幕間2

 毎日という訳ではないが、樹海では力及ばず死んでいく冒険者も多い。その者達の遺体を掃除と称して埋める事がセラフィが辺境伯から請け負っている仕事である。日中は兄であるクロサイトの仕事の助手として患者達に悟られぬ様に遠くから手助けをしているので夜にその仕事をしている為に帰宅は自然と明け方になり、クロサイト達が起きるのと入れ違いで暫しの眠りに就く。そして彼らが樹海へ向かった後に起き、後を追う。診療所に患者を受け入れている期間は、そういう日々を過ごしていた。
 この日は早めに帰って来れたものの埋めた遺体の破損が激しく、嫌でも思い出してしまうので、香でも焚かねば眠る事も出来そうにないとセラフィがくたびれた顔で診療所の裏手にある井戸に向かうと、誰かの人影が見えた。薄雲がかかってはいるがまだ月明かりもある時分であり、また彼は夜目が利く為にその人影が誰なのかはすぐに分かった。
「……何かあったのか」
「ひぇっ?! あ、せ、セラフィさん、い、今お帰りですか」
 セラフィはあまり足音を立てない故にその人影は彼に全く気が付いていなかった様で、巨体をびくっと跳ねさせ驚きの声を上ながら振り返った。少し童顔なその男は、今現在この診療所で世話になっているギベオンだった。
「眠れないのか」
「あ、いえ、あの、その……」
 まだ夜も明けない時間帯に一体何をしているのか、と不思議に思って尋ねたのだが、ただでさえ滅多に話さないセラフィが眉を顰めて歩み寄ったものだから、ギベオンは大きな体を竦み上がらせてどもった。この診療所に初めて来た一月半前に比べて少しは贅肉が落ちたとは言え、まだ体積が大きい部類の彼は成人男性の平均より細いセラフィの目には本当にでかく見える。
 背丈はほぼ同じであるが、クロサイトがこの診療所を先代から引き継いで以降担当した患者の中でも一番大きい――肥満体のギベオンは、とにかくでかい。長身のセラフィと殆ど変わらない背丈と、彼の3倍はあろうかという横幅に、それなりの人数の肥満患者を診てきたクロサイトも思わず繁々と眺めてぼそりとこれは絞り甲斐があると呟いた程だ。しかしそんな巨体のギベオンであっても、後ろにある流し台に何かを隠した事はセラフィに悟られてしまった。
「後ろのそれは何だ」
「あっ、えっ、あの……」
「隠れて何か食ったんじゃあるまいな」
「ち、違います! その……」
 この診療所での決まり事として、患者は食事は定められたもののみを決まった時間に食べる。深夜などもってのほかだ。それを破った者は何らかのペナルティを課せるという事を、予め伝えてある。もし破ったとしたらセラフィはクロサイトにその旨を伝えねばならない義務があるが、ギベオンは即座に否定したものの中々後ろのものを見せようとはしなかった。
「違うなら見せてみろ。潔白なんだろう」
「う……」
「無理矢理見られたいか?」
「………」
 ギベオンの中でセラフィはクロサイトとはまた違った怖い人に分類されているせいか、はたまた今まで育った環境で形成された逆らえない性格のせいか、セラフィの言に観念して青褪めた顔を俯かせカタカタ震える手で流しに置いていた盥を差し出した。張られた水に斑に混ざる泡立ちの中に入っていたのは、何かの布の様であった。
「……寝小便か?」
「そ、そっちじゃなくて、その」
 濯いでいたのだろう石鹸の泡立ちの中に見えたのは、形状が大きすぎてすぐには分からなかったが下着だった。なので寝小便でもしたのかとセラフィは思ったけれども、それにしてはシーツも持ち出していないし、ギベオンも青くなるやら赤くなるやらの顔でごにょごにょと否定したので、なるほどと納得した。
「夢精か」
「うぅ……」
 恥じらいも遠慮も一切無くセラフィが言うと、今度こそギベオンは呻きながらか細くはい、と答えた。セラフィは特に気にしないが、見られた側のギベオンはこの上なく気まずいらしく、薄暗い月明かりでもはっきりと泣きそうな顔をしているという事が分かった。
 太っているせいで老けて見られがちだが、ギベオンはまだ二十三歳だ。クロサイトは患者が花街に行く事を禁じていないけれどもギベオンがタルシスに来てからが娼館に足を運んだという話は聞いた事が無く、それ故の生理現象であるだろう。ギベオンが震えているので気の毒なタイミングで戻ってきてしまったなとセラフィは思ったが、それにしてもその震え方が尋常ではなかった。よく見ると、既にギベオンの顔から赤みは一切無くなり、真っ青になっている。
「おい、どうし――」
「す、すみません、すみません」
「別に謝る事でもないだろう、お前も男な訳で……おい?」
「すみません、ご、ごめんなさい、ごめんなさいぃ……っ」
 訝しんだセラフィが一歩踏み出すと、流しがあるので後退出来る筈もないのにギベオンは怯えた様にあとずろうとした。噛み合わない歯が鳴っている音がはっきりと聞こえ、ぼろぼろと涙を零して呼吸をどんどん荒くしている。何に対して謝られているのかセラフィにはさっぱり分からないのだが落ち着かせる事が第一かと考えて、ギベオンに抵抗する間も与えず一瞬にして彼の手から盥を奪った。
「え、あ、あのっ」
「俺がやっておくからお前は茶を沸かしてきてくれ。喉が渇いた」
「い、いいです、自分で洗います、からっ」
「喉が渇いたと言っているんだ。同じ事を何度も言わせるな」
「う、うぅ、はぃ……」
 一瞬何が起こったのか理解出来ない様な顔を見せたギベオンの巨体を押し退け、流しに盥を置いて躊躇なくざぶざぶと下着を洗い始めたセラフィは、混乱しきった様子で止めようとするギベオンを見もせずに短い言葉で彼を従わせた。戸惑いながら涙を拭きつつ勝手口から診療所に入っていったギベオンの背は何かに怯える様に縮こまっており、尋常ではないとセラフィに思わせた。



「落ち着いたか」
「あ、は、はい……すみません……」
 洗うと言ってもギベオンがほぼ汚れを落としていた為に濯いで絞るだけであったので、セラフィは大した事はしなかった。それでもギベオンは自分が汚した下着を他人に洗わせた事に恐縮しきりだった様で、彼の為に誂えられた大きな椅子にやはり縮こまって座っている。淹れて貰った茶は相変わらず美味く、芳醇で豊かな香りが鼻腔に心地よい。この茶を縮こまっているギベオンが淹れたとは思えないのだが、正真正銘これは彼が淹れた茶だ。
「お前が何に対して謝っていたのかは知らんが、男ならよくある事だろうが」
「そ、そうなんですけど……」
「何をあんなに謝る事がある」
「ぼ、僕、その……粗相したら、両親から折檻されてて……
 父さんから家の恥だ、母さんから汚物だ汚らわしいって詰られてたので……」
「お前の両親はそうするのが当然だったのかもしれんが、俺までそんな奴らと同等だと思われても困る」
「す、すみません」
 息を吹きかけながら茶を啜り、諌めると、ギベオンは言い難そうにぼそぼそと理由を口にした。叱られた、でもなく、叩かれた、でもなく、折檻された、という言葉が、彼がいかに激しい仕打ちを受けていたかを物語っている。なるほどそれではあの尋常ではない怯え方も納得がいく、と漸くセラフィは得心したと同時に、生理現象で暴行を受けては堪らんなとも思った。
 ギベオンの同僚であり先輩に当たるジャスパーという男がこの診療所の卒業生であるのだが、ジャスパーの勧めを受けてギベオンはタルシスへとやってきた。ギベオンの処遇を見かねたジャスパーが治療をさせるためと称して両親の元から逃したのだ。彼はクロサイトに知り得る全ての事情を記した書状を送り、避難させて痩せさせがてら自分は何をやっても駄目な人間なのだという両親からの洗脳を解いてやって欲しいと訴えた。その書状の内容は聞いていたが、ここまで根深くひどいものであると今初めて知ったセラフィはカップに残った茶を全て飲んでから、俯いたままのギベオンにきっぱり言った。
「少なくとも俺もクロもお前が夢精した程度で恥だ汚物だとは思わんしそんな罵声は浴びせん。
 お前の親の方がおかしい」
「………」
「もう一度言う、息子の生育を否定するお前の親はおかしい」
 両親が離婚してから父親に引き取られ、育児放棄はされたものの、セラフィは父から生育を否定された覚えは一度も無い。勿論それは関心が無かったからに他ならないのだが、無関心より全否定の方がつらいだろうとは思う。他人の親を非難する事に若干躊躇いはあったが、おかしいと思う事をおかしいと言ってやらねばギベオンはいつまで経っても自分の親は異常だと気が付けないだろう。まだ長い時間が掛かるだろうし、その洗脳を解くのは自分の仕事ではないと重々承知しているセラフィでも苦い顔になってしまう程度には、ギベオンの両親は異常だった。
「お前の親がおかしいと分かったなら、もう寝ろ。あと二時間は寝られるだろう」
「……で、でも今から寝たら起きられないかもしれないし」
「起こしてやるから寝ろ。寝不足で繰り出せる程樹海もクロも甘くない」
「ひっ……は、はい」
 何と言って良いのか分からず困った様に沈黙したギベオンの背後の壁に掛かった時計の針は、そろそろ午前五時を回ろうとしている。普段ならギベオンはまだ夢の中の住人である筈だし、いつもより睡眠時間が短ければその分集中力も体力も削られやすいだろうから、少しでも休眠をとらせようと思ったのだ。起きられるかどうかに不安を感じたのだろうギベオンにセラフィが半ば脅しの様な言葉を掛けると、彼はまた青褪めた顔で素直に頷いた。
「あ、あの、セラフィさん」
「何だ」
「その……すみませんでした、洗わせてしまって」
 そして椅子から降り、足元に置いてあった盥を持ち中に入っている絞られた自分の下着を見て、居た堪れない様な声でギベオンが謝ってきたのだが、ポットを洗おうとしていたセラフィは逡巡した後に目を細めた。
「そういう時は謝るんじゃなくて礼を言うものだ。お前はすぐすみませんと言う」
「あ……えと……」
「同じ事を何度も言わせるなとさっきも言っただろうが」
「あ、あ、有難う御座いました!」
「それで良い」
 両親から抑圧されながら育ったからか、すぐに謝罪の言葉を口にするギベオンに対し、もう少し感謝の言葉が出る様になれば良いのだがとクロサイトが漏らしていた事をセラフィは覚えていた。殆ど会話をしないお前が注意した方が気にするかもしれないと言われていたのだが、その機会が無かった為に今のタイミングになってしまったけれども、上々の効果があった様だ。おやすみなさいと頭を下げて自室に戻っていくギベオンの足音を聞きながらポットとカップを盆に乗せたセラフィは、そろそろ起きる時間だろうから茶器を洗って仕舞ったらクロサイトの自室に行って今日の報告をしようと思っていた。