人魚の肉

「人魚の肉を食うと不老不死になるのだそうだ」
 何かの書物を読みながらそう発言したクロサイトに、ギベオンは編み物をしていた手を止める。銀嵐ノ霊峰を探索している訳でもないのだが、ローズが夜になるとタルシスでも寒そうにしているのでニットのベストを編んでやっている彼は、深夜のダイニングでそんな事を呟いたクロサイトに首を傾げた。
「人魚、ですか」
「上半身は人間で下半身は魚という……君の故郷は海が近いから知っているだろう?」
「はあ。でも、肉を食うっていうのは聞いた事無いですね。船乗り達を歌声で惑わせて沈めるっていうのは知ってますけど」
「そうなのか?」
「僕は実際に見た訳じゃないので分かりませんけど……でも何でまた、人魚なんです?」
「いや、ローズに読み聞かせてやろうと思って買った絵本の中に人魚の話があってな。
 昔ユーリさんが人魚のおとぎ話をしてくれた時に一緒に聞いていた師がそんな事を話してくれたのを思い出してしまった」
「クロサイト先生の先生って……いえ何でもないです」
「変な人と言おうとしたな?」
「滅相もない」
 どうやらクロサイトは買ってきた数冊の絵本が娘に読んでも良いものかどうかを確かめていたらしく、その中にたまたま人魚の話があったらしい。ギベオンは人魚と言えば人間を惑わす魔物という認識しか無く、あまり良いイメージは無い。クロサイトが読んでいた話がどういうものであるのかは良く分からないが、絵本であるならば残虐なものではないだろう。……多分。
 クロサイトは時折、師であった男の話をする。懐かしむ様に紡がれる話はギベオンにとって毎回妙な表情を浮かばせてしまうけれども、クロサイトやセラフィにとっては偉大なる存在であるから、滅多な事は言えない。が、うっかり口に出そうになった言葉を言い当てられて、ギベオンは慌てて首を横に振った。
「君は、不老不死になったらどうする?」
「……どうするって……嫌ですよそんなの」
「おや、そうなのか」
「だって皆が年を取っていくのに僕だけこのままなんでしょう?
 クロサイト先生はローズちゃんが自分より老けて死ぬなんて耐えられます?」
「耐えられんな」
「でしょう?」
 そして何気なく問われた事に、ギベオンは珍しく眉を顰めた。権力者なら憧れるらしい不老不死とやらは、しかしギベオンにとって何の魅力も無い。自分の周りの大切な者達と同じ様に年を取る事も出来ず、皆が死んでいくのを見送るだけなど、つらいに決まっている。冒険者業に就いているなら順番を守れなどとは言えないけれども、ペリドットやローズは自分より先に死なせたくはないと思う。勿論、モリオンもだ。決して口には出せないが、クロサイトとセラフィも出来るなら自分より後に死んでほしい。ギベオンは本気でそう思っている。
「ちなみに、それを教えてくれたバーブチカ先生は不老不死になったらどうするってお話されました?」
「師もユーリさんも不老不死になろうがなるまいが、一二の三で一緒に死ぬと笑っていたな。
 ……まさか本当に心中なさるなど思ってもいなかったが」
「……不老不死って自殺出来るものなんです?」
「さて。それはどんな書物にも書いていないから知らないな」
 ギベオンも何気なく聞いた事柄はクロサイトにとって養親が死んでしまった時の事を思い出させた様で、しまったと思ったが発言は取り消せない。辛うじて話を逸らす事は出来た様だが、クロサイトの翳りのある笑みは取り払ってはくれなかった。
「僕は、不老不死にはなりたくないですけど。もっと頑丈になって、皆を死なせない様にはしたいなあと思いますよ」
「……私も不老不死は望まないが、もっと腕を上げて皆を死なせない様にしたいかな」
「そもそも、自分が不老不死になりたいからって人魚を殺すのはどうかと思いますよね。
 呪われそうじゃないですか」
「違いない」
 数十秒の沈黙の後、ニットを編む手を再開させたギベオンは、自分の体の頑丈さを持ち出しておどける様に言った。不思議な事が起こる探索の中、確かに人魚と遭遇してもおかしくはないのかもしれないが、誰かを守る為の肉体を手に入れる代償に人の形をした生き物を食おうとは思わない。様々な魔物を食糧としてきた割には、やはり人間なのでヒトの形をしたものは食いたくはないのだ。
「では、人魚の代わりに明日は煮頃銀ブナでも釣って食おうか。雲上竜鯉ならなお良いな」
「あっ、良いですね。刺し身で食いたいなあ」
 再び書物を捲り始めたクロサイトがふと思い立った様に明日の食事の事を言い、ギベオンも笑顔でそれに賛同した。現金なものだとお互い思っていたが、現実味のない人魚よりも空腹を満たしてくれる魚の方が彼らには大事だ。寝る前に釣具を用意しておきましょうねと言ったギベオンに、クロサイトも頷いてからすっかり冷めてしまった紅茶を啜った。昔、ユーリが笑いながら言った「人魚の肉より魚の方がきっと美味いよ」という言葉を思い出していた。