医術師二人

 クロサイトがその男と初めて会ったのは、養親であり師であった医者が亡くなり、診療所の引き継ぎを始めとする諸々の事に忙殺されて心身共に参っている時だった。ただでさえ敬愛していた師、バーブチカがパートナーと心中した事を受けて悲しみ傷付いていたというのに、彼が短期間の勤務を経て独立し自分の診療所を持った事を快く思わなかった病院の者達はバーブチカの生前からクロサイトにも風当たりが強かったけれども死後は更に酷くなり、その日も診療所の後継ぎがクロサイトでは若すぎるとごねる者達が要求した、明らかに不要と思われる書類の束を提出しに訪れていた。書類に不備は無かったというのに、受け取った初老の医者数名はサインの位置が違うだの書類の順番が間違っているだの、挙げ句は白衣ではなくスーツで来いなどという本当にくだらない難癖をつけられ、クロサイトがうんざりしながらどう言い返そうかと思っていた時、不意に後ろから締まりのない声が掛けられた。
「律儀だねー、アホくさいお説教ちゃんと聞いてやってんだ?」
「………?」
「時間の無駄だから聞く必要無いよ。それより今から花街の回診行くんだけどさぁ、手伝って」
 赤茶の髪を項の辺りで結び、クロサイトと同じく左目を前髪で隠したその男は、白衣と言うよりカーキ色のロングジャケットを羽織って声と同じく締まりのないへらへらとした表情で使い古したショルダーバッグを肩から下げ、歩み寄ってきた。その彼に、クロサイトに難癖をつけていた医師の一人が不快感を露にした。
「時間の無駄とは、相変わらず君は失礼だなパチカ君。無償で娼婦の回診をするからあんな賤しい者どもが図に乗るのだぞ」
「花街の病気管理しないとこの街がどうなるかの想像が出来ないくらい脳味噌すっかすかなの? ごめんくださーい、入ってる?」
「な、な……」
 黒縁眼鏡をかけた薄茶の髪の医者の、花街で働く女達を侮蔑する様な言にクロサイトは鼻白んで眉根を寄せたのだが、パチカと呼ばれた男はクロサイトの横を通り抜け、扉をノックするかの様に眼鏡をかけた医者の額を指で軽く叩いた。これにはその場に居たパチカ以外の全員が呆気にとられたし、眼鏡の医者に至っては怒りで言葉も出ないのか口元を戦慄かせて顔を真っ赤にしている。しかしパチカは特に気にせずクロサイトを振り向き、またへらっと笑った。
「んじゃ行こうか。いやー、いい加減おれ一人じゃしんどいから手伝ってくれる奴探してたんだよね! ちょうど良かったー」
「しかし今何の道具も持ち合わせてなくて」
「問診と視診と触診くらいは出来るでしょ?」
「はあ、それくらいなら」
「ま、ま、待て! パチカ君、今の君の私への侮辱は理事長に厳重に抗議するからな!」
「うるっさいなあ、勝手にすれば?」
 眼鏡の医者やその取り巻きの剣幕を涼しい顔で無視したパチカは、クロサイトに行こ、と言いながら歩き出した。どうするか迷ったクロサイトは、しかし彼らの相手をするのも嫌だったので軽く会釈してからパチカの後について行った。
「セフリムの宿の隣にある診療所の後継ぎだったっけ? 名前何て言うの?」
「……クロサイト、です」
「クロちゃんかー。おれの方が年下の筈だから敬語使わなくて良いよ。あ、おれはパチカね」
 自分が年下と分かっているのに平然とクロちゃんと呼んだパチカの隣に並んだクロサイトは、締まりの無い顔を自分に向けた彼の左目が義眼である事に気が付いた。しかしその事よりも、薄笑いを浮かべているのに義眼ではない本物の目が全く笑っていない事の方に懐かしいそら恐ろしさを覚えた。亡き師が同じ様な目をしていたと思った。
「……理事長に報告すると言われていたが、大丈夫なのかね?」
「ああ、あのじーさん? 大丈夫だよ、花街の女達が性病含めた厄介な病気ばら撒いたら冒険者達も寄り付かなくなるし、辺境伯だって街が廃れる原因は早くから潰しときたいだろうしね」
「それはそうだが、君の立場がまずくなるのでは?」
「パトロンの養子の立場をまずくするくらい馬鹿じゃないと思うなぁ。あーでも脳味噌すっかすかだからやるかもね」
「パトロン?」
「理事長。じーちゃんも出資してるから、あの病院」
「……理事長のご養子がお勤めとは聞いていたが」
 クロサイトとしても話に割り込んできて貰えた事は有難いけれどもそれによってパチカの立場が危うくなる事は避けたかったのだが、どうやら彼は病院の理事長の身内であったらしい。その様な話は聞いていたけれども、まさか自分より年下とは思っていなかったので驚いた。しかしそれ以上に、花街からの疫病拡散を見据えて回診しているという事に感心した。
 タルシスは、街の人口に対して冒険者の数が肉薄していると言っても良い。それ故に冒険者相手の商売、仕事に従事している内外の者も多く、外部から齎される疫病の蔓延を未然に阻止する事も重要視される。特に血気盛んな冒険者達は性欲の発散も求めるので、梅毒を始めとする様々な性病が流布するのは避けねばならなかった。どれだけ気を付けていても望まぬ妊娠をしてしまった娼婦が近くを流れる川に生まれたばかりの嬰児を捨てる事も少なくない。そういった事を未然に防げるに越した事は無いのだ。
「酒と女が居る所には情報が集まるものだからね。収集も兼ねて回診してんだー。あの病院にずーっと居るのが嫌ってのが一番の理由だけどね!」
「……なるほど」
 パチカはどうやらタルシスを取り巻く様々な情勢の情報収集を口実に、病院を抜け出しているらしい。クロサイトもあの閉鎖的な空間があまり好きではなく、訪れても用事があればすぐ帰ってしまう。本音を隠すつもりが毛頭無いパチカが気に入ったクロサイトは、恐らく自分に声を掛けたのも助け舟を出すのではなく本当に単に手伝ってくれる者が欲しかっただけなのだろうと思い、こういう人間は嫌いではない、と口角を上げた。



 この一件以来、パチカと言葉を交わす仲となったクロサイトは、煩わしかった病院からの呼び出しが激減した上に散々揉めていた診療所の正式な後継があっさり認められた事に驚いた。バーブチカ君が託したのであれば大丈夫だろうという辺境伯の一言が診療所を別の医者に継がせようとしていた一派を黙らせた様で、さしもの強欲な病院のお偉方も領主から言われてしまってはそれ以上の口出しは出来ないらしかった。
 それと同時に、パチカの養親であり病院の理事長である男性は、辺境伯の古くからの友人であるとも知った。パチカが理事長に進言し、理事長から辺境伯に病院内の不穏な動きを伝えたに違いなかった。
「だってさー、診療所の主がクロちゃんじゃなかったら風呂に入らせて貰えないかも知れないじゃん」
「風呂……」
「ここの風呂さいっこーだよね! また入りに来るからよろしく♪」
 知り合って数年経ったある日、突然ふらりと診療所を訪れてきた、中々に汚れた格好をしたパチカが風呂を所望したので入浴させてやると、たっぷり一時間は満喫して着替えのシャツを着たパチカが上機嫌そうに診療所の後継問題に口出ししたか否かを尋ねたクロサイトにそう言った。この診療所の浴室は生前のバーブチカがとにかく広く設計させたもので、浴槽も成人男性が三人入ってもまだ余裕がありそうな程に大きい。加えて勝手口の軒下に吊るしてあるハーブの束を入れると薬湯風呂にもなり、初めて会った日に花街の回診を二人でした後、クロサイトが公衆浴場に寄って帰ると言ったパチカを診療所に招いて入浴させてやったところ、彼は風呂を大層気に入ったらしく、たまに入浴しに来ている。入浴後に汲みたての冷たい井戸水を出してくれるところもポイントが高いらしい。
「あと、この診療所って宿の隣だから、所属メディックの腕じゃおっつかないけど病院で処置する程でもないって冒険者をさっさと処置してくれるじゃん。タルシスの医者は冒険者メディックの足元にも及ばない、なんて噂も流れなくて済むしさ」
「冒険者の方が臨機応変に動くから、場合によっては病院の者達より腕は良いからな」
「そうそう、でも設備が整ってるのはやっぱり診療所とか病院だからね。クロちゃんの縫合、冒険者に評判良いし」
「君の腕には負ける」
「技術はおれが上、でも人徳はクロちゃんの方がずっと上」
「………」
 供された白糖キャロットのマドレーヌを齧りながら言ったパチカの、年甲斐もなくぼろぼろと零している口元は笑っているが、やはり目は笑っていない。病院内の不正や汚職を監視したり防ぐ為に理事長が送り込んだと言っても過言ではないパチカは他人の技術力を見抜く眼力があり、遠慮の無い物言いをし、そして善悪の判断力が恐ろしい程欠如していて、普段から締まりのない顔をしているが目だけは決して笑わなかった。
 パチカが言った様に彼の頭脳や医者としての腕前、特に外科処置の腕前はクロサイトに勝る。近所の住民の回診に出る際、前日夜に入浴に来たパチカに代理で診察室に座っておく様に頼むと、クロサイトが不在の際に樹海の熊から襲われ重傷を負った冒険者が駆け込んできたらしく、パチカが処置している真っ最中に戻ってきたのだが、クロサイトも見惚れた程に処置が鮮やかだった。縫合だけではない、その冒険者を担ぎ込んできた仲間の、本人も気が付いていなかった内出血を見抜いてすぐさま手術をした。その手術の手際の良さにまた感心したクロサイトは、この男には恐らく一生勝てないだろうな、と思ってしまった。
 ただ、パチカも認めているが、人徳というものが彼にはあまり無い。前述した様に善悪の判断力が欠如しているから、嘘は吐かないのだがいまいち他人に信用され難い。ただし、口の固さは一部の間で有名で、花街の女達には絶大な人気があった。それを差し引いても、人徳の軍配はクロサイトに上がる。
「……新しく入ってきた者達は使えているかね」
「ああ、うん、そこそこの経験がある奴ばっかりだから。ただ非常勤だからなー」
「ギルドを解散して故郷に戻った数名から問い合わせが来ているそうだから、もう暫く辛抱したら人員は確保出来るのではないかな」
 マドレーヌを食べ終わり、ついでに少し仕事をして行く事にしたのか、パチカが鞄から取り出しテーブルの上に広げた書類をちらと見たクロサイトは、返答に指先で顎鬚を撫でながら相槌をうつ。一旦は解散して故郷に戻ったメディックから病院への就職の問い合わせがギルド長の元に来ているとクロサイトは聞いており、条件を満たしているなら研修医として入って貰うのも良いのではないかと考えていた。
「だと良いなー。あれこそクロちゃんの人徳が成せた業じゃん。おれだったら絶対無理だったよ」
「あれは人徳と言うより金で解決したと言わないか?」
「おれがあの金額提示しても、あれだけ人集まんなかったと思うなあ。頭の固いじーさん達追い出せたのは良かったけど、人手不足はどうしようかなーって思ってたもん」
 パチカが広げた書類は、現在どの病棟や病室にどれだけの患者が収容されているのか、そしてどれだけの医者や看護師で賄っているのかの報告が綴られている。タルシスは冒険者の街と呼ばれる程であるから入院している患者も冒険者が大部分を占めており、彼らは専ら外科処置を必要とした者達だ。その患者数に対しての医者はお世辞にも足りているとは言えず、パチカも問題視しているらしかった。
 以前は不足していなかった医者が何故少ないかと言うと、パチカのポストに不満を抱いていた古参の医者達がボイコットし、彼を辞めさせなければ自分達が辞めると言い出した事に端を発する。我儘で傍若無人なパチカは院内を乱すと抗議の声が上がり、職員を巻き込んで一部の医者達が出勤してこなくなった。その騒動を聞いたクロサイトは、借りてきたメガホン片手に気球艇発着場と広場でこんな事を言った。
『深霧ノ幽谷および人喰い蛾の庭、騒がしい沼地の探索に帯同出来ているメディックで、タルシスの病院にアルバイトに来て貰える者を募集している。日給は500エン、夜勤に入ってくれる者は200エン加算する』
 現時点でも深霧ノ幽谷の、ウロビトと呼ばれる種族の里の扉は固く閉ざされ交流すら出来ておらず、つまりは探索最前線に居るギルドのメディックを、クロサイトはあろう事か病院勤務に誘ったのである。冒険をしに来た者がアルバイトなどしないのでは、と思われたが、しかし探索をするにはまず金が要る訳で、クロサイトが提示した金額は宿代さえ困っているギルドにしてみれば破格と言えた為、結構な人数が集まった。勿論クロサイトが先に面談をし、合格した者だけを病院へ連れて行き、募集した条件をパチカに告げると、それくらいの人件費ならボイコットした奴ら全員クビにしたら出るから大丈夫と笑った。
 パチカが泣きついてくるだろうと高をくくっていた医者達はその事実に青くなったが、時既に遅しというもので、彼らは退職を余儀なくされた。そんな彼らに変わってアルバイトや非常勤で勤務したメディック達は、それでもやはり探索に帯同する事をギルドの者に望まれると出勤出来ない。飽くまで一時的な穴埋めであったから、常勤してくれる医者を探す必要があった。これもクロサイトがセフリムの宿に張り紙をしたり、ギルド運営の足しにする為にアルバイトに入ってくれているメディック達に、解散したギルドのメディックと連絡が取れる者は打診してみて欲しいと呼び掛けた。
「ほーんと、クロちゃんが冒険者辞めてて良かったー。じゃなきゃおれ多分病院追い出されてた」
「簡単に追い出される男かね。大体、そんな事をされたら君は何をするか分かったものではない」
「生きたまま患者解剖してたなー」
「やめないか」
 穴が空いた医者の数をその日の内に埋める事が出来たのは、偏にクロサイトの迅速な冒険者への呼び掛けによる。結成したばかりのギルドは所属メディックの腕前も未熟な場合が多く、メディカもあるが熟練の医者に手当てしてもらった方が良い場合もあり、それ故にセフリムの宿の隣にある診療所の医者に世話になった冒険者は少なくない。その上、クロサイトは彼ら冒険者にとっては既に解散したとは言え碧照ノ樹海で獣王を撃破し、瘴気の森で藍夜の破片を発見し、深霧ノ幽谷に到達したという、探索を切り開いていった二人組のギルドの片割れとなる。ある意味では尊敬や畏怖の対象ともなり得る男であり、且つ探索に出ておらずタルシスに居たからすぐに招集出来たと言えた。
 パチカの性格の難の最たる所は本人の言葉に垣間見えた様に、人間の臓物に異常なまでの執着を持っている所だ。担ぎ込まれた冒険者が大怪我を負っていると聞くと必ず臓物が見えるか否かを嬉々として尋ね、見えないと知るとすぐに興味を無くして他の医者に処置を任せたりする。彼にとってそれは何ら不思議な事でも非難される事でもないので、いくら腕が良くても信頼は薄い。
「ま、人員確保に世話になったし、何かあったらおれに声掛けて。出来る範囲でなら動くから」
「ふむ? 君からそんな言葉が出るとは思わなかった」
「ギブにはテイクってじーちゃんが言ってたもん」
「君はまた私に何か要求するつもりなのかね?」
「風呂!」
 クロサイトと同じく片目であるから書類の細かい字に目が疲れたのか、ジャケットのポケットからモノクルを取り出して右目に着けたパチカはペンで浴室がある方角を指した。面倒事を入浴だけで引き受けてくれるあたり、報酬の物差しが常人とは全く違う。病院に設けられている風呂ではいつ呼び出しが掛かるか分からないし、公衆浴場は騒がしくてゆっくり出来ないから、独り占め出来て長く浸かっていられる診療所の風呂が大層気に入っているらしい。
「私は君のそういう気まぐれと、何より腕前を信用しているよ。何かあったらよろしく頼む」
「うん」
 クロサイトの言に笑顔で頷いたパチカの目は、相変わらず笑わない。そういう男だと、クロサイトは苦笑した。



 担ぎ込まれた病院の喧騒の中、朦朧とする意識を何とか奮い立たせ聴覚を研ぎ澄まし、クロサイトは探し人の声を捕らえようと必死になっていた。担架で運ばれていた時は振動が体に響いたが、病院ではストレッチャーで運んで貰えるから随分と楽だった。
 数年の後に紆余曲折を経て冒険者に復帰したクロサイトは、ギルドの者達も実感は無かったが探索の最前線に身を置く事になってしまった。あまつさえ、世界樹が姿を変えた巨神と戦い、何と勝利した。しかしその戦いの最中、彼は巨神が放った強力な雷撃を受け、重傷を負った。一旦は心肺停止した程の重体に陥ったが幸いにも意識は戻り、こうやって病院に運ばれてきた。
「……チカ君、パチカ君、そこに居る、かね」
「居るよ。いやー、クロちゃん全身すっごい爛れてるだけでモツ見えてないね! 残念だなー」
 探していた男の声が聞こえたので呼ぶと、普段と変わらない呑気な声が接近してきた。パチカはクロサイトが探索で不在の際に診療所を預かっており、巨神を倒したクロサイト達が生きて戻ってはきたが重傷を負っていると聞き、病院まで駆けつけてきた。心配したからではなく、発した言葉から分かる様に、誰かの臓物が見られるか否かの好奇心で来たのだ。
 しかし、クロサイトにしてみればパチカが駆けつけてきた理由など何であっても構わなかった。とにかく彼がこの場に居てくれる事が重要だった。
「いつかやりたいとは思ってたけど叶うとは思ってなかったなー。クロちゃんのオペ、おれが担当」
「パチカ君、頼みがある、私ではなく彼女を頼む」
 するからね、というパチカの言葉を遮り、クロサイトは激痛に顔を歪めながらも上体を起こしてパチカの腕を掴む。彼は体に障るから横になってくださいと慌てた様に言う看護師の言葉も聞かず、霞む目に不明瞭に映るパチカに声を振り絞った。
「私は君の気まぐれと腕前を、この病院の医者の、誰よりも信用、している。私よりもだ。だから頼む、私ではなく、彼女のオペを、担当してくれ」
 息も切れ切れに懇願したクロサイトの隣の台には、巨神との戦いで右腕を失った帝国騎士の女性が出血多量で顔を青くして横たわっている。戦いの最中にクロサイトが止血の応急処置をしたが、切断面の処置はまだだ。大怪我には変わりないけれどもわざわざパチカが担当する程のものでもなく、どちらかと言えばクロサイトの方がパチカの処置が必要なのだが、クロサイトは彼女を優先した。
「良いよ、おれのお願い聞いてくれたら」
「何だね」
「また風呂入りたいなあ、ハーブたっぷり入れて」
 クロサイトの懇願に、パチカは緊張感の欠片も無い所望を口にした。冒険者に復帰したクロサイトの代わりに診療所にほぼ毎日居た彼にとって、風呂は用意して貰うものであったし、用意されてもギルドの者達の入浴が優先された為に、長い事診療所で一番風呂を満喫出来ていなかった。しかし、だからと言って今この切迫した状況でそんな所望をされるとは思っていなかったクロサイトは目を丸くし、そしてやはり苦笑した。
「ああ、良いだろう、睡蓮の浮葉も、浮かべてやろうではないかね」
「マジで?! やったあー!」
 助手を務めるのだろう男にゴム手袋を嵌めて貰ったパチカはクロサイトの言を聞いて歓声を上げ、三十路とは思えない子供の様な無邪気な笑みを浮かべてみせる。その時初めて彼の目も笑った様に見えて、クロサイトは出会った時に助け舟を出してくれた事への礼が漸く出来た様な気がしていた。