幕間1

 快晴とまではいかないが、緩やかな風が心地よく晴れた日、十日に一度設けてある休息日に街へと散歩に出掛け、工房の娘と一頻り鉱物の話題で盛り上がって思いがけず時間を潰せたギベオンは、帰り道に果物を買ってから診療所に戻った。昼食は街の大衆食堂で摂るので不要の旨を伝えていたので午後のゆったりした時間に戻った彼は、茶を淹れて買ってきた果物でもつまもうかと思い、まずは手を洗おうと診療所裏手の井戸へと向かうと、よく晴れているからだろう、洗濯物が微風に吹かれて揺れていた。
 並んで干されている自分の上着は大きく、隣に吊るされているクロサイトのシャツがやけに小さく見えるが、ギベオンの服のサイズはこの診療所に来てから既に三つ程小さくなっており、それを考えれば大したものではある。しかしまだ標準体型には遠い事は間違いないので、明日からまたがんばろう……と彼は少し遠い目になった。ただ、それはそれ、これはこれなので果物は食べる。
「……あれ?」
 その洗濯物の群とは少し離れたところに吊るされてある白衣と赤いシャツに、ギベオンは洗った手の水を軽く払いながら首を傾げた。何の変哲も無い、クロサイトも普段から着用している様な白衣なのだが、明らかに細い体型のそれなのだ。シャツはそうでもないが、白衣はクロサイトが着るには丈は合っても横幅が足らない気がする。ギベオンは行儀悪くも穿いていたズボンで手を拭き、その白衣に歩み寄ると、身幅を確かめた。
 寒い国の出身であるギベオンは、母からセーターを用意して貰えなかった事と自分に合うサイズのものが無かった事もあり、編み物が出来る。その為、干されてある衣類を見れば大体どんな体つきの人間なのかが分かる。クロサイトと同じくらいの背丈ではあるが、セラフィと同じくらい細い体型である人物の白衣にしか見えず、かと言ってこの診療所には医者はクロサイトしか居ないので、誰の白衣なのかと思ったのだ。どちらかと言えば並んで干されているシャツの方がクロサイトの体型に合うが、彼がこんな色のシャツ、しかも丈が短いものを着ているところを見た事が無いので余計に疑問に思った。
「何だね、人のものをじろじろと」
「ひぇっ?! あ、い、今お帰りですか、すみません」
「うむ、ただいま」
 その時、突然背後から声を掛けられて変な悲鳴を上げてしまったギベオンが振り向くと、休息日でも医者業を休む事はないクロサイトが診察用の鞄を持って戻ってきていた。ギベオンやペリドットの主治医とは言え、彼はこの近所の住民のかかりつけ医でもあるので、呼ばれれば出向いて行く。久しぶりに鎚を抱えていないクロサイトの姿を見たので、何となく違和感を覚えた。
「……あの、この白衣ですけど」
「何だね」
「これ、クロサイト先生のですか?」
「違う」
 井戸の水をポンプで汲み上げて手を洗っているクロサイトに尋ねると、彼はギベオンと同様手を振りながら水滴を飛ばして即答した。その回答は予想通りのものであったから特に驚きはしなかったが、誰のものであるのかという疑問は残る。古ぼけた様に見えるそれはよく見ればクロサイトが着用しているものとはデザインが若干違い、ベルトは一本だけだった。
「私の師の白衣だ」
「……クロサイト先生の、先生ですか? えっと……医師の?」
「医学と薬学のな」
 内ポケットからハンカチを取り出し、クロサイトは簡易の流しになっている台の上に置かれている果物をちらと見てからギベオンの側に歩み寄る。咎められなかったので、この程度なら良いという無言の許可なのであろう。内心ほっとしたギベオンは、再度吊るされた白衣を見た。
「でも、何でその先生の白衣を干されてるんですか?」
「形見なのだ。たまにこうやって虫干ししている」
「あ……もうお亡くなりに……?」
「十年程前にな」
「そうですか……」
 その白衣を着ていた故人を懐かしむ様なクロサイトの表情はいつになく柔和に見え、今でも尊敬しているのだろうという事をギベオンに窺わせる。クロサイトにこんな顔をさせる医師はどういう人であったのかを聞いて良いものかどうか迷ったのだが、好奇心に負けたギベオンは再度尋ねた。
「その先生、どんな方だったんですか?」
「バーブチカ先生と言ってな。この診療所の元の持ち主だ」
「あ、そうだったんですか」
「遺言状に診療所含めた遺産は全て私とフィーに相続させると書いてくださっていた。
 元はこの街の方ではなかったがたった数年で医者としての信頼を得た方だったから、
 私が継いで良いものかどうか迷ったんだが……
 辺境伯殿にも進言してくださっていたらしくて、結局継いだのだ」
 その若さで既に自分の診療所を構えているのは凄いとギベオンは思っていたのだが、なるほど継いだのであれば然程資金は必要無かったであろう。何せギベオンやペリドットはクロサイトに治療費を払っておらず、基本的に無料なのだ。
 ではどうやってクロサイトがギベオン達の面倒を見ているかと言うと、樹海や草原で調達したものを工房で売却し、その売却額の半分を彼の取り分としており、残りの半分をギベオンはペリドットと分けている。しかし金の使い所など殆ど無いので、少額であっても困らない。クロサイトも医者として隣接する宿屋をねぐらにしている冒険者達の怪我などの治療で稼いでいるし、今日の様に街の住民の元へ回診に行く事もある。だから、金銭面では特に不自由はないらしかった。
「遺言状って、ご病気か何かで亡くなられたんですか?」
 そんな診療所を遺したバーブチカという医者の外見も年齢も知らぬギベオンは、遺言状と聞いて随分と年配者だったのだろうかと思い、医者なのに死因が病気というのもおかしいが老衰と言うのも憚られたのでそう尋ねたのだが、クロサイトは白衣とシャツを眺めている目を少し細めてから首を横に振った。
「心中した」
「……は?」
「このシャツの持ち主だった、ユーリさんという方と心中した」
「……な、何でまた」
「さて。そういう約束だったと私宛の手紙には書かれていたが」
「………」
「そういう愛の形もあるのだろう。死に顔はお二人共とても穏やかで幸せそうだった」
 予想もしていなかった答えに呆然としたギベオンは、淡々と話すクロサイトの表情がよく見えなかった。失った片目を髪で隠しているから余計に分からず、彼が今何を思っているのか窺い知る事は出来ない。
 赤いシャツは、白衣よりも身幅が広かった。男のそれであると分かるし、またクロサイトの愛の形という言葉からして心中した二人は恋人同士であったのだろうし、恐らく男性同士であった、のだろう。ギベオンは同性愛に対する偏見は持ち合わせていないが、かと言って同性を恋愛対象として見られるかと問われれば言い淀む。
「こんな事をせずとも良いのだろうが、どうしても私がお二人の服を番で置いておきたくてな。
 たまに話相手をして頂いている気持ちになるのだ。君はおかしな事だと思うかも知れないが」
「いえ、……それだけ、クロサイト先生にとって大事な方だったと思いますので」
「……まあな」
 クロサイトが言った様に、心中という愛の形があるのなら、故人の偲び方にもそういう形があってもおかしくないだろう。それ以上の事を何も言えなかったギベオンには僅かに目を伏せたクロサイトの顔に翳りがかかった様に見えて、余計な事を聞いてしまったと視線を泳がせたのだが、その視線の中に流しに置いてある果物が入った事に気が付いた。
「あの、良かったら、お茶淹れるので飲まれませんか。林檎とオレンジ買ってきたので」
「知っている。全部食べるつもりかと思ったがそうでもなかったのだな」
「さ、さすがの僕も全部は食べませんよ……はは……」
「目が泳いでいるが、私の目を見て言いたまえ」
「うぅ」
 午後のティータイムにはちょうど良い時間であるし、誘っても大丈夫だろうと踏んだのだが、先程の憂いの表情を一瞬に消して普段のそれに戻したクロサイトの片目の威圧感が凄く、ギベオンは巨体を縮こまらせる。その側では白衣とシャツが微風にはためき、この光景を楽しむ様に揺らいでいた。