幕間5

 深夜、兄の部屋の前を通り掛かったセラフィは、まだ明かりが点いている事に苦い顔をしながら中を覗いた。普段から深夜に仕事をしていた自分ならいざ知らず、活動時間は専ら日中のクロサイトがこんな時間まで起きていたなら翌日に支障を来す。ただでさえ今は医者業だけでなく、このタルシスに数多く滞在している冒険者達の様に樹海に足を踏み入れ迷宮を踏破しようと進んでいるのだし、医術師として怪我の治療で連日気を張っているのだから休める時に休んでおかねば取り返しの付かない事になる。そう思って覗いた窓から見えたクロサイトは、ランタンの明かりの中で絵を描いていた。
 クロサイトの趣味は水彩画であるが、ほぼ全て風景画だ。街の中で活動する人々の姿もたまに描く事があるとは言え、メインで描く訳ではない。飽くまで描くのは街並みの奥に見える世界樹であったり、気球艇から見えた世界樹であったり、とにかく画面の中に世界樹が収まっている。それも、大体が歪んで燃えている様に見えるものだ。お前の目にはそう見えているのかと一度聞いた事があるが、こうなれば良いという願望が目に写っているのではないかなという答えが返ってきた。世界樹など無くなれば良い、そう思っているのだろうというところまでは分かるが、何故そう思っているのはまではいくら双子であるとは言ってもセラフィには分からなかった。
 そんなクロサイトが絵筆を持って描いているのは、珍しい事にタルシスの街並みでも風馳ノ草原でも丹紅ノ石林でも、世界樹そのものでもなかった。薄暗く、先が見えないのではないかと思わせる様な洞窟のレイアウトの真ん中に一人の青年の後ろ姿が描かれている、そんな絵だった。薄茶色の髪、白銀の鎧、黒い服に褐色の肌、グレーの盾を持つその青年は、セラフィも良く知っている。今はこの診療所で充てがわれている部屋でぐっすり眠っているであろうギベオンだ。その事に、セラフィは驚いたものか納得したものか少し迷った。
 ギベオンは元々、冒険者としてこの診療所に来た訳ではない。クロサイトの患者として、肥満体を治す為にタルシスへとやってきた。最初はおどおどとしてクロサイトにもセラフィにもその大きな体を縮こまらせていたが、減量に成功した今は胸を張ってしっかりと前を見据える事が出来る。自信が無さそうであった目は、今では強い光を湛えている。あまつさえ、セラフィやクロサイトに頭を下げてあの世界樹を目指したいから共に来て欲しいと頼んできた。セラフィに先に頼んだのは、彼が同行すると知ればクロサイトが断る確率がぐっと低くなると判断したからだろう。そういう知恵は働く男であったらしい。
 しかし、愚直で真面目で嘘を吐くという事を知らぬギベオンの素直さを、クロサイトは気に入ったらしかった。同じ鎚使いという事も手伝って、クロサイトはたまにギベオンに稽古をつけている。一枚も二枚も上手なクロサイトに、それでも必死についていくギベオンの腕は見る間に上がっていったし、勝てなくても互角に戦える様になってきた。セラフィもたまに手合わせをするが、速さについてこれなくても以前の様に全く歯がたたないという素振りは見せなくなった。成長ぶりを見ていくのは、セラフィも楽しかった。
 そんなギベオンの後ろ姿を、クロサイトは黙々と描く。片目しか利かない視界でぼやける人物をキャンバスに描きたくないと言って殆ど人物画を描かないクロサイトが、自分の意思であるのか頼まれたのか、それはセラフィには分からないが、パレットに広げた絵の具を筆に含ませ、キャンバスに描いていく。ぼんやりとした画面の中でもはっきりとその後ろ姿はあの男だと分かる絵を、丁寧に。
 ギベオンやペリドットがこの診療所へと来る前、クロサイトが描く唯一の人物はセラフィだった。疲労が溜まると極端に悪くなる視界が恐ろしい、と、クロサイトが弱音を吐ける唯一の相手である自分に言ってきた時、セラフィは何と言ってやったものか分からなかったのだが、俺でも描いていれば良いと勝手に口が言っていた。幼い頃からお互いがお互いの拠り所であったから、当時絵筆を持ち始めたばかりのクロサイトが少しでも落ち着く事が出来ればと思っていただけなのだが、それが良かったのか、ごくたまにではあったがクロサイトはセラフィの姿を描いた。その絵だけは誰にも譲らず仕舞ってあるのだと言う。口出しするつもりも無かったから、お前の好きにすれば良いとだけ言った。
 恐らく今、クロサイトは同じ様な心境でギベオンの姿を描いているのだろうとセラフィは思う。己の視界に対しての恐怖ではない。自分の患者であったギベオンが今では自分達を連れ、常に迷宮内の先頭を歩いている事に対しての不安を解消する為に描いているのだろう。僕が皆を護る盾になりますから、クロサイト先生は後ろで皆の傷を治す癒し手になってくださいと頭を下げたギベオンの言葉を、セラフィもまだ覚えている。その言葉通り、ギベオンは先頭を歩くしクロサイトは殿を務める。絵の中のギベオンが後ろ姿なのは、クロサイトが彼の後ろ姿を見ているからだ。城塞騎士は確かに盾となる者であるが、段々と強さを増していく迷宮の魔物達に苦戦する事も多くなり、自然と先頭を行くギベオンが大きな怪我をする頻度も増えてきた。その事に対しての焦りや不安、恐怖を和らげる為に、こんな夜中に絵筆をとったのではないか。何となくセラフィにはそう感じられた。だから、咎める事はせずにそっと窓から離れた。
 両親が離婚し、父に引き取られたセラフィが育児放棄され、餓死寸前になった姿がトラウマになっているのか、クロサイトは大人になってからも異様なまでに弟の事を気にかけた。双子として生を受け、殆ど変わらないというのに、自分は兄だからとセラフィを守ろうとした。自分の身は自分でどうにか出来ると言っても、だ。強迫観念と言っても良い。とにかく、セラフィに執着した。煩わしいと思った事はセラフィには無いが、少しは弟離れした方が良いとは思っていた。しかし今、別の人間を描いているところを見て僅かに悋気を感じてしまったので、俺もいい加減兄離れをした方が良いとセラフィは再度苦い顔をして冷気に体を震わせた。深夜の診療所の廊下は、金剛獣ノ岩窟に比べて遥かに肌寒かった。