幕間3

「クロサイト先生、お茶淹れたんですが飲まれませんか」
「ああ、有難う、いただこう」
 緩やかな丘を利用して作られた故に階段の多いタルシスの街の中にある、ごくありふれた石段を登ったところに診療所を構えているクロサイトの元に、僅かに篭った声と共に茶の匂いが運ばれてくる。現在彼の元には患者が二人居るが、その内の一人であるギベオンが顔を覗かせ、彼が持つ盆の上には茶が注がれたティーカップが乗っていた。
「ペリドット君は?」
「女将さんの手伝いをしてますよ。ニンジン料理を覚えたいそうで」
「ほう、ニンジン嫌いだったのにすっかり克服出来たのだな」
 診療所の外の、薬草が整然と植えられた一角にイーゼルを立て、クリップで画板に挟んだ厚紙から目線を外してギベオンからティーカップを受け取ったクロサイトは、今はこの場に居ないもう一人の患者であるペリドットを褒める様に感心した。
 二人が立つ庭の遥か向こうに見える、世界樹と呼ばれる巨木を目指す冒険者が多く集まるこの街に、しかしギベオンもペリドットも冒険をする為に訪れた訳ではない。このクロサイトに肥満体を治療して貰う為に滞在している。肥満故に篭ったギベオンの声は、しかしここを初めて訪れた時に比べて随分とすっきりしたものとなった。ひとえに重装備で樹海を走らされているお陰だ。
 治療の為に樹海に分け入ると言っても、毎日向かうのではなく、今日の様に休息の為の日を設けている。何をして過ごすのも自由であり、基本的にクロサイトは口を挟まない。ただ、決して勝手に樹海には行かない事をきつく言いつけている。ギベオンもペリドットも確かに武器を持って立ち回る事が出来る様になったとは言えまだ一人だけで樹海を探索出来る程ではないし、何より彼らはクロサイトの管理下に置かれる患者だ。冒険者ではない。
「うん、今日の茶も美味しいな」
「へへ……有難うございます」
 絵筆を作業用の簡易テーブルに置き、カップの茶を一口啜ったクロサイトが茶の淹れ具合を褒めたので、ギベオンは照れ臭そうに笑った。コンプレックスの塊の様な彼は、それでも茶を淹れる事が趣味で、これだけは父に認めて貰えていた。一つでも認めて貰う為にといつも淹れていたら、誰からも褒められる様になっていた。この診療所に来てからも茶を淹れ続けていたので、クロサイトもペリドットも彼が淹れた茶を好んで飲んだ。
 つい、と目線をキャンバスに移す。ギベオンの趣味が茶であるのに対し、クロサイトの趣味は水彩画だ。それは子供の頃からという訳ではなくて、彼が羊皮紙に描いた地図を見た辺境伯が絵でも描いてみてはどうだねと勧めたらしい。ギベオンも見た事があるが、自分が描いたものとは違い事細かに書き込まれた図形やその場で収集出来る草花や樹木、鉱石などの絵は確かに絵心が無ければ描けない様なものであり、見る者が思わず嘆息を漏らす程だ。よくこんなものを描く余裕がありましたねとギベオンが言うと、そういうものを描かなければ気が紛れなかったのだと言われた。いくら弟のセラフィが共に行動していたとは言え、クロサイトにとっても心細い道中であったのだろう。
 そんな彼は、タルシスから見える巨木を好んで描いているらしい。ギベオンが見た事があるクロサイトの絵には、全ての冒険者が目指していると言っても過言ではない世界樹の姿が共に描かれていた。場所は様々で、この庭からであったり執政院からであったり、郊外の川べりであったり、実に多様な画面配置で描いている。描いた絵は無造作に机に積み上げられているが、気に入った人間が居るならば譲っているそうで、クロサイトの手元には殆ど絵は残らない。彼の絵は独特だからだ。
 クロサイトは左目が無い。見えていない、とか、弱視、とかではなく、目玉自体が無い。右目ばかりで見ているから負担が大きく、彼の視界はギベオンやペリドットのそれとは違って若干ぼやけているらしい。それでも医者として、メディックとして傷病を診る事が出来るのはすごいとギベオンは思う。怪我の手当てでその不自由さを見た事など一度も無いし、あまり見えていないんだと言われてもにわかには信じ難い。そういう視界を通して描かれる世界は、輪郭がぼやけて不思議なものとなっていた。
「ごちそうさま。カップは任せても良いかね」
「はい、僕が下げますから良いですよ」
「有難う」
 茶を飲み干したクロサイトは手に持ったカップをギベオンに渡すと、再度絵筆を取った。時間は過ぎていくもので、空の色も変わっていくものだから、今の視界をキャンバスに収める為には差し挟む休憩の時間は短い方が良い。空はそろそろ茜色に染まる頃で、濃紺へと変わる時間だ。どういう色を乗せるんだろうと興味を持ったギベオンが立ち去らずにそのまま見ていると、クロサイトは水を含ませた絵筆で紙を濡らした後に僅かな量の赤をそこに乗せた。
 全ての絵に共通しているのではないが、クロサイトが描く世界樹は朱が混ざる事が多い。彼の目にそう見えているのか、単に夕暮れの中で描くからなのか、それはギベオンには分かりかねるが、絵の中の豊かな緑の風景の中であの巨木は燃えていた。先に紙に水を広げると、絵筆に乗せた色は水を追って広がっていって、その滲み具合が楽しい、と以前クロサイトはギベオンに教えてくれた事がある。その時の絵の中の世界樹も、同じように燃えていた。だが、貴方にはそう見えているんですか、とは聞けなかった。
 見えている世界が違う、という事を、クロサイトの絵はギベオンに突き付けてくる。勿論、クロサイトはそれを意図して描いている訳ではない。勝手にギベオンがそう思うだけだ。だが、彼が何度も描く程好んでいる世界は明らかに自分と一線を画している様に感じられ、ギベオンは思わず目を細める。彼が見えている世界と自分が見えている世界は同一である筈なのに、クロサイトが描く絵の中の世界はどこかぞっとする。まるで、君にはこの世界が愛せるかい、と尋ねられている様だ。
 遠くに見える世界樹に、自分が向かう事は無いのだろう。しかし、もし。もし、あの大樹の側にまで行けたのなら、燃えてなどいないと教える事が出来るだろうか。貴方が見えている世界を僕も見たいから、僕が見えている世界を貴方に見せたい。……などと言えば笑われるに違いないので言うつもりも無いし、そもそも単なる患者である自分がそんな事を言える訳もないと、ギベオンはきちんと分かっている。
「……じゃあ、僕、戻りますので。食事が出来たらまた呼びに来ますね」
「そうしてくれると助かる」
「はい」
 空になったカップを盆に乗せ、戻る事を告げると、クロサイトはギベオンを振り返る事もせずに返事を寄越した。今の彼はキャンバスの中の世界に夢中だ。その事に何となく苦笑をしてしまったギベオンは、現実世界の世界樹が燃えていない事を確認してから診療所の中へと入っていった。