
「良いよ、たまには」
「マスターのたまには信用ならないな」
 店内を見回せる席なだけあって、蒼が陣取っている席は店の隅の方にある。そんな所にわざわざ主人は足を運び、ナッツの入った皿と透明な液体が入ったグラスをテーブルに置いた。同席して飲む気らしい。クワシルさんのいい加減さは定評があるみたいです、という大智の言が思い出され、ふ、と笑った蒼は主人がつまむ前に皿から一粒ナッツを頂戴した。主人は特に文句を言わなかった。
 他の冒険者達と比べて大智や奏多、そしてアルストロの三人ギルドは緊張感というものがあまり無い。だがその脱力加減が良いのか、蒼も驚く事に探索の最前線に何故か居る。その事を他のギルドの者から言われると、運が良いからと笑顔で三人は声を揃える。蒼もそう思う事が多々あり、それでも彼らの腕前は目に見えて上達していた。一人で生きていかねばならなくなる日がきっと来る筈だから、とマギニアでの冒険者業を大智に勧めた蒼も、結構な事だと思っている。
 そう、大智は蒼と年齢差が著しい。だからいつかは大智を残して居なくなる日が来る。大智の望みは出来うる限り叶えてやりたいし、我儘もたくさん聞いてやりたい。今日は久しぶりに好きな歌でも歌ってやろうか、そんな事を思った蒼は、同じく隅に追いやられている小さなピアノに目をやった。この酒場に初めて来た日に他の冒険者が弾いていたし、調律も悪くなかった記憶があったので、ナッツの塩味を酒で流した蒼はグラスを置くと懐から硬貨を取り出して主人のグラスの横に差し出し、少し借りるよとピアノを指差しながら立ち上がった。
 マギニアに来るまで大智と共に各地を放浪していた蒼は、自身の医術の腕の他に、軍隊時代に覚えた鍵盤楽器の演奏で日銭を稼ぐ事もあった。教師に習った訳ではないので美しい旋律を奏でる事は出来ないが、一時期旅の楽団に同行していた時に本業の演奏者からあんたみたいに楽しく弾けたら十分さと言われた事がある。注目を浴びるのはいただけないが、練習くらいはさせてもらっても良いだろう。そう思って蒼は鍵盤の上にそっと指を置くと、大智が気に入っている曲を弾き始めた。
 本物のピアノを弾くのは久しぶりであるが、弾く真似は普段からしていたので辿々しくはあってもそれなりに弾けた。この歌を教えてくれた男はハモニカも用いていたけれども、蒼はそこまで演奏は出来ない。それにハモニカは大智の得意楽器で、自分のハモニカを持っている程だったりする。暫く弾いていたら指も温まってきて、このピアノは弾ける者が好きに弾ける事もあってか蒼が弾き語りを始めても他の客から特に不満の声は上がらず、それが安堵させて蒼は酒の酔いの気持ち良さも手伝ってくれたので歌い始めた。恋や愛を歌った曲ではなく演奏を所望されて弾き語る、そんな内容の歌だ。大きな夢、それこそ叶えられそうにない様な夢を抱く者達が集まる酒場で、一時の間だけでも現実を忘れさせてくれる様にメロディーを奏でてほしいと頼まれる男の歌を、大智は何故か気に入っている。どこかの街で数ヶ月滞在した時に酒場に居た男が弾き語っていた歌を蒼が覚えたもので、メロディラインが好きなのだそうだ。野宿する際に眠れないからあの歌を歌ってほしいと頼まれた事もある。
「!」
 早く元気な顔が見たいものだと間奏を弾いていた蒼の耳に、聞き覚えのある音色が滑り込んでくる。それに驚いて音色の元へ目を遣れば、酒場の出入り口から派手に汚した白衣を纏った人がその姿とは裏腹な笑顔でハモニカを吹きながら自分の方へ歩み寄ってきてくれていた。そして手を止めてしまった蒼の側に立つと、ハモニカを口元に据えたままへにゃりと目尻を下げた。

「歌ってください旦那様、あなたのメロディに酔いしれたい気分なんだ」

 そして歌詞の一節を改変して一曲所望したのは、誰でもない大智だった。どうやら無事に依頼された品を持ち帰り、酒場を訪れたらしい。くたびれた様に、それでも薄く笑って大智の荷物を持って近くの席に座ったアルストロと奏多の姿も見え、蒼は結局全注目を集める事になってしまったと耳を赤くしながら苦笑し、大智を見上げると、愛しい人は心得た様にハモニカで前奏のメロディを奏で始めた。我儘を聞いてやるつもりだったのに、望みを叶えてもらってしまったと、蒼は歌いながら幸せを噛み締めていた。